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2023年11月12日日曜日

【第126話】第125話の続き「子ども脱被ばく裁判のもう1つの意義」(2023.11.12)

昨日の脱被ばく実現ネット主催の第19回目新宿デモは来月18日に、仙台高裁で判決が出る「子ども脱被ばく裁判」を応援するためのもの。


そのデモ前スピーチのラストに、弁護団の一員として「子ども脱被ばく裁判」の振り返りと国際人権法が令和の黒船であることについて喋った。

この話は、2012年にジュネーブ国連へ、福島の救済を訴えに行った「ここ一番」という時にもまだ話すことが出来なかったもので、2012年10月15日のデモ以来、今までのデモの中で一番喋りたかった内容だった。
今の心境をズカッと言えば、時計をもう一度2011年に巻き戻して、自分たちの主張をすべて国際人権法の正義の観点から再吟味して再主張したい。その時、日本の法体系(の解釈)はがらりと塗り替えられると確信するからだ。
今、初めて自分が法律家になった理由が分かったような気がする。昨日のスピーチが新生法律家の第1歩。

同時に、もし、国際人権法の金字塔であるチェルノブイリ法が福島原発事故のあと速やかに制定されていれば、ふくしま集団疎開裁判も、子ども脱被ばく裁判も必要なかった。みんなこの法律で救済されたから。
その意味で、ふくしま集団疎開裁判と子ども脱被ばく裁判はチェルノブイリ法日本版が日本にないことがいかに被災者の人権を踏みにじるかを他に例がないくらい明るみにしたものだった。
だから、この2つの裁判をおいて、チェルノブイリ法日本版の必要性をネガティブな面から、これ以上雄弁に明るみにした事例はない。だから、この2つの裁判を経験した者が、もし諦めることをしないならば、その人に残されている次のアクションは市民立法「チェルノブイリ法日本版」に向うほかない。

【第125話】2023.11.11新宿デモのスピーチ「国際人権法が311後の日本社会を変える」


【第125話】2023.11.11新宿デモのスピーチ「国際人権法が311後の日本社会を変える」(2023.11.11)

2023年11月11日の第19回目の脱被ばく実現ネットの新宿デモは来月12月18日に控訴審判決が出る子ども脱被ばく裁判を支援するためのものだった。 以下は、そのデモ前スピーチのラストに喋った原稿に一部加筆したもの。ですます調をだである調に変更してある。

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今日、私が話したいことはマスコミの報道しないテーマ「国際人権法が311後の日本社会を変える」ことです。

1、311福島原発事故で、日本政府は敗戦を迎えました。なぜなら、それまで日本政府は日本ではチェルノブイリ事故のような原発事故は起きないと考え、いわば原発事故に勝てると公言していた。しかし、311で勝てなかったことが判明した。その意味で、これは敗戦です。その結果、この敗戦で、当然、敗戦(原発事故)の責任が問われることになるはずだった。しかし、311直後の日本政府の唯一最大の目標は、国体護持(自己保身)、すなわちこの敗戦(原発事故)の戦争責任を回避し、不問に付すことだった。「原発事故は起きない」と豪語していた311前の振舞いを猛省するのではなく、この振舞いに一点も言及することなく、「原発事故は起きたけれど、起きてもたいしたことはない。健康被害も無視してもいいくらい問題ない。だから、311前の振舞いも別に問題なかったのだ」と原発事故で迷惑をかけた人々に対し何らの責任を取らない、この無責任体制=全面的な開き直りの態度に出た。
この態度が311後の日本政府の根本的な姿勢であり、そこに根本的な誤りがあった。
そして、これが根本である以上、この姿勢は各論の個別の問題でも貫徹されざるを得ない。
そのひとつが、避難者追出し裁判でも、無理やり避難者を仮設住宅から追出し、彼らの存在を消し去る必要があり、
また、小児甲状腺がん患者に対し、無理やり、被ばくとの因果関係を否定して、健康被害の実相にフタをする必要があった。
これらの異常な事態はすべて、根本の病巣である「福島ファシズムの支配と服従の構造」から派生する個別の吹き出物、おできのようなものだった。

 この根幹の問題である福島ファシズムの違法性を真正面から問うたのが子ども脱被ばく裁判だった。こんな裁判はほかにはなかった。


2、今週月曜日に、最高裁に1通の書面を提出した。それは福島が起こした避難者を仮設住宅から追出す裁判で、仙台高裁の裁判官の訴訟指揮があまりにひどいので、裁判官を辞めさせてくれと忌避申立した事件の書面「特別抗告申立理由書」(全文は
ー>こちら)だった。

私はこれを書いて、これがもし将棋の世界だったら、藤井八冠のように完全に詰んだと確信した。その理由はつい3週間前、先月25日に出た最高裁大法廷の決定を読んだからだ(全文はー>こちら

この最高裁決定とは何か。それは令和の黒船だ。これで日本が引っくり返るからだ。この最高裁の決定は、性同一性の不一致で苦しんでいる人たちの問題を「これは天災、自然災害ではない、人間がもたらした人災だ」ととらえ、その人災を国際人権法の正義の眼から見て許されないと判断したものだ。

だとしたら、これは福島原発事故と同じではないか。福島原発事故で苦しんでいる人たちの問題を「これは単なる天災、自然災害ではない、人間がもたらした人災だ」ととらえ、日本政府や福島県の政策を国際人権法の正義の眼から見て裁く必要がある。

それを真正面から問うた裁判が問うたのが来月判決のある子ども脱被ばく裁判の控訴審だ。


3、もともと法律には「下位の法令は上位の法令に従い、これに適合する必要がある」という掟がある()。例えば、交通規制の法律で「車は左側通行」と決めたら、その下位の法令は全てこれに従って定められる。それが守られなかったら法体系は秩序が保たれず、機能しない。当然の掟だ。

この掟のことを序列論あるいは上位規範(国際人権法)適合解釈と言う。

先月25日に出た最高裁大法廷の決定もこの当然の掟に従ったまでのことだ。ただし、今回、法律の上位の法令として「国際人権法」があることを正面から認めた。日本で国際人権法が法律の上位の法令であるなんて今さら言うまでもない。その当たり前のことを、今やっと初めて認めた。

 重要なことは、最高裁がこの大法廷決定で使ってしまったカード、

日本の法令は国際人権法に適合するように解釈しなければならない

という原理が性同一性の法令と事件だけにとどまらないということだ。法規範は普遍的な性格を持つ。あなろしや、ここが法律の恐ろしいところで、この上位規範(国際人権法)適合解釈という原理は、それ以外の法令にも、またそれ以外の事件にも適用される。その結果、どういうことになるか。

第1に、この原理により、日本のあらゆる法令を国際人権法の観点から再解釈されることになる。これを本気で検討したらどういうことになるか。それまで鎖国状態の中にあった日本の法令は、幕末の黒船到来以来の「文明開化」に負けない「国際人権法化」にさらされ、すっかり塗り替えられるだろう。

第2に、この原理は福島原発事故関連の全ての裁判に適用される。これを本気で検討したらどういうことになるか。その時、福島原発事故関連の全ての裁判のこれまでの判決はみんなひっくり返る可能性がある。そして、これから出る判決もこの原理に従えば必ず勝てる。


4、だから、この最高裁決定は、311以来、日本を覆っている福島ファシズムを打破する令和の黒船だ。311直後に「ピンチはチャンス」と言った人物がいたが、この言葉は今日のこの日のためにこそある。最高裁決定という黒船の到来を合図に、最高裁もついに認めた世界の良識=国際人権法を使って、私たちの社会を福島ファシズムから解放する最大のチャンスにしようではありませんか。今日のデモはそのための最初の一歩になるものと信じて疑いません。ともに頑張りしょう。

 

2023年11月8日水曜日

【第123話】「裁判官忌避のすすめ(追記)」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行(2023.11.8)

これは、半世紀かかってようやく法律家になれたのではないかと実感した、新老年による法律家体験について、以下の3つの感想の3番目。
①.【第121話「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定
②.【第122話「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」
③.【第123話「裁判官忌避のすすめ」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行

〔追記〕憲法15条2項「全体の奉仕者」論と憲法14条1項の「法の下の平等」原則の再発見(2023.11.9)
もし裁判官が不公正、偏見に満ちた訴訟指揮をし、この裁判のもとでは公正な訴訟手続きが期待できないと判断される場合、もともと裁判官は憲法15条2項により、「一部の市民の奉仕者」ではなく、「市民全員の奉仕者」であることが義務づけられているのであり、裁判のどちらの当事者にも奉仕すべき立場にあるのだ。従って、このどちらの当事者にも奉仕すべき義務を果たさず、一方当事者だけに肩入れし、他方の当事者にとって不公正、差別的な訴訟指揮を行なうことは、当事者間の「法の下の平等」原則に違反する行為であり、なおかつ差別された当事者の「公平な裁判を受ける権利」を侵害する行為であり、そのような訴訟指揮をおこなった裁判官は公務員失格である。従って、憲法15条1項に基づき、不公正な扱いを受けた当事者からの「公務員の罷免権」の発動として、民亊訴訟法24条1項の裁判官の忌避の申立ができると言うべきである。

すなわち、「全体の奉仕者論」とは本来、市民の人権(労働基本権)を制限するためにあるのではなく、こうした市民の人権(裁判を受ける権利)を侵害する公務員の職務上の責任(罷免、忌避)を問うためにある。

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第122話】の裁判官の忌避申立の特別抗告の理由書の続き。

私自身、これまで、避難者追出し裁判で福島地裁の裁判官の忌避申立をするまで、1回も裁判官忌避申立をしたことがなかった。 
そして、これまでの裁判官の忌避申立というのは、自分の思うように審理が進まない当事者の「不満のはけ口」として使われているのではないかと、全く何の根拠もないまま、ただ漠然とそう感じて来た。

しかし、今回、避難者追出し裁判に参加してみて、福島地裁の避難者追出し裁判の担当裁判官に関する限り、この裁判官はひょっとして原告福島県の代理人ではないかと錯覚しないではおれないほど不公正、偏見に満ちた、初めから「私は福島県を勝たせるためにこの法廷にいる」という態度を露にした迫害裁判官だった。それで、これはさすがに退場してもらうしかないと思わざるを得ず、最後に伝家の宝刀として忌避申立を抜いた。その経験を通じ、この時の忌避申立は、決して「自分の思うように審理が進まない当事者の不満のはけ口」ではなく、もっぱら、憲法が保障した当事者の裁判を受ける権利を全く保障しようとしない裁判官に対し、虐げられた当事者の抗議として行なわれたものだった。

この自らの体験を通じ、忌避申立は、憲法が保障する「裁判を受ける権利」の人権侵害に対する我々市民に認められた抵抗権の行使なんだということを実感した時、裁判官の忌避は民亊訴訟法の瑣末の論点どころか、最も中心的な論点なのではないかと、これまで考えたこともなかったまったく新しい目で民亊訴訟法を見直すようになった。

以下は、その新しい目で眺めて見えてきた「裁判官忌避の発見」の報告(弁護団MLに投稿したもの)。
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今回の書面の作成作業をする中で、2つのことを学びました。
1つは、「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」

もう1つは、「裁判官忌避の勧め」→公務員の罷免権は憲法15条で宣言した市民に固有の権利であり、司法の正常化は我々市民が、国民主権を具体化するために市民に保障した「公務員の罷免権」という固有の権利を、鞘から抜いて行使する時に可能になる。
‥‥
2番目の公務員の罷免権の再構成については、この問題の重要性を311以来、ずっと直観的に感じていました。
311の原発事故以来、福島県の学校だけ安全基準を20倍に引き上げるとか、「市民は国の指示に従う義務がある」と我々市民はまるで旧憲法下の「天皇の臣民」であるかのような山下俊一発言が公然とまかり通るような事態、つまり民主主義の著しい劣化、独裁制の躍進ぶりを目の当たりにして、これにどう立ち向かったらよいのか、そのキーワードは「代表民主主義の 機能不全に対し、直接民主主義の行使」にあることは分かっていても、その具体的なアクションは何かとなると、そこは暗中模索状態でした。

今回の理由書の作成を準備していて、当事者に認められた裁判官の忌避申立権は、実はものすごい重要なことではないかと見直すようになりました。
第1に、裁判官の忌避もまた、その当該事件限りとはいえ、裁判官を一方的に職を解くもので、罷免の性格を有するものです。
他方で、憲法15条1項は、市民の権利として「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と明記しました。その理由が、旧憲法が天皇主権の原理から、公務員は「天皇の使用人」であったことを(マッカーサー草案が)全面的に否定し、現憲法は国民主権の原理に立ち、そこから公務員が「国民の使用人」であることを宣言するためだったと知ったとき、なるほど!と合点し、そうだとしたら、メチャクチャな訴訟指揮とメチャクチャな判決を平然と書くような反動的な裁判官に対し、私たち市民は単に、法廷の外で抗議の声を上げるだけではなく、そんな裁判官を首にする=罷免(忌避)を求めるというアクションを起こすことが出来る、このアクションが私たちが主権者である国民主権に基づくものとして、反動裁判官に対する抵抗行動としてものすごく重要な意味があるんだと気づかされました。

つまり、反動的裁判官のメチャクチャな訴訟指揮に対し、私たちは主権者として、憲法に基づいて、裁判官の忌避申立をするというのは、劣化し機能不全に陥った今日の民主主義を正常化するための、極めて重要な貴重なアクションだということを気づかされたのです。

ちなみに、この公務員の罷免権(リコール)という直接民主主義を現実に実行してみせたのが150年前のパリ・コミューンです。このパリ・コミューンの経験はマルクス、レーニンが高く評価したにもかかわらず、その後の社会運動の歴史の中で正当に取り上げられてきませんでした(その結果、社会主義国家に役人が権力を牛耳る独裁国家が誕生した)。
ところが、どうしたわけか、この歴史的体験の重要性を自覚していたGHQ左派がマッカーサー草案の中に、この憲法15条1項を書き込んだらしい。もしそうだとしたら、それはとても意義深いことです。宮沢や芦部などの日本の憲法学者が憲法15条1項の歴史的意義を理解せず、殆ど空文化されてきたのは猛省すべきだと思いました。

つまり、いま、憲法15条1項の公務員の罷免権もパリ・コミューンを含めた国際人権法の立場から再構成されるべきだ、と。

【第122話】「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」(2023.11.8)

これは、半世紀かかってようやく法律家になれたのではないかと実感した、新老年による法律家体験について、以下の3つの感想の2番目。
①.【第121話「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定
②.【第122話「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」
③.【第123話「裁判官忌避のすすめ」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行

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一昨日の11月6日、避難者追出し裁判の仙台高裁の裁判官の忌避申立(その詳細はー>第116話)の特別抗告事件で、最高裁宛に、特別抗告の理由書を提出した。
ー>特別抗告の理由書


本年9月末に、この仙台高裁の裁判官の忌避を仙台高裁に申立したが、これに対し、10月中旬、子ども脱被ばく裁判の係属する仙台高裁の部(石栗裁判長)で、理由を一言も示さずに「我々はお前の主張する法解釈は採らない」と結論だけの三行半の却下決定が出た(その全文はー>こちら)。

この却下決定の傲慢不遜な書きっぷりに対し、感情的な反論ならいくらでも書けたが、しかし純論理的になると、どう反論していったらよいか(法解釈の相対性、法的価値判断の相対性という法哲学の根本問題のゆえ)、見通しが持てず、正直なところ、だるまさん(手も足も出ない)状態に追い込まれた。

それが一変したのは、先月10月25日に出た最高裁の「性別変更の手術要件は違憲」とする大法廷の決定だった( ー>その全文)。これを読んだ瞬間思った、とうとう最高裁は地雷を踏んだ、そしてルビコンの河をわたった、これは黒船到来に匹敵する歴史的大事件だ、と。


この最高裁決定を導きの糸にして、いまだかつてないほど最高裁に媚びへつらう書面を作成した。それが2日前の特別抗告の理由書
その際、これまで突き詰めることをせず、ずっと曖昧にしてきた、法解釈の相対性、法的価値判断の相対性という法哲学の根本問題についても、自分なりの決着をつけた結論を示し、これでどうだと迫った。 これを書き上げた時、自分が初めて法律家になれたような気がした(登録してから半世紀かかったが)。

以下は、以上について弁護団MLに書いた報告。
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今回の書面の作成作業をする中で、2つのことを学びました。
1つは、「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」

もう1つは‥‥

先月末に、「性別変更の手術要件」に関する特別抗告事件で、人気不絶頂の最高裁はみずから数年前の合憲判断を覆して、大法廷で現行の法律を違憲と判断しましたが、その決定の判断枠組みが、今まで宣言したことがなかった、国際人権法という上位規範に適合するように法律を再解釈することでした。この方法こそ、私たちが、避難者追出し裁判で初めからずっと主張し続けてきた上位規範(国際人権法)に適合する解釈によって、災害救助法その他を再構成しろ、という方法そのものです。
だから、最高裁もとうとう、この世界の普遍的な方法を採用せざるを得ないことを大法廷で全員一致で認めた。つまり、追出し裁判の我々の主張の正しさを認めてしまった。

最高裁はルビコンの河を渡った。もし、今回の性別変更に関する法律に限らず、およそ日本のあらゆる法律を国際人権法という上位規範に適合するように再構成したら、そのとき、日本の法体系はそれまでの様相を一変し、全てを塗り替えることになるだろう、つまり世界に通用する普遍法という性格に一変せざるを得なくなる。この意味で、最高裁は地雷を踏んだ、そうとは知らずに。

つまり、国際人権法は日本の法体系を一変させる、そのさきがけを先月末の大法廷で宣言した。これは幕末の黒船の到来に匹敵する。

それは令和の「見えない黒船(=国際人権法)」の到来です。

【第121話】「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定(23.11.8)

これは、半世紀かかってようやく法律家になれたのではないかと実感した、新老年による法律家体験について、以下の3つの感想の1番目。
①.【第121話「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定
②.【第122話「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」
③.【第123話「裁判官忌避のすすめ」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行

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先月の10月中旬、北茨城市の実家に滞在中、日本版の会に参加して以来、最大の気づきに遭遇した。それが、【第120話】 の
日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」  
 
その気づきの最大の論拠は次の点にあった。
もし311後の日本の法体系が、原発事故の救済に関して、全面的な法のノールールいわば空洞、穴になっている(=法律用語で「法の欠缺」)ことを認めるならば、そのノールールを穴埋めする必要がある(=法律用語で「欠缺の補充」)。問題はこの「欠缺の補充」をどうやっているか。
これについて私は次の立場が正しいと考えた。

(5)、欠缺の補充を上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要がある。
 

もしこの基本原理を承認するのあれば、欠缺の補充の結果、国内避難民の指導原則等に示された被災者の人権保障によって日本の法体系は全面的に補充されることになる。
そして、この全面的に補充された法規範、これをトータルに示したものがほかならぬ日本版そのものである。
だから、日本版は、以上の欠缺の補充によって、既に日本の法体系の中に埋め込まれている。あとは、これを私たちが掘り出すだけ。つまり、確認するだけだ。

以上のアイデアに辿り着いたとき、このアイデアが通用するか否かは上の(5)の、日本の法律が上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように解釈(厳密には補充)されるか否かにかかっていた。

そしたら、それから10日もしない10月25日に、最高裁が大法廷で、初めて、違憲か否かが争われた日本の法律(性同一性障害特例法)を判断する際に、上位規範である国際人権法に基づいて、これらに適合するように解釈すべしという「上位規範適合解釈」を指導原理として使うことを表明した。→判決文全文 BBCニュース

ずっと人気不絶頂の最高裁は人気回復の起死回生の一打として、社会的な影響が比較的少ないと考えて性同一性障害の問題に限定して、人権の最後の砦としての裁判所の姿を示そうとしたのかもしれない。しかし、その目論みはもろくも崩れた。最高裁の判断はひとり性同一性障害の問題にとどまらず、すべての人権侵害問題の判断を塗り替える画期的な判断枠組みを示してしまったから。ここが法律の恐ろしいところ、どんな小さいな事件でもそこに持ち出された法律判断は普遍性を帯びる、それが法規範の本質。

地雷を踏み、ルビコンの河を渡った最高裁は、早晩、己の過ちに気がつき、いつもの弁解、すなわち偽善者的態度(「上位規範適合解釈」は性同一性障害の問題に限定され、それ以外の問題には適用されないと使い分ける、いわゆるダブルスタンダート〔二重の基準〕)でこの修復を図るだろう。だから、この目論見を許すかどうかは、ひとえに我々市民の手にかかっている。最高裁が踏んでしまった地雷の偉大な意味を我々市民が共有し、これは全ての人権侵害に共通する考え方であるという声をあげ、これを世論にすることができたなら、勝利は市民のもの。

それが「世界の良識=国際人権法が日本を変える」という日本史の大事件です。
その大事件の中心のひとつが、国際人権法を具体化したチェルノブイリ法日本版の市民立法です。

2023年10月15日日曜日

【第120話】日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ。(23.10.15)

つぶやき。
不都合な真実ばかりが真実ではない。私たちにとって幸いな真実もあるのだ。
だが、不都合な真実を見ようとしない者には、幸いな真実もまた見ることができない。
不都合な真実を見ないために思考停止する者は幸いな真実にも思考停止したままである。
幸いな真実を見たいと思うなら、不都合な真実を見ることを恐れてはいけない。


これは今まで誰も、当の本人ですら思い描いたことのなかったこと。先週、北茨城市に滞在して家の補修工事をやっている最中に、ふと想到したこと。
しかし、ひとたびこれに気がついた時、その瞬間、その正しさを、私の身体の中で、全身全霊で確信するに至った。以下は、その核心部分だけを示したもの。

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前置き
日本版の制定を世の中に最初に呼びかけたお母さんは、何度も呟いた。
「日本版を制定するのはマッターホルンの頂上に登るようなもの」
それくらい大変なんですという思いを込めて。

その時は、きっとそうなんだろうなと思い、黙って聞いていた。 それから6年経った今、
「それは勘違い。なぜなら、私たちはすでにもうマッターホルンの頂上に登っている。ただ、自分が立ってる場所がマッターホルンの頂上だということに気がつかないだけ」
そう確信を持って言えるに至った。以下がその核心部分。

本文
「私たちが新たに日本版を制定するのではない。

日本版は既に日本の法体系の中に存在している。

ただし、それは誰にも見える場所にではなく、法体系の穴の中に埋っている。

私たちは、それを掘り出して光を当てる必要がある。

この確認作業、それが日本版の会の仕事。

だから、それは育てる(制定する)までもなく、育っている(制定し終わっている)のを掘り出す仕事。」


以上のことは張ったりでも何でもない。当たり前のことを丹念に積み重ねて行ったら誰もが合点する普遍的な出来事。
そこで、これをもう少し理屈っぽく順番に説明すると、以下の通り。

(1)、原発事故の救済について、311までの日本の法体系はこれに対する備えがなく、全面的な「法の欠缺」状態にあった。
(2)、311後も、基本的にその欠缺状態を立法的に解決しようとしなかった(その場しのぎの行政的な措置で対応してきた〔ように見える〕)
(3)、その結果、311後も「法の欠缺」状態が続いている。
(4)、その時、本来求められることは「欠缺の補充」である。つまり、
(5)、欠缺の補充を上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要がある。
(6)、その補充の結果、国内避難民の指導原則等に示された被災者の人権保障によって補充された法規範、これをトータルに示したものが、ほかならぬ日本版そのものである。


さらに以下は、以上の説明に対する私自身の自問自答のコメント(まだ未整理のため、備忘録として残したもの)。

今回、私が思い至った上記のアイデアは、避難者追出し裁判の「国際人権法に基づく避難者の救済」の論点を日本版に応用したもの。

避難者追出し裁判は当初、この裁判には勝ち目はない、やれることは「時間稼ぎ」くらい、というのが弁護団、支援者の認識だった。あとから参加した私は、その認識に驚くと同時に、本当にこの裁判に勝ち目がないのか、一から検討し直すべきではないかと考え、誰もあてにしていなかった「国際人権法」に焦点を当てて、ああでもない、こうでもないと検討して行くうちに、避難者の人権を守れる法的な手段として国際人権法が使えるということを「発見」した(→第70話)。
ただし、最初、この「発見」を口にした人は誰もいなかったので、本気では誰にも相手にされなかった。ただ、そうはいっても、ほかに反論の手立てもなかった、まあ、やらせておくか、という感じで、私のやりたいようにやらせてもらった。そしたら、意外にも、担当裁判官は、私の反論を単に「なにバカなことを言ってるのか」と一蹴するんではなくて、ひどくナーバスな反応をした。それでむしろ私は「こいつはいける」と逆に自信を深めた。そのような思いがけない展開になって、支援者の人たちも「俺たちも、国際人権法について知らな過ぎた」と関心を抱くようになり、「国際人権法による避難者の人権保障」という考え方がみんなの頭の中に徐々に定着するようになった。
不思議なことに、「国際人権法による避難者の人権保障」というアイデアは、それまで誰もまともに受け止めてこなかったのに、ひとたびそれが人々の頭の中に入ってくると大昔からそのアイデアが存在する真理みたいに、当然のものとしてみんなの頭の中に浸透していった。

それは、歴史上の新たな「発見」や「発明」において人類が経験したこと。
著作権が専門だった私は、かつて、コンテンツや情報の「独占」と「共有」という問題に直面していつも考えていたところ、或る時、その問題を根底から抜本的に解決する事態が発生した。それがインターネットの出現。この出現で、コンテンツや情報の「共有」が一気に進んだ。ひとたび、インターネットでコンテンツや情報の「共有」が実現すると、それが当たり前になって、インターネットが出現する前の時代のことがもはや想像できない位となった。

それと同様のことが500年以上前、グーテンベルクの活版印刷術の登場でも起きた。チョムスキーは、活版印刷術の登場が17世紀の英国の市民革命を準備した、市民がワイワイガヤガヤ、自分たちの考えてることをチラシやビラにして拡散し、多くの市民がそれを手にして市民階級の運動が大きく盛り上がって、市民革命が実現したことを指摘している。ひとたび活版印刷術が登場すると、活版印刷術以前の、手書きでいちいちチラシやビラを書き写して、拡散していた時代のことなんか想像できない。

スケールはちがうものの、こうしたことと同様のことが、避難者の追出し裁判でも起きた。それが「国際人権法による避難者の人権保障」というアイデア。
その体験をした私は、このアイデアはもっとほかのことにも応用可能なのではないかと、つらつら考えるようになり、 その応用例の最初が日本版だった。
つまり、日本の国内法に「避難者の人権保障」を定める法律がないからといって、簡単に諦める必要はない。日本が批准した条約とりわけ国際人権法があるからだ。
これを使えば、たとえ国内法に「避難者の人権保障」を定める法律がなくても、より正確には「避難者の人権保障」について、原発事故を想定していなかった日本の法体系は「法の穴(欠缺)」状態にあったとしても、その穴を国際人権法によって穴埋めすれば(「欠缺の補充」をすれば)、しっかり「避難者の人権保障」が実現できる。
     ↑
このアイデアは、何も避難者追出し裁判の「避難者の仮設住宅からの追出し(居住権)」問題だけに限定されるものではなく、およそ「(国外)難民」や「国内避難民」の人権保障全般に関わる問題を解決するアイデアだ。だったら、このアイデアが及ぶ射程距離は、チェルノブイリ法日本版がカバーする範囲と殆ど変わらないんじゃないか(厳密にピッタリカバーするかどうかはなお検証する必要があるが、少なくとも大枠は一致する)。

もしこれが成立するなら、日本版は既に「国際人権法による避難者の人権保障」というアイデアに基づいて、今の日本の国内法の中に実現(厳密には「欠缺の補充」によって実現)していることになる。
だとすると、すなわち今の日本の国内法の中に既に実現しているとなると、私たち市民がやることは、市民が主導して一から「立法」するのではなく、市民が主導して、既に日本の国内法の中に実現している日本版を「確認」するということになる。
「立法」となると、議員の同意が必要になりますが、「確認」となると、「立法」じゃなくなるので、純法律的には議員の同意も必要なくなる。 ズカッと言えば、議員にへいこらする必要もなくなる。
じゃあ、誰がどこでどうやって「確認」するのか。この問題自体が前代未聞の問題。おそらく過去に経験のない、未曾有の問題。
思うに、このような議論が力を持つのは、最終的に「市民の力」。「国際人権法による避難者の人権保障で法の穴を埋めたら、日本版が見つかる(発見)ことを国も『確認』しろ」という多くの市民の声が高まると、これは無視できなくなる。その意味で、最後の決め手は「市民主導の世論喚起」になる。けれど、「確認」であって、新たな「立法」ではないから、議員の特権や専権事項だという風に、議員が偉そうな態度をもはや取れなくなる。これはやっぱり大変なちがい。 

 

2023年10月13日金曜日

【119話】この夏、初めて福井でやったチェルノブイリ法日本版の学習会の感想             「今すぐ日本版!それが惑星フクイ」(23.10.13)

2023年7月と8月、初めて福井でチェルノブイリ法日本版の学習会をやった。日本版の会から「早く感想をブログに出して下さい」と何度も催促されながら、原稿らしき素材は何度も書いていながら、どうしても完成できなかった。画竜点睛を欠いていたからだった。
それが、先ごろになって、ようやくその画竜点睛が見つかったような気がした。つまり、福井行きで私の中でふつふつと沸き起こってきた化学反応の下準備に対し、現実の化学反応を実行してくれる触媒に出会うことができたのだ。その触媒とは次の2人といちばん長い手紙「まだ、まにあうのなら」を書いた福岡県のお母さん(甘蔗珠恵子さん)(117話118話)。
その下は、学習会の講師を務めた柳原の感想文と写真(福井特集号のニュースレターの冒頭の文)。

半世紀以上「敬して遠ざけて来た」2人の人に今頃になって初めて出会えた。
一人は「人類の哀れな女々しい魂を鞭うつ頑強な精神」を与えようとしたベートーベン。
も一人は、スペイン内戦に参加し「最初の弾丸がスペインのギターを貫通し、これらのギターから音のかわりに血のしぶきがほとばしったとき、私の詩は人間の苦悩の通りの真ん中に立ち止まり、血と根の流れが私の詩のなかを上り始める。そのときから、私の道はすべての人の道になる」と詩を刻んだパブロ・ネルーダ。
その訳は、時代がいま、彼等のような生き方を求めているからなんだと。
》(23.10.10自己紹介文)

若狭町の熊川宿、通称「鯖街道」
泊った宿の前に広がる若狭湾
右手遠方の米粒の建物、近づくと以下の姿に。
        世界有数の美しさを誇る美浜の海岸「水晶浜」の駐車場から

          ***********************

今すぐ日本版!それが惑星フクイ

                                           フクイの山と海を知らない者は、この惑星を知らない。同じ裏日本生まれなのに、無意識のうちに「敬して遠ざけて来た」異なる惑星フクイ。その地に今年7月、初めて足を踏み入れた。

若狭町で日本版の学習会を終えたあと、向った先が熊川宿、通称「鯖街道」。この街道に降り立った瞬間、半世紀前の高校の古典の授業で習った古事記の「やまとたけるのみこと」の辞世の歌が脳裏に蘇り、 次のように替えて口づさんだ。

フクイは 国のまほろば  たたなづく 青垣 山隠れる フクイしうるはし

ここが自分のふるさとなのだ、今、お前はそれを発見したという強烈なノスタルジーに襲われた。 それは私にとっての楽園だ、と。
しかし、それは一日限りのものだった。
翌日、太平洋とちがって、波穏やかな日本海の海岸沿いに信じられないような光景に出くわしたから。
それは、森や建物に覆われずに、むきだしになって人々の前にすっと建っている――原発だった。
この一撃で、フクイの楽園は破壊されていたことを知った。もしフクイにまだ楽園があるとしても、それはかりそめの楽園、それは、ひとたび原発事故 が発生した瞬間にこっぱみじんに消失するカゲロウの楽園。
だとしたら、この峻厳な現実に毎日、毎日向き合っていたら、間違いなく精神に異常をきたしてしまう。だから己の心を守るために、この現実を見ないようにしよう、考えないようにしようと自己暗示にかけるほかない。そして、その自己暗示を首尾よく果した時、 今度は、とめどもなく自分の心を欺くスタイルが習慣となる。それはつまるところ思考停止の日々。「死せる魂」と「生きる屍」への道。こんな恐怖と屈辱の中にほおり込まれているのがフクイに住む人々の置かれた現実。

その思考停止の中でかろうじて安心安全の精神状態を保っていたフクイの人たちの頭上に襲い掛かったのが311福島原発事故だった。福島原発事故で日本の安全神話が崩壊した時、もっとも打撃を受けたのは原子力ムラだけではない、思考停止によりかろうじて心の安定を保っていたフクイの人たちもそうだ。彼等を思考停止にさせてきた心のマンホールのフタは福島原発事故で飛び散った。彼等はもはやこれまでのように思考停止という避難場所に安住することもできなくなった。思考停止という避難場所から追出されて、フクイの人たちの行き先はどこなのか。それは「思考停止という避難場所」から抜け出し「真の避難場所」に向かうしかない。では、その「真の避難場所」とはどこか。それが日本版。「真の避難場所」を提供するのが日本版の目的だから。
安全神話と思考停止が崩壊した311後、眠れぬ日々を過ごすフクイに住む人々にとって最も急務なのが「真の避難場所」を提供する日本版。

90年前、スペインの地で、フランコのクーデタを体験した詩人のネルーダはこう書いた。
最初の弾丸がスペインのギターを貫通し、これらのギターから音のかわりに血のしぶきがほとばしったとき、私の詩は人間の苦悩の通りの真ん中に立ち止まり、血と根の流れが私の詩のなかを上り始める。そのときから、私の道はすべての人の道になる

そうだ。福島原発事故という
「日本で最初の原発事故が人々を貫通し、その惨劇と犯罪によって多くの被ばくと苦痛と苦悩がほとばしったとき、日本版は人々の被ばくと苦痛と苦悩の通りの真ん中に立ち止まった。そして、血と根の流れが日本版のなかを上り始めた。そのときから、日本版の道はフクシマ、フクイ、そしてすべての人の道になる。」

以下のメッセージは、安全神話と思考停止が崩壊した311後のフクイに住み、被ばくと苦痛と苦悩の通りの真ん中に立つ人々の魂の叫びです。

【第118話】福岡県の母親甘蔗珠恵子さんの書いた、いちばん長い手紙「まだ、まにあうのなら」を知って思ったこと(その2)(23.10.13)。

第117話で、「まだ、まにあうのなら」を初めて知って思ったことを書いた。今度は、この小冊子を当時、100部購入して回りの人に夢中で配ったという日本版の会の正会員の人の話を聞き、思ったことです。

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私からその正会員の方に「あの小冊子を100部も購入させたもの、原動力は、何だったんですか」という問いに、 その方がすぐさま答えてくれたのが、あの小冊子の冒頭の次の一節、これにショックを受けたということでした。

なんという悲しい時代を迎えたことでしょう。 今まで、自分の子どもに、家族に、ごく少量ずつでも、何年か何十年かの地には必ずその効果が表れてくるという毒を、毎日の三度、三度の食事に混ぜて食べさせている母親がいたでしょうか。

放射能の汚染の中で生きるとは何か。これについて、なんという正確な記述だろう。この方がショックを覚えたのは、おそらく、それまで反原発の運動の中で、このような書き方をした文章にお目にかかったことがなかったからではないか。それはこの方だけではなくて、これを夢中になって読んだ50万の市民も同様だったのではなかったか。

私は、このくだりを読んだとき、ロシアの文豪ゴーゴリの次の言葉を思い出しました。
‥‥宣教することは私の仕事ではありません。芸術はそれでなくとも、はじめから教訓なのです。
私の仕事は生きたイメージで語ることであり、議論することではありません。
私は人生について解釈するのではなく、人生を人々の前に呈示しなければならないのです


そして、36年前、「まだ、まにあうのなら」を書いた甘蔗さんは、チェルノブイリ事故後を経験したあとの私たちの生活を議論したり解釈するのではなく、生活そのものをズカッと読者の前に呈示してみせた、恐るべき正確さをもって。そのリアリズムに50万の読者は震撼させられた。

36年後の今も、私たちに必要なこともこれと変わらない。過去に経験したことがないようなヒドイ事態が現実のものとなっているのなら、その現実をありのままに、ズカッと人々の前に呈示してみせるしかない。余計な忖度、気配りをして、気をそこねないように配慮をしまくると、結局、何が言いたいのかさっぱり伝わらない。

その一方で、どこの世界でもそうだが、反原発の運動の最良の指導者の人たちすら、長い間に「決まり文句」を口にするようになる。そのほうが内容は正しく、メッセージを正しく伝えるのには有効だからである。しかし、その言葉はくり返されるうちに、摩滅し陳腐化し衰弱してくる。すると、人々は、その手垢にまみれた「決まり文句」に正直、またかとうんざりし、嫌気が差してくる。

これに対し、当時、初めて放射能の世界に足を踏み入れ、起きたばかりのチェルノブイリ事故の惨劇にただただ圧倒されていた、「まだ、まにあうのなら」の甘蔗さんにとって、そういう「決まり文句」は無縁だった。自らの感性に従い、自らの生活体験に裏打ちされた言葉をつむいで、自分に上に重くのしかかってきた放射能災害の現実を必死になって受け止めようとした()。その苦悩、苦しみの中で格闘する姿勢が、「決まり文句」ではない、生々しい、ときにはみずみずしい言葉を生み出し、人々の心にストレートに届いた。これはもうひとつの「チェルノブイリの祈り」だ。

最後に。分かっているようで、実はよく分かっていない大切なことを、甘蔗さんの小冊子から教えられた。
それは、私たちの原発事故体験は百人百様だということーーそれは経験した場所や内容がちがうからではなく、たとえ同じ場所、同じ内容であっても、原発事故の体験の受け止め方は百人で、百、ちがってくる。大切なことは、甘蔗さんのように、たとえチェルノブイリから何千キロ離れていようとも、50万人の人々の心に届くような体験をめざすこと。これに対し、何か、自分はもう原発事故のことは分かっている、理解しているなんて、これ以上傲慢不遜な態度はない。たえず、今の自分の認識は50万人の人々の心に届かない、いまだいかにうすっぺらで、擦り切れた「決まり文句」でしかないのだということを自覚し、50万人の人々の心に届くような「生きた言葉」を発見するように、その努力の積み重ねを続けることが大切だということを教えられた。

)当時を振り返って、甘蔗さんはこう書いている。

『億万長者はハリウッドを殺す』を読んでのちのある日、福岡市内を歩いていると、目に飛び込んできた「広瀬隆」の文字、電柱に貼ってあった一枚のチラシ、十月二十六日、その人の講演会の案内チラシでした。思いがけず早く、お会いできる機会が来ました。その当日、広い会場はいっぱいの人で溢れています。その人は精悍な感じの人でしたが、講演の第一声は柔らかく、静かな語り口で、意外でした。O.H.P.で次々と映し出される映像と、その解説に、聴衆は水を打ったように静まり返り、二時間余りの時間を聴き入り、咳の一つもないという不思議な時間、空間でした。もちろん、初めて聴くチェルノブイリ原発事故の実態の衝撃は、腰を抜かし、奈落の底へ突き落とされた思いでした。

それからすぐに原発関連の本を読み漁り、活動にも積極的に参加して半年、身心共に疲れ果て、重く、沈み込むようなからだを畳に横たえている時、身体の奥の方から、ウワァ〜〜と、何かが衝き上げてきました。私は、思わず身を起こし、傍にあった机に向かって書いていました。「何という悲しい時代を迎えたことでしょう」と。それから数日間、湧き出てくるままに、何も考えず、ほとんど何も口にせず、書き続けました。それが『まだ、まにあうのなら』でした。
》(「広瀬隆」はこんな人でした

2023年9月28日木曜日

【第117話】福岡県の母親甘蔗珠恵子さんの書いた、いちばん長い手紙「まだ、まにあうのなら」を知って思ったこと(2023.9.28)。

 今年の夏、初めて福井に行き、当地の人から、
チェルノブイリ事故の直後、福岡の主婦が地方出版社から出した小冊子が原発を憂う全国の主婦に爆発的に広がったことがあり、50万部売れたそうです。

という話を教えて貰いました。?!と半信半疑でネットで調べたら、以下の通り、ホントの話でした。
 人類の行く末を案じた一人の母親の叫びが、全国の主婦や若者たちに脱原発の行動を促した。50万部を超えた脱原発のバイブル。


早速、取り寄せ、手に取ってみて、次のことを思った。

*************************** 

 1986年のチェルノブイリ事故直後に無名のお母さん(甘蔗珠恵子さん)が書いた手紙が50万部売れた。その題名は
「まだ、まにあうのなら」
それは、
チェルノブイリ事故は起きてしまったけれど、自分の住むこの日本でまだ、チェルノブイリ事故のような原発事故を起さないうちに原発を廃絶できるのなら
という意味だと思う。その意味でなら、2011年の福島原発事故のあと、その答えは
「もう、まにあわなかった」

確かに、もう、まにあわなかった。けれど、福一の吉田所長のような鬼籍に入った人たちとちがって、311後も生き延びることができた私たちには依然、何をなすべきかという問いかけが課せられている。
問題は、311後に、チェルノブイリ事故直後に思い詰めたこのお母さんのように私たちもまた思い詰めたとき、福島原発事故のあとにどのような問いかけが可能なのだろうか。福島原発事故を経験した私たちにとって正しい問いかけとは何か。311後にもはや、このお母さんと同じような次の問いかけは不可能だ。
福島原発事故は起きてしまったけれど、私の住むこの日本でまだ、第2の福島原発事故のような原発事故を起さないうちに原発を廃絶できるのなら

それではまた同じ答えをくり返すだけだから。そして、この問いかけには、311福島原発事故後の日本社会の底が抜けたような破綻ぶりを踏まえて、その破綻を克服するという力強い展望がどこにも感じられない。単に311前からのスローガンのくり返しにしか聞こえない。

これに対し、チェルノブイリ法日本版は、311福島原発事故後の日本社会の底が抜けたような破綻を克服するという力強い展望が秘められたものだ。単に、ノー(さよなら原発)と言うのではない、積極的にイエス(生存権を具体的に実現)を言う、それが日本版の思想だ。

例えば、

【第4話】 【NOでは足りない、つつましいYESの提案】

 

2023年9月26日火曜日

【116話】行政の人権侵害にお墨付きを与えるような裁判官は要らない。本日、裁判官の忌避を申し立てた(2023.9.26)

先ごろ、岸田首相は、NY国連本部で《我々は、人間の命、尊厳が最も重要であるとの原点に立ち返るべきです。我々が目指すべきは、脆弱な人々も安全・安心に住める世界、すなわち「人間の尊厳」が守られる世界なのです》と「脆弱な人々も安全・安心に住める世界」と「人間の尊厳」の重要性を高らかに訴えたが、その国連から任命され、福島原発事故の避難者(国内避難民)の人権状況を調査するため、2022年9月26日来日したダマリー国連特別報告者は離日直前に、本裁判に対し「賛成できない。避難者への人権侵害になりかねない」と国連特別報告者としては異例の厳しい警告を発した(詳細は別紙参照)。すなわち、本裁判は、日本の首相が強調する「脆弱な人々も安全・安心に住める世界」が真実なのかそれとも偽善なのか、その真価が正面から明るみにされる、国際社会がこぞって注視しているリトマス試験紙なのである。 (本日申し立てた裁判官忌避申立書の冒頭より)

 福島原発事故により避難を余儀なくされた避難者、これを国際法上、「国内避難民」と呼び、日本政府も認めている。この「国内避難民」に仮設住宅として提供された国家公務員宿舎から出て行きなさいと福島県から提訴された避難者の「追い出し裁判」、この裁判の一審判決が今年1月13日、福島地裁で言い渡され(その報告はー>こちら)、これに全面的に何ひとつ承服できないとして仙台高裁に控訴していた二審の第1回弁論が7月10日に開かれ、この日を、一審が審理途中でフタをして終結を強行した過ちをただすスタートだと避難者側は考えていたところ、仙台高裁は突然、「これで終結する。判決は9月27日‥‥(早口で小声)」と宣言して退場してしまった(その顛末の報告はー>こちら)。

この裁判に対し、国連から任命され、福島原発事故の避難者(国内避難民)の人権状況を調査するため、昨年2022年9月26日来日したダマリー国連特別報告者は離日直前に、本裁判に対し「(福島県の提訴に)賛成できない。避難者への人権侵害になりかねない」と国連特別報告者としては異例の厳しい警告を発した(詳細はー>こちら)。
世界の良識が、本訴の提起を「
避難者への人権侵害になりかねない」とイエローカードを出して、裁判所に「人権の最後の砦」としてのミッションを果たすことを求めているのに、その期待を真摯に受け止めるどころか、福島県の追出しにお墨付きを与えるだけの裁判所だったら、そのような二重の人権侵害のための組織は要らない。そう考えて、「人権侵害の最後のお墨付き」に堕落した裁判官に、これ以上の人権侵害は辞めてもらいたいと、本日、裁判官忌避の申し立てに及んだ。

以下、その申立書と仙台高裁前で申立てに向う控訴人代理人。

全文のPDF->こちら



 

2023年8月12日土曜日

【115話】自由研究(4):311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている(2023.8.11)

              (「ウネリウネラ」より)
     子ども脱被ばく裁判、2021年3月1日の福島地裁一審判決の言渡し直後

これは子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿したもの。

**********************************

井戸さんへ

柳原です。

昨日、避難者の追い出し裁判の検討をする中で「法の欠缺」問題の重要性を再発見することがあり、それで、6年前のこちらの裁判の弁護団会議のことが思い出されたので、それについてコメントさせて下さい。

今、デスクトップPCが電源ユニット不具合のため使えず、それで記憶に頼って書いてるのですが、確か2017年の連休前に弁護団会議をやった時、井戸さんが、被告基礎自治体の義務についてという副題の準備書面(32)の草案を書いて、これを説明してくれました。
一通り聞き終わった弁護団は、その書面の衝撃にしばらく声を上げることが出来ずにいて、
おもむろに、私から、「これ、記者会見すべきなんじゃない?」ともっと威張ったらいいんじゃないのという感じで言ったら、謙虚な井戸さんから、笑いながら「いや、いや」とやんわり拒否されました。それが「法の欠缺」を初めて取り上げて、「7千倍の学校環境衛生基準問題」を主張したときのことです。
そのとき、私が井戸さんに、「どうやって、こんな凄いことを思いついたの?」と人の家に土足に踏み込むようなえげつない質問をしたら、「いやいや、『放射能汚染/防止法』を提唱している札幌の山本弁護士の本を読んで、ヒントをもらったんだ」とあっさり、種明かしまでしてくれました。
尤も、この時の準備書面(32)()は「7千倍」までは主張しておらず、最終準備書面の冒頭で、350倍という主張をしたんですね(1mSvに対して)。
準備書面(32)
    最終準備書面

しかし、記者会見こそしなかったものの、一審では準備書面(32)はもとより、その後も最終準備書面12頁以下で「7千倍の学校環境衛生基準問題」の重要性を思い切り強調して主張したのに対し、一審判決()は、この問題に正面から何一つ答えることなく、コソコソというより、堂々と無視して、裁量論の土俵の中で、20mSv基準を裁量の範囲内だとして適法のお墨付きを与えました。

)一審判決の全文->こちら  判決要旨->こちら

その判決の卑劣さに対する無念さを、2021年3月1日の判決言渡し直後、井戸さんは次のように吐露しました。

ここでは、原子力法制の価値判断と日本国憲法下の環境法制の価値判断が正面からぶつかります。環境法においては(学校環境衛生基準も同様)は、放射性物質のような閾値(しきいち)のない毒物の環境基準は、生涯その毒物に晒された場合における健康被害が10万人に1人となるように定められています。それが環境法の価値観なのです。これに対し、原子力法制下で一般公衆の被ばく限度とされている「年1ミリシーベルト」は、生涯(70年間)晒されるとICRPによっても10万人中350人ががん死するレベルです。年20ミリシーベルトであれば、なんと10万人中7000人ががん死します。この決定的な価値観の対立の中で、この判決が原子力法制の価値判断を優先させて採用する理由は、全く示されていません。私たちが最終準備書面において力を入れて書いた論点であるにも関わらずです。
http://datsuhibaku.blogspot.com/2021/03/blog-post.html

それで、今、振り返るに、この時の一審判決のあくどさ、その悪行の論理構成について、もっと徹底的に突詰めるべきだったと。なぜなら、あのときの遠藤裁判長は、裁判官室という楽屋裏で、この「7千倍の学校環境衛生基準問題」をどうやって始末するか、それで大汗をかきながら、一世一代の猿芝居を演じることにしたからです。
だから、我々としては、このとき、準備書面(32)で初めて指摘した「法の欠缺」状態の発生と、この欠缺の補充作業の必要性と、そして、いかにして補充作業を行うかという補充作業の方法論について、徹底的に解明すべきだった。なぜなら、一審判決は「法の欠缺」問題に脚を踏み入れるのをまるで地雷を踏むかのように徹底して恐れまくり、一歩も近付こうとしなかったからです。なぜなら、ひとたび、裁判所を「法の欠缺」問題に引きづり込んだら、判決はあんな一文、
行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられている
なんてアンチョコなロジックでもって、この「7千倍の学校環境衛生基準問題」を一件落着なぞできなかったはずだからです。

もっとも、欠缺の補充において、いかにして補充作業を行うかという問題は一義的に解決できない問題です。しかし、少なくとも、そこで、「序列論」に従って、当該法律の上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定を踏まえて補充すべきであるという方法論が展開できますから、
そうすれば、所詮、法律レベルでしかない原子力法制の価値判断が、その上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定に反することは出来ず、その1例として、平等原則を持ち出し、子どもの命、健康を守るという最も重要な人権保障ために、有害物質をめぐる環境衛生基準と放射性物質をめぐる環境衛生基準との間に差別を許容する合理的な理由が認められるか?認められないだろうという議論が可能になります。

今思うに、遠藤裁判長が判決でいきなり持ち出した裁量問題という土俵にこちらもそのまま乗ってしまうのではなく、彼が論じるのが嫌で嫌で逃げ回った学校環境衛生基準をめぐる「法の欠缺」問題こそ、我々からその問題の重要性を正しく掬い上げて、準備書面(32)で初めて明らかにした「欠缺の補充」による正しい解決の必要性を、あれで終りにするのではなく、これが認められるまで、今からでも何度でも、強調し続けるべきではないかと思ったのです。

まとめ。
「7千倍の学校環境衛生基準問題」が、準備書面(32)で初めて明らかにした、「法の欠缺」の認識→「欠缺の補充」の実践という風に正しく解決された時、それは原発事故の救済に関する全ての法律問題の正しい解決の出発点になる。なぜなら、避難者追出し問題をはじめとした原発事故の救済に関する全ての法律問題は、どれも、原発事故を想定していなかった日本の法体系の「法の欠缺」状態の中に置かれているところ、与党政府がこの問題を、チェルノブイリ法日本版の制定のように「立法的に正しく解決」しようとしない現在、我々に残されているのは「欠缺の正しい補充」によるしかないし、ひとまずそれで十分なのですが、その際、今述べた「7千倍の学校環境衛生基準問題」の解決がその輝かしいモデルになるからです。
表題の『311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている』というのはそういう意味です。
それくらい、この問題は決定的に重要なんだと、昨日、再発見した次第です。

【114話】自由研究(3):311後の法秩序のモデルはナチスの独裁国家体制=全権委任法、但し、それは「法の欠缺」を最大限悪用した(2023.8.11)。

           (ウィキペディアより)
1933年3月23日、議場で全権委任法への賛成を要求するアドルフ・ヒトラー

自由研究(1)のラストに以下に次のように書いた。これがその別便。

以上、つい長くなったので、311後の日本の独裁的な法体制がナチスの独裁国家体制に匹敵すると考えた理由については別便で書きます。
***********************

先月下旬、NHKで放送された、
映像の世紀バタフライエフェクト 「ヒトラーVSチャップリン 終わりなき闘い」
 を観て、チャップリンという「理念の光」を当てることで、権力犯罪者のヒトラーの面目がかつてないほどにリアルに迫ってきた経験をしました。それで、改めて、ヒトラーの独裁権力掌握へのプロセスについて思いを致す中で、311後の日本の独裁国家の法秩序はヒトラーから学んでいるのではないかという仮説を想到するに至りました。それが以下。

前年1932年7月の総選挙で第一党となったナチ党は、しかし過半数に及ばない、3分の1強の議席数にとどまったが、紆余曲折の末、1933年1月、ヒトラー内閣が成立。この時、保守派は「われわれはヒトラーを雇ったのだ」とヒトラーを確実に封じ込めると踏んで、この『ボヘミアの伍長』と妥協した。しかし、『ボヘミアの伍長』は保守派の数枚も上手を行った。
同年2月に国会議事堂が放火されるという事件が勃発したとき、過激派の単独犯行とみられたのを、ナチ党はこれを共産党による組織的暴動とみなし、国会と地方の3000人以上の共産党員・ドイツ社会民主党員を逮捕・拘束した。
その翌月3月、ヒトラーは、保守派閣僚によるヒトラー内閣の囲い込み状態を突破するため総選挙をおこない、財界からの協力を取り付けて得た圧倒的な資金力と国家権力を駆使した大規模な選挙運動を展開し、結果は196から288議席となったものの、それでも過半数に届かない44%弱だったが、連立相手である国家人民党と合わせて54%の過半数を確保した。そこで、この選挙結果を足がかりに、一気に独裁国家体制の法秩序の形成に打って出たのが、全権委任法の成立。
その顛末は以下に書かれていますが、
https://onl.tw/ifNsZ9r

全権委任法は全部でたった5条の法律で、それは理念法などではなく、明確に、
憲法に違反することすらできる無制限の立法権をヒトラー率いるドイツ政府に授ける
と書かれたものでした。
この結果、ヒトラー政府は国会に代わって立法を行い、なおかつこの政府の立法権は憲法に優越しうること(憲法に反すること)が可能となりました。ここから破滅的な第二次世界大戦に向うのは時間の問題でした。
このとき、ヒトラーは、議会制民主主義を使って、議会制民主主義を否定する独裁国家の法秩序を作ることに成功したのです。

そして、実はこれと同じ結果が311後の日本でも実現したのではないか。これが私の仮説です。
そのきっかけが、311後に判明した、原発事故の救済に関する全面的な「法の穴」状態の発生です。
半世紀前の日本であったなら、この当時、公害災害の救済に関する全面的な「法の穴」状態に直面していた私たちは、歴史的な公害国会を通じて、矢継ぎ早に新たな立法或いは抜本的な法改正という「立法的解決」によって全面的な「法の穴」状態を解消したのですが、
311後はそんな健全な真っ当な取組みは何一つ、全くやらないで来た。
その結果発生した、原発事故の救済に関する全面的な「法の穴」状態は、子ども脱被ばく裁判の福島地裁判決がいみじくも下したように、
行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられているというべきである
と政府に全権委任する道を取ることが宣言されたのです。その結果、原発事故によって、どれだけ無数の人たちが無念の命を落とし、健康を害し、生活を崩壊させられたとしても、それらの人権侵害はすべて無視され、このやり方でもって蹴散らされることになったのです。
このやり方は憲法が保障する人権の蹂躙であり、憲法の否定です。
こうした憲法に反した人権蹂躙が、行政裁量の名の下で次々と行われているーーこれが311後の日本の法秩序の現実です。

他方、自ら積極的に、このような法秩序を白昼、堂々と宣言してみせたのがナチスの全権委任法だとしたら、福島原発事故を契機に判明した全面的な「法の穴」状態に目をつけて、こっそりこれを最大限悪用して、誰も知らない間に、ナチスの全権委任法と同様の行政の独裁行為を正当化してみせたのが311後の日本の法秩序ではないか。
裏からコソコソ、独裁国家体制を仕立て上げるところが、第二次世界大戦時の日本政府と同様、日本的でいかにも姑息、陰険、陰湿な権力犯罪者のやり方かもしれませんが、やり方は裏からコソコソであれどうであれ、その結果、犠牲を被り、涙を流すのはいつも決まって私たち市民です。

以上、自由研究(1)の補足です。

【113話】自由研究(2):311後の独裁国家体制にとって一番ありがたいのは人々が「法の穴」を見つけないこと(2023.8.11)

                (ウィキペディアより)
概念法学から出発しながら、これを徹底否定して自由法論に転向し、「法の穴(欠缺)」を認めたドイツの法学者イェーリング(1818~1892)

今の自由研究(1)の続き。

自由研究(1)でこう書きました。
311まで日本の法体系は原発事故を想定していなかったら、原発事故の救済に関して法は全面的な「法の穴」状態にあった。
しかし、それは一見、「行政庁の処置について、単に、法令の具体的な定めがない」かのようにも見えた。
そこに目をつけて、「法の穴」について殆ど知らない市民の無知に付け込み(さらに、「法の穴」を無意識のうちに避けてしまう法律家の性向に付けこみ)、
文科省20mSv通知にしてもSPEEDI情報隠蔽にしても、それらはみんな
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」
だから、そこで、行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられていると大見得を切った。
そこからはやすやすと、みんな行政庁の適切な裁量判断の枠内のことであって、違法の問題は生じない、という結論が引き出され、
以上から、311後の行政の人権侵害行為の責任はことごとく否定され、責任を負うべき者は誰もいなくなった。
これなら、これから何度、原発事故を起しても、くり返し使える「打ち出の小槌」。行政は怖くもなんともない。
だから、政府は、原発事故の救済に関して、今後も決して救済法を制定しない。それは福島原発事故から何も学んでいないのではなく、むしろその正反対で、彼らは上のような「独裁法体制の樹立にとって、最も大事なことは『行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかった』こと」を学び尽くして、法令の具体的な定めなどクソ食らえだという教訓なのだ。
今後、原発事故が発生し、福島と同様の悲劇を起きることを誰よりも予測しているのが日本政府で、彼らはそのための無責任体制の整備に、日々全力を注いでいる。
       ↑
この無責任体制の整備にとって、最大の弱点が「法の穴」が発見されてしまうことです。
政府は、原発事故の救済に関する法は、単に「具体的な定めがない」かのようにとどめておきたい。
それを、わざわざ、現実に発生する原発事故に対して法律がその解決を準備していないという「法の穴」として認識してもらっては困る。
なぜなら、ひとたび「法の穴」が認識されてしまったら、その次に来るのは、その穴の穴埋め(補充)だから、その穴埋めをした結果は、先程紹介した、311後に福島県内の学校の安全基準を20倍引き上げた「7千倍の学校環境衛生基準問題」のように、政府の措置の人権侵害ぶりが明々白々になるからです。
これだけは絶対避けたい、それが政府の本音。
だとしたら、我々のやることは次のことーー私たち自身が「法の穴」を見つけること。そして、その穴に対し、正しい立法的解決を要求すること(それを具体化したのがチェルノブイリ法日本版です)、もしくは「法の穴の正しい穴埋め」を求めることです。
そしたら、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」から、行政庁の裁量にお任せ下さい、
なんていう欺瞞的なレトリックの出る幕はなくなる。

その上で次の問題は、どうしたら私たち自身が「法の穴」を見つけられるか、です。
実は、これは言うは易き、行い難しの面があります。
なぜなら、法もまた、放射能ではありませんが、私たちには見えず、触れられず、匂いも痛みもしない、従って、ボーとしているとそこに「法の穴」があるのか、つかみ損なってしまう、なかなか厄介な存在だからです。
       ↑
これに対し、市民が「法の穴」を知らないのはそもそも「法」を知らないからで、だから、法の専門家の法律家に聞けば一発で解決するんじゃないかという意見が出そうです。が、実はそう簡単なことではありません。なぜなら「法の穴」の発見は単に法の知識の問題ではないからです。
また、人権感覚があったり人格円満な法律家でも、こと、「法の穴」になると途端に消極的、反抗的な態度を取ることがあるからです。
その理由は、末尾に書きましたが、
ともかく、ここで言いたいのは、私たち市民が「法の穴」を発見する力は、結局のところ「理念」の力だということです。いかに理念の光を当てて、現実の事実と法体系に眺めるか、で「法の穴」を見出せるかどうかが決まるのではないか。理念の光はまた「ユートピア」の力です。だから、理念の力が弱く、いつも現状追随の姿勢しか取れない人には、いくら法を眺めても、そこに「法の穴」を見出すのは困難です。理念の力を持ち、そこから現状を変革せずにはおれない姿勢を持った市民でないと、「法の穴」を見出すのは困難な面があります。
この問題は改めて書きます。

とにかく、私たち市民がひとりでも多く、「法の穴」を発見(認識)するかで、上に述べた欺瞞的なレトリックが破綻します。独裁国家体制を維持させるのか崩壊に導くのか、その運命のカギは、私たちが「法の穴」を発見(認識)するかどうかにかかっている。

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(以下、法を知っている法律家がなぜ「法の穴」を認めないのかについて)

2、「法の欠缺」に対する2つの立場・対立

(1)、19世紀のドイツ古典法学(いわゆる概念法学)の人たちは「法の欠缺」を認めなかった。なぜなら、彼らの法解釈学はユスティニアーヌスの「ローマ法大全」を完全無欠の文献とする考え方に基いており、「法の論理的充足性[1] 」(あらゆる可能な事案に対する正しい解決が法の中に含まれている)という完全無欠の思想・信仰に立っていたから、彼らにとって「法の欠缺」など存在しなかった。

 これに対し、事実を価値判断をまじえずありのままに認識するという近代の科学的方法の対象を法にも拡大する「法における認識と価値判断を峻別」するという立場からは、もともとあらゆる問題を想定して法律を制定することが不可能である以上、現実に発生する紛争事実に対してこれに対応する法律の規定が存在しない場合が出てくるのは不可避のことであり、そこで、このような事態を率直に承認し、「法の欠缺」状態にあると認識することは法を価値判断をまじえずありのままに認識しようとする立場からの必然的な帰結であった。

(2)、しかし、概念法学が克服された20世紀においても、人々の間に、なお「法の欠缺」の承認に対して批判的、消極的な姿勢が続いた。それは「法における認識と価値判断の峻別」に対する態度の違いから生まれた。もし、「法における認識と価値判断の峻別」の必要性を認めない立場に立てば、現実に発生する紛争事実に対して法律の規定が存在しない場合であっても、それをありのままに認識するまでもなく、直ちにその欠缺に対し価値判断を下して補充さえ実践すれば足りるのだと考える、つまりわざわざ「法の欠缺」を云々するまでもなく、法の解釈技術を使ってとっとと補充をやってしまおうとする傾向になる。しかし、この態度は、現に「法の欠缺」状態が存在することをうすうす認識しているにもかかわらず、これに対する正確な認識をしないまま、あたかも法が存在するかのようにみなして[2] <#_ftn2>法の解釈技術を使って法を適用するというものであり、従腹背的で技巧的なこのやり方は法に対する「認識なき実践」であり、たとえその動機は紛争の適正な解決だとしても、「認識なき実践」という盲目的な態度では「形式論理操作の重視」に陥る危険があり、そのようなやり方で、果たして法は「現実の社会生活」への奉仕のために活用されるべきであるという「法の精神」に十分応えことができるのか、極めて疑わしい。

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[1] 碧海純一「法哲学概論全訂第2版」167頁。

[2] なぜなら、法が存在するようにみなさないと、当該法の解釈を行うこともできないからである。

【112話】自由研究(1):311後の法秩序は行政がどんな人権侵害をおかしても誰も責任追及されない、ナチスの独裁国家体制に匹敵する。その秘密は「法の欠缺」にある。(2023.8.11)

311以後の日本社会の闇はいかにして実現されたのか。
その訳がずっと分からず、謎だったのが、昨日、避難者の追出し裁判の検討をする中で、その謎が1つ解けたような気がしたので、それについてMLに投稿したもの。
とはいえ、これは誰もに開かれた自由研究、仮説とその検証。
全部で4つです。
これは自由研究(1)
自由研究(2):311後の独裁国家体制にとって一番ありがたいのは人々が「法の穴」を見つけないこと
自由研究(3):311後の法秩序のモデルはナチスの独裁国家体制=全権委任法、但し、それは「法の欠缺」を最大限悪用した
自由研究(4):311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている

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            2011年6月24日、ふくしま集団疎開裁判を提訴
              (
2011年6月24日の北海道新聞) 

311直後の2011年6月24日、ふくしま集団疎開裁判を提訴した直後、弁護団の井戸謙一さんがメディアの取材を対し、
「311後に、政府がここまでひどいことをやるとは思ってもみなかった」
と言った。法律家の保守本流の彼にそこまで言わせるほど、政府が違法(それは権力犯罪者という意味)への道を突き進んだのはなぜか、そしてそのためになにをどう準備し、どう仕組んだのか、その手練手管について、今日までつらつら考えて来ました。
以下は後者、権力犯罪者の犯罪実現手段についての仮説です。

311後の数々の悪行、文科省の20mSv通知、山下発言、SPEEDI情報隠蔽、本来であれば、その関係者は全員首をそろえてハーグの国際刑事裁判所の被告人席に座り、人道上に対する罪に問われてしかるべきなのに、現実には、見事に、誰ひとり、違法の責任を問われることもないまま、抜け抜けと生きている、他方で、命を落とし、健康を害し、生活を崩壊させられた無数の無名の人たちがいるというのに。

この膨大な人権侵害に対する政府の徹底した無責任体制を実現したのが311後の法秩序です。
では、この完璧な無責任体制を実現した311後の法秩序の秘密とは何か。
そのキーワードになるのが「法の穴(法律用語では欠缺〔けんけつ〕())状態の発生ではないか。

)法の穴(法律用語で「法の欠缺」)とは、現実に発生した人間関係や紛争に対して、法律がその解決を想定していないため解決基準を提供できないことをいいます。

「法の穴」の発生は別に特別なことではなく、日常茶飯事です。例えば内縁関係は日常のありふれた人間関係ですが、しかし民法は、過去も現在も、家族法の中で内縁関係を想定していないとして、内縁関係に対して未だに何の規定も置いていません。だから、内縁関係はずうっと、民法の中で「法の穴」のままです。
私が、311後に「法の穴」を意識したのはこれとは少し別です。たまたま避難者追出し裁判に関わるようになり、そこで、福島県が災害救助法を使って避難者を仮設住宅から追出そうとしているのを知り、そもそも災害救助法って、地震台風大雨津波といった従来型の災害の救助のことで、原発事故が発生した場合の救助なんて想定していないんじゃないのか?と思った時です。
もっとも、当初、法の穴がそんなにひどい悪さをするとは思ってもみなかった。たまたま原発事故という過去に経験のない事故が発生したため、それに対する備えがなかった日本の法体系で「法の穴」が発生するのは当然だろう、ぐらいにしか考えていなかった。しかし、それは甘かった。そう気づかされたのは、子ども脱被ばく裁判の2021年3月1日の福島地裁の一審判決の言渡しがあったときです。

この一審で、原告らは5年間の間、血がにじむような努力をして、内部被ばく、低線量被ばくなど放射能の危険性を裏付ける事実・データを収集・主張して、放射能の危険性を証明しました。ところが、それが裁かれる一審判決では、これらの珠玉の事実・データがことごとく無視され、無残に蹴散らされる原告完全敗訴が下されたのです。その蹴散らす装置が行政の裁量論でした。一審判決は、至る所で、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられているというべきである」と言ってのけたのです(30頁。72頁。76頁。97頁。113頁。120頁。123頁。133頁。156頁)。
だから、SPEEDI情報を隠蔽しようが、文科省が福島県内の学校だけ線量を20倍に引き上げる通知を出そうが、それらはみんな行政庁の適切な裁量判断の枠内のことであって、違法の問題は生じない、と。

しかし、ここで一審判決が「行政の裁量論」で逃げ切るためには、越えなければならない1つのハードルがありました。それが、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがない」こと。
そのハードル越えを準備したのが、上に書いた「法の穴」。311まで日本の法体系は原発事故を想定していないから、原発事故の救済に関して法が全面的な「法の穴」状態にあるのは当然で、ただし、それは一見すると、単に初めから「法令の具体的な定めがない」かのようにも見える。そこで、一審判決は、ここに目をつけて、文科省20mSv通知にしてもSPPEDI情報隠蔽にしても、それらはみんな(初めから)
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」
だから、そこで出番は行政の裁量論だと大見得を切ったのです。そして、そこから行政がやった措置の違法性を全面的に不問に付すまでは一直線に突進、いとも簡単に実現できると‥‥
‥‥とはいかず、悪事とてそうたやすいものではなく、ここには一審判決の一世一代の猿芝居、大うそつきが必要とされた。
原発事故の救済に関して法が全面的な「法の穴」状態にあったなら、そこでまずなすべきなのは「法の穴の穴埋め(法律用語で補充)」だからです。
しかし、頭のいい一審判決の裁判官たちは、ここ(「法の穴」→「法の穴の穴埋め」)を意図的にすっ飛ばし、スルーして、「法の穴」も口にせず、そして「法の穴の穴埋め」もしないまま、
「法令の具体的な定めがなかったんだから、そこは行政庁の裁量判断の出番でしょ」
とばかりに大見得を切った。その上、一審判決の裁判官たちがこの猿芝居を重々分かった上で演じたことは、原告弁護団の井戸謙一さんが発見した「7千倍の学校環境衛生基準問題」について、原告は次の通り、くり返し強調していたからです(原告準備書面(32)最終準備書面12頁以下)
2012年の環境基本法の改正により放射性物質が規制の対象となった結果、国は放射性物質について「環境基準」と「規制基準」を定める義務を負ったにもかかわらず、それをサボタージュしているため、現時点で、放射性物質の「環境基準」と「規制基準」は「法の穴」の状態にある。
そう指摘した上で、「法の穴」に対する本来の処置である、「法の穴」の穴埋めを実行することを試み、
他の毒物の「環境基準」と「規制基準」と同等の基準(それは、その毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というもの)を放射性物質に当てはめれば、補充した「環境基準」と「規制基準」は追加線量で年2.9μSvとなる。つまり311後に行政が採用した年20mSvは、この補充した基準の実に7千倍である、と。

ところで、このロジックは別に新奇なものではなく、法律家として保守本流を行くやり方でした(田中成明「現代法理論」246~248頁)。
だから、一審判決は、上記ロジックを正面から否定することが出来ず、そこで、裁判官たちがやったことは、何食わぬ顔をして、原告の上記ロジックを無視して、法の穴など最初からどこにもなかったかのようにとぼけて「法令の具体的な定めがない」んだから、しょうがないね、それじゃあ、はい、行政の裁量の出番だ、と大見得を切ったのです。

原告弁護団の私も、直感的に、一審判決の胡散臭さを感じていたものの、その当時、この判決の騙しのテクニックを見抜くまではできなかった。

今回、東京で行われている追出し裁判の準備の中で、行政裁量論を全面展開する必要があって、それを再考する中で、
行政裁量の土俵の上に乗って、その中で「裁量の逸脱濫用」を論じるというのは既に、負けているんじゃないか、
一審判決が突如、持ち出して来た行政裁量論という土俵の上に乗ること自体の問題点を再考しないとダメなんじゃないかと思い、
そこから、311後の人権侵害を象徴する重要論点「7千倍の学校環境衛生基準問題」に焦点を当てたとき、なぜ、この原告主張が311後の人権侵害を象徴することができたのか、その理由を再考している中で、
そうだ、この原告主張では、
「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行したから、そこで、311後の年20mSvが穴埋めをした基準と比較して7千倍になっているという、いかに残忍酷薄の人権侵害であるかが白日の下にさらされたんだ
ということに気がつきました。この原告主張で、もし「法の穴」の発生を指摘せず、「法の穴の穴埋め」も実行しなかったら、311後の年20mSvがいかにむごいものであるかも単純明快には証明できず、一審判決と変わり映えのしない主張にとどまっていたはずです。

くり返しますと、なぜ「7千倍の学校環境衛生基準問題」が311後の行政の措置の人権侵害振りを燦然と鮮やかに指摘し得たかというと、それは、「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行して「本来の法の姿」を示し得たからです。
その結果、憲法の基本原理「法治主義」、その行政への適用である「法律による行政の原理」に行政は従う義務を負っており、311後も、行政は、この「法の穴の穴埋め」を実行して得られた「本来の法」に従う義務があり、それを愚直に実行したら、311後の行政の措置はことごとく違法という判断が下されたはずです。
しかし、現実には、そのような判断とは間逆のことが起こった。それが、福島原発事故の発生で、原発事故の救済に関する法は不在だと判明したのだから、ここは「法令の具体的な定めがない」とみなして、行政が従うべき法律が不在なんだから「法律による行政の原理」は停止され、行政への全権委任もやむを得ないだろうということで、311後のあらゆる人権侵害が堂々と正当化されるという事態です。

ここから引き出される教訓は、我々は「7千倍の学校環境衛生基準問題」にとどまらず、311後のあらゆる人権侵害問題で「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行して「本来の法の姿」を示してみせることに、徹底してこだわるべきだ、と。
幸い、今、日本政府の人権侵害は世界の注目を浴びていて、国際人権法が、311後の日本の法の穴を穴埋めする最良の規範として、私たちの目の間に存在するのです。まさに、国際人権法が「ピンチをチャンス」に変えるキーワードなのです。

それを試みたのが福島地裁・仙台高裁と東京地裁の2つの追出し裁判です。

今その観点から、追出し裁判の書面を書いています。
とはいえ、以上の仮説は、今までどこにも書いてない、だれも正面から主張していないものです。
しかし、私は、この「法の穴」問題が311後の日本の独裁的な法体制を作り上げる上で、キーワードになっているのではないかと思い、これを皆さんに問題提起したいと思った次第です。
その問題提起をさらに理解してもらうために、追出し裁判のために、大法螺を吹いていると批判されそうな私の草稿を添付します。

2023年7月27日木曜日

【111話】抗議アクション(その1)7月10日第1回弁論だけで審理終結した、避難者追出し裁判の仙台高裁第3民事部に、弁論再開の申立書を提出(23.7.26)。

 本日、今月10日に、第1回弁論だけで審理終結した避難者追出し裁判の仙台高裁第3民事部に、速やかに弁論を再開し、審理に入ることを強く求める弁論再開申立書を提出。
以下、その冒頭の部分。全文のPDFはー>こちら

※ 
7月 10日第1回弁論で即日結審した報告については以下を参照下さい。
【106話】人間になれなかった裁判官(その1):自主避難者の人権を国際人権法の立場から余すところなく解明した清水意見書の提出(2023.7.7)

【107話】人間になれなかった裁判官(その2):追出し裁判控訴審第1回期日で陳述した控訴理由書の要旨(2023.7.10)

【108話】人間になれなかった裁判官(その3):第二戦開始のゴングが鳴るや終了のゴングが鳴った追出し裁判控訴審(2023.7.11)

【第109話】人間になれなかった裁判官(その3):第二戦開始のゴングが鳴るや終了のゴングが鳴った追出し裁判控訴審(2023.7.11)に寄せられた感想


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 本裁判の控訴審は今月10日に第1回口頭弁論が開かれ、約30分の弁論の後、裁判所は控訴人・代理人の反対を押し切って、即日結審を言渡して審理終結を強行した。

本裁判の控訴理由書の冒頭の目次と控訴人陳述書の一節を見ただけで、本裁判が過去に前例のない過酷事故=福島原発事故の発生によりもたらされた「避難者の人権保障のあり方」が根本から問われた、前例のない人権問題であることが分かるはずである。

しかるに、本裁判の原審である福島地方裁判所は、本裁判が提起した「避難者の人権保障のあり方が根本から問われた前例のない人権問題」の問題に立ち向かおうとせず、単なる不法占拠者の立退き裁判の1つに矮小化して、控訴人が提起した国際人権法の居住権の問題及び福島県知事の裁量権の逸脱・濫用の問題の解明を無視して審理終結を強行し、控訴人が提起したこれらの重要な問題から目を背けて控訴人全面敗訴判決を言渡した。すなわち、本裁判が提起した「避難者の人権保障のあり方が根本から問われた前例のない人権問題」は原審の手続の中で何一つ全く解明されずに判決が言渡されたのである。

ここに示された原審の手続的不正義を根本から正すこと、それがまず、控訴審に課せられた最大の使命であったことは明白である。

にもかかわらず、裁判所は自身に課せられたこの使命を考慮するどころか一顧だにせず、原審裁判所の手続的不正義にさらに上塗りするかのように、福島原発事故関連訴訟でこれまで誰も経験したことがないような目を覆うばかりの不正義=即日結審を行なった。

これが福島原発事故によるすべての避難者にとって、そして世界中の良識にとって耐え難い不正義であることは明らかである。

控訴人は、昨年、原審裁判所が審理終結を強行した際に、原審裁判所に2022年10月21日付弁論再開申立書を提出し福島原発事故によるすべての避難者と世界の良識が眉をひそめずにはおれない原審裁判所の手続的不正義を余すところなく明らかにした。

今、この弁論再開申立書の本文を以下に再掲し、これに基づき、裁判所が福島原発事故によるすべての避難者と世界の良識が日本の司法に寄せる期待を厳粛に受け止め、前例のない本裁判が目の前の利害関係に忖度・左右されることなく、歴史の審判に耐え得るような正義の裁きを下すために、控訴人は福島原発事故によるすべての避難者の声を代弁する気持ちで、裁判所が勇気を奮って弁論の再開を速やかに決断することを強く求めるものである。

 

2023年7月13日木曜日

【110話】7月10日第1回弁論だけで審理終結した、避難者追出し裁判の仙台高裁第3民事部に抗議する

 以下は、今週11日に、第1回弁論だけで審理終結した避難者追出し裁判の仙台高裁第3民事部に対する控訴人弁護団の抗議文。

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月10日第1回弁論だけで審理終結した、仙台高裁第3民事部に抗議する

2023年7月11日

                  令和5年(ネ)第44号建物明渡等請求控訴事件

                                  控訴人弁護団

1 福島原発事故の避難者を避難先の国家公務員宿舎から追出そうとする今回の裁判は、この国が過去に経験したことのない福島原発事故に直面して、放射能汚染地から避難した住民の命、健康、暮らしに直結した「住民の人権はどのように守られるべきなのか」が正面から問われた、過去に前例のない人権裁判です。日本政府は311まで、日本に原発事故は起きないという安全神話の中に眠りこけていたため、原発事故避難者の救済に関する法律は何も整備されていなかった。

2 この遅れた状況にあって、原発事故避難者の正しい救済を与える手がかりは、幾度にも及ぶ避難民や国内避難民の悲惨な体験の中から、彼らの救済のあり方を作り上げてきた国際人権法の中にあり、またそれ以外にはなかった。

  私たちは、今回の裁判が正しく裁かれるためには、国際人権法の(国内)避難民に関する人権規定に基づいて解決するしかないことを、一審の福島地裁からずっと主張してきた。しかし、福島地裁は、私たちの訴えに全く耳を傾けず、三行半の無内容で理由不備な判決を下した。こうして、福島県の強行する酷薄な避難者追出しにお墨付きを与えた。この意味で、今回の控訴審の裁判こそ、国際人権法による解決が達成さるべき重要な裁判でした。

  折りしもこの5月に、原発事故避難民の人権状況を、昨秋来日し調査してきた国連特別報告者ダマリー氏の公式報告書が国連人権理事会に提出され、その中には、この裁判に警鐘を鳴らす記述もあり、いまやこの裁判は、人権に関する世界の良識の最大の関心事となっていました。

3 従って、本来であれば、この控訴審の裁判で、国連関係者も証言台に立ち、十分な時間をとって国際人権法の原則が解明され、本件について正しい裁きがなされるべきものでした。ところが、仙台高等裁判所第3民事部(瀬戸口壯夫裁判長)は、今週10日の第1回弁論期日において、1回だけの、それも30分足らずの短い審理だけで、突如「審理終結」を宣言し、私たち控訴人、代理人、傍聴に詰めかけた支援者の前からさっと逃げ去りました。

4 これはズバリ「裁判の拒絶」であり、憲法が保障した「裁判を受ける権利」の侵害以外の何ものでもない。その結果、一審福島地裁の三行半の判決を正当化し、国際人権法が保障する国内避難民の人権を控訴人に適用することを、キッパリと拒否したのです。
 これ以上、国際社会の良識に背を向けた、引きこもり的な態度はありません。

5 私たち控訴人、代理人、支援者一同は、仙台高等裁判所が避難者の「裁判を受ける権利」と「国際人権法が保障する国内避難民の人権」を侵害したという誤りを改め、「審理の終結を撤回し、速やかに弁論を再開し、国際人権法に基づいた徹底的な真相解明を行うこと」を心から強く求めます。

6 いまや、この裁判は単なる国内問題ではなく、世界の良識が注目する国際問題です。
  国際問題として、仙台高等裁判所が、原発事故という自身には全く責任の全くない事態によって全てを奪われ避難せざるをえなかった控訴人と福島県民の切なる願いを誠実に受け止めるのかどうかを、その一挙手一投足を国連人権理事会に通報する所存です。

                                                                                      

【第109話】人間になれなかった裁判官(その3):第二戦開始のゴングが鳴るや終了のゴングが鳴った追出し裁判控訴審(2023.7.11)に寄せられた感想

 昨日の投稿【第108話】人間になれなかった裁判官(その3):第二戦開始のゴングが鳴るや終了のゴングが鳴った追出し裁判控訴審(2023.7.11)を読まれた方から、以下の感想文が寄せられたので、紹介させてもらいました。

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Mです。
裁判お疲れ様です。
柳原さんのブログ
「人間になれなかった裁判官(その3):第二戦開始のゴングが鳴るや終了のゴングが鳴った追出し裁判控訴審(2023.7.11)を
読みました。
子ども脱被ばく裁判福島地裁で、入廷後すぐに「却下する!」
とだけ言い渡し、法廷を去った遠藤東路裁判長の姿を思い起こしました。
彼もまた「人間になれなかった裁判官!」 

仙台高裁の裁判官も、自分の職歴に傷つくことを恐れ?
震える手で「本日で審理を終結する。判決言渡しは9月‥‥」と告げ、
震える裁判長をさらけ出し、法廷を去ったのですね。

国会ではれいわ新選組のくしぶち真理議員が採決の投票時
「与党も野党も茶番」の紙を掲げた罰で、当院停止になったり、
マイナカードの強行採決抗議に委員長席に詰めよった
山本太郎議員を懲罰動議にかけようとしたり、
反対や抗議を許さない。
もはや、民主主義国家は存在しなくなった状況が裁判所でもまかり通る。
独裁国家が顔を出してきました。

柳原さんのご指摘のように、
「裁判の拒絶」である。
それは控訴人の「裁判を受ける権利」の侵害以外の何ものでもない。
それは、控訴人に「避難者の人権」があることを裁判を通じて明らかにしようとした
控訴人の意図をくじくためである。

裁判所は、憲法の教科書に書いてある「(市民の)人権の最後の砦」ではなくて、
「(市民に対する)人権侵害の最前線の攻撃基地」 になってしまった。

「弱きをくじき、強きを助ける」ために裁判所が存在するのではないことを、
ひとりでも多くの市民の手で、独裁裁判所に思い知らせる必要がある。—

裁判所が人権侵害の最前線の攻撃基地になってしまった今、
私たち市民は、直接民主主義で声を上げ、行動する時と悟ります。

何もしなければ、彼ら権力者はますます、味を占め、手なづけ、
手を変え、品を変え、弾圧、分断してくることは明らかです。

独裁国家といわれるのは嫌。だから選挙で過半数を維持する。
私たちはまだ、投票権がある。
疲弊した労働で考える力をなくす前に投票で、意思表示で、
政治を変えることができる、声を上げ続けようと声を上げ、
学習会を開き、集会、抗議行動をおこし、デモをし、
裁判所や、国会に集まり抗議する事はできる。
人間としての尊厳のために、隷属する前に、
命を脅かされることに抵抗することが出来る。

彼らが怖いのは、市民が団結した時だと悟ります。
直接民主主義の行動を編み出す知恵を集め考え出したいです。


2023年7月12日水曜日

【108話】人間になれなかった裁判官(その3):第二戦開始のゴングが鳴るや終了のゴングが鳴った追出し裁判控訴審(2023.7.11)

            7月10日、裁判前の入廷行動

これは、本来なら、国連関係者も呼んで証言してもらい、最も時間をかけて丁寧に、避難者の人権問題を吟味検討して初めて避難者の「裁判を受ける権利」が保障される裁判である。にもかかわらず、実際はよりによって、たった1回だけで、それも30分という最短の時間で審理終結を宣言し、敢行したという異例の展開となった。
以下は、世界の良識がみたらマユをひそめないでおれない、世にも奇怪な、この仙台高裁の裁判の報告である。
かつて、公職選挙法の規定が憲法に違反するという判決を書いて、その後、最高裁から様々な嫌がらせを受けた裁判官がいた。彼はのちに、自分のことを「犬になれなかった裁判官」と呼び、この題名の本に書いた()。今回の裁判官はその対極に立つ裁判官である。つまり「人間になれなかった裁判官」。

安倍晴彦「犬になれなかった裁判官―司法官僚統制に抗して36年


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避難者追出し裁判の第二回戦(控訴審)が仙台高裁で昨日7月10日開かれた。第一審の福島地裁の1月13日の判決言い渡し、それは判決の体裁さえ放棄した「判決もどき」の「エセ判決」(その理由を述べた「弁護団の声明」はー>こちら。以下、原判決といいます)の言渡し以来、半年振りの裁判だった。この間、控訴人、弁護団、支援者は、原判決の誤り、出鱈目ぶりを明確にするために、改めて、避難者の住宅問題の本質を探る検討を重ね、振り返りを行い、その積み重ねの中から、3月13日に、これまでの主張を再吟味し、集大成した控訴理由書を完成させ、控訴審での真相解明について次の6名の証人尋問を予告した(その内容についてはー>第107話参照)。
             
(1)、控訴人を「強制退去させることが真にやむを得ないという事情」が現実に存在していたか否かについて(控訴理由書19~20頁)
 浜田 昌良(元復興副大臣)
(2)、控訴人が本件建物から明渡しを余儀なくされた場合に控訴人及びその家族にいかなる窮乏をもたらすかについて(控訴理由書19~20頁)
 控訴人2名
(3)、国際人権法が許容する明渡しが認められるための条件である「代替措置(住居)の誠実な提供」がいかなる意義を有するかについて(控訴理由書20~22頁)
 清水 奈名子(宇都宮大学国際学部教授)
(4)、現在の日本において、原発事故の避難者にとって生活保護が現実に「代替措置(住居)の誠実な提供」足りうるものかについて(控訴理由書20~22頁)
 瀬戸 大作(一般社団法人反貧困ネットワーク 事務局長)
(5)、国及び県が、自主避難者が生活再建を果たし、仮設住宅の明渡しが実行できるだけの体制が整うように、そこに向けていかなる生活再建策を掲げ、どのように実行してきたかについて(控訴理由書30~31頁)
 国:木村 実(国交省から復興庁に出向し復興公営住宅を制度設計した参事官)
 県:野路 誠(県の初代避難者支援課長)
 日野 行介(ジャーナリスト)
(6)、無償提供の打ち切りに関する本福島県知事決定の裁量権の逸脱・濫用について、決定の判断過程の各局面の論点について看過し難い過誤があったか否かについて(控訴理由書31~34頁)
内堀 雅雄(福島県知事)
(7)、2015年6月の無償提供の打ち切りに関する福島県知事の決定にあたって、「内閣総理大臣の同意の拒否」の具体的内容及びその内容が財政上の正当な理由に基かず、それ以外の理由に基いて同意を拒否したものか否かについて(控訴理由書32~34頁)
 浜田 昌良(元復興副大臣)
(8)、県が自ら原告となって本訴を提起するために、国に本件建物の使用許可を申請していた事実について(控訴理由書10~14頁)
大橋 雅人(県の避難地域復興局生活拠点課課長)

そして、避難者の権利を根拠付ける法として「国際人権法」を導入するための理由付けについて、国際人権法の新進気鋭の研究者、宇都宮大学の清水奈名子教授の協力のもとに、控訴人へのリアリングを経て意見書の準備をし、7月7日、これを完成させ、裁判所に提出した(その内容についてはー>第106話参照)。時あたかも、国連人権理事会の特別報告者のダマリー氏の公式報告が理事会に提出・公表され(ー>そのニュース)、その中で本裁判の問題点に言及するという、本裁判は国際世論の大きな注目を浴びる状況の中にあった。

以上の通り、これらの準備により原判決の誤りをただすのは「時間の問題」という確信を抱き、控訴人は満を持して、7月10日の控訴審第1回期日に臨んだ。そして、法廷で、本裁判で控訴人が提起した論点について、原判決がいかなる意味で誤りに陥っているかを、法律の素人でも理解できるように「要旨の陳述」を行い、裁判官が「原判決の見直しは必至である」という確信を抱けるように努めた。
ところが、このあとの展開、「要旨陳述」に対する裁判所の応答は控訴人の予想と正反対、間逆であった。裁判長は、いきなり
本日で審理を終結する。判決言渡しは9月‥‥
と言い出し、法廷内は騒然となり、途中から裁判長の声は控訴人代理人・傍聴人の抗議の声でかき消された。しかし、裁判長、この時ばかりは「法廷内の権力者は裁判長」というカードを思う存分使い切り、控訴人代理人・傍聴人の抗議を無視して、後ろのドアを開けて、さっさと消えていった。その間、わずか1分ほど。一瞬の出来事に、残った控訴人代理人・傍聴人はだまし討ちに遭ったような気分に襲われ、こみ上げて来る理不尽さを抑え難く、そのあと、そそくさと退室しようとした福島県の代理人に控訴人は思わず声を荒げて詰め寄った。並みいる傍聴人も席から立ち上がる気力も奪われて、裁判官が去った法廷で怒号の野次が飛び交った。

半年振りに、ようやく新たな裁判の幕が上がったかと思ったら、30分もしないうちにあっという間に、その幕が下りてしまった。まるで、第二戦開始のゴングが鳴るやたちまちのうちに終了のゴングが鳴ったボクシングの試合のようだった。

こんなボクシングを観た観客が「八百長だ」と騒ぐのが当然のように、この高裁の裁判を傍聴した市民が、これは裁判の名を借りた「八百長裁判」「エセ裁判」 だと思ったとしても不思議でない。

これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー弁護士が福島県の代理人をやってんじゃなくて、裁判所が福島県の代理人をやってるんだと(福島県の代理人弁護士は「はい」と一言言ったきり、何もしていない)。

これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー自主避難者の人権(居住権・生存権・自己決定権)を侵害する者は福島県ばかりか、裁判所も同類なんだということを。

 これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー少なくとも仙台高裁民事3部の裁判所は、憲法の教科書に書いてある「(市民の)人権の最後の砦」ではなくて、「(市民に対する)人権侵害の最前線の攻撃基地」なんだということを。

 これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー自分たちの国は民主主義の国だと思っていたけれど、私たちの言い分に耳を傾けて欲しいという市民のささやかな願いすら蹴散らされてしまう、実は独裁国家の国なんだということ、実はアジアの独裁国家の仲間だったんだということを。

これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー憲法の教科書に書いてあるような、「三権分立による民主主義」が内部崩壊し機能不全に陥っているとき、そこで嘆いたり、絶望したりするのではなく、民主主義の起源に立ち帰る必要があるということを。

これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー一握りの専門家集団にお任せするというお任せ民主主義=間接民主主義の幻想から目覚めて、 民主主義の起源である、市民の自己統治による直接民主主義に向かうしかないことを。

他方で、この法廷を見て、すっかり絶望した市民もいたと思う。確かに絶望するほかないメチャクチャな裁判だったから。だが、この日の絶望の事態はだてに訪れたのではない。控訴人側で原判決の破綻、誤りを反論の余地がないまでに突き詰める努力を重ねてきた、その努力の賜物なのだ。もし控訴人の主張が軽々と反論される互角のレベルの主張であったら、裁判所もこんな愚かな幕引きを強行しない。余裕をもって反論する判決を書けばよいからだ。

しかし、本件でこの裁判長にはそんなゆうちょな真似をする自信も余裕もなかった。私たちが絶望する前に、まずこの裁判長自身が絶望に追い込まれたーーこのままでは、余裕をもって反論する判決なんか書けない。だから、これ以上、控訴人にとやかく言わせず、一刻も早い幕引きをするしかない、と。
「本日で審理を終結する。判決言渡しは9月‥‥」と言い出した時、傍聴人は裁判長の手がわなわな震え出したのを目撃した。もちろん彼は、冷静沈着な裁判長という役回りを演じる必要があったから、事前に何度も練習していた筈だが、いざ本番となると、一世一代の茶番劇の大根役者を演じる余り、冷静沈着な裁判長とは反対の、震える裁判長という姿を法廷でさらしてしまった。 

ともあれ、昨日の出来事は「裁判の拒絶」である。それは控訴人の「裁判を受ける権利」の侵害以外の何ものでもない。それは、控訴人に「避難者の人権」があることを裁判を通じて明らかにしようとした控訴人の意図をくじくためである。

もともと人権侵害を完成させるためには、侵害者の側も人権侵害を行う(行政)権力者とこれを裁く裁判所が結託(連携プレーを)する必要がある。それは近時の袴田事件を見れば一目瞭然である。  

こういう独裁国家の正体が姿を見せた時、私たち市民はどうすればよいのか。まずは、人権侵害者としての裁判所の違法行為を厳しく追及する必要と覚悟がいる。「弱きをくじき、強きを助ける」ために裁判所が存在するのではないことを、ひとりでも多くの市民の手で、独裁裁判所に思い知らせる必要がある。そのお手本を、昨日の裁判のあとの報告集会で私たちは目撃した。そこに参加した傍聴者たちは、異口同音に「こんなひどい裁判は初めて見た。ビックリした」と語っていた。ここに私たちの次の行動の原点、そして光がある。
暗黒を通じて、光を掴む、その取組みを続けること(この投稿、未完。続く)

2023年7月11日火曜日

【107話】人間になれなかった裁判官(その2):追出し裁判控訴審第1回期日で陳述した控訴理由書の要旨(2023.7.10)

 これは、自主避難者追出し裁判の控訴審(仙台高等裁判所)の第1回期日(7月10日)で、控訴人の控訴理由書(その全文はー>こちら。控訴理由書の提出についての報告はー>こちら)の要旨を陳述した際の原稿です(そのPDF版はこちら)。

人間の心をもった裁判官の胸に届くようにという願いに託して作成し、陳述しました。
これは、「人間の心をもった裁判官に宛てたラブレター」です。

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控訴理由書(要旨)

控訴人代理人 柳原敏夫

1、本裁判の主題

 最初に、はっきりさせておきたい事実について述べる。

まず、控訴人が福島原発事故を起こした訳ではなく、純然たる原発事故の被害者だという事。

他方で、福島原発事故の加害責任を負うのは原発を推進した国と東京電力だという事。

そして、控訴人は東雲の国家公務員宿舎に無断で侵入したのではなく、国からどうぞと提供され堂々と適法に入居したという事。

だから、国際人権法の立場からは、この時点で控訴人に「国内避難民に関する居住権」が実現したという事。

にもかかわらず、2017年3月末をもっていきなり控訴人は一方的に不法占拠者として扱われるに到った事。

そして、本裁判の訴状でも福島県は、控訴人をそこらの不法占拠者と同様に扱って立退きを求めてきた事。

そして、原判決もまた、控訴人をただの不法占拠者と扱って何ら怪しまず、控訴人がたとえ追出されて困ったとしても生活保護があるから問題ないと、生活保護の実態について何ひとつ証拠調べもしないまま立退きを正当化してみせた事。

しかし、福島県も原判決を書いた福島地裁も、本裁判の真の主題を全く掴んでいない事。

本裁判の真の主題とは訴状や原判決が考える「建物の使用をめぐる所有者と不法占拠者との問題解決」といった教科書に書いてあるような単純な事案ではない事。それは、

一方で、原発事故発生により避難を余儀なくされた避難者が避難先で宿舎を国から提供され入居してようやく手にした居住権に対し、他方で、原発事故の加害責任を負う国が避難者に提供した宿舎の所有権を理由に避難者に立退きを求めるという居住権と所有権との対立・衝突をどう調整するか
という平時ではあり得なかった、原発事故が起きて初めて出現した、非常事態のもとでの極めて複雑で、過去に前例のない人権問題である。


2、本裁判の主題を解決するための基本原則

 次に、今述べた、本裁判の真の主題を解決するために、はっきりさせておくべき基本原則について述べる。

第1が、憲法が私たちに保障している人権とは平時だけのものではなく、原発事故発生という非常事態のもとでも途切れることなく切れ目なく続くこと。これが第1の基本原則である。

第2が、平時ならまだしも、原発事故発生という非常事態における人権問題を、「所有権の絶対・万能」というかつての自由国家時代の原理で形式的に解決することはとうてい出来ず、「新しい酒は新しい革袋に盛る」必要があること。これが第2の基本原則である。

第3が、その「新しい革袋」とは、原発事故発生の非常事態の複雑な状況と正面から向き合って、生存の危機に瀕した被害者・避難民の人権をどうやったら切れ目なく十分に守れるか、という問題を、わが憲法が採用している社会国家的な公共の福祉という観点から解決すること。

それが被害者・避難民である控訴人の窮乏をもたらさないように、控訴人が置かれた困難な状況を十分に斟酌した「人権の実質的公平な保障」を確保すること。これが第3の基本原則である。

3、原判決の対応ぶり

 では、これに対し原判決の対応はどうだったか。

原判決を読むと、控訴人が置かれた困難な状況を踏まえて控訴人の人権保障を確保しようという姿勢も配慮も全く、何一つなく、あたかもひとたび原発事故が発生すると、原発事故の被害者・避難民である控訴人には人権は消滅し、国家の命令に隷従する旧憲法時代の臣民になったかのようである。

そして、原判決は控訴人の立退きを単純に「所有権の絶対・万能」という原理で形式的に解決することを何ら怪しまず、あたかも平時の不法占拠者のごとく扱うという態度を鮮明にした。

従って、原判決には、被害者・避難民である控訴人の窮乏をもたらさないように「人権の実質的公平な保障」を確保しようという弱者保護の姿勢はカケラもない。あるのは、「強きを助け、弱きをくじく」という見事なまでの強者保護の姿勢である。

4、一審の審理の中身

 原判決の福島地裁のこの態度は判決の時ばかりではなく、審理においても、第1回から強行打切りした結審までの間、首尾一貫している。

他方、控訴人は、今述べた基本原則に沿って次の主張をした。

①.控訴人には、原発事故発生という非常事態のもとでも途切れることなく切れ目なく人権が保障されていること、その第1が、国際人権法が保障する「国内避難民の居住権」である。

②.他方、もし福島県が、国の所有権を理由にして原発事故の被害者・避難民である控訴人たちに建物明渡しを求めるのであれば、今日の社会国家のもとにおいてはそれが正当化される必要があり、その正当化のためには、国および福島県は被害者・避難民が生活再建を果たし、仮設住宅からの立退きが実行できるだけの体制が整うように就労支援をはじめとする生活再建策を掲げ、実行する必要があった。
しかし、福島県は、帰還者への手厚い就労支援・生活再建策とは裏腹に、帰還を望まない控訴人に対しそのような就労支援も生活再建策も何一つ全く提供しなかった。

③.仮設住宅無償提供の打切りを決定した2015年6月の福島県知事決定が違法ではなく、正当化されるためには、いわゆる「判断過程審査」の手法により、これがいかなる判断過程を経て決定されたのかを具体的に明らかにして、その「判断過程」の各局面において看過し難い過誤があったか否かを解明する必要があった。
しかし、福島県は、一審で控訴人のこの主張に対し反論はおろか認否すらしなかった。

5、一審の控訴人主張に対する原判決の対応ぶり

控訴人のこれらの主張に対し、原判決は、

①.国際人権法が保障する「国内避難民の居住権」について、国際法の直接適用ばかりか間接適用までも認められないとして、「国内避難民の居住権」の適用を否定した。しかし、国際法の間接適用とは何かという理解すら覚束ないまま、エイヤアと間接適用まで否定するとは世界の笑い者になるような誤判である。

5月末に出た国連特別報告者ダマリー氏の公式報告書でも本裁判が今や世界中から注目されており、国際法の間接適用に関する速やかな誤判の是正が望まれる。

②.国際法の直接適用についても、これを否定した塩見事件最高裁判決という、国際社会では時代遅れの紋切り型のロジックをそっくり踏襲する一方、控訴人が提出した、最新の知見に基づく申青学教授の見解に対してはこれを完全に無視するという独善的な態度に出た。

これもまた、世界の笑い者になるような話であり、そうなる前に速やかな是正が望まれる。

③.福島県の建物明渡しの正当化理由になる「被害者・避難民の生活再建に向け、国及び県の生活再建策」については、全く、何一つ言及せず、正当化の理由なぞ不要であるというあからさまな弱肉強食の立場を鮮明にした。

④.福島県知事決定の「判断過程審査」の手法による裁量権の逸脱・濫用の判断についても、控訴人が主張したような具体的な吟味は何一つ行わず、単に「前記(1)で説示した諸事情を勘案すると、原告知事に裁量の逸脱濫用があるとはいえない。」と判断した。

これはとりもなおさず、「判断過程審査」の手法による裁量権の逸脱・濫用の判断すら不要であるというものであり、これ以上、強者の行政に追随し、弱者の被害者・避難民をくじく残忍酷薄な判断はない。

ダマリー氏が公式報告書で警鐘を鳴らさずにおれないのは当然である。

6、福島県の原告適格

 本裁判の最大の謎は、立退きを求める原告が福島県だという事である。建物の持ち主でもなく、また建物の提供者でもない者が、しかも、よりによって本来、県民に寄り添い、県民を守る立場にある福島県がなぜ、いきなりしゃしゃり出てきて、原発事故の被害者・避難民に明渡せと提訴するというのは一体どういうことなんだ?と。

そのなりふり構わない提訴のやり方は人道的に不当であるばかりか、訴訟手続法上も違法と言わざるを得ない。
これに対し、福島県が主張する「債権者代位権の転用」はもともと一般財産保全の制度を例外的に拡張するもので、おのずとその適用の要件は厳格でなければならない。

しかるに、本件では
第1に「自己の債権を保全するため」という要件が欠けている。本件の使用許可により福島県が国に対して有する債権とは「控訴人を建物に住まわせること」であるが、控訴人が本件建物に入居中の本件ではこの債権は既に実現しており、もはやその保全の必要もないからである。

第2に、福島県はこれまで、建物について国との使用関係を「賃貸借契約」と主張したことは一度もない。なぜなら国有財産有償貸付契約を締結していないからである。従って、「賃貸借契約」でない本件の使用関係に、例外的措置である「債権者代位権の転用」を認めることは許されない。

7、法の欠缺

 控訴人が本裁判で法の欠缺という問題をやかましく言うのには次の理由に基づく。

第1に、これまで日本の法律家の多くは法律が想定していない事実が発生してもわざわざ「法の欠缺」と考えないでも、適切にその穴埋めさえすれば足りると考えてきたが、しかし本件はそうはいかない。

過去に前例のない過酷事故の福島原発事故により発生した事態は、過去に前例のない全面的な「法の欠缺」である。その結果、この全面的な「法の欠缺」の事態を正しく認識しないまま、漫然とその穴埋めをするようでは、被害者・避難民である控訴人の窮乏をもたらさないように、控訴人が置かれた困難な状況を十分に斟酌した「人権の実質的公平な保障」を確保することは到底不可能だからである。

第2に、これまで法律家は、法の欠缺問題を法の解釈技術を使って対応してきたが、これは本来正しくない。

法が欠けていて真空状態である以上、それについて解釈することは不可能だからである。

法の欠缺に正しく対応するためには、欠缺部分を補充するという補充作業が不可欠である。この補充のために、本件では法律の上位規範として国際人権法が登場する。国際人権法は全面的な「法の欠缺」状態にある本裁判にとって避けて通れない上位規範である。

8、生活保護は立退きを余儀なくされた避難者のセーフティネットになり得るか 

その答えはノーである。それは日本の生活保護の実態がそれを許さないからである。

その実態については控訴理由書の26頁以下に詳述した通りである。
原判決はここに示された日本の現実を何一つ踏まえない空疎で観念的な言辞にすぎず、立法事実の検証の必要性を説いた薬局距離制限事件最高裁判決から逸脱することも甚だしい。

 さらに、原判決はここで《その他の社会保障制度によっても補完しうるもの》と判示するが、ではいったい他にどのような社会保障制度があるのか何も説明しない。

同様に、《本件各建物を明け渡すことにより、被告らは、福島県に帰還する以外にも、社会通念上選択可能な複数の方策が存在するといえる》と判示するが、ではいったいいかなる「社会通念上選択可能な複数の方策」が現実に存在するのか、これも何も説明しない。

これらは全て控訴人の主張を退けるために新たに持ち出された判断である。にもかかわらず、その証拠はおろか具体的な説明すら何一つしないというのは「理由不備」も甚だしい。

 以上の点だけでも、原判決は破棄されるべきである。

以 上

【第144話】一昨日、避難者追出し裁判の総決算の書面(上告理由書等)を作成直後のつぶやき(24.4.21)

 以下は、避難者追出し裁判の 上告理由書 等を作成した直後のつぶやき。  ******************  今回の書面の根底にある考えを一言で言うと‥‥ 物理学者のアーネスト・スターングラスは 「 放射能は見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です 」 と言った。これは...