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2023年11月12日日曜日

【第126話】第125話の続き「子ども脱被ばく裁判のもう1つの意義」(2023.11.12)

昨日の脱被ばく実現ネット主催の第19回目新宿デモは来月18日に、仙台高裁で判決が出る「子ども脱被ばく裁判」を応援するためのもの。


そのデモ前スピーチのラストに、弁護団の一員として「子ども脱被ばく裁判」の振り返りと国際人権法が令和の黒船であることについて喋った。

この話は、2012年にジュネーブ国連へ、福島の救済を訴えに行った「ここ一番」という時にもまだ話すことが出来なかったもので、2012年10月15日のデモ以来、今までのデモの中で一番喋りたかった内容だった。
今の心境をズカッと言えば、時計をもう一度2011年に巻き戻して、自分たちの主張をすべて国際人権法の正義の観点から再吟味して再主張したい。その時、日本の法体系(の解釈)はがらりと塗り替えられると確信するからだ。
今、初めて自分が法律家になった理由が分かったような気がする。昨日のスピーチが新生法律家の第1歩。

同時に、もし、国際人権法の金字塔であるチェルノブイリ法が福島原発事故のあと速やかに制定されていれば、ふくしま集団疎開裁判も、子ども脱被ばく裁判も必要なかった。みんなこの法律で救済されたから。
その意味で、ふくしま集団疎開裁判と子ども脱被ばく裁判はチェルノブイリ法日本版が日本にないことがいかに被災者の人権を踏みにじるかを他に例がないくらい明るみにしたものだった。
だから、この2つの裁判をおいて、チェルノブイリ法日本版の必要性をネガティブな面から、これ以上雄弁に明るみにした事例はない。だから、この2つの裁判を経験した者が、もし諦めることをしないならば、その人に残されている次のアクションは市民立法「チェルノブイリ法日本版」に向うほかない。

【第125話】2023.11.11新宿デモのスピーチ「国際人権法が311後の日本社会を変える」


【第125話】2023.11.11新宿デモのスピーチ「国際人権法が311後の日本社会を変える」(2023.11.11)

2023年11月11日の第19回目の脱被ばく実現ネットの新宿デモは来月12月18日に控訴審判決が出る子ども脱被ばく裁判を支援するためのものだった。 以下は、そのデモ前スピーチのラストに喋った原稿に一部加筆したもの。ですます調をだである調に変更してある。

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今日、私が話したいことはマスコミの報道しないテーマ「国際人権法が311後の日本社会を変える」ことです。

1、311福島原発事故で、日本政府は敗戦を迎えました。なぜなら、それまで日本政府は日本ではチェルノブイリ事故のような原発事故は起きないと考え、いわば原発事故に勝てると公言していた。しかし、311で勝てなかったことが判明した。その意味で、これは敗戦です。その結果、この敗戦で、当然、敗戦(原発事故)の責任が問われることになるはずだった。しかし、311直後の日本政府の唯一最大の目標は、国体護持(自己保身)、すなわちこの敗戦(原発事故)の戦争責任を回避し、不問に付すことだった。「原発事故は起きない」と豪語していた311前の振舞いを猛省するのではなく、この振舞いに一点も言及することなく、「原発事故は起きたけれど、起きてもたいしたことはない。健康被害も無視してもいいくらい問題ない。だから、311前の振舞いも別に問題なかったのだ」と原発事故で迷惑をかけた人々に対し何らの責任を取らない、この無責任体制=全面的な開き直りの態度に出た。
この態度が311後の日本政府の根本的な姿勢であり、そこに根本的な誤りがあった。
そして、これが根本である以上、この姿勢は各論の個別の問題でも貫徹されざるを得ない。
そのひとつが、避難者追出し裁判でも、無理やり避難者を仮設住宅から追出し、彼らの存在を消し去る必要があり、
また、小児甲状腺がん患者に対し、無理やり、被ばくとの因果関係を否定して、健康被害の実相にフタをする必要があった。
これらの異常な事態はすべて、根本の病巣である「福島ファシズムの支配と服従の構造」から派生する個別の吹き出物、おできのようなものだった。

 この根幹の問題である福島ファシズムの違法性を真正面から問うたのが子ども脱被ばく裁判だった。こんな裁判はほかにはなかった。


2、今週月曜日に、最高裁に1通の書面を提出した。それは福島が起こした避難者を仮設住宅から追出す裁判で、仙台高裁の裁判官の訴訟指揮があまりにひどいので、裁判官を辞めさせてくれと忌避申立した事件の書面「特別抗告申立理由書」(全文は
ー>こちら)だった。

私はこれを書いて、これがもし将棋の世界だったら、藤井八冠のように完全に詰んだと確信した。その理由はつい3週間前、先月25日に出た最高裁大法廷の決定を読んだからだ(全文はー>こちら

この最高裁決定とは何か。それは令和の黒船だ。これで日本が引っくり返るからだ。この最高裁の決定は、性同一性の不一致で苦しんでいる人たちの問題を「これは天災、自然災害ではない、人間がもたらした人災だ」ととらえ、その人災を国際人権法の正義の眼から見て許されないと判断したものだ。

だとしたら、これは福島原発事故と同じではないか。福島原発事故で苦しんでいる人たちの問題を「これは単なる天災、自然災害ではない、人間がもたらした人災だ」ととらえ、日本政府や福島県の政策を国際人権法の正義の眼から見て裁く必要がある。

それを真正面から問うた裁判が問うたのが来月判決のある子ども脱被ばく裁判の控訴審だ。


3、もともと法律には「下位の法令は上位の法令に従い、これに適合する必要がある」という掟がある()。例えば、交通規制の法律で「車は左側通行」と決めたら、その下位の法令は全てこれに従って定められる。それが守られなかったら法体系は秩序が保たれず、機能しない。当然の掟だ。

この掟のことを序列論あるいは上位規範(国際人権法)適合解釈と言う。

先月25日に出た最高裁大法廷の決定もこの当然の掟に従ったまでのことだ。ただし、今回、法律の上位の法令として「国際人権法」があることを正面から認めた。日本で国際人権法が法律の上位の法令であるなんて今さら言うまでもない。その当たり前のことを、今やっと初めて認めた。

 重要なことは、最高裁がこの大法廷決定で使ってしまったカード、

日本の法令は国際人権法に適合するように解釈しなければならない

という原理が性同一性の法令と事件だけにとどまらないということだ。法規範は普遍的な性格を持つ。あなろしや、ここが法律の恐ろしいところで、この上位規範(国際人権法)適合解釈という原理は、それ以外の法令にも、またそれ以外の事件にも適用される。その結果、どういうことになるか。

第1に、この原理により、日本のあらゆる法令を国際人権法の観点から再解釈されることになる。これを本気で検討したらどういうことになるか。それまで鎖国状態の中にあった日本の法令は、幕末の黒船到来以来の「文明開化」に負けない「国際人権法化」にさらされ、すっかり塗り替えられるだろう。

第2に、この原理は福島原発事故関連の全ての裁判に適用される。これを本気で検討したらどういうことになるか。その時、福島原発事故関連の全ての裁判のこれまでの判決はみんなひっくり返る可能性がある。そして、これから出る判決もこの原理に従えば必ず勝てる。


4、だから、この最高裁決定は、311以来、日本を覆っている福島ファシズムを打破する令和の黒船だ。311直後に「ピンチはチャンス」と言った人物がいたが、この言葉は今日のこの日のためにこそある。最高裁決定という黒船の到来を合図に、最高裁もついに認めた世界の良識=国際人権法を使って、私たちの社会を福島ファシズムから解放する最大のチャンスにしようではありませんか。今日のデモはそのための最初の一歩になるものと信じて疑いません。ともに頑張りしょう。

 

2023年11月8日水曜日

【第123話】「裁判官忌避のすすめ(追記)」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行(2023.11.8)

これは、半世紀かかってようやく法律家になれたのではないかと実感した、新老年による法律家体験について、以下の3つの感想の3番目。
①.【第121話「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定
②.【第122話「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」
③.【第123話「裁判官忌避のすすめ」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行

〔追記〕憲法15条2項「全体の奉仕者」論と憲法14条1項の「法の下の平等」原則の再発見(2023.11.9)
もし裁判官が不公正、偏見に満ちた訴訟指揮をし、この裁判のもとでは公正な訴訟手続きが期待できないと判断される場合、もともと裁判官は憲法15条2項により、「一部の市民の奉仕者」ではなく、「市民全員の奉仕者」であることが義務づけられているのであり、裁判のどちらの当事者にも奉仕すべき立場にあるのだ。従って、このどちらの当事者にも奉仕すべき義務を果たさず、一方当事者だけに肩入れし、他方の当事者にとって不公正、差別的な訴訟指揮を行なうことは、当事者間の「法の下の平等」原則に違反する行為であり、なおかつ差別された当事者の「公平な裁判を受ける権利」を侵害する行為であり、そのような訴訟指揮をおこなった裁判官は公務員失格である。従って、憲法15条1項に基づき、不公正な扱いを受けた当事者からの「公務員の罷免権」の発動として、民亊訴訟法24条1項の裁判官の忌避の申立ができると言うべきである。

すなわち、「全体の奉仕者論」とは本来、市民の人権(労働基本権)を制限するためにあるのではなく、こうした市民の人権(裁判を受ける権利)を侵害する公務員の職務上の責任(罷免、忌避)を問うためにある。

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第122話】の裁判官の忌避申立の特別抗告の理由書の続き。

私自身、これまで、避難者追出し裁判で福島地裁の裁判官の忌避申立をするまで、1回も裁判官忌避申立をしたことがなかった。 
そして、これまでの裁判官の忌避申立というのは、自分の思うように審理が進まない当事者の「不満のはけ口」として使われているのではないかと、全く何の根拠もないまま、ただ漠然とそう感じて来た。

しかし、今回、避難者追出し裁判に参加してみて、福島地裁の避難者追出し裁判の担当裁判官に関する限り、この裁判官はひょっとして原告福島県の代理人ではないかと錯覚しないではおれないほど不公正、偏見に満ちた、初めから「私は福島県を勝たせるためにこの法廷にいる」という態度を露にした迫害裁判官だった。それで、これはさすがに退場してもらうしかないと思わざるを得ず、最後に伝家の宝刀として忌避申立を抜いた。その経験を通じ、この時の忌避申立は、決して「自分の思うように審理が進まない当事者の不満のはけ口」ではなく、もっぱら、憲法が保障した当事者の裁判を受ける権利を全く保障しようとしない裁判官に対し、虐げられた当事者の抗議として行なわれたものだった。

この自らの体験を通じ、忌避申立は、憲法が保障する「裁判を受ける権利」の人権侵害に対する我々市民に認められた抵抗権の行使なんだということを実感した時、裁判官の忌避は民亊訴訟法の瑣末の論点どころか、最も中心的な論点なのではないかと、これまで考えたこともなかったまったく新しい目で民亊訴訟法を見直すようになった。

以下は、その新しい目で眺めて見えてきた「裁判官忌避の発見」の報告(弁護団MLに投稿したもの)。
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今回の書面の作成作業をする中で、2つのことを学びました。
1つは、「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」

もう1つは、「裁判官忌避の勧め」→公務員の罷免権は憲法15条で宣言した市民に固有の権利であり、司法の正常化は我々市民が、国民主権を具体化するために市民に保障した「公務員の罷免権」という固有の権利を、鞘から抜いて行使する時に可能になる。
‥‥
2番目の公務員の罷免権の再構成については、この問題の重要性を311以来、ずっと直観的に感じていました。
311の原発事故以来、福島県の学校だけ安全基準を20倍に引き上げるとか、「市民は国の指示に従う義務がある」と我々市民はまるで旧憲法下の「天皇の臣民」であるかのような山下俊一発言が公然とまかり通るような事態、つまり民主主義の著しい劣化、独裁制の躍進ぶりを目の当たりにして、これにどう立ち向かったらよいのか、そのキーワードは「代表民主主義の 機能不全に対し、直接民主主義の行使」にあることは分かっていても、その具体的なアクションは何かとなると、そこは暗中模索状態でした。

今回の理由書の作成を準備していて、当事者に認められた裁判官の忌避申立権は、実はものすごい重要なことではないかと見直すようになりました。
第1に、裁判官の忌避もまた、その当該事件限りとはいえ、裁判官を一方的に職を解くもので、罷免の性格を有するものです。
他方で、憲法15条1項は、市民の権利として「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と明記しました。その理由が、旧憲法が天皇主権の原理から、公務員は「天皇の使用人」であったことを(マッカーサー草案が)全面的に否定し、現憲法は国民主権の原理に立ち、そこから公務員が「国民の使用人」であることを宣言するためだったと知ったとき、なるほど!と合点し、そうだとしたら、メチャクチャな訴訟指揮とメチャクチャな判決を平然と書くような反動的な裁判官に対し、私たち市民は単に、法廷の外で抗議の声を上げるだけではなく、そんな裁判官を首にする=罷免(忌避)を求めるというアクションを起こすことが出来る、このアクションが私たちが主権者である国民主権に基づくものとして、反動裁判官に対する抵抗行動としてものすごく重要な意味があるんだと気づかされました。

つまり、反動的裁判官のメチャクチャな訴訟指揮に対し、私たちは主権者として、憲法に基づいて、裁判官の忌避申立をするというのは、劣化し機能不全に陥った今日の民主主義を正常化するための、極めて重要な貴重なアクションだということを気づかされたのです。

ちなみに、この公務員の罷免権(リコール)という直接民主主義を現実に実行してみせたのが150年前のパリ・コミューンです。このパリ・コミューンの経験はマルクス、レーニンが高く評価したにもかかわらず、その後の社会運動の歴史の中で正当に取り上げられてきませんでした(その結果、社会主義国家に役人が権力を牛耳る独裁国家が誕生した)。
ところが、どうしたわけか、この歴史的体験の重要性を自覚していたGHQ左派がマッカーサー草案の中に、この憲法15条1項を書き込んだらしい。もしそうだとしたら、それはとても意義深いことです。宮沢や芦部などの日本の憲法学者が憲法15条1項の歴史的意義を理解せず、殆ど空文化されてきたのは猛省すべきだと思いました。

つまり、いま、憲法15条1項の公務員の罷免権もパリ・コミューンを含めた国際人権法の立場から再構成されるべきだ、と。

【第122話】「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」(2023.11.8)

これは、半世紀かかってようやく法律家になれたのではないかと実感した、新老年による法律家体験について、以下の3つの感想の2番目。
①.【第121話「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定
②.【第122話「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」
③.【第123話「裁判官忌避のすすめ」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行

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一昨日の11月6日、避難者追出し裁判の仙台高裁の裁判官の忌避申立(その詳細はー>第116話)の特別抗告事件で、最高裁宛に、特別抗告の理由書を提出した。
ー>特別抗告の理由書


本年9月末に、この仙台高裁の裁判官の忌避を仙台高裁に申立したが、これに対し、10月中旬、子ども脱被ばく裁判の係属する仙台高裁の部(石栗裁判長)で、理由を一言も示さずに「我々はお前の主張する法解釈は採らない」と結論だけの三行半の却下決定が出た(その全文はー>こちら)。

この却下決定の傲慢不遜な書きっぷりに対し、感情的な反論ならいくらでも書けたが、しかし純論理的になると、どう反論していったらよいか(法解釈の相対性、法的価値判断の相対性という法哲学の根本問題のゆえ)、見通しが持てず、正直なところ、だるまさん(手も足も出ない)状態に追い込まれた。

それが一変したのは、先月10月25日に出た最高裁の「性別変更の手術要件は違憲」とする大法廷の決定だった( ー>その全文)。これを読んだ瞬間思った、とうとう最高裁は地雷を踏んだ、そしてルビコンの河をわたった、これは黒船到来に匹敵する歴史的大事件だ、と。


この最高裁決定を導きの糸にして、いまだかつてないほど最高裁に媚びへつらう書面を作成した。それが2日前の特別抗告の理由書
その際、これまで突き詰めることをせず、ずっと曖昧にしてきた、法解釈の相対性、法的価値判断の相対性という法哲学の根本問題についても、自分なりの決着をつけた結論を示し、これでどうだと迫った。 これを書き上げた時、自分が初めて法律家になれたような気がした(登録してから半世紀かかったが)。

以下は、以上について弁護団MLに書いた報告。
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今回の書面の作成作業をする中で、2つのことを学びました。
1つは、「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」

もう1つは‥‥

先月末に、「性別変更の手術要件」に関する特別抗告事件で、人気不絶頂の最高裁はみずから数年前の合憲判断を覆して、大法廷で現行の法律を違憲と判断しましたが、その決定の判断枠組みが、今まで宣言したことがなかった、国際人権法という上位規範に適合するように法律を再解釈することでした。この方法こそ、私たちが、避難者追出し裁判で初めからずっと主張し続けてきた上位規範(国際人権法)に適合する解釈によって、災害救助法その他を再構成しろ、という方法そのものです。
だから、最高裁もとうとう、この世界の普遍的な方法を採用せざるを得ないことを大法廷で全員一致で認めた。つまり、追出し裁判の我々の主張の正しさを認めてしまった。

最高裁はルビコンの河を渡った。もし、今回の性別変更に関する法律に限らず、およそ日本のあらゆる法律を国際人権法という上位規範に適合するように再構成したら、そのとき、日本の法体系はそれまでの様相を一変し、全てを塗り替えることになるだろう、つまり世界に通用する普遍法という性格に一変せざるを得なくなる。この意味で、最高裁は地雷を踏んだ、そうとは知らずに。

つまり、国際人権法は日本の法体系を一変させる、そのさきがけを先月末の大法廷で宣言した。これは幕末の黒船の到来に匹敵する。

それは令和の「見えない黒船(=国際人権法)」の到来です。

【第121話】「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定(23.11.8)

これは、半世紀かかってようやく法律家になれたのではないかと実感した、新老年による法律家体験について、以下の3つの感想の1番目。
①.【第121話「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定
②.【第122話「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」
③.【第123話「裁判官忌避のすすめ」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行

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先月の10月中旬、北茨城市の実家に滞在中、日本版の会に参加して以来、最大の気づきに遭遇した。それが、【第120話】 の
日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」  
 
その気づきの最大の論拠は次の点にあった。
もし311後の日本の法体系が、原発事故の救済に関して、全面的な法のノールールいわば空洞、穴になっている(=法律用語で「法の欠缺」)ことを認めるならば、そのノールールを穴埋めする必要がある(=法律用語で「欠缺の補充」)。問題はこの「欠缺の補充」をどうやっているか。
これについて私は次の立場が正しいと考えた。

(5)、欠缺の補充を上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要がある。
 

もしこの基本原理を承認するのあれば、欠缺の補充の結果、国内避難民の指導原則等に示された被災者の人権保障によって日本の法体系は全面的に補充されることになる。
そして、この全面的に補充された法規範、これをトータルに示したものがほかならぬ日本版そのものである。
だから、日本版は、以上の欠缺の補充によって、既に日本の法体系の中に埋め込まれている。あとは、これを私たちが掘り出すだけ。つまり、確認するだけだ。

以上のアイデアに辿り着いたとき、このアイデアが通用するか否かは上の(5)の、日本の法律が上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように解釈(厳密には補充)されるか否かにかかっていた。

そしたら、それから10日もしない10月25日に、最高裁が大法廷で、初めて、違憲か否かが争われた日本の法律(性同一性障害特例法)を判断する際に、上位規範である国際人権法に基づいて、これらに適合するように解釈すべしという「上位規範適合解釈」を指導原理として使うことを表明した。→判決文全文 BBCニュース

ずっと人気不絶頂の最高裁は人気回復の起死回生の一打として、社会的な影響が比較的少ないと考えて性同一性障害の問題に限定して、人権の最後の砦としての裁判所の姿を示そうとしたのかもしれない。しかし、その目論みはもろくも崩れた。最高裁の判断はひとり性同一性障害の問題にとどまらず、すべての人権侵害問題の判断を塗り替える画期的な判断枠組みを示してしまったから。ここが法律の恐ろしいところ、どんな小さいな事件でもそこに持ち出された法律判断は普遍性を帯びる、それが法規範の本質。

地雷を踏み、ルビコンの河を渡った最高裁は、早晩、己の過ちに気がつき、いつもの弁解、すなわち偽善者的態度(「上位規範適合解釈」は性同一性障害の問題に限定され、それ以外の問題には適用されないと使い分ける、いわゆるダブルスタンダート〔二重の基準〕)でこの修復を図るだろう。だから、この目論見を許すかどうかは、ひとえに我々市民の手にかかっている。最高裁が踏んでしまった地雷の偉大な意味を我々市民が共有し、これは全ての人権侵害に共通する考え方であるという声をあげ、これを世論にすることができたなら、勝利は市民のもの。

それが「世界の良識=国際人権法が日本を変える」という日本史の大事件です。
その大事件の中心のひとつが、国際人権法を具体化したチェルノブイリ法日本版の市民立法です。

【第144話】一昨日、避難者追出し裁判の総決算の書面(上告理由書等)を作成直後のつぶやき(24.4.21)

 以下は、避難者追出し裁判の 上告理由書 等を作成した直後のつぶやき。  ******************  今回の書面の根底にある考えを一言で言うと‥‥ 物理学者のアーネスト・スターングラスは 「 放射能は見えない、臭わない、味もしない、理想的な毒です 」 と言った。これは...