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2023年11月8日水曜日

【第123話】「裁判官忌避のすすめ(追記)」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行(2023.11.8)

これは、半世紀かかってようやく法律家になれたのではないかと実感した、新老年による法律家体験について、以下の3つの感想の3番目。
①.【第121話「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定
②.【第122話「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」
③.【第123話「裁判官忌避のすすめ」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行

〔追記〕憲法15条2項「全体の奉仕者」論と憲法14条1項の「法の下の平等」原則の再発見(2023.11.9)
もし裁判官が不公正、偏見に満ちた訴訟指揮をし、この裁判のもとでは公正な訴訟手続きが期待できないと判断される場合、もともと裁判官は憲法15条2項により、「一部の市民の奉仕者」ではなく、「市民全員の奉仕者」であることが義務づけられているのであり、裁判のどちらの当事者にも奉仕すべき立場にあるのだ。従って、このどちらの当事者にも奉仕すべき義務を果たさず、一方当事者だけに肩入れし、他方の当事者にとって不公正、差別的な訴訟指揮を行なうことは、当事者間の「法の下の平等」原則に違反する行為であり、なおかつ差別された当事者の「公平な裁判を受ける権利」を侵害する行為であり、そのような訴訟指揮をおこなった裁判官は公務員失格である。従って、憲法15条1項に基づき、不公正な扱いを受けた当事者からの「公務員の罷免権」の発動として、民亊訴訟法24条1項の裁判官の忌避の申立ができると言うべきである。

すなわち、「全体の奉仕者論」とは本来、市民の人権(労働基本権)を制限するためにあるのではなく、こうした市民の人権(裁判を受ける権利)を侵害する公務員の職務上の責任(罷免、忌避)を問うためにある。

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第122話】の裁判官の忌避申立の特別抗告の理由書の続き。

私自身、これまで、避難者追出し裁判で福島地裁の裁判官の忌避申立をするまで、1回も裁判官忌避申立をしたことがなかった。 
そして、これまでの裁判官の忌避申立というのは、自分の思うように審理が進まない当事者の「不満のはけ口」として使われているのではないかと、全く何の根拠もないまま、ただ漠然とそう感じて来た。

しかし、今回、避難者追出し裁判に参加してみて、福島地裁の避難者追出し裁判の担当裁判官に関する限り、この裁判官はひょっとして原告福島県の代理人ではないかと錯覚しないではおれないほど不公正、偏見に満ちた、初めから「私は福島県を勝たせるためにこの法廷にいる」という態度を露にした迫害裁判官だった。それで、これはさすがに退場してもらうしかないと思わざるを得ず、最後に伝家の宝刀として忌避申立を抜いた。その経験を通じ、この時の忌避申立は、決して「自分の思うように審理が進まない当事者の不満のはけ口」ではなく、もっぱら、憲法が保障した当事者の裁判を受ける権利を全く保障しようとしない裁判官に対し、虐げられた当事者の抗議として行なわれたものだった。

この自らの体験を通じ、忌避申立は、憲法が保障する「裁判を受ける権利」の人権侵害に対する我々市民に認められた抵抗権の行使なんだということを実感した時、裁判官の忌避は民亊訴訟法の瑣末の論点どころか、最も中心的な論点なのではないかと、これまで考えたこともなかったまったく新しい目で民亊訴訟法を見直すようになった。

以下は、その新しい目で眺めて見えてきた「裁判官忌避の発見」の報告(弁護団MLに投稿したもの)。
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今回の書面の作成作業をする中で、2つのことを学びました。
1つは、「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」

もう1つは、「裁判官忌避の勧め」→公務員の罷免権は憲法15条で宣言した市民に固有の権利であり、司法の正常化は我々市民が、国民主権を具体化するために市民に保障した「公務員の罷免権」という固有の権利を、鞘から抜いて行使する時に可能になる。
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2番目の公務員の罷免権の再構成については、この問題の重要性を311以来、ずっと直観的に感じていました。
311の原発事故以来、福島県の学校だけ安全基準を20倍に引き上げるとか、「市民は国の指示に従う義務がある」と我々市民はまるで旧憲法下の「天皇の臣民」であるかのような山下俊一発言が公然とまかり通るような事態、つまり民主主義の著しい劣化、独裁制の躍進ぶりを目の当たりにして、これにどう立ち向かったらよいのか、そのキーワードは「代表民主主義の 機能不全に対し、直接民主主義の行使」にあることは分かっていても、その具体的なアクションは何かとなると、そこは暗中模索状態でした。

今回の理由書の作成を準備していて、当事者に認められた裁判官の忌避申立権は、実はものすごい重要なことではないかと見直すようになりました。
第1に、裁判官の忌避もまた、その当該事件限りとはいえ、裁判官を一方的に職を解くもので、罷免の性格を有するものです。
他方で、憲法15条1項は、市民の権利として「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と明記しました。その理由が、旧憲法が天皇主権の原理から、公務員は「天皇の使用人」であったことを(マッカーサー草案が)全面的に否定し、現憲法は国民主権の原理に立ち、そこから公務員が「国民の使用人」であることを宣言するためだったと知ったとき、なるほど!と合点し、そうだとしたら、メチャクチャな訴訟指揮とメチャクチャな判決を平然と書くような反動的な裁判官に対し、私たち市民は単に、法廷の外で抗議の声を上げるだけではなく、そんな裁判官を首にする=罷免(忌避)を求めるというアクションを起こすことが出来る、このアクションが私たちが主権者である国民主権に基づくものとして、反動裁判官に対する抵抗行動としてものすごく重要な意味があるんだと気づかされました。

つまり、反動的裁判官のメチャクチャな訴訟指揮に対し、私たちは主権者として、憲法に基づいて、裁判官の忌避申立をするというのは、劣化し機能不全に陥った今日の民主主義を正常化するための、極めて重要な貴重なアクションだということを気づかされたのです。

ちなみに、この公務員の罷免権(リコール)という直接民主主義を現実に実行してみせたのが150年前のパリ・コミューンです。このパリ・コミューンの経験はマルクス、レーニンが高く評価したにもかかわらず、その後の社会運動の歴史の中で正当に取り上げられてきませんでした(その結果、社会主義国家に役人が権力を牛耳る独裁国家が誕生した)。
ところが、どうしたわけか、この歴史的体験の重要性を自覚していたGHQ左派がマッカーサー草案の中に、この憲法15条1項を書き込んだらしい。もしそうだとしたら、それはとても意義深いことです。宮沢や芦部などの日本の憲法学者が憲法15条1項の歴史的意義を理解せず、殆ど空文化されてきたのは猛省すべきだと思いました。

つまり、いま、憲法15条1項の公務員の罷免権もパリ・コミューンを含めた国際人権法の立場から再構成されるべきだ、と。

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