これは、半世紀かかってようやく法律家になれたのではないかと実感した、新老年による法律家体験について、以下の3つの感想の1番目。
①.【第121話】「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」にお墨付きを与えた10.25最高裁大法廷決定
②.【第122話】「国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」
③.【第123話】「裁判官忌避のすすめ」←憲法15条「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」の実行
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先月の10月中旬、北茨城市の実家に滞在中、日本版の会に参加して以来、最大の気づきに遭遇した。それが、【第120話】
の
「日本版は既に制定されている。あとは、私たちがそれを確認するだけ」
その気づきの最大の論拠は次の点にあった。
もし311後の日本の法体系が、原発事故の救済に関して、全面的な法のノールールいわば空洞、穴になっている(=法律用語で「法の欠缺」)ことを認めるならば、そのノールールを穴埋めする必要がある(=法律用語で「欠缺の補充」)。問題はこの「欠缺の補充」をどうやっているか。
これについて私は次の立場が正しいと考えた。
(5)、欠缺の補充を上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように補充する必要がある。
もしこの基本原理を承認するのあれば、欠缺の補充の結果、国内避難民の指導原則等に示された被災者の人権保障によって日本の法体系は全面的に補充されることになる。
そして、この全面的に補充された法規範、これをトータルに示したものがほかならぬ日本版そのものである。
だから、日本版は、以上の欠缺の補充によって、既に日本の法体系の中に埋め込まれている。あとは、これを私たちが掘り出すだけ。つまり、確認するだけだ。
以上のアイデアに辿り着いたとき、このアイデアが通用するか否かは上の(5)の、日本の法律が上位規範である憲法及び条約とりわけ国際人権法に基づいて、これらに適合するように解釈(厳密には補充)されるか否かにかかっていた。
そしたら、それから10日もしない10月25日に、最高裁が大法廷で、初めて、違憲か否かが争われた日本の法律(性同一性障害特例法)を判断する際に、上位規範である国際人権法に基づいて、これらに適合するように解釈すべしという「上位規範適合解釈」を指導原理として使うことを表明した。→判決文全文 BBCニュース
ずっと人気不絶頂の最高裁は人気回復の起死回生の一打として、社会的な影響が比較的少ないと考えて性同一性障害の問題に限定して、人権の最後の砦としての裁判所の姿を示そうとしたのかもしれない。しかし、その目論みはもろくも崩れた。最高裁の判断はひとり性同一性障害の問題にとどまらず、すべての人権侵害問題の判断を塗り替える画期的な判断枠組みを示してしまったから。ここが法律の恐ろしいところ、どんな小さいな事件でもそこに持ち出された法律判断は普遍性を帯びる、それが法規範の本質。
地雷を踏み、ルビコンの河を渡った最高裁は、早晩、己の過ちに気がつき、いつもの弁解、すなわち偽善者的態度(「上位規範適合解釈」は性同一性障害の問題に限定され、それ以外の問題には適用されないと使い分ける、いわゆるダブルスタンダート〔二重の基準〕)でこの修復を図るだろう。だから、この目論見を許すかどうかは、ひとえに我々市民の手にかかっている。最高裁が踏んでしまった地雷の偉大な意味を我々市民が共有し、これは全ての人権侵害に共通する考え方であるという声をあげ、これを世論にすることができたなら、勝利は市民のもの。
それが「世界の良識=国際人権法が日本を変える」という日本史の大事件です。
その大事件の中心のひとつが、国際人権法を具体化したチェルノブイリ法日本版の市民立法です。
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