2024年12月19日の脱被ばく実現ネット主催の官邸前アクションに久々に参加した。
誰もが知る2012年の官邸前アクション。そこから12年間、誰にも知られず、これを今も黙々と続けている脱被ばく実現ネット。
よっぽど、バックにスゴイ支援体制が控えているんじゃないかと思うかもしれないが、そんな黒幕はいない。その証拠に、いっぺんでもここに来て実際に参加してみたら分かる。
その手作りの市民活動は一種の芸術だ。官邸周辺の殺伐とした金属の垣根が、アクション開始直前、あっという間に、横断幕、ノボリ、イラスト、布などで壁画と見違えるように装飾がほどこされる(以下)。
そして、歌が口ずさまれ、11月29日に出された子ども脱被ばく裁判の最高裁決定(その詳細は>こちら)に対する思いが、腹の底から搾り出される。これもまた手作りのアピール、お手本はどこにもない、世界にひとつしかない、インディーズのスピーチ。
アクションの間、私たちの前に立って、私たちのスピーチを最初から最後まで聞いてるのはまだ若造の警察官のお兄さん。
そのお兄さんの横に1枚のビニールが敷かれ、脱被ばく実現ネットのメンバーが持参したリュック、荷物、チラシ、ブックレットがところ狭しとギュウギュウに置かれる。この1枚のゴザが脱被ばく実現ネットの移動テント&出撃小屋だ。
このゴザを眺めていて、ふと、30年以上前に読んだ藤原新也の本に出てくる「世界一小さい食堂」のお話、インドの女性が営む、ゴザ1枚を敷いた世界一小さい食堂のことがあざやかに思い出された。あれは何という素敵な食堂だったろう。
目の前のゴザも世界一小さい市民活動の拠点、それは何という素敵な拠点だろう。
私は、この日の官邸前アクションが終わったあと、 陽が翳って北風の寒さがしみる中を、脱被ばく実現ネットのメンバーが、垣根に施された壁画を取り外し、ゴザの前に集まって、片付けをテキパキとやっている姿を前にして、不意に衝撃に襲われた。年の瀬の寒さもものともせずに、路上でゴザの上の荷物の片付けに精を出している姿に、永遠の生命のたくましさ、輝きを見たような気がしたからだ。
そして、このひたむきな姿こそ、脱被ばく実現ネットの核心なのだと分かった時、 脱被ばく実現ネットは不滅だと確信した。市民運動の永遠の姿を、原点を、ここに見たような気がして、思わずブルブル震えた。
311以来の風雪の中で、脱被ばく実現ネットは「永遠」の宝物を見つけて、育てている。
それは、次の世代が引き継ぐ価値のある「永遠」の宝物である。
それに気づいた時、よし、また一歩前に出れるぞ、そう思った。
◆後半(余談。つぶやき)
その時、これと同じ光景をずっと前に、ずっと前から見てきたのを思い出した。それは寒さの厳しい裏日本で、ゴザのようなつつましい場所で、やはり、寒さもものとせずに、テキパキと働き続ける人の姿ーーーそれは母親の姿だった。あの姿に、永遠の生命のたくましさ、輝きを放った姿に、知らない間に、自分が深く支えられて、これまで生きて来たことに今初めて気づかされた。
父と母は60年以上同じ屋根の下で暮らした。太平洋戦争でも九死に一生を得る悲惨な体験を共有してきた。にも関わらず、
父は、ずっと人権の世界の住民だった。
母は、ずっと人権のない世界の住民だった。
生来、極楽トンボの父は、終戦直前、北朝鮮で現地召集、ろくな装備もないままソ連軍と対峙。命からがら敗戦、武装解除。
と同時に一転、満州平野を昼間は草原に身を隠し、
夜間に行動する、ドブネズミのように、
ソ連軍から逃げ延びる避難民の日々に。
この体験を通じ、極楽トンボの彼は絶対永久平和主義者に変貌した。
そして、労働者であることに何一つ恥じることなく、むしろこの社会の屋台骨を支えているという誇りを胸に、薄給の中で、生涯を労働運動に身を捧げた。
しかし、母はちがった。薄給の労働者の境遇から抜け出すこと、これが至上のミッションであり、これをわが身とわが子に課し、受験勉強の勝利者になることをわが子に課した。
わが子は母親の希望通りの道を歩み、「家族ゲーム」や「こどもたちの復讐」の長男のように、優秀な成績で中学・高校に入学したが、その強制収容所のような残忍酷薄な日々に、やがて自壊、破滅していった。
‥‥これまでずっと、この経験が私の母に対する態度を決定していた。
今、私がこうして生きているのは、そして子どもと孫が生きていられるのは、あの悲惨極まる終戦時に、絶望しかなかったはずの父が諦めず逃げて逃げ延びてくれたそのお陰であると、父に対して持てる素直な感謝と畏敬の念が母にはどうしても持てなかった。
それがこの夏、異変が起きた。養老孟司の「脳化社会」論に出会ったからだ。
その結果、私の中で人間の見方が二重化した。ひとりの人間の中に「脳化社会」にすっぽり覆われた脳的、人工的な部分と、「脳化社会」の塀の外にある自然世界としての身体の部分とが共存しているという風に。
母は「脳化社会」(世間)に対しものすごい恐怖心を抱いていた。「脳化社会」の掟からはずれ、よそ者にされ、嫌われることを極度に怖れた。意気地なしの人だった。
しかし、ひとたび「脳化社会」の塀の外に出ると、天衣無縫の性格のせいか、とことん天真爛漫、無邪気な人だった、そしてエネルギッシュだった。子どもの命のためには、自分の命を投げ出すこともなんとも思わない人だった。
その自然世界の中に息づく母の姿が、昨日の脱被ばく実現ネットの官邸前アクションの最後で、一枚のゴザの前で、アクションに使った商売道具をテキパキと整理整頓しているメンバーの姿からよみがえった。
それは無言の「わが母の教え給いし歌」だった。
私は、その教えを授かった時、母と初めて出会ったような気がした。一生手放すことのない母からの最高の贈り物に出会ったような気がした。よしこれで、父と同じように、素直に感謝と畏敬の念を持てると思った。
1年半前、101歳で来世に旅立った母の遺産相続がいま済んだ。
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