1、2012年10月30日、スイス・ジュネーブ
夜明けのジュネーブ。透明に近いブルーの街中を宿泊先のホテルまで荷物を取りに戻る。今日、ジュネーブの国連人権委員会の建物で、翌31日開催の、日本政府の人権侵害状況を審査するUPR(普遍的定期的審査)に先立って実施される市民団体主催のサイドイベントで、「福島の現実を訴える」というテーマで以下のスケジュールでスピーチするためだ(>当時のブログ記事1。ブログ記事2)
井戸川・双葉町町長(逐次通訳)>動画
フェルネックス博士(英語)
ビデオレター
福島の女子中学生の作文
柳原弁護士(英語)>動画
![]() ジュネーブ市長レミー・パガーニさん(>彼が寄せてくれたメッセージ)と |
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フェルネックスさん>紹介記事 |
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事前に日本語のスピーチ原稿と英訳を準備していた。ところが、前日に現地入りしたら、ボランティアの2人の通訳者(ひとりはチューリッヒ、もうひとりはロンドンからやってきた。私は彼らを「弁慶と牛若丸」と勝手に命名した)から「これでは全く通じない」と直言。そのため、前夜に一から英訳し直す羽目に。折角、寝心地よさそうなホテルを予約したのに、我々3人はホテルのラウンジで缶詰となり、英訳が完成した頃には夜が白み始めていた。
早朝、英訳が完成すると、2人はサイドイベントの司会兼福島の少女の手紙の代読のため会場に移動。私は、双葉町町長の井戸川さんとその日午前、ジュネーブ市長の表敬訪問の予定だが、表敬訪問している余裕はなかった。イベントの最後に登壇する私は、錆び付いた頭で英訳したばかりのホカホカの英文の発声練習を直前までくり返した。
しかし、その奮闘努力の甲斐があったのか、(あとから動画を観て)本来なら徹夜でよれよれのはずの通訳の2人は素晴らしい司会と手紙の代読を行なった。私も2人のおかげで外国人に何とか意味が通じる英文でスピーチできた。
それまで国連ジュネーブ行きに半信半疑だった双葉町町長の井戸川さん(この話は私たちから彼に持ちかけて始まった)もこの日の取組みにすっかり満足し、その夜の慰労会では「私におごらせてほしい」と一同をねぎらい、大いに盛り上がった(イベントの詳細な文字起し>井戸川さんの分 それ以外の分)。
これは私にとって、世界に訴えに出た最初の体験だった。そして数日前、ジュネーブの恩人の通訳Sさんと、14年ぶりに都内の集会で再会した。
2、2012年8月24日、日本・東京財務省坂上
2012年10月のジュネーブから2ヶ月余り前、2012年8月24日の恒例の金曜アクション。私たち疎開裁判の関係者はいつもの通り、文科省前アクション、官邸前アクション、そして仕上げの財務省坂下アクションの3つをハシゴでやった。その財務省坂下アクションをやっているところに外国人の一群がやってきた。
その外国人たちに向かって一生懸命通訳している人がいた。ところが、途中からこの人自身が、私たちの話に心を奪われたように熱心に耳をそばだて始めた。それがジュネーブの通訳Sさんとの出会いだった。この瞬間から、Sさんは疎開裁判の最も熱心な支援者となった。彼がスイスに帰国したあとも、ひんぱんにメールで情報交換した。
他方、この年の夏の官邸前アクションで声を掛けて来た、ロンドンから帰国中の若者がいた。「子どもたちを放射能から守る世界ネットワーク」の設立者のひとりで、情報誌「たんがら」の編集をしていた大学院生のHさん(彼の報告>こちら)。彼は小学生のとき、イジメに遭い不登校となり国外へ避難、オーストラリア、イギリスと渡り歩いてきた若者だった。万年不登校児の私は彼と話が合い、チューリッヒのSさん、ロンドンのHさんと3人でスカイプで情報交換を続け、2人が10月末の国連ジュネーブのサイドイベントにボランティアとして全面的に協力することを約束してくれた。
ジュネーブで彼らと過ごした数日間、ホテルのラウンジで3人で朝まで英訳作業の突貫工事をやった経験も、ジュネーブの公園の水道の蛇口をひねってうまそうにグイグイ飲み干すHさんの弁慶みたいな野生児の姿も、コピー用紙を求めて、ジュネーブ国連建物内でカギのかかっていない部屋を片っ端から開けてはくまなく探し回ったHさんの三無主義(無謀、無茶、無鉄砲)の姿も、私の脳裏に強烈に焼きついている。
3、2026年10月4日、東京
2026年10月4日、東京で住まいの権利裁判の判決前集会を開いた。そこにSさんはやってきた。14年ぶりの再会。彼の姿を見るなり、いきなり14年前の10月30日のジュネーブにワープした。彼はその時と殆ど変わらない姿だった。
この集会で、私は2026年1月9日に出た避難者追出し裁判の最高裁判決の三浦意見の画期的な意義について語った。そこで次のようなことも(手短に)語った。
世の中にはこう言う人がいるーー三浦意見がたとえどんな素晴らしい意見であろうとも所詮、少数意見。負けたことには変わりないと。
その通りである。だが、人権運動はいつも少数者の声から始まる。多数意見から始まることはない。公民権運動もアラバマ州のひとりの女性(ローザ・パークス)の行動から始まった。その少数の声が迫害にめげずに「真実のつぶやきはやむことがない」を実行する中から、やがて、さらにもうひとり、ふたりと声が出現するようになり、やがてそれが次第に多くの声を形成するようになっていく、それがジグザグで進む人権運動の歴史の実相だ。その意味で、最初の一歩はいつも少数者の声で始まる。問題はその声を私たちがどう受け止め、その声をどう広げていくかにかかっている。三浦意見を生かすも殺すもそれは彼からプレゼントされた私たち市民自身の手にかかっていると(>その詳細)。
そのあと、私の脇に座ったSさんはこう言った。
311のあと、福島原発事故について日本政府の人権侵害を指摘する国はいなかった。そして、私たちが2012年10月のUPR(普遍的定期的審査)の前にサイドイベントで日本政府の人権侵害を訴えた。そしたら、たった一カ国だったけれどオーストリアから「福島の住民を放射能の危険から守るためのすべての方策をとる」よう求める勧告が出された(当時の首相は私たち疎開裁判の会に応援メッセージまで寄せてくれた>こちら)。そしたら、その後UPRが開催されるたびに、福島原発事故について日本政府に人権侵害のないように求める勧告の数がジワジワと、次は4カ国、その次は16カ国と増えていった。最初の一歩はいつも少数者の声で始まる。その最初の一歩のオーストリアの勧告を引き出した私たちのサイドイベントの試みは意味があった。
その言葉を聞き、再び、14年前、2012年10月のUPRのあと、地下鉄の電車の中でSさんと話したことが思い出された。この人はジグザグの歴史の歯車を動かすすべを知っている貴重な人だと思った。
左向こうが弁慶、その手前が牛若丸。
UPRの翌日、フェルネックスさんたちと、WHOの前で「ヒポクラテスの見張番」を続ける市民団体「WHOの独立のために」の人たちを訪問。
【世界の声】日本からの訪問者、ジュネーブの人権理事会で放射線障害を証言(「WHOの独立のために」サイト >原文)より。


フェルネックスさん>




















