これは私のつぶやき。
今日、亀戸中央公園でやった市民のつどい「2026団結まつり」で、原発事故避難者の住宅追出し裁判の最近の2つの判決について喋って欲しいと言われ、喋った。
会場に行ってみて、311から15年経過して、311直後とは勿論のこと、2010年代の雰囲気とも違う、一瞬、別世界に入ったような錯覚に襲われた。これだけ異次元の世界で果して自分の話が通じるのか、正直、さっぱり自信が持てなくなった。
ただし、その1週間前、郡山市で小出裕章さんをお招きして、チェルノブイリ法日本版の対話集会をやったので、その体験からずっと「対話」についてあれこれ考えていた。この時は、以下のことを意識した。
この間、避難者住宅追出し裁判と取り組んできて、ずっと「裁判官との対話」に励んできた。しかし、この日のスピーチを考えていて、この間の「裁判官との対話」に比べ、「市民との対話」については殆ど何もやってこないにひとしい無為無策だったことを思い知らされた。それで、自省の末、まず、この間励んできた「裁判官との対話」の意味を、市民にも分かるように語ろうと思った。しかし、そのためには、ただ、「裁判官との対話」を噛み砕いても通じないだろう。そのために不可欠なことは、市民の間で流布している俗流の偏見を打破(否定・批判)することが不可欠で、この偏見の打破(否定・批判=否定弁証法)をくぐり抜けて初めて「市民との対話」が成り立つことを実行するしかないと。
そのような意識で、今日の2回目のスピーチ(ただし、持ち時間は4分)で、原発事故避難者の住宅追出し裁判で2つの正反対の判決(本年1.9最高裁判決三浦意見、10.26東京地裁判決) が出たことの意味を次のように語ろうとした。
ーー原発事故避難者の住宅追出しをめぐって、追出しを決定した内堀福島県知事決定を遺法と判断した本年1.9最高裁判決三浦意見と、正反対に、内堀決定を適法と判断した1週間前の10.26東京地裁判決が対立・並存する一種の二重権力状態が発生したとき、そのような状態の行方を決めるのにどうしたらいいか。それは簡単です。市民が決めればよい。そのようなとき、行方を決めるのは本来私たち市民だからです。最高裁もそう言っています。いかなる形態の結婚が認められるべきか、それを決めるのは裁判所でも国会でもない、国民の声・意識だと。なぜなら主権者は私たち国民だからです。
すると、それまで静かに聴いていた聴衆から拍手が起きた。それは思いがけなかったリアクションだった。主権者である市民に、あなたたちこそ国政の重要問題を決定する最高の国家機関なのだという当たり前の国民主権の原理を、このように具体的な形で自信をもって人々の前に示したとき、それまでボンヤリとしていた聴衆の人々から熱い拍手が起こった。このリアクションを経験し、人々は主権者として振舞いたがっている、行動したがっている、一見、人々が静かでおとなしいのは、主権者としてどう振舞ってよいのか、そのアクションの仕方が分からないからなんだと思った。すると、私たちの努力は、市民が主権者としてどうアクションしたらよいか、そのアクションの仕方を具体的に分かりやすく示すことにかかっている。それをしないで、ただボヤいていても始まらない。そう思い直した。
口では「対話」「対話」と言って来たが、これまで必死にやってきたのは「裁判官との対話」しかしてこなかった。今日、初めて本気になって「市民との対話」の呼びかけに挑戦してみて、これに対する市民からのリアクションを体験させて貰い、本当にささやかだけれど、とても大切な自信を授かった。私はこの貴重な体験を手放すまい、何度でも反芻しようと思った。
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