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三浦守少数意見>全文 |
人権侵害のゴミ屋敷と化した日本社会の「百年の悲劇」はここから始まった。
それは100年前の第一次世界大戦と比べてみたとき、明らかになる。
第一次世界大戦のとき、人類は戦争を賛美し、軍部の暴走の中で、先端科学技術を総動員して一般市民を無差別大量攻撃にさらすという前代未聞の危険な時代に突入した。311福島原発事故もまたその延長線上にある。ただし、今度は、人類はAIらの先端科学技術を賛美し、浜岡原発のデータ捏造といった科学技術の暴走の中で、人類を絶滅寸前に追いやるという前代未聞の危険な時代に突入した。
2、その帰結
第一次世界大戦の当時、この大戦の悲劇(一般市民を無差別大量攻撃にさらすとい危険性)を認識しなかった人類はその後もこの悲劇をくり返した。この意味で「世界の百年の悲劇はこの第一次世界大戦から始まった」(新・映像の世紀 (1)「百年の悲劇はここから始まった~第一次世界大戦~」)。
これと同じく、福島原発事故の悲劇を認識しない日本人は今後もこの悲劇をくり返す。日本の百年の悲劇は311から始まった。
具体的にそれは、日本人が絶滅危惧種の仲間入りをしたこと。
にもかかわらず、日本は、ウクライナが憲法を改正してウクライナ市民を絶滅危惧種から守ることを国家の義務と宣言した(※ウクライナ憲法16条)のと正反対の態度を取り、原発事故の厳粛な現実から目を背け続けて、正真正銘の絶滅危惧種への途を突き進んでいる。
※ウクライナ憲法16条(1996年)
ウクライナの環境を保全し、未曽有の災害であるチェルノブイリ事故への対策に取り組むこと、ウクライナ民族の子孫を守ること、これらは国家の義務である。
3、しかし、今日、 最高裁は「百年の悲劇」と決別する声をあげた。
それが、本日言渡しの、原発避難者追出し裁判の最高裁判決の三浦守少数意見。
判決後の報告集会で、311以来ずっと原発避難者追出し問題を追及してきたフリーランスのジャーナリストの人たちは、今日の三浦守少数意見の明快さ、真実さに感極まって涙せんばかりの衝撃を語った。以下に、この歴史的な三浦守少数意見(正味16頁)と歴史的に専らこの少数意見の偉大さを際立たせるためにのみ存在理由がある多数意見(正味9頁)を冒頭に紹介した(さらに、114頁の判決全文は>こちら)。
これに対し、或る人はこう言うだろうーーたとえどんな素晴らしい意見であろうとも所詮、少数意見。負けたことには変わりないと。
その通りである。だが、たとえどんな多数意見で勝ったとしても、その多数意見が未来永劫に維持される保障もない。国政選挙のたびの提訴されるお馴染みの議員定数是正訴訟、この裁判は最初、橋にも棒にもかからない、全員一致で門前払いされたカスみたいな裁判だった。だが、その迫害にめげずに「真実のつぶやきはやむことがない」を実行する中から、やがて、ひとり、ふたりと少数意見が出現するようになり、やがてそれが次第に多数意見を形成するようになって、ついにかつての門前払いの多数意見は消滅してしまった。つまり、司法における人権実現とは関が原の決戦のように一発勝負で決まるものではなく、もともと倦まずたゆまず、一歩ずつ前進していくほかない「終わりのない漸進」運動である。
そこで、本質的なことは誰が判決を書いたかではなく、 何が判決に書き込まれているかにある。
現に、最高裁のこれまでの人権判決に最も影響を及ぼしているとされる文献は、今回の上告受理申立て理由書(>こちら6頁3、(2))でも最も強調した、1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4(>こちら79頁)と言われるもの。これはアメリカの連邦最高裁判決のなかでストーン判事個人が書いた判決文の、しかも脚注の一節。これが日本の最高裁が人権侵害について積極的に判断を下すべきかどうかの判断基準となっている。つまり、重要なことは多数意見として書かれたどうかにあるではなく、少数意見であろうが脚注であろうが、いかに正義にかなった普遍的な判断がそこに示されているかどうか、これこそが決め手になるーーストーン判事の脚注4ほどこの点を雄弁に物語る歴史的事実はない。
4、本日、「百年の悲劇」と決別する声をあげた最高裁三浦少数意見がいかなる意味・意義・価値を持つか、それを決めるのは私たちである。
人権宣言の原点といわれる「マグナ・カルタ」は1215年の昔に作られた。なぜ、こんな中世の古い文書が近代社会の人権宣言の原点と呼ばれるようになったのか。それは、500年後に17世紀のイギリスで、絶対主義の国王と市民階級の議会との対立・抗争が激化する中で、「マグナ・カルタは、国王の絶対主義から俺たち市民の自由を守る文書だ!」と市民たちが口々に叫び、その叫びがついに絶対主義を圧倒したからだ。つまり、
「マグナ・カルタの真の偉大さは、それが1215年の作者たちにとって何であったかに存するのではなくて、それが後に、後世の政治的指導者、裁判官や法律家、およびイギリスの全市民にとって何になったかに存する」
これと同様に、本日の三浦少数意見の真の偉大さは、それが本日の作者(三浦裁判官)にとって何であったかに存するのではなくて、それが今後に、これからの政治的指導者、裁判官や法律家、および日本の全市民にとって何になったかに存する。
また、もともと人権宣言とは、いまだ実現しない人権の実現を願っ て、「人権の発見」をした人々から全世界の市民に向けて捧げられた愛の告白である。だから、本日の三浦少数意見も、いまだ実現しない原発事故避難者の人権の実現を願って、「人権の発見」をした三浦守裁判官から私たち市民に向けて捧げられた愛の告白である。しかし、それはひとりの人間からまかれた一粒のタネである。そのタネが芽を吹き、葉をつけ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらすかどうかーーそれは私たちの手にかかっている。もともと人権を実現する道は人類全員の協同労働であり、本日、三浦守裁判官が成し遂げた人権の仕事は、このあと、彼のバトンを引き継いだ第2走者、第3走者、‥‥無数の走者たちが、人権の葉をつけ、人権の花を咲かせ、人権の豊かな実りをもたらすまでの仕事である。今度は私たち市民が一歩前に出る番である。
(判決言渡しの当日記す)


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