原発避難者追出し裁判2026年1月9日言渡しの最高裁判決全文>こちら
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三浦守少数意見>全文 |
以下は、仙台のいずみニュースレターへ寄稿した1.9避難者追い出し裁判最高裁判決に対するコメントです。
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「我ここに立つ。これ以外に仕方がない」の決断の中で書かれた三浦少数意見
1、僭越ですが、311原発事故を経験したあと、ユダヤ教徒になってもいいと思った。モーセなど旧約聖書に登場する預言者たちに震撼させられたから。
福島の子どもたちの避難を求める「ふくしま集団疎開裁判」は出エジプトのモーセが念頭にあった。
原発事故の救済を求める訴訟は何度も起こされたが、その都度惨敗し、連敗を重ねた。
避難者を仮設住宅から追出す今回の裁判もそうだった。避難者の訴えに全く耳を傾けないので、一審と二審の裁判官の交代(忌避)を求めた6回の申立ては全て無視され、まともな審理を受けられないまま全面敗訴の判決が続いた。
それは311後に人権侵害のゴミ屋敷と化した日本社会に相応しい暗黒裁判だった。
その闇の中で、2年前、私自身の過去を振り返り、人権法律家として完全失格だったことを知り、新米法律家として出直した。それが「政治・政策から人権にシフト」し、「ジワジワと人権保障を1ミリでも前進させるための法理論の構築」に全力を注ぐこと――その最初が今回の裁判で最高裁に提出する上告受理申立て理由書(>全文)の作成だった。
今までは、権力のイヌとなった最高裁につばを吐き、断罪する書面しか書けなかった。今度からつばを吐くのをやめ花を盛ろうと思った。
どの最高裁判事も国家権力の重圧、プレッシャーの中にいて、彼らに国策に逆らう避難者の声に耳を傾けさせるのは至難の技だが、だが、ルターの「我ここに立つ。これ以外に仕方がない」程ではなくても、最高裁判事もまた彼らなりに判決を下す直前、「暗闇の中の命がけの決断」の瞬間に立つ。その時、彼らが勇気ある決断を下せるようにそっと背中を押したい、そう願って彼らも賛成せずにはおれない命題からスタートして正しく論を展開しようと心がけたのが今回の理由書だった。それはソクラテスの問答にならった最高裁に宛てたラブレターだった。
2、その理由書の冒頭は、
《本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは原発事故の救済の法律が存在しないという「真空地帯」で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して避難者らが最高裁に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。》
そこで「司法が一歩前に出ること」とは何か。
それは《司法は一歩前に出て積極的に審査すべきであるとしても、その趣旨はあくまでも人権保障という法的観点から人権侵害の審査を行なうことであって、それ以上、政策の当否といった政策論争の審査ではない》ことを自覚することである。
本裁判の避難者とは何者か。
それは《彼らは災害弱者である。彼らはもともと福島原発事故以前から社会的、経済的弱者に属する人たちであったところ、福島原発事故のあと政府が勝手に線引きした強制避難区域の網から漏れ、谷間に落ち、本人には何の責任もないのに、たまたま谷間に落ちてしまった。その結果、政府により救済されない中を、放射能のリスクから命をかけて「子どもを守る」或いは「自分や家族を守る」と決断して自主避難を選択し、仮設住宅の提供以外に国と相手方から真っ当な生活再建の支援もない中を、この間ずっと、慣れない都会の中、自力で努力し続けてきた人たちである。このように過去に経験したことのない「さ迷える市民」にされた彼らの過酷な現実を踏まえて、彼らの救済について、最高裁みずからが原発事故の救済の法律が存在しないという法の穴埋めを真摯に実行すること、それが彼らの切なる願いである。》
その上で、次の通り締めくくった。
《本裁判で避難者らが最も望んだことは、自分たちを金銭で救済せよと求めているのではなく、これは人間の命、健康に関わる最も重要な基本的人権の問題である、だから、福島県による人権侵害を何としてでも是正して欲しい。今月に福島県がやった仮設住宅の強制執行を含め、この間に福島県により避難者らが受けた精神的苦痛は筆舌に尽くし難く、その苦痛はあくまでも避難者らが受けた人権侵害を回復する中でしか癒されない。上告をした避難者らのこの真意を最高裁は真摯に受け止めて、「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」の問題を積極的に審査して欲しいと切に願うものである。そして、最高裁が「欠缺の補充」を実行するにあたっては、とりわけ国際人権法が明らかにした「国内避難民の人権」という観点から真摯に実行すること、それが避難者らのもうひとつの切なる願いである。》
3、すると、これまで殆どの上告受理申立て事件を門前払いしてきた最高裁は、昨年暮れ、避難者の上告を門前払いせず、避難者の上告理由(福島県知事の住宅提供の打切りの違法性)に判断を示すと応答してきた。
これは青天の霹靂だった、311以来、原発事故の救済について固く閉ざしていた司法がいま初めて扉を一歩開いた瞬間だったから。
1月9日、その判断を示された。
結論は上告棄却。
その理由について多数意見は上記上告理由には応答する必要がないからと避難者の申立てを完全にスルーし黙殺した。
これに対し、三浦少数意見は100%応答して、避難者の申立てを全面的に認めた――第1に災害救助法などの解釈にあたっては国際人権法に基づいてこれを行なうべし、第2に区域外避難者について彼らの具体的な事情を考慮せずに、 応急仮設住宅を使用する必要がないと判断することは是認できない、避難先での生活の継続を望む区域外避難者が数多く存在する状況において、仮設住宅の提供を打切った福島県知事決定は避難者の居住の安定に係る利益を損なうもので本質的瑕疵を有するから、社会通念上著しく妥当性を欠き、裁量権の逸脱濫用にあたり、違法であると。
4、これに対し、こう言う人が必ずいる――三浦意見がたとえどんな素晴らしくてもしょせん少数意見、負けたことには変わりないと。
その通りである。しかし、人権運動はいつも少数者の声から始まる。そして人権運動は少数者の声がその声をあげた瞬間にその声がどう評価されたかではなくて、その声に(たとえ時間がかかろうが)その後、周りの市民がどう反応したかで決まり、さらにその評価も関が原の決戦みたいな一発勝負ではなくて、long and winding roadのジグザグの漸進的なプロセスである。
この人権運動の実相に目を向けるとき、今回の少数者の声である三浦少数意見がどれほど重要であるか、多数意見の側に三浦少数意見が放った輝きを否定・批判するような反論がひとつも書けなかったことも含めて、これは、311後の人権侵害のゴミ屋敷に化した日本社会を人権屋敷に再建する突破口となるような、原発事故の救済に関する人権宣言のスタートとなるような画期的な最高裁判決である。
この判決がまいた一粒のタネが芽を吹き、葉をつけ、花を咲かせ、豊かな実りをもたらすかどうかは、ひとえに死力を尽した三浦裁判官からバトンを受け取った私たち市民の手にかかっている。人権への道は人類全員の協同労働なのだから。
(26.1.20柳原敏夫)


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