山が一歩動いた。だが、それは一歩だ。しかし、一歩でいいのだ。これまでと格段に貴重な一歩だから。それは司法と市民運動の核心(人権)を掴んだ、その意味で未来の羅針盤になる重要な一歩だからだ。
以下、この経験を一生手放さないための振り返り(その1)と報告。
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これまで、例えば反原発・脱原発運動で著名な方からこう言われた。
「最高裁など、まったく期待してきませんでした。」
それは重々分かることで、無理もないこと。そう分かった上で、まだなお最高裁に対しやれることがある。それをやり抜こうと、1年8ヶ月前の2024年4月、一審福島地裁、二審仙台高裁でボロ負けした避難者追出し裁判の判決の破棄を求めて、最高裁にその理由書を提出した。文は人なりで、「お前なんか全く期待していない」という気持ちを抱いていたならそれが自ずと文に出て、ツバを吐いたような書面になる。そうではなく、最高裁裁判官の背中を押すような気持ちで、花を盛る積りで書くのとでは文はまったくちがってくる。
しかし、これまで、そんな欺瞞的な芸当はできないと思ってきた。ところが、2024年正月、自分の58年間を振り返って、 「司法」の本質とその可能性の中心についてまだ何も分かっていないことを思い知らされて、その無知から新米法律家として出直すしかないと思った(※)。その最初の仕事がこの避難者追出し裁判の理由書の作成だった。
(※)【第8話】58年間の振り返り:法律家としてはともかく、人権法律家として完全失格(24.1.11)
【第9話】58年間の振り返り(2):2人の最高裁判事(横田喜三郎と中村治朗)の評価に対する間逆のコペルニクス的転回(24.1.11)
【第10話】58年間の振り返り(3):最高裁判事中村治朗はただの「反動の理論的司令塔」ではない
理由書の中で、私は過去の最良の最高裁判事たちを総動員して以下のように花を盛った。
《3、本裁判に対し申立人らが望むこと
(1)、結論
本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは「真空地帯」で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して申立人らが裁判所に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。以下、その理由と意義について述べる。
(2)、司法権のスタンス――司法消極主義と司法積極主義の使い分け――
福島原発事故が国難ともいうべきカタストロフィ(大惨事)であり、これに対する国の政策も国策と呼ぶに相応しいものであることは誰しも否定し得ないところであろう。従って、国策という政治性の極めて強い問題に対し、民主主義社会における司法が、国民の信託を受けた立法・行政の判断を尊重し、自らの判断に控え目になることいわゆる司法消極主義には民主主義システムにおける役割分担としてそれ相応の理由があるものというべきである。
他方で、どのような原理原則も万能ではあり得ず、例外のない原則がないことも古来から知られているところである。この理は司法消極主義にも当てはまる。司法消極主義の例外について述べた、古くから有名な文書が1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4である(別紙訳文参照)。そこでは、司法消極主義を正当化する根拠となる「民主主義の政治過程」、これが正常に機能しない場合もしくは「民主主義の政治過程」が性質上及びにくい場合に、民主主義の政治過程そのものに関わる人権問題やそれが及びにくい領域の人権問題について、司法が引き続き司法消極主義に徹していたら、それはまさしく司法消極主義のやり方に任せていたのでは解決できない病理現象から司法が目を背けることにほかならず、明らかに正義にもとるのである。このような場合には司法は態度を変更して、自ら積極的に司法判断に出る必要がある。
とはいえ、ここで行う審査とは決して政策の当否といった政治論争の審査(政治問題への積極的介入)ではなく、あくまでも人権保障という法的観点から人権侵害の審査を行なうことであり、それ以上でもそれ以下でもない。そして、それはもともと司法が最もよく果たし得る作用である。その意味で、これは司法が積極的に司法判断に出るに相応しい場面である。すなわちこの場面での司法積極主義は司法に課せられた重大な使命と言うことができる。上記のストーン判事の脚注4はこのことを、次の3つの類型で示して明らかにしたものである。
①.民主主義の政治過程を制約する法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
②.憲法が掲げる基本的人権を制約する法律については、合憲性の推定が働かず、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
③.特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた法律、すなわち個々の孤立した少数者の人権を制約するような法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。(泉徳治元最高裁判事の2004年10月30日「司法とは何だろう」講演録74~75頁[1]による)
(3)、本裁判の主題
ア、「真空地帯」の発生――311後の日本社会の際立った法律問題――
本裁判の主題とは何か。その第1は、応急仮設住宅供与打切り問題が原発事故の救済をめぐる紛争の解決が求められた事案であるにもかかわらず、これを解決する相応しい具体的な判断基準が法律から直接引き出せない状態、すなわち法の欠缺状態それも全面的な欠缺状態にあったということである。本件に即して言えば、
申立人2は福島原発事故直後に避難した体験について、陳述書(乙C6)でこう述べた。
《2011年3月11日に東日本大震災が発生し、南相馬市長より避難の要請が出された為、私は次女を連れて友人家族の車に便乗させてもらい関東方面に向かいました。しかし当時ガソリンが手に入らず、東京までは行けず、途中栃木県のそば屋で一泊させてもらい、翌日宇都宮駅から次女と各駅停車の電車に乗り、東京に向かいました。東京では頼れる人も居ないので、‥‥(中略)‥‥、その後 福島県の情報が全く入らず、どうして良いのか分からず途方に暮れて不安な時間を過ごしている中、次女の同級生が足立区の武道館に避難していることが分かり、そこへ会いに行き、初めて避難所があることを知りました。その避難所は避難者向け都営住宅の募集もしていて、老人ではないし当てはまらなかったけれど直ぐに申し込みをしましたが、落選通知が東京都から来て、その後東京都から「赤坂プリンスホテルに入れる」と連絡を受け、4月中旬頃、東京の専門学校に通っていた長女と合流して赤坂プリンスホテルに移動しました。6月末までそこで過ごして、その後、千代田区の全国町村会館へ移動、7月末に現在の住まいである東雲住宅へ入居しました。》
この事実だけでも本裁判の主題が明確に示されている。それが、一方は本件建物の持ち主であり、福島原発事故の加害責任を負うべき立場にある訴外国が避難者に提供した本件建物の所有権と、他方は、福島原発事故により避難を余儀なくされた避難民である申立人が国より避難先住居として提供を受けた本件建物について有する居住権(同時にそれは生存権でもある)とが対立・衝突した場合、いかにして両者の調整を図るかという、原発事故発生時における加害者の所有権と被害者・避難民の居住権(生存権)との対立・衝突をいかに調整するかという、「平時」とは状況が全く異なる原発事故発生という「緊急事態」のもとにおける人権保障のあり方が根本から問われた、過去に経験のない人権問題であるにもかかわらず、これを解決する相応しい具体的な判断基準が災害救助法及び関連法令から直接引き出せない状態、すなわち法の欠缺状態それも全面的な欠缺状態にあったという点にあった。
しかも、それはひとり申立人らに限った問題ではない。311後の日本社会の際立った法律問題は原発事故の救済について法律の備えがなく、「真空地帯」つまり法の全面的な穴(欠缺)状態が発生したこと、にもかかわらず、国会は半世紀前の公害国会のような、速やかな立法的解決を殆どしなかったことである。
その結果、現実に発生した原発事故の救済についての全面的な法の穴をどう穴埋めするか(欠缺の補充)をめぐって、裁判所にどのような責務が発生するのか、すなわち「新しい酒をどのように新しい革袋に盛るのか」これが前例のない重要な人権問題となったのである。
イ、「真空地帯」の放置は許されるか(ノン・リケットの禁止)
最初の問題は、「法の欠缺」状態に対し立法的解決が図られない場合、裁判所は「欠缺の補充」をする必要があるかである。答えは、この場合、裁判所による「欠缺の補充」は不可避であり、必要不可欠である。
なぜなら第1に、そもそも裁判所は、法の欠缺を理由に裁判不能(ノン・リケット)を宣言して裁判を拒絶することは許されず、のみならず、法の「欠缺の補充」を実行しないかぎり、裁判所は原発事故の救済について司法の大原則である「法による裁判」が実行できないからである。
第2に、後記第3、2で詳述する通り、「法の欠缺」状態にある放射性物質についての「環境基準」をめぐり国会も裁判所[2]も「欠缺の補充」をせず放置している結果、放射能汚染地に住む子どもらの安全に教育を受ける権利を侵害される事態を引き起こして是正されないままでいる。この事例からも明らかな通り、法の「欠缺の補充」を実行しないと深刻な人権侵害が発生しているのにそれが放置されたままになるからである。
第3に、後記第2で詳述する通り、「法の欠缺」状態に対し国会が立法的解決に動かない場合、それは民主主義の政治過程に「真空地帯」という重大な欠陥が生じ、その結果、人権侵害が発生するという憂慮すべき事態であり、そのような場合には司法は一歩前に出て人権問題を積極的に審査すべきだからである。
第4に、以上について述べた最高裁判決を紹介する。それが半世紀前、深刻な公害問題で発生した「法の欠缺」状態に対し立法的解決が果たされない場合、裁判所による「欠缺の補充」の重要性を「新しい酒は新しい革袋に盛られなければならない」という比喩で強調した、1981年12月16日大阪国際空港公害訴訟最高裁判決の団藤重光裁判官の次の少数意見である。
「本件のような大規模の公害訴訟には、在来の実体法ないし訴訟法の解釈運用によつては解決することの困難な多くの新しい問題が含まれている。新しい酒は新しい革袋に盛られなければならない。本来ならば、それは新しい立法的措置に待つべきものが多々あるであろう。」
しかし、諸事情によりその立法的措置が果たされない場合、裁判所による「欠缺の補充」の出番であると次の通り締めくくっている。
「法は生き物であり、社会の発展に応じて、展開して行くべき性質のものである。法が社会的適応性を失つたときは、死物と化する。法につねに活力を与えて行くのは、裁判所の使命でなければならない。」(33~34頁)
第5に、この「欠缺の補充」の必要性と次に述べる「欠缺の補充」をいかに実行するかという問題はひとり福島原発事故関連裁判だけのテーマではなく、昨今大きな話題になった選択的夫婦別姓事件など現代の最先端の裁判が避けて通れない普遍的なテーマでもある。》
それから1年8ヶ月。この間、数回にわたって、理由書の補充書面を作成して最高裁に提出したが、それもまた花を盛る気持ちで書いた。先月15日、3回目の補充書面(>こちら)を最高裁に持参してから約1ヶ月後の一昨日、最高裁からの連絡、それは書類ではなく、電話が鳴った。申立てを「受理する」という連絡だった。そして、来年1月9日に公開の法廷で判決の言渡しをするという連絡だった。そのどちらも最高裁の事件を経験した者にとっても極めて稀有な出来事だった。その意味が分からず、弁護団の中でもあれこれ詮索していたところ、昨日、最高裁から書類が届いた。申立てを受理するという決定と判決言渡し日の通知だった(以下)。
この書面の結果、次のことが明らかになった。
今回の裁判長は三浦守判事。
そして、最大の関心事である今回の上告審の審理の対象は次の2つ。
第1が2017年3月末をもって仮設住宅の提供を打切ると決定した内掘県知事決定の違法性について。
第2が仮設住宅(国家公務員宿舎)の所有者でもない福島県が本裁判の原告となって入居中の区域外避難者の退去を求める訴えを起こす資格(原告適格)について。
1番目の内掘県知事決定の違法性というのは裁量権の逸脱濫用の問題で、今年6月に最高裁が生活保護費の引き下げを裁量権の逸脱濫用にあたり違法であると判断したのと同種の論点。
最高裁が仮に本件を見直すとしても精々2番目の原告適格の論点だけで逃げ切るのではないかと思ったのですが、そうせずに、まさに、東京地裁の住まいの権利裁判の中心論点でもある内掘県知事決定の違法性の問題に最高裁が真正面から直球で勝負する大勝負になる可能性がある。
参考までに、この2つの争点の詳細は以下の上告受理申立て理由書第3(40頁以下)と第4(70頁以下)を参照。
また、1年8ヶ月前の上告受理申立て理由書の提出の報告は以下。
【第141話】一昨日、避難者追出し裁判の総決算の書面(上告理由書等)を最高裁判所宛に提出(24.4.20)
私にとって今回の出来事は、311以来、原発事故の救済について固く閉ざしていた司法の場で、いま初めて山が一歩動く瞬間に立ち会ったという経験です。そして、次の課題はその貴重な一歩で終わりにするか、それともここからさらにもう一歩進めるかです。それは私たち市民の手にかかっていると改めて痛感している。



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