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2023年8月12日土曜日

【113話】自由研究(2):311後の独裁国家体制にとって一番ありがたいのは人々が「法の穴」を見つけないこと(2023.8.11)

                (ウィキペディアより)
概念法学から出発しながら、これを徹底否定して自由法論に転向し、「法の穴(欠缺)」を認めたドイツの法学者イェーリング(1818~1892)

今の自由研究(1)の続き。

自由研究(1)でこう書きました。
311まで日本の法体系は原発事故を想定していなかったら、原発事故の救済に関して法は全面的な「法の穴」状態にあった。
しかし、それは一見、「行政庁の処置について、単に、法令の具体的な定めがない」かのようにも見えた。
そこに目をつけて、「法の穴」について殆ど知らない市民の無知に付け込み(さらに、「法の穴」を無意識のうちに避けてしまう法律家の性向に付けこみ)、
文科省20mSv通知にしてもSPEEDI情報隠蔽にしても、それらはみんな
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」
だから、そこで、行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられていると大見得を切った。
そこからはやすやすと、みんな行政庁の適切な裁量判断の枠内のことであって、違法の問題は生じない、という結論が引き出され、
以上から、311後の行政の人権侵害行為の責任はことごとく否定され、責任を負うべき者は誰もいなくなった。
これなら、これから何度、原発事故を起しても、くり返し使える「打ち出の小槌」。行政は怖くもなんともない。
だから、政府は、原発事故の救済に関して、今後も決して救済法を制定しない。それは福島原発事故から何も学んでいないのではなく、むしろその正反対で、彼らは上のような「独裁法体制の樹立にとって、最も大事なことは『行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかった』こと」を学び尽くして、法令の具体的な定めなどクソ食らえだという教訓なのだ。
今後、原発事故が発生し、福島と同様の悲劇を起きることを誰よりも予測しているのが日本政府で、彼らはそのための無責任体制の整備に、日々全力を注いでいる。
       ↑
この無責任体制の整備にとって、最大の弱点が「法の穴」が発見されてしまうことです。
政府は、原発事故の救済に関する法は、単に「具体的な定めがない」かのようにとどめておきたい。
それを、わざわざ、現実に発生する原発事故に対して法律がその解決を準備していないという「法の穴」として認識してもらっては困る。
なぜなら、ひとたび「法の穴」が認識されてしまったら、その次に来るのは、その穴の穴埋め(補充)だから、その穴埋めをした結果は、先程紹介した、311後に福島県内の学校の安全基準を20倍引き上げた「7千倍の学校環境衛生基準問題」のように、政府の措置の人権侵害ぶりが明々白々になるからです。
これだけは絶対避けたい、それが政府の本音。
だとしたら、我々のやることは次のことーー私たち自身が「法の穴」を見つけること。そして、その穴に対し、正しい立法的解決を要求すること(それを具体化したのがチェルノブイリ法日本版です)、もしくは「法の穴の正しい穴埋め」を求めることです。
そしたら、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」から、行政庁の裁量にお任せ下さい、
なんていう欺瞞的なレトリックの出る幕はなくなる。

その上で次の問題は、どうしたら私たち自身が「法の穴」を見つけられるか、です。
実は、これは言うは易き、行い難しの面があります。
なぜなら、法もまた、放射能ではありませんが、私たちには見えず、触れられず、匂いも痛みもしない、従って、ボーとしているとそこに「法の穴」があるのか、つかみ損なってしまう、なかなか厄介な存在だからです。
       ↑
これに対し、市民が「法の穴」を知らないのはそもそも「法」を知らないからで、だから、法の専門家の法律家に聞けば一発で解決するんじゃないかという意見が出そうです。が、実はそう簡単なことではありません。なぜなら「法の穴」の発見は単に法の知識の問題ではないからです。
また、人権感覚があったり人格円満な法律家でも、こと、「法の穴」になると途端に消極的、反抗的な態度を取ることがあるからです。
その理由は、末尾に書きましたが、
ともかく、ここで言いたいのは、私たち市民が「法の穴」を発見する力は、結局のところ「理念」の力だということです。いかに理念の光を当てて、現実の事実と法体系に眺めるか、で「法の穴」を見出せるかどうかが決まるのではないか。理念の光はまた「ユートピア」の力です。だから、理念の力が弱く、いつも現状追随の姿勢しか取れない人には、いくら法を眺めても、そこに「法の穴」を見出すのは困難です。理念の力を持ち、そこから現状を変革せずにはおれない姿勢を持った市民でないと、「法の穴」を見出すのは困難な面があります。
この問題は改めて書きます。

とにかく、私たち市民がひとりでも多く、「法の穴」を発見(認識)するかで、上に述べた欺瞞的なレトリックが破綻します。独裁国家体制を維持させるのか崩壊に導くのか、その運命のカギは、私たちが「法の穴」を発見(認識)するかどうかにかかっている。

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(以下、法を知っている法律家がなぜ「法の穴」を認めないのかについて)

2、「法の欠缺」に対する2つの立場・対立

(1)、19世紀のドイツ古典法学(いわゆる概念法学)の人たちは「法の欠缺」を認めなかった。なぜなら、彼らの法解釈学はユスティニアーヌスの「ローマ法大全」を完全無欠の文献とする考え方に基いており、「法の論理的充足性[1] 」(あらゆる可能な事案に対する正しい解決が法の中に含まれている)という完全無欠の思想・信仰に立っていたから、彼らにとって「法の欠缺」など存在しなかった。

 これに対し、事実を価値判断をまじえずありのままに認識するという近代の科学的方法の対象を法にも拡大する「法における認識と価値判断を峻別」するという立場からは、もともとあらゆる問題を想定して法律を制定することが不可能である以上、現実に発生する紛争事実に対してこれに対応する法律の規定が存在しない場合が出てくるのは不可避のことであり、そこで、このような事態を率直に承認し、「法の欠缺」状態にあると認識することは法を価値判断をまじえずありのままに認識しようとする立場からの必然的な帰結であった。

(2)、しかし、概念法学が克服された20世紀においても、人々の間に、なお「法の欠缺」の承認に対して批判的、消極的な姿勢が続いた。それは「法における認識と価値判断の峻別」に対する態度の違いから生まれた。もし、「法における認識と価値判断の峻別」の必要性を認めない立場に立てば、現実に発生する紛争事実に対して法律の規定が存在しない場合であっても、それをありのままに認識するまでもなく、直ちにその欠缺に対し価値判断を下して補充さえ実践すれば足りるのだと考える、つまりわざわざ「法の欠缺」を云々するまでもなく、法の解釈技術を使ってとっとと補充をやってしまおうとする傾向になる。しかし、この態度は、現に「法の欠缺」状態が存在することをうすうす認識しているにもかかわらず、これに対する正確な認識をしないまま、あたかも法が存在するかのようにみなして[2] <#_ftn2>法の解釈技術を使って法を適用するというものであり、従腹背的で技巧的なこのやり方は法に対する「認識なき実践」であり、たとえその動機は紛争の適正な解決だとしても、「認識なき実践」という盲目的な態度では「形式論理操作の重視」に陥る危険があり、そのようなやり方で、果たして法は「現実の社会生活」への奉仕のために活用されるべきであるという「法の精神」に十分応えことができるのか、極めて疑わしい。

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[1] 碧海純一「法哲学概論全訂第2版」167頁。

[2] なぜなら、法が存在するようにみなさないと、当該法の解釈を行うこともできないからである。

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