311以後の日本社会の闇はいかにして実現されたのか。
その訳がずっと分からず、謎だったのが、昨日、避難者の追出し裁判の検討をする中で、その謎が1つ解けたような気がしたので、それについてMLに投稿したもの。
とはいえ、これは誰もに開かれた自由研究、仮説とその検証。
全部で4つです。
これは自由研究(1):311後の法秩序は行政がどんな人権侵害をおかしても誰も責任追及されない、ナチスの独裁国家体制に匹敵する。その秘密は「法の欠缺」にある。
続いて、
自由研究(2):311後の独裁国家体制にとって一番ありがたいのは人々が「法の穴」を見つけないこと
自由研究(3):311後の法秩序のモデルはナチスの独裁国家体制=全権委任法、但し、それは「法の欠缺」を最大限悪用した
自由研究(4):311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている
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2011年6月24日、ふくしま集団疎開裁判を提訴
(2011年6月24日の北海道新聞)
311直後の2011年6月24日、ふくしま集団疎開裁判を提訴した直後、弁護団の井戸謙一さんがメディアの取材を対し、
「311後に、政府がここまでひどいことをやるとは思ってもみなかった」
と言った。法律家の保守本流の彼にそこまで言わせるほど、政府が違法(それは権力犯罪者という意味)への道を突き進んだのはなぜか、そしてそのためになにをどう準備し、どう仕組んだのか、その手練手管について、今日までつらつら考えて来ました。
以下は後者、権力犯罪者の犯罪実現手段についての仮説です。
311後の数々の悪行、文科省の20mSv通知、山下発言、SPEEDI情報隠蔽、本来であれば、その関係者は全員首をそろえてハーグの国際刑事裁判所の被告人席に座り、人道上に対する罪に問われてしかるべきなのに、現実には、見事に、誰ひとり、違法の責任を問われることもないまま、抜け抜けと生きている、他方で、命を落とし、健康を害し、生活を崩壊させられた無数の無名の人たちがいるというのに。
この膨大な人権侵害に対する政府の徹底した無責任体制を実現したのが311後の法秩序です。
では、この完璧な無責任体制を実現した311後の法秩序の秘密とは何か。
そのキーワードになるのが「法の穴(法律用語では欠缺〔けんけつ〕(※))状態の発生ではないか。
(※)法の穴(法律用語で「法の欠缺」)とは、現実に発生した人間関係や紛争に対して、法律がその解決を想定していないため解決基準を提供できないことをいいます。
「法の穴」の発生は別に特別なことではなく、日常茶飯事です。例えば内縁関係は日常のありふれた人間関係ですが、しかし民法は、過去も現在も、家族法の中で内縁関係を想定していないとして、内縁関係に対して未だに何の規定も置いていません。だから、内縁関係はずうっと、民法の中で「法の穴」のままです。
私が、311後に「法の穴」を意識したのはこれとは少し別です。たまたま避難者追出し裁判に関わるようになり、そこで、福島県が災害救助法を使って避難者を仮設住宅から追出そうとしているのを知り、そもそも災害救助法って、地震台風大雨津波といった従来型の災害の救助のことで、原発事故が発生した場合の救助なんて想定していないんじゃないのか?と思った時です。
もっとも、当初、法の穴がそんなにひどい悪さをするとは思ってもみなかった。たまたま原発事故という過去に経験のない事故が発生したため、それに対する備えがなかった日本の法体系で「法の穴」が発生するのは当然だろう、ぐらいにしか考えていなかった。しかし、それは甘かった。そう気づかされたのは、子ども脱被ばく裁判の2021年3月1日の福島地裁の一審判決の言渡しがあったときです。
この一審で、原告らは5年間の間、血がにじむような努力をして、内部被ばく、低線量被ばくなど放射能の危険性を裏付ける事実・データを収集・主張して、放射能の危険性を証明しました。ところが、それが裁かれる一審判決では、これらの珠玉の事実・データがことごとく無視され、無残に蹴散らされる原告完全敗訴が下されたのです。その蹴散らす装置が行政の裁量論でした。一審判決は、至る所で、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられているというべきである」と言ってのけたのです(30頁。72頁。76頁。97頁。113頁。120頁。123頁。133頁。156頁)。
だから、SPEEDI情報を隠蔽しようが、文科省が福島県内の学校だけ線量を20倍に引き上げる通知を出そうが、それらはみんな行政庁の適切な裁量判断の枠内のことであって、違法の問題は生じない、と。
しかし、ここで一審判決が「行政の裁量論」で逃げ切るためには、越えなければならない1つのハードルがありました。それが、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがない」こと。
そのハードル越えを準備したのが、上に書いた「法の穴」。311まで日本の法体系は原発事故を想定していないから、原発事故の救済に関して法が全面的な「法の穴」状態にあるのは当然で、ただし、それは一見すると、単に初めから「法令の具体的な定めがない」かのようにも見える。そこで、一審判決は、ここに目をつけて、文科省20mSv通知にしてもSPPEDI情報隠蔽にしても、それらはみんな(初めから)
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」
だから、そこで出番は行政の裁量論だと大見得を切ったのです。そして、そこから行政がやった措置の違法性を全面的に不問に付すまでは一直線に突進、いとも簡単に実現できると‥‥
‥‥とはいかず、悪事とてそうたやすいものではなく、ここには一審判決の一世一代の猿芝居、大うそつきが必要とされた。
原発事故の救済に関して法が全面的な「法の穴」状態にあったなら、そこでまずなすべきなのは「法の穴の穴埋め(法律用語で補充)」だからです。
しかし、頭のいい一審判決の裁判官たちは、ここ(「法の穴」→「法の穴の穴埋め」)を意図的にすっ飛ばし、スルーして、「法の穴」も口にせず、そして「法の穴の穴埋め」もしないまま、
「法令の具体的な定めがなかったんだから、そこは行政庁の裁量判断の出番でしょ」
とばかりに大見得を切った。その上、一審判決の裁判官たちがこの猿芝居を重々分かった上で演じたことは、原告弁護団の井戸謙一さんが発見した「7千倍の学校環境衛生基準問題」について、原告は次の通り、くり返し強調していたからです(原告準備書面(32)・最終準備書面12頁以下)
2012年の環境基本法の改正により放射性物質が規制の対象となった結果、国は放射性物質について「環境基準」と「規制基準」を定める義務を負ったにもかかわらず、それをサボタージュしているため、現時点で、放射性物質の「環境基準」と「規制基準」は「法の穴」の状態にある。
そう指摘した上で、「法の穴」に対する本来の処置である、「法の穴」の穴埋めを実行することを試み、
他の毒物の「環境基準」と「規制基準」と同等の基準(それは、その毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というもの)を放射性物質に当てはめれば、補充した「環境基準」と「規制基準」は追加線量で年2.9μSvとなる。つまり311後に行政が採用した年20mSvは、この補充した基準の実に7千倍である、と。
ところで、このロジックは別に新奇なものではなく、法律家として保守本流を行くやり方でした(田中成明「現代法理論」246~248頁)。
だから、一審判決は、上記ロジックを正面から否定することが出来ず、そこで、裁判官たちがやったことは、何食わぬ顔をして、原告の上記ロジックを無視して、法の穴など最初からどこにもなかったかのようにとぼけて「法令の具体的な定めがない」んだから、しょうがないね、それじゃあ、はい、行政の裁量の出番だ、と大見得を切ったのです。
原告弁護団の私も、直感的に、一審判決の胡散臭さを感じていたものの、その当時、この判決の騙しのテクニックを見抜くまではできなかった。
今回、東京で行われている追出し裁判の準備の中で、行政裁量論を全面展開する必要があって、それを再考する中で、
行政裁量の土俵の上に乗って、その中で「裁量の逸脱濫用」を論じるというのは既に、負けているんじゃないか、
一審判決が突如、持ち出して来た行政裁量論という土俵の上に乗ること自体の問題点を再考しないとダメなんじゃないかと思い、
そこから、311後の人権侵害を象徴する重要論点「7千倍の学校環境衛生基準問題」に焦点を当てたとき、なぜ、この原告主張が311後の人権侵害を象徴することができたのか、その理由を再考している中で、
そうだ、この原告主張では、
「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行したから、そこで、311後の年20mSvが穴埋めをした基準と比較して7千倍になっているという、いかに残忍酷薄の人権侵害であるかが白日の下にさらされたんだ
ということに気がつきました。この原告主張で、もし「法の穴」の発生を指摘せず、「法の穴の穴埋め」も実行しなかったら、311後の年20mSvがいかにむごいものであるかも単純明快には証明できず、一審判決と変わり映えのしない主張にとどまっていたはずです。
くり返しますと、なぜ「7千倍の学校環境衛生基準問題」が311後の行政の措置の人権侵害振りを燦然と鮮やかに指摘し得たかというと、それは、「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行して「本来の法の姿」を示し得たからです。
その結果、憲法の基本原理「法治主義」、その行政への適用である「法律による行政の原理」に行政は従う義務を負っており、311後も、行政は、この「法の穴の穴埋め」を実行して得られた「本来の法」に従う義務があり、それを愚直に実行したら、311後の行政の措置はことごとく違法という判断が下されたはずです。
しかし、現実には、そのような判断とは間逆のことが起こった。それが、福島原発事故の発生で、原発事故の救済に関する法は不在だと判明したのだから、ここは「法令の具体的な定めがない」とみなして、行政が従うべき法律が不在なんだから「法律による行政の原理」は停止され、行政への全権委任もやむを得ないだろうということで、311後のあらゆる人権侵害が堂々と正当化されるという事態です。
ここから引き出される教訓は、我々は「7千倍の学校環境衛生基準問題」にとどまらず、311後のあらゆる人権侵害問題で「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行して「本来の法の姿」を示してみせることに、徹底してこだわるべきだ、と。
幸い、今、日本政府の人権侵害は世界の注目を浴びていて、国際人権法が、311後の日本の法の穴を穴埋めする最良の規範として、私たちの目の間に存在するのです。まさに、国際人権法が「ピンチをチャンス」に変えるキーワードなのです。
それを試みたのが福島地裁・仙台高裁と東京地裁の2つの追出し裁判です。
今その観点から、追出し裁判の書面を書いています。
とはいえ、以上の仮説は、今までどこにも書いてない、だれも正面から主張していないものです。
しかし、私は、この「法の穴」問題が311後の日本の独裁的な法体制を作り上げる上で、キーワードになっているのではないかと思い、これを皆さんに問題提起したいと思った次第です。
その問題提起をさらに理解してもらうために、追出し裁判のために、大法螺を吹いていると批判されそうな私の草稿を添付します。
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