第117話で、「まだ、まにあうのなら」を初めて知って思ったことを書いた。今度は、この小冊子を当時、100部購入して回りの人に夢中で配ったという日本版の会の正会員の人の話を聞き、思ったことです。
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私からその正会員の方に「あの小冊子を100部も購入させたもの、原動力は、何だったんですか」という問いに、
その方がすぐさま答えてくれたのが、あの小冊子の冒頭の次の一節、これにショックを受けたということでした。
「なんという悲しい時代を迎えたことでしょう。
今まで、自分の子どもに、家族に、ごく少量ずつでも、何年か何十年かの地には必ずその効果が表れてくるという毒を、毎日の三度、三度の食事に混ぜて食べさせている母親がいたでしょうか。」
放射能の汚染の中で生きるとは何か。これについて、なんという正確な記述だろう。この方がショックを覚えたのは、おそらく、それまで反原発の運動の中で、このような書き方をした文章にお目にかかったことがなかったからではないか。それはこの方だけではなくて、これを夢中になって読んだ50万の市民も同様だったのではなかったか。
私は、このくだりを読んだとき、ロシアの文豪ゴーゴリの次の言葉を思い出しました。
「‥‥宣教することは私の仕事ではありません。芸術はそれでなくとも、はじめから教訓なのです。
私の仕事は生きたイメージで語ることであり、議論することではありません。
私は人生について解釈するのではなく、人生を人々の前に呈示しなければならないのです」
そして、36年前、「まだ、まにあうのなら」を書いた甘蔗さんは、チェルノブイリ事故後を経験したあとの私たちの生活を議論したり解釈するのではなく、生活そのものをズカッと読者の前に呈示してみせた、恐るべき正確さをもって。そのリアリズムに50万の読者は震撼させられた。
36年後の今も、私たちに必要なこともこれと変わらない。過去に経験したことがないようなヒドイ事態が現実のものとなっているのなら、その現実をありのままに、ズカッと人々の前に呈示してみせるしかない。余計な忖度、気配りをして、気をそこねないように配慮をしまくると、結局、何が言いたいのかさっぱり伝わらない。
その一方で、どこの世界でもそうだが、反原発の運動の最良の指導者の人たちすら、長い間に「決まり文句」を口にするようになる。そのほうが内容は正しく、メッセージを正しく伝えるのには有効だからである。しかし、その言葉はくり返されるうちに、摩滅し陳腐化し衰弱してくる。すると、人々は、その手垢にまみれた「決まり文句」に正直、またかとうんざりし、嫌気が差してくる。
これに対し、当時、初めて放射能の世界に足を踏み入れ、起きたばかりのチェルノブイリ事故の惨劇にただただ圧倒されていた、「まだ、まにあうのなら」の甘蔗さんにとって、そういう「決まり文句」は無縁だった。自らの感性に従い、自らの生活体験に裏打ちされた言葉をつむいで、自分に上に重くのしかかってきた放射能災害の現実を必死になって受け止めようとした(※)。その苦悩、苦しみの中で格闘する姿勢が、「決まり文句」ではない、生々しい、ときにはみずみずしい言葉を生み出し、人々の心にストレートに届いた。これはもうひとつの「チェルノブイリの祈り」だ。
最後に。分かっているようで、実はよく分かっていない大切なことを、甘蔗さんの小冊子から教えられた。
それは、私たちの原発事故体験は百人百様だということーーそれは経験した場所や内容がちがうからではなく、たとえ同じ場所、同じ内容であっても、原発事故の体験の受け止め方は百人で、百、ちがってくる。大切なことは、甘蔗さんのように、たとえチェルノブイリから何千キロ離れていようとも、50万人の人々の心に届くような体験をめざすこと。これに対し、何か、自分はもう原発事故のことは分かっている、理解しているなんて、これ以上傲慢不遜な態度はない。たえず、今の自分の認識は50万人の人々の心に届かない、いまだいかにうすっぺらで、擦り切れた「決まり文句」でしかないのだということを自覚し、50万人の人々の心に届くような「生きた言葉」を発見するように、その努力の積み重ねを続けることが大切だということを教えられた。
(※)当時を振り返って、甘蔗さんはこう書いている。
《『億万長者はハリウッドを殺す』を読んでのちのある日、福岡市内を歩いていると、目に飛び込んできた「広瀬隆」の文字、電柱に貼ってあった一枚のチラシ、十月二十六日、その人の講演会の案内チラシでした。思いがけず早く、お会いできる機会が来ました。その当日、広い会場はいっぱいの人で溢れています。その人は精悍な感じの人でしたが、講演の第一声は柔らかく、静かな語り口で、意外でした。O.H.P.で次々と映し出される映像と、その解説に、聴衆は水を打ったように静まり返り、二時間余りの時間を聴き入り、咳の一つもないという不思議な時間、空間でした。もちろん、初めて聴くチェルノブイリ原発事故の実態の衝撃は、腰を抜かし、奈落の底へ突き落とされた思いでした。
それからすぐに原発関連の本を読み漁り、活動にも積極的に参加して半年、身心共に疲れ果て、重く、沈み込むようなからだを畳に横たえている時、身体の奥の方から、ウワァ〜〜と、何かが衝き上げてきました。私は、思わず身を起こし、傍にあった机に向かって書いていました。「何という悲しい時代を迎えたことでしょう」と。それから数日間、湧き出てくるままに、何も考えず、ほとんど何も口にせず、書き続けました。それが『まだ、まにあうのなら』でした。》(「広瀬隆」はこんな人でした)
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