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2023年7月12日水曜日

【108話】人間になれなかった裁判官(その3):第二戦開始のゴングが鳴るや終了のゴングが鳴った追出し裁判控訴審(2023.7.11)

            7月10日、裁判前の入廷行動

これは、本来なら、国連関係者も呼んで証言してもらい、最も時間をかけて丁寧に、避難者の人権問題を吟味検討して初めて避難者の「裁判を受ける権利」が保障される裁判である。にもかかわらず、実際はよりによって、たった1回だけで、それも30分という最短の時間で審理終結を宣言し、敢行したという異例の展開となった。
以下は、世界の良識がみたらマユをひそめないでおれない、世にも奇怪な、この仙台高裁の裁判の報告である。
かつて、公職選挙法の規定が憲法に違反するという判決を書いて、その後、最高裁から様々な嫌がらせを受けた裁判官がいた。彼はのちに、自分のことを「犬になれなかった裁判官」と呼び、この題名の本に書いた()。今回の裁判官はその対極に立つ裁判官である。つまり「人間になれなかった裁判官」。

安倍晴彦「犬になれなかった裁判官―司法官僚統制に抗して36年


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避難者追出し裁判の第二回戦(控訴審)が仙台高裁で昨日7月10日開かれた。第一審の福島地裁の1月13日の判決言い渡し、それは判決の体裁さえ放棄した「判決もどき」の「エセ判決」(その理由を述べた「弁護団の声明」はー>こちら。以下、原判決といいます)の言渡し以来、半年振りの裁判だった。この間、控訴人、弁護団、支援者は、原判決の誤り、出鱈目ぶりを明確にするために、改めて、避難者の住宅問題の本質を探る検討を重ね、振り返りを行い、その積み重ねの中から、3月13日に、これまでの主張を再吟味し、集大成した控訴理由書を完成させ、控訴審での真相解明について次の6名の証人尋問を予告した(その内容についてはー>第107話参照)。
             
(1)、控訴人を「強制退去させることが真にやむを得ないという事情」が現実に存在していたか否かについて(控訴理由書19~20頁)
 浜田 昌良(元復興副大臣)
(2)、控訴人が本件建物から明渡しを余儀なくされた場合に控訴人及びその家族にいかなる窮乏をもたらすかについて(控訴理由書19~20頁)
 控訴人2名
(3)、国際人権法が許容する明渡しが認められるための条件である「代替措置(住居)の誠実な提供」がいかなる意義を有するかについて(控訴理由書20~22頁)
 清水 奈名子(宇都宮大学国際学部教授)
(4)、現在の日本において、原発事故の避難者にとって生活保護が現実に「代替措置(住居)の誠実な提供」足りうるものかについて(控訴理由書20~22頁)
 瀬戸 大作(一般社団法人反貧困ネットワーク 事務局長)
(5)、国及び県が、自主避難者が生活再建を果たし、仮設住宅の明渡しが実行できるだけの体制が整うように、そこに向けていかなる生活再建策を掲げ、どのように実行してきたかについて(控訴理由書30~31頁)
 国:木村 実(国交省から復興庁に出向し復興公営住宅を制度設計した参事官)
 県:野路 誠(県の初代避難者支援課長)
 日野 行介(ジャーナリスト)
(6)、無償提供の打ち切りに関する本福島県知事決定の裁量権の逸脱・濫用について、決定の判断過程の各局面の論点について看過し難い過誤があったか否かについて(控訴理由書31~34頁)
内堀 雅雄(福島県知事)
(7)、2015年6月の無償提供の打ち切りに関する福島県知事の決定にあたって、「内閣総理大臣の同意の拒否」の具体的内容及びその内容が財政上の正当な理由に基かず、それ以外の理由に基いて同意を拒否したものか否かについて(控訴理由書32~34頁)
 浜田 昌良(元復興副大臣)
(8)、県が自ら原告となって本訴を提起するために、国に本件建物の使用許可を申請していた事実について(控訴理由書10~14頁)
大橋 雅人(県の避難地域復興局生活拠点課課長)

そして、避難者の権利を根拠付ける法として「国際人権法」を導入するための理由付けについて、国際人権法の新進気鋭の研究者、宇都宮大学の清水奈名子教授の協力のもとに、控訴人へのリアリングを経て意見書の準備をし、7月7日、これを完成させ、裁判所に提出した(その内容についてはー>第106話参照)。時あたかも、国連人権理事会の特別報告者のダマリー氏の公式報告が理事会に提出・公表され(ー>そのニュース)、その中で本裁判の問題点に言及するという、本裁判は国際世論の大きな注目を浴びる状況の中にあった。

以上の通り、これらの準備により原判決の誤りをただすのは「時間の問題」という確信を抱き、控訴人は満を持して、7月10日の控訴審第1回期日に臨んだ。そして、法廷で、本裁判で控訴人が提起した論点について、原判決がいかなる意味で誤りに陥っているかを、法律の素人でも理解できるように「要旨の陳述」を行い、裁判官が「原判決の見直しは必至である」という確信を抱けるように努めた。
ところが、このあとの展開、「要旨陳述」に対する裁判所の応答は控訴人の予想と正反対、間逆であった。裁判長は、いきなり
本日で審理を終結する。判決言渡しは9月‥‥
と言い出し、法廷内は騒然となり、途中から裁判長の声は控訴人代理人・傍聴人の抗議の声でかき消された。しかし、裁判長、この時ばかりは「法廷内の権力者は裁判長」というカードを思う存分使い切り、控訴人代理人・傍聴人の抗議を無視して、後ろのドアを開けて、さっさと消えていった。その間、わずか1分ほど。一瞬の出来事に、残った控訴人代理人・傍聴人はだまし討ちに遭ったような気分に襲われ、こみ上げて来る理不尽さを抑え難く、そのあと、そそくさと退室しようとした福島県の代理人に控訴人は思わず声を荒げて詰め寄った。並みいる傍聴人も席から立ち上がる気力も奪われて、裁判官が去った法廷で怒号の野次が飛び交った。

半年振りに、ようやく新たな裁判の幕が上がったかと思ったら、30分もしないうちにあっという間に、その幕が下りてしまった。まるで、第二戦開始のゴングが鳴るやたちまちのうちに終了のゴングが鳴ったボクシングの試合のようだった。

こんなボクシングを観た観客が「八百長だ」と騒ぐのが当然のように、この高裁の裁判を傍聴した市民が、これは裁判の名を借りた「八百長裁判」「エセ裁判」 だと思ったとしても不思議でない。

これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー弁護士が福島県の代理人をやってんじゃなくて、裁判所が福島県の代理人をやってるんだと(福島県の代理人弁護士は「はい」と一言言ったきり、何もしていない)。

これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー自主避難者の人権(居住権・生存権・自己決定権)を侵害する者は福島県ばかりか、裁判所も同類なんだということを。

 これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー少なくとも仙台高裁民事3部の裁判所は、憲法の教科書に書いてある「(市民の)人権の最後の砦」ではなくて、「(市民に対する)人権侵害の最前線の攻撃基地」なんだということを。

 これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー自分たちの国は民主主義の国だと思っていたけれど、私たちの言い分に耳を傾けて欲しいという市民のささやかな願いすら蹴散らされてしまう、実は独裁国家の国なんだということ、実はアジアの独裁国家の仲間だったんだということを。

これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー憲法の教科書に書いてあるような、「三権分立による民主主義」が内部崩壊し機能不全に陥っているとき、そこで嘆いたり、絶望したりするのではなく、民主主義の起源に立ち帰る必要があるということを。

これを観た控訴人と傍聴した市民は思い知ったーー一握りの専門家集団にお任せするというお任せ民主主義=間接民主主義の幻想から目覚めて、 民主主義の起源である、市民の自己統治による直接民主主義に向かうしかないことを。

他方で、この法廷を見て、すっかり絶望した市民もいたと思う。確かに絶望するほかないメチャクチャな裁判だったから。だが、この日の絶望の事態はだてに訪れたのではない。控訴人側で原判決の破綻、誤りを反論の余地がないまでに突き詰める努力を重ねてきた、その努力の賜物なのだ。もし控訴人の主張が軽々と反論される互角のレベルの主張であったら、裁判所もこんな愚かな幕引きを強行しない。余裕をもって反論する判決を書けばよいからだ。

しかし、本件でこの裁判長にはそんなゆうちょな真似をする自信も余裕もなかった。私たちが絶望する前に、まずこの裁判長自身が絶望に追い込まれたーーこのままでは、余裕をもって反論する判決なんか書けない。だから、これ以上、控訴人にとやかく言わせず、一刻も早い幕引きをするしかない、と。
「本日で審理を終結する。判決言渡しは9月‥‥」と言い出した時、傍聴人は裁判長の手がわなわな震え出したのを目撃した。もちろん彼は、冷静沈着な裁判長という役回りを演じる必要があったから、事前に何度も練習していた筈だが、いざ本番となると、一世一代の茶番劇の大根役者を演じる余り、冷静沈着な裁判長とは反対の、震える裁判長という姿を法廷でさらしてしまった。 

ともあれ、昨日の出来事は「裁判の拒絶」である。それは控訴人の「裁判を受ける権利」の侵害以外の何ものでもない。それは、控訴人に「避難者の人権」があることを裁判を通じて明らかにしようとした控訴人の意図をくじくためである。

もともと人権侵害を完成させるためには、侵害者の側も人権侵害を行う(行政)権力者とこれを裁く裁判所が結託(連携プレーを)する必要がある。それは近時の袴田事件を見れば一目瞭然である。  

こういう独裁国家の正体が姿を見せた時、私たち市民はどうすればよいのか。まずは、人権侵害者としての裁判所の違法行為を厳しく追及する必要と覚悟がいる。「弱きをくじき、強きを助ける」ために裁判所が存在するのではないことを、ひとりでも多くの市民の手で、独裁裁判所に思い知らせる必要がある。そのお手本を、昨日の裁判のあとの報告集会で私たちは目撃した。そこに参加した傍聴者たちは、異口同音に「こんなひどい裁判は初めて見た。ビックリした」と語っていた。ここに私たちの次の行動の原点、そして光がある。
暗黒を通じて、光を掴む、その取組みを続けること(この投稿、未完。続く)

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