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2024年3月16日土曜日

【第136話】福島県から強制執行を受けた自主避難者本人の陳述書

 以下は、今回、福島県から強制執行を受けた自主避難者本人が作成した、避難者追出し裁判の一審福島地裁に提出した陳述書に、二審で意見陳述をする積りで準備した原稿(仙台高裁が一発結審を強行したため、意見陳述の機会は奪われた)を書き加えたものです。

この陳述書に共感した方は→以下のオンライン署名を!

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被告本人の陳述書

目 次 

第1、略歴
第2、福島原発事故当時の生活
第3、福島原発事故後の生活・健康状態
 1、東雲住宅へ入居した当時

   2、無償提供の打切り

3、セーフティネット使用貸付契約

4、避難者向け300戸の都営住宅の募集

5、福島県からの住宅の紹介

6、避難先での「復興公営住宅」の建設

7、仕事について

8、生活再建に対する福島県の支援

9、一時使用許可書の申請

10、調停の申立て

11、最後に

 

第1、略歴

 私は196…年、……で生まれ、高校卒業まで過ごし、卒業後に東京に上京し就職、結婚、長女を出産し、東京で生活をしていました。しかし前夫の父が体調を崩し入退院を繰り返していた為、前夫の実家のある福島県南相馬市に1998年、長女が小学校入学に合わせ引越し、そこで次女も生まれ新たな生活を始めましたが、時間と共に夫婦間で少しずつずれが生じ、その結果、2002年に離婚に至り、私は娘2人を引き取り母子家庭としての生活が始まりました。

私は生計を立てる為、介護ヘルパーの資格を取得し、夜間も含め病院で介護士として働いていましたが、持病の腰痛が悪化したため社会福祉協議会に転職しました。住まいは知り合いの家に月3万円で間借りし、何とか生活をしていました。

第2、福島原発事故当時の生活
 そんな中、2011年3月11日に東日本大震災が発生し、南相馬市長より避難の要請が出された為、私は次女を連れて友人家族の車に便乗させてもらい関東方面に向かいました。

 しかし当時ガソリンが手に入らず、東京までは行けず、途中栃木県のそば屋で一泊させてもらい、翌日宇都宮駅から次女と各駅停車の電車に乗り、東京に向かいました。東京では頼れる人も居ないので、離婚した前夫の元に身を寄せましたが、その後 福島県の情報が全く入らず、どうして良いのか分からず途方に暮れて不安な時間を過ごしている中、次女の同級生が足立区の武道館に避難していることが分かり、そこへ会いに行き、初めて避難所があることを知りました。その避難所は避難者向け都営住宅の募集もしていて、老人ではないし当てはまらなかったけれど直ぐに申し込みをしましたが、落選通知が東京都から来て、その後東京都から「赤坂プリンスホテルに入れる」と連絡を受け、4月中旬頃、東京の専門学校に通っていた長女と合流して赤坂プリンスホテルに移動しました。6月末までそこで過ごして、その後、千代田区の全国町村会館へ移動、7月末に現在の住まいである東雲住宅へ入居しました。

 

第3、福島原発事故後の生活・健康状態
1、東雲住宅へ入居した当時
 福島原発事故当時住んでいた所は2011年4月に緊急時避難準備区域に指定されましたが、同年9月末にその指定が解除されて私は区域外避難者となりましたが、私は放射線に対し大きな不安があり、納得できず、我が子を守るため、地元に帰ることは出来ませんでした。結果、当時勤めていた南相馬市の介護施設を退職せざるを得ない状況となり、又 借りていた住居の大家からも「南相馬市に戻って来ないなら解約をし明け渡してほしい」と言われ、了解せざるを得ず、本当に辛く苦しい選択でした。それが我が子を放射線から守る為の判断として間違ってなかったと今でも思っています。

 当時 私は持病の腰痛を抱えアルバイトぐらいしかできず、次女の学費,又 生活費などは私のアルバイト代と長女の収入で何とかやりくりをしてきました。住宅が無償であったからやっと生活が成り立っていたのだと思います。

 実は次女の学校も決まり少し落ち着いたら職探しでもと思っていましたが、次女が東京の学校に馴染めず、入学後すぐに「学校に行きたくない。福島に帰ろう」と毎日泣かれてしまいました。ですが、あの事故で私の中では、子どもを連れて福島に戻るという選択は全くありませんでした。次女に日々、地元がどれだけ危険か説明、説得しましたが、そこから会話も無くなり登校拒否の始まりで、自室に篭り勝ちになり、親としてふっと「自殺」の文字が頭をよぎり、娘を一人にしちゃいけない恐怖とこんな中職探しなんかできないが、この先の生活はどうなるんだろうという不安とで日々圧し潰される思いで過ごしていました。

 登校拒否の中、クラスの同級生が我が家まで何回か顔出しをし、登校時も迎えに来てくれてと多々あり、保健室の先生も自ら自転車で我が家に来て次女の部屋に行きそのまま彼女の寝ているベットの中に一緒に横になりながら何時間も話をしてくれたりと、家族身内でない人たちにどれだけ励まされ、支えられ、又、親の私でさえ出来ないほどのたくさんの言葉や行動に感謝しきれないほど次女の為に動いてくれました。そこで少しずつではありますが、次女が変化するのが手にとるように見えてきて、そこからの第一歩が保健室登校の始まりでした。どれだけ感謝してもしきれないほどの思いが未だにあります。私たち親子は何も楽をして今日を迎えた訳ではありません。

 このように、どうにか東京に避難しましたが、友人や親せきなどのいない土地での生活は大変で、次女は慣れない学校生活で不登校や保健室登校となり母親である私も苦しみ、想像していた以上に毎日が不安な生活で、精神的に滅入って何も手につかず、先の事を考える事すら出来ない状態でした。

 2016年5月頃から短期の契約で、東雲のイオンの中にあるうどん屋「温や」で約1年弱、レジ担当と料理提供の仕事をしましたが、持病の腰痛が悪化し、2017年3月頃働けなくなりました。

 

2、無償提供の打切り

 2016年暮れ、福島県から、東雲住宅の無償提供を3月で終了するので、その対応として有償で2年間、今住んでいる国家公務員宿舎に継続入居できることになったので、避難者の意向を確認したいという文書が届きました。2017年1月10日までに提出するよう記載されていましたので、住むところが無くなると困ると思い、継続入居を希望するという意向調査書を提出し、そのあと、福島県から貸付条件等の書類が送られてきたので記入して、3月に誓約書と使用申請書を提出しました。そのあと、福島県からセーフティネット使用貸付契約書が送られてきました。そこには家賃と共益費合計で月6万2、3千円と書かれていました。当時、私は持病の腰痛の悪化のため働けなくなり、失業中でした。この状況で、この金額をこれから毎月払うことになると、「数か月は支払えたとしても、貯金や長女の収入から見ても、その後は払えなくなるのが見え見えだ」と、生活が成り立たないと不安が募り、かといって、ここから立ち退くことは、引越費用や、もっと高い民間の家賃を考えたら不可能なことは明らかでした。それで、契約書にサインして提出することが出来ずにいました。その為 福島県から責められていました。

 

3、セーフティネット使用貸付契約

2017年8月29日に、福島県の職員の方3名が 事前連絡もなく直接 玄関先に来て、「セーフティネット契約の締結の件で、まだ契約書が提出されてない」と言われました。私はまだ白紙のままの旨を伝えると、職員の一人が「私達はここで待ってるので 契約書にサイン 捺印をして直ぐに提出するように」と強制的に責められました。その時は丁重に断りましたが 正直 直接玄関先に来られた時は驚き、と同時に 恐怖感も有り 又 来るのではとビクビクしながら過ごしてました。

すると、9月15日にも、福島県の職員の方3名が玄関先に来ましたが、私は不在だったので訪問票が置いてありました。そこには「未契約状態での使用継続は看過できない状況となっており、今後は、法的措置等も含め明け渡しを請求する場合もございますので、ご承知おきください」と書かれていました。それで、こんなプレッシャーを受ける状態で生活するくらいなら早々と出した方が良いのかな、しかし払えないしと精神的にも参ってしまいました。

4、避難者向け300戸の都営住宅の募集

私にとって民間の賃貸住宅を借りるのはとても厳しい状況でしたので、都営住宅に入居を希望してました。2016年夏に、東京都が避難者向けに300戸の都営住宅の募集を行いました。そこには募集要件があって、一人親世帯に該当するためには同居家族が親と20歳未満の子であることが必要でした。しかし、私の長女は20歳を超えていて一人親世帯という世帯要件に当てはまりませんでした。かといって、一人親世帯に該当させるため長女を別居させるだけの経済的余裕もありませんでした。それで、福島県に相談したのですが、 福島県の人達は「一般の人達と違い枠を広げて設けてあるので 通常の申し込みで頑張って下さい」と返答するだけで、私が「何とか都に口添えを…」と願っても全く動いてもくれませんでした。それで、でもと思って応募してみましたがやはりだめでした。

 

5、福島県からの住宅の紹介

2019年11月、福島県から紹介された不動産関係者の方に依頼をし 物件をいくつか内見に行きましたが 中にはまだクリーニングも入ってない カビやホコリだらけの物件等もあり 又 こちらの家族構成や条件なども伝えてあるにも関わらず 私の質問「バス停が何処に有るのか?」「駅までの所要時間は?」「スーパーは近くに?」など生活する上で必要な事も全く調べてない様子で、返答すら曖昧な態度でした。それで、私は、福島県に対し、避難者に物件の紹介実績を残す為、事務的に紹介しただけなんだなと感じました。正直、私達に寄り添って探した物件とは とても思えませんでした。

6、避難先での「復興公営住宅」の建設

4で書きましたとおり、都営住宅の応募は世帯要件が壁になりました。けれど、避難所は収入要件も世帯要件も問われません。その一方で、自力で住宅を確保できない人のための復興公営住宅を福島県は建設していますが、それが被災県(福島県)のみにしか建設されず、避難者が避難した先には1棟も建設されていません。2011年9月末で緊急時避難準備区域の指定が解除されて、私は区域外避難者となり、その1年後に1人あたり月10万円の賠償も終了しましたが、私のような、原発事故被害でほとんど賠償を受けていない区域外避難者は自力で住まいを確保できず、公営住宅に頼らずには不可能です。この区域外避難者の窮状を福島県はよく知っているはずなのに、そのための施策を福島県は怠ったのです。いつも「県民に寄り添っていく」と言っていた福島県がなぜ私のような区域外避難者に酷い方針を立てているのか理解できません。

 

7、仕事について

 1で書きましたとおり、地元に戻らないと決めたので、原発事故当時勤めていた南相馬市の介護施設を退職せざるを得ませんでした。当時 私は持病の腰痛を抱えアルバイトぐらいしかできず、2016年5月頃からアルバイトとしてうどん屋で約1年弱、働きましたが、持病の腰痛が悪化したため、2017年3月頃やめざるを得ませんでした。2017年9月、NTTドコモの下請け会社で、携帯電話の故障などをチェックする仕事が見つかりました。初めての職種だったので自分にやれるか不安でしたが、働かないと食べていけないので、契約社員として1年半程勤務しましたが、その会社が移転の為、場所的に通う事が出来ず退社しました。その後はハローワークに通いながら友人の居酒屋の手伝い等をして、2年前にホテル業務の仕事が見つかりました。これも初めての職種で不安でしたが、そんなことを言っている場合ではないので、就職し、現在、何とかそれで決まった収入を得てる状況です。しかし1年契約で不安定なので、また、オミクロンのせいで、戻って来つつあったホテルの利用者がまた減ってきているので、この先どうなるか分かりません。

 

8、生活再建に対する福島県の支援

 ところで、7に書いた仕事はぜんぶ自分で自力で見つけてきたものです。福島県が紹介したものはひとつもありません。

 その一方で、福島県は福島県に戻る人のためには、就職の相談会を熱心にやります(2021 1 月もやっていました)。私のように戻らない人で避難先で就職を希望している人のためには、就職の相談会を熱心にやっていないと思います。以前、飯田橋で都内避難者向けの(お仕事説明会)のチラシは見たことがありましたが、しかし仕事先や給料、条件などの具体的な記載がなく、「仕事見つかりました」というコメントも資格のある人の話で、私には参考になりません。それで、これでは行ってもダメだろうなと思って行きませんでした。

 

9、一時使用許可書の申請

 2017年3月の住宅の無償提供打ち切りに対して、ほかの区域外避難者の人たちと一緒に、福島県等に、使用の継続をお願いする一時使用許可書の申請をおこないましたが、「施設の所有者でないため許可する管理権限を有していないから判断できず、申請書は返送する」といった意味不明な回答だったので、もう1回、同じ申請をしたところ、また同じ意味不明な回答しかありませんでした。口では「県民に寄り添っていく」と言う福島県が私のような区域外避難者になぜこんなよそよそしい態度を取るのか、理解できません。その具体的な内容は、本訴状の26~27頁に書かれているとおりです。

 

10、調停の申立て

2018年4月に、福島県から調停にかけられました。私は調停というのは、問題の解決に向けて建設的な話合いをする場とばかり思っていたのですが、実際はちがいました。福島県の態度は、セーフティネット使用貸付契約を締結しろと主張するばかりで、私が入居可能な物件の提案などはひとつもありませんでした。それで、見かねた調停委員が私を心配し、都営住宅の申込を続けることを勧めてくれました。けれど、一般の市民と同じ募集条件のために、そのうえ、福島県からは東京都に積極的な働きかけは何もなかったので、落選を続けました。そして、2019年1月に、福島県からの申し出で調停は不調に終わりました。最後の場で、調停委員は「実を取ればいいんですよ。すぐには明け渡しや裁判はしないでしょうから」と感想を言ってくれたので、私は少しホッとしました。しかし、私の期待は裏切られました。調停打ち切りのあと、2020年3月25日に提訴されたからです。

 

11、最後に

1で書きましたが、2011年9月に、福島原発事故当時住んでいた地元の緊急時避難準備区域の指定が解除されたとき、私は悩んだ末に、地元に戻らないと決断しました。今でも同じ思いです。当時、被ばくの被害がどの程度の範囲に及ぶかは誰にでも計り知れず、何より子どもたちへの被ばくを避けたいとの思いで今に至っています。
 しかし、そのため、友人も親せきもいない土地での生活や仕事探しは大変で、次女も慣れない学校生活のため不登校や保健室登校などで悩み、私も何回も転職をして、想像以上に不安な毎日を送らざるを得ませんでした。

これに対して、「県民に寄り添っていく」と言っていた福島県が、以上述べましたように、何故 私たち県民に酷い方針を立てているのか、私には理解出来ません。現在 福島県は避難者に地元に戻ってくるようアピールをし、戻ってくる人には手厚い保護や手助けをしていますが、「戻る権利」があるなら「戻らない権利」があって然るべきで、戻らない選択をした人達にも同様に責任を持って、寄り添うべきだと思います。

 原発事故が起きた時、南相馬市は全市避難でした。確かに避難場所として東京に来たのも私自身ですが、今 やっと自力で職も見つかり少しずつですが、生活を何とか出来るよう整えている状況の中で、なぜ住宅の追い出しをして来るのか、福島県の酷い方針にどうしても納得出来ません。

以 上

 

 

 

 

 


 

 

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