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2024年3月1日金曜日

【第128話】今まで書いたことがなかった「司法積極主義」と「法の欠缺」の補充と「国際人権法」の相互関係に言及した準備書面の提出(24.3.1)

原告準備書面(12) 1頁目(ー>PDF全文

1、はじめに、つぶやき。
 昨年末から今年の年明けにかけて、過去58年間の振り返りをする中から、法律家として態度変更するしかない、そして、そのことにもっと自覚的になるほかないと悟った。

 58年間の振り返り:法律家としてはともかく、人権法律家として完全失格

ただ、頭の中で、新しい歩みを踏み出すしかないと悟りながらも、いざ現実にその一歩を踏み出すとなると、どのように踏み出したらよいのか問題の決着がつかないまま、グルグルと堂々巡りするか決着の前に逡巡し続けていた。この思案と試行錯誤の日々が続く中で、とうとう、現実の一歩を踏み出す仕事の〆切が2月末に迫ってきた。
それが、2年前の3月、自主避難者から福島県を提訴して始まった、福島県による自主避難者の仮設住宅からの追い出しをめぐる裁判。

 もうこれ以上、猶予はできないというギリギリのところに追い詰められて、そこでようやく、腹を括って書くことに決めたのが、冒頭の準備書面(ー>PDF全文)。

それは、提訴以来2年近くの双方の主張を振り返って、現時点における裁判の核心となる課題を掴み取り、これを裁判所に提示したもの。

一言で言って、それは「裁判所が 一歩 前に出ること」

たとえ一歩であろうとも、その積極的な姿勢のない裁判所に向けて、国際人権法にしても行政裁量論にしても、どんなに立派な法律論を並べてみたところで、彼らには「絵に描いた餅」「猫に小判」、糞の役にも立たない。
ただし、そのことを感情論や道徳論として示すのではなく、あくまでも論理的、理論的にそれしかないことを論証するというスタイルで示そうとした。
裁判官にこんなケッタイなラブレターを書いたのは、大昔の著作権裁判は別にして、社会的な裁判に手を染めるようになって以来、初めてのことだ。だが、こういうコミュニケーションは司法の本質に思いを致す時、普遍的なアクションだと改めて確信している。 

少々長い手紙だが、以下に転載する。

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第1、本裁判に対し原告らが望むこと
1、結論
本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは真空地帯で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して原告らが裁判所に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。以下、その理由について述べる。

2、司法権のスタンス――司法消極主義と司法積極主義の使い分け――
福島原発事故が国難ともいうべきカタストロフィ(大惨事)であり、これに対する国の政策も国策と呼ぶに相応しいものであることは誰しも否定し得ないところであろう。従って、国策という政治性の極めて強い問題に対し、民主主義社会における司法が、国民の信託を受けた立法・行政の判断を尊重し、自らの判断に控え目になることいわゆる司法消極主義にはそれ相応の理由があるものというべきである。
他方で、どんな原則も万能ではあり得ず、例外のない原則がないことも古来から知られているところである。この理は司法消極主義にも当てはまる。その司法消極主義の例外について述べた、古くから有名な文書が別紙にその訳文を添付した、1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4である。そこでは、司法消極主義を正当化する根拠となる民主主義の政治過程が正常に機能しない場合もしくはその根拠が性質上及びにくい場合、民主主義の政治過程やその根拠が及びにくい領域の人権問題について、司法がなおも司法消極主義にとどまっていたら、それは司法が司法消極主義では治癒できない病理現象から目を背けることにほかならず、正義にもとることになる。このような場合には司法は態度を変更して自ら積極的に司法判断に出る必要がある。他方、ここで行う審査とは政策の当否といった政治論争の審査ではなく、あくまでも人権保障という法的観点から人権侵害の審査を行なうことであり、それ以上でもそれ以下でもない。そして、それはもともと司法が最もよく果たし得る作用である。その意味で、これは司法が積極的に司法判断に出るに相応しい場面である。すなわちこの場面での司法積極主義こそ司法に課せられた重大な使命と言うことができる。上記のストーン判事の脚注4はこのことを、次の3つの類型で示して明らかにしたものである。
①.民主主義の政治過程を制約する法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
②.憲法が掲げる基本的人権を制約する法律については、合憲性の推定が働かず、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
③.特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた法律、すなわち個々の孤立した少数者の人権を制約するような法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
(泉徳治元最高裁裁判官の2004年10月30日「司法とは何だろう」講演録 74~75頁による)

3、本件
 ところで本件は上記脚注4の③のケースに該当する 。なぜなら、原告らは災害弱者だからである。原告らはもともと福島原発事故以前から社会的、経済的弱者に属する人たちであったところ、自分たちには何の落ち度もない福島原発事故というカタストロフィが発生した結果、行政が被災者へのヒアリングもしないまま勝手に線引きした強制避難区域の網から漏れて、命、健康を守るための自衛措置として自力で避難する中で一層苦境に追いやられ、孤立した災害弱者の地位に落とされてしまったものである。この意味で、本裁判は「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」が問われているからである。
のみならず、本件は上記脚注4の①と②の両方のケースにもかかわる。しかもそれは最も救済を必要とする切実な事例に該当する。なぜなら、本件は②のケースにように、単に原告らの基本的人権だけが問われているのではないからである。本件には以下のような本件に特有な事情が存在する。民主主義社会において、「法の支配」や「法律による行政の原理」は「法律」が存在していることを大前提としているところ、福島原発事故まで日本の法体系は原発事故を実際には想定してなかったため、原発事故の救済に関して真空地帯の発生、つまり完全な「法の欠缺」状態にあった。なおかつ福島原発事故後も、この真空地帯に対し、半世紀前の「公害国会」のときのような「欠缺の補充」のために立法的解決が殆ど実行されなかった。その結果、福島原発事故の救済に関して「法の支配」「法律による行政の原理」に用いるべき「法律」がずっと真空地帯(欠缺状態)のまま、「法の支配」「法律による行政の原理」が正常に機能しないという異例の事態となった。この意味で、本件は、民主主義の政治過程に真空地帯という重大な欠陥が生じるという極めて憂慮すべき事態のもとで、原告らの基本的人権の侵害が問われている裁判である。それが本件は①と②の両方のケースにかかわるという意味である。それゆえ、こうした真空地帯が発生した場合には司法は人権問題を積極的に審査する、それがストーン判事の脚注4の立場である。

4、原告らの真意
 本裁判で原告らが一部請求したのは貼用印紙代という経済的理由ばかりではなく、原告らの真意を裁判所に伝えるためである。すなわち、原告らは自分たちを金銭で救済せよと求めているのではなく、これは人間の命、健康に関わる最も重要な基本的人権の問題である、だから、この人権侵害を何としてでも是正して欲しいと、それで、被告県の行政行為が違法であること(人権侵害をしていること)の確認を求めて本訴に及んだものである。訴状に記載の通り、「原告らの受けた精神的苦痛は筆舌に尽くし難いものであり」、その苦痛はあくまでも原告らが受けた人権侵害を回復する中でしか癒されない――本裁判を起こした原告らの真意を司法は真摯に受け止めて、「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」の問題を積極的に審査して欲しいと切に願うものである。
 

 

 

 

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