かつて「神の権威」が政治統治に利用され、神のお告げに基づいて政治決定がなされた(神政政治)。
今日、それと同じ統治原理が科学の名のもとに行われている。「科学の権威」が政治統治に利用され、神の代わりに科学のお告げに基づいて政治決定がなされている。
しかし、かつて神政政治が政治の堕落を招いたように、科学の権威による統治も政治の堕落を招く。それは狂牛病に端を発した2005年の米国牛輸入再開に至る一連のドタバタ騒ぎの経過を思い出せば一目瞭然である。ジャンク科学、似非科学が「科学の権威」の名のもとに政策決定の大義名分とされた。その結果、市民の胸中に、たとえ真相は藪の中だとしても、政治とリスク評価と称する科学に対する抜き難い不信感が一層形成された。
しかし、こんなドタバタ劇を反復するのは愚劣である。いつか途方もない人災の中に多くの人々を陥れるからである。それが3.11原発事故が私たちの頭に叩き込んだ最大の教訓である。
そのために、かつて神政政治の弊害の苦い反省の中から政教分離=「政治と宗教の分離」の原理が確立したように、これと同様の原理、政科分離=「政治と科学の分離」の確立が科学でも必要である。
しかも政科分離を絵に描いた餅ではなく、生きた原理として機能させるためにはこの原理を具体化する必要がある。それが「科学技術を我々市民の手に取り戻す」具体的な仕組みである。しかもそれは飽くなき利潤追求のために細分化・分断化・専門化された従来の科学技術ではなく、統合化、総合化され、循環・安全性を確保した科学技術である。「ローマは一日にしてならず」だが、3.11のあと、政科分離の壮大な取組みの最初の一歩がまもなくスタートする。それが「市民と科学者の内部被曝問題研究会」だった。
その試みはその後、頓挫した。ちょうど、オッペンハイマーの後半生が受け入れられなかったように。しかし、その試み、挑戦の姿は普遍だ。それは私たちを常に、永遠に鼓舞し、そこから新たな挑戦を産み出す源泉となる。
さらに、政教分離の教訓から政科分離の必要性に気づいたならば、その学びはもっと拡大されるべきだ。それが政権分離つまり、人権問題もまた政治から分離されるべきである。この気づきは、政教分離の見方、もっと言えば世の中の見方を根本的に変える力を秘めている。
(2011.12.15 第1稿)
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