311後の日本社会の本質を映し出す鏡でもある「子ども脱被ばく裁判」「避難者追出し裁判」「避難者住まいの権利裁判」。この3つの福島関連の人権裁判に共通することーーそれは原発事故の救済に関して、日本の法体系が「法の欠缺」状態にあり、そこで、正しく「欠缺の補充」を実施することが急務だということにあった。なぜなら、正しく「欠缺の補充」をしないままに放置する結果、本来なら「欠缺の補充」によって原発事故の救済を受けられる人々がその救済を受けられず、人権侵害による無用な苦しみを余儀なくされるからだ。その意味で、これら3つの人権裁判は正しい「欠缺の補充」の不在による人権侵害の是正を求めるものである。
ところで、このような「法の欠缺」とその「欠缺の補充」はひとり福島関連裁判に限らない。2日前に報道(ー>NHK)された、選択的夫婦別姓を認めない日本の法体系は違法だと訴えた裁判のテーマもまた「法の欠缺」とその「欠缺の補充」。いずれの裁判もそのテーマは直ちに正しく「欠缺の補充」を実行すべき、である。
では、選択的夫婦別姓をめぐる2日前の裁判はどうして「法の欠缺」と「欠缺の補充」がテーマなのか。
それは、「法の欠缺」とは現実の紛争事実に対して、法律から具体的な判断基準が直接引き出せない場合のことだが、1989年に施行・公布された民法では「届出をしない夫婦の結合」は無効(法的な保護を与えない)とした。そこで、「届出をしない夫婦の結合(内縁)」は「届出をした夫婦の結合(婚姻)」と同法の法的保護が与えられないことになる。しかし、では内縁は具体的にどのような扱いを受けるのか、その具体的な内容については民法等の法律は判断基準を何も定めなかった。この点について、民法等の法律はノールール「法の欠缺」状態にあった。そこで次の問題が生じるーーいかにしてこの「欠缺の補充」を実行するか。内縁に対する社会の扱いは長い時間をかけてジワジワと変わっていったが、それは、この「欠缺の補充」の仕方がジワジワと変わってきたことを意味する。
2日前の選択的夫婦別姓をめぐる提訴も、その裁判の主題は、民法等の法律が内縁に関してノールール「法の欠缺」状態にあったことに対し、憲法や国際人権法の見地から、直ちに正しく「欠缺の補充をせよ」、そうすればその補充の結果、選択的夫婦別姓が認められることになるはずだを問うものである。
今や、いかにして「欠缺の補充」を実行するかという問題が現代の最先端の裁判の中心的なテーマである。しかし、これに対する法律家の研究の遅れは歴然としており、恥じを忍んで言えば、「法の欠缺」をめぐる研究は、法律家の「研究の欠缺」問題である(※)。
(※)その中でも、殆ど唯一といっていい事例が高田事件をめぐる一審、二審、最高裁判決である(その全貌を解説しようとしたものがー>詳細)
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