大昔、著作権の仕事をやっていた時には考えたこともなかったが、20年前、社会的事件の裁判に参加するようになって以来、最高裁にはつばを吐くことしか考えなかった。
それが今年になって態度を変更した。
最高裁に花を盛ろうと考えた。
それが以下の書面。
よもや自分がこんな書面を書くとは20年前から昨年まで想像できなかった。
しかし、それはあくまでも「『人権の最後の砦』という可能性の中心としての最高裁」に花を盛ろうとしただけのこと。
それは民主主義の永久革命の中の1コマの出来事としてある。
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4、本裁判に対し上告人らが望むこと(案)
(1)、結論
本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは真空地帯で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して上告人らが裁判所に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。以下、その理由について述べる。
(2)、司法権のスタンス――司法消極主義と司法積極主義の使い分け――
福島原発事故が国難ともいうべきカタストロフィ(大惨事)であり、これに対する国の政策も国策と呼ぶに相応しいものであることは誰しも否定し得ないところであろう。従って、国策という政治性の極めて強い問題に対し、民主主義社会における司法が、国民の信託を受けた立法・行政の判断を尊重し、自らの判断に控え目になることいわゆる司法消極主義にはそれ相応の理由があるものというべきである。
他方で、どんな原則も万能ではあり得ず、例外のない原則がないことも古来から知られているところである。この理は司法消極主義にも当てはまる。司法消極主義の例外について述べた、古くから有名な文書が、別紙にその訳文を添付した、1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4である。そこでは、司法消極主義を正当化する根拠となる民主主義の政治過程が正常に機能しない場合もしくはその根拠が性質上及びにくい場合、民主主義の政治過程やその根拠が及びにくい領域の人権問題について、司法がもし司法消極主義に徹していたら、それは司法が司法消極主義では治癒できない病理現象から目を背けることであって、正義にもとることになる。このような場合には司法は自ら積極的に司法判断に出る必要がある。他方、ここで行う審査とは政策の当否といった政治論争の審査ではなく、あくまでも人権保障という法的観点から人権侵害の審査を行なうことであり、それ以上でもそれ以下でもない。そして、それはもともと司法が最もよく果たし得る作用である。その意味で、これは司法が積極的に司法判断に出るに相応しい場面である。すなわちこの場面での司法積極主義は司法に課せられた重大な使命と言うことができる。上記のストーン判事の脚注4はこのことを、次の3つの類型で示して明らかにしたものである。
①.民主主義の政治過程を制約する法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
②.憲法が掲げる基本的人権を制約する法律については、合憲性の推定が働かず、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
③.特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた法律、すなわち個々の孤立した少数者の人権を制約するような法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
(泉徳治元最高裁判事の2004年10月30日「司法とは何だろう」講演録74~75頁[1]による)
(3)、本件
ところで本件は上記脚注4の③のケースに該当する[2]。なぜなら、上告人らは災害弱者だからである。上告人の多くはもともと福島原発事故以前から社会的、経済的弱者に属する人たちであったところ、自分たちには何の落ち度もない福島原発事故というカタストロフィが発生した結果、一層、苦境に追いやられ、孤立した災害弱者の地位に落とされてしまったものである。この意味で、本裁判は「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」が問われているからである。
のみならず、本件は①と②の両方にかかわる。しかもそれも最も救済を必要とする切実なケースに該当する。なぜなら、本件は単に上告人らの基本的人権が問われているのではないからである。民主主義社会において、「法の支配」や「法律による行政の原理」は「法律」が存在していることを大前提としているところ、福島原発事故まで日本の法体系は原発事故を実際には想定してなかったため、原発事故の救済に関して真空地帯の発生、つまり完全な「法の欠缺」状態にあった。なおかつ福島原発事故後も、この真空地帯に対し、半世紀前の「公害国会」のときのような「欠缺の補充」のために立法的解決が殆ど実行されなかった。その結果、福島原発事故の救済に関して「法の支配」「法律による行政の原理」に用いるべき「法律」がずっと真空地帯(欠缺状態)のまま、「法の支配」「法律による行政の原理」が正常に機能しないという異例の事態となった。この意味で、本件は、民主主義の政治過程に真空地帯という重大な欠陥が生じるという極めて憂慮すべき事態のもとで上告人らの基本的人権の侵害が問われた裁判である。こうした真空地帯が発生した場合には司法が人権問題を積極的に審査する、それがストーン判事の脚注4の立場である。
(4)、上告人らの真意
上告人らは訴状の最後をこう締めくくった。
《子ども原告ら及び保護者原告らは、被告国及び被告福島県の行為によって深刻な精神的苦痛を被っている。よって、子ども原告らは、国賠法1条(民法709条)により、保護者原告らは、国賠法1条(民法711条)により、その精神的苦痛に対する慰謝料を請求することができる。
そして、この苦痛は金銭に換算できるような性質のものではなく、あえて換算すれば多額に及ぶが、本訴訟では、その一部請求として、原告1人について10万円を請求することとする。》
上告人らが一部請求した理由は上告人の真意を裁判所に伝えるためである。すなわち、上告人らは自分たちを金銭で救済せよと求めているのではなく、これは人間の命、健康に関わる最も重要な基本的人権の問題なんだ、だから、この人権侵害を何としてでも是正して欲しいと、それで、国らの行政行為が違法であること(人権侵害をしていること)の確認を求めて本訴に及んだものである。訴状の通り、上告人が受けた「苦痛は金銭に換算できるような性質のものではなく」、その苦痛はあくまでも人権侵害を回復する中でしか癒されない――本裁判を起こした上告人の真意を司法は真摯に受け止めて、「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たち基本的人権」の問題を積極的に審査して欲しいと切に願うものである。
別紙アメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4
①立法が、その文面上、憲法修正 l条から修正 10条までの10箇条(これらの条項が修正14条の正当な法の手続及び法の平等なる保護の原則の中に包含されると考えられる場合も同様であるが)による禁止のように、憲法による明確な人権制限禁止の範囲内に入っていると考えられる場合には、合憲性推定の働きはより狭い範囲となろう。
②望ましくない立法の廃止をもたらすことを通常期待することができる政治過程を制約する立法は、修正14条の一般的禁止の下で、他の多くの類型の立法の場合よりも、より厳格な司法審査に服すべきかどうかということを、州際通商の問題を扱っている本件では考える必要がない。ここで政治過程を制約する立法とは、選挙権の制限、情報を広めることの制限、政治団体に対する干渉、平和的集会の禁止などの立法を指す。
③特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた立法の審査について、政治過程を制約する立法の審査と同様の考慮が及ぶかどうかを、本件において調査する必要はない。すなわち、個々の孤立した少数者に対する偏見が、通常は少数者を擁護するために頼りとされる政治過程の働きをひどく抑制し、それに対応してより厳密な司法審査を要求するであろうというような特別の状況となり得るかどうかを、本件において審査する必要はない。
以 上
[1]近畿大学法科大学院 秋期講演会 https://x.gd/igPIU(短縮URL)
[2]尤も、本件は「行政行為」の違憲、違法が問われているものであり、「法律」の違憲が問われているのではないが、司法消極主義と積極主義はいかなる場面に適用されるかを考える上では基本的に同様に考えてよい。
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