大切な一枚の白い紙を手に入れました。
苦痛を受けた者は苦痛が去ることを願い、
眠る場所さえない者は安らげる場所を求め、
差別を受けた者は平等な扱いを‥‥、
みんながそれぞれの夢を託していたけれど、
私たちが得たものは、まだ何も描かれていない、ただ一枚の白い紙でした。
乱暴に扱えばしわくちゃなゴミになってしまうし、
少し目を離しているあいだに、
誰かに落書きされてしまうかも知れない
でも
それがなくては夢見ることもできない、
破れやすいけれど大切な、
そんな白い紙なのです。
1987年6月の韓国民主化闘争を描いた漫画「沸点」 ラストより
作者 チェ ギュソク
訳者 加藤直樹
監訳 クォン ヨンソク
出版社 ころから
◎白い壁
昨日悲しい話を聞いた。
高2の生徒が学校の校舎の壁に自分のやっているバンドのメッセージを貼ったところ、先生の手で勝手にはがされてしまったという。何度貼ってもそのたびに、次の日には根こそぎはがされてしまうそうだ。
でも別に、彼女のビラが嫌がらせに貼っているわけじゃない。事実、掲示板に貼ってあるビラはそのまま残っている。
彼女の書いたビラは、掲示板以外の場所に貼られたゆえに剥がされてしまった。
でも、彼女は、掲示板に押し込められた画一的な表現に飽きたらなかった。もっといろんな場所で彼女のメッセージをみんなに伝えたかった。でも、自由の森という場所ではそういうことが許されないらしい。
そこにある壁がただ白くあることがそんなに大切なのだろうか?
白い壁を大地にたとえれば、そこに自然に種が運ばれ、芽吹き、草が生い茂るごとく、壁に表現がうまれ、広がってゆくのは当たり前ではないか。1枚のビラから生まれた出会いが、その人の人生まで変えることだってある。目の前にあるビラをただ機械的に剥がす前に、その1枚のビラから広がるかもしれない人々の輪を想像することのほうがどんなに楽しくて意義のあることだろう。
大地に除草剤をまくごとく、白い壁に芽吹いたささやかな表現を殺してしまえば、命を失った大地のごとく、壁も死んでしまうだろう。死んでしまった砂漠は美しくあるけれど、何も生み出さない。
自由の森の先生たちは、確かに素晴らしい理想を持っているけれど、自分の足下である学校から、雑多な可能性がつみとられていく現状ではその言葉もうつろにしか響かない。自由の森は、製品を作る工場ではない。誰かの夢のなかの箱庭ではない。
もう一度繰り返すけれど、そこにある壁がただ白くあることが、なぜそんなに重要なのだろうか?いったい誰がどういう権限のもとに、なんの権利があって、僕たちの表現を殺し、僕たちの可能性を押し消そうとするのか?
壁はただ白くあることが、もし重要であるのなら、そのわけを教えてほしい。」
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