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2024年3月8日金曜日

【第131話】最高裁につばを吐くのか、それとも花を盛るのか(24.3.8)

 大昔、著作権の仕事をやっていた時には考えたこともなかったが、20年前、社会的事件の裁判に参加するようになって以来、最高裁にはつばを吐くことしか考えなかった。
それが今年になって態度を変更した。
最高裁に花を盛ろうと考えた。
それが以下の書面。
よもや自分がこんな書面を書くとは20年前から昨年まで想像できなかった。
しかし、それはあくまでも「『人権の最後の砦』という可能性の中心としての最高裁」に花を盛ろうとしただけのこと。
それは民主主義の永久革命の中の1コマの出来事としてある。

  ****************

4、本裁判に対し上告人らが望むこと(案)

(1)、結論

本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは真空地帯で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して上告人らが裁判所に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。以下、その理由について述べる。

(2)、司法権のスタンス――司法消極主義と司法積極主義の使い分け――

福島原発事故が国難ともいうべきカタストロフィ(大惨事)であり、これに対する国の政策も国策と呼ぶに相応しいものであることは誰しも否定し得ないところであろう。従って、国策という政治性の極めて強い問題に対し、民主主義社会における司法が、国民の信託を受けた立法・行政の判断を尊重し、自らの判断に控え目になることいわゆる司法消極主義にはそれ相応の理由があるものというべきである。

他方で、どんな原則も万能ではあり得ず、例外のない原則がないことも古来から知られているところである。この理は司法消極主義にも当てはまる。司法消極主義の例外について述べた、古くから有名な文書が、別紙にその訳文を添付した、1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4である。そこでは、司法消極主義を正当化する根拠となる民主主義の政治過程が正常に機能しない場合もしくはその根拠が性質上及びにくい場合、民主主義の政治過程やその根拠が及びにくい領域の人権問題について、司法がもし司法消極主義に徹していたら、それは司法が司法消極主義では治癒できない病理現象から目を背けることであって、正義にもとることになる。このような場合には司法は自ら積極的に司法判断に出る必要がある。他方、ここで行う審査とは政策の当否といった政治論争の審査ではなく、あくまでも人権保障という法的観点から人権侵害の審査を行なうことであり、それ以上でもそれ以下でもない。そして、それはもともと司法が最もよく果たし得る作用である。その意味で、これは司法が積極的に司法判断に出るに相応しい場面である。すなわちこの場面での司法積極主義は司法に課せられた重大な使命と言うことができる。上記のストーン判事の脚注4はこのことを、次の3つの類型で示して明らかにしたものである。

①.民主主義の政治過程を制約する法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。

②.憲法が掲げる基本的人権を制約する法律については、合憲性の推定が働かず、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。

③.特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた法律、すなわち個々の孤立した少数者の人権を制約するような法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
(泉徳治元最高裁判事の20041030日「司法とは何だろう」講演録74~75頁[1]による)

(3)、本件

 ところで本件は上記脚注4の③のケースに該当する[2]。なぜなら、上告人らは災害弱者だからである。上告人の多くはもともと福島原発事故以前から社会的、経済的弱者に属する人たちであったところ、自分たちには何の落ち度もない福島原発事故というカタストロフィが発生した結果、一層、苦境に追いやられ、孤立した災害弱者の地位に落とされてしまったものである。この意味で、本裁判は「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」が問われているからである。

のみならず、本件は①と②の両方にかかわる。しかもそれも最も救済を必要とする切実なケースに該当する。なぜなら、本件は単に上告人らの基本的人権が問われているのではないからである。民主主義社会において、「法の支配」や「法律による行政の原理」は「法律」が存在していることを大前提としているところ、福島原発事故まで日本の法体系は原発事故を実際には想定してなかったため、原発事故の救済に関して真空地帯の発生、つまり完全な「法の欠缺」状態にあった。なおかつ福島原発事故後も、この真空地帯に対し、半世紀前の「公害国会」のときのような「欠缺の補充」のために立法的解決が殆ど実行されなかった。その結果、福島原発事故の救済に関して「法の支配」「法律による行政の原理」に用いるべき「法律」がずっと真空地帯(欠缺状態)のまま、「法の支配」「法律による行政の原理」が正常に機能しないという異例の事態となった。この意味で、本件は、民主主義の政治過程に真空地帯という重大な欠陥が生じるという極めて憂慮すべき事態のもとで上告人らの基本的人権の侵害が問われた裁判である。こうした真空地帯が発生した場合には司法が人権問題を積極的に審査する、それがストーン判事の脚注4の立場である。

(4)、上告人らの真意

上告人らは訴状の最後をこう締めくくった。

《子ども原告ら及び保護者原告らは、被告国及び被告福島県の行為によって深刻な精神的苦痛を被っている。よって、子ども原告らは、国賠法1条(民法709条)により、保護者原告らは、国賠法1条(民法711条)により、その精神的苦痛に対する慰謝料を請求することができる。
    
そして、この苦痛は金銭に換算できるような性質のものではなく、あえて換算すれば多額に及ぶが、本訴訟では、その一部請求として、原告1人について10万円を請求することとする。》

 上告人らが一部請求した理由は上告人の真意を裁判所に伝えるためである。すなわち、上告人らは自分たちを金銭で救済せよと求めているのではなく、これは人間の命、健康に関わる最も重要な基本的人権の問題なんだ、だから、この人権侵害を何としてでも是正して欲しいと、それで、国らの行政行為が違法であること(人権侵害をしていること)の確認を求めて本訴に及んだものである。訴状の通り、上告人が受けた「苦痛は金銭に換算できるような性質のものではなく」、その苦痛はあくまでも人権侵害を回復する中でしか癒されない――本裁判を起こした上告人の真意を司法は真摯に受け止めて、「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たち基本的人権」の問題を積極的に審査して欲しいと切に願うものである。

別紙

アメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4

 ①立法が、その文面上、憲法修正 l条から修正 10条までの10箇条(これらの条項が修正14条の正当な法の手続及び法の平等なる保護の原則の中に包含されると考えられる場合も同様であるが)による禁止のように、憲法による明確な人権制限禁止の範囲内に入っていると考えられる場合には、合憲性推定の働きはより狭い範囲となろう。 

②望ましくない立法の廃止をもたらすことを通常期待することができる政治過程を制約する立法は、修正14条の一般的禁止の下で、他の多くの類型の立法の場合よりも、より厳格な司法審査に服すべきかどうかということを、州際通商の問題を扱っている本件では考える必要がない。ここで政治過程を制約する立法とは、選挙権の制限、情報を広めることの制限、政治団体に対する干渉、平和的集会の禁止などの立法を指す。

③特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた立法の審査について、政治過程を制約する立法の審査と同様の考慮が及ぶかどうかを、本件において調査する必要はない。すなわち、個々の孤立した少数者に対する偏見が、通常は少数者を擁護するために頼りとされる政治過程の働きをひどく抑制し、それに対応してより厳密な司法審査を要求するであろうというような特別の状況となり得るかどうかを、本件において審査する必要はない。

以 上



[1]近畿大学法科大学院 秋期講演会 https://x.gd/igPIU(短縮URL

[2]尤も、本件は「行政行為」の違憲、違法が問われているものであり、「法律」の違憲が問われているのではないが、司法消極主義と積極主義はいかなる場面に適用されるかを考える上では基本的に同様に考えてよい。

 

2024年3月7日木曜日

【第130話】福島原発事故によってもたられた異常事態を正しく解決するための方法とは何か。それは人権問題として解くことである(24.3.7)

 これは「自省・自戒の中でのつぶやき」。

1、問題の立て方

 一般に、問題を正しく解くよりも、問題を正しく提出することのほうがはるかに重要でかつすこぶる困難。その1つが、「福島原発事故によってもたられた異常事態を正しく解決するための方法とは何か」という問いについて正しく問題点を提出すること。

 この13年間、ずっとこの問いにつきまとわれてきたように思う。そして先ごろ、ようやく、この問いについて「問題を立てる」ことができるのではないかと思えるようになった。

それが「福島原発事故によってもたられた異常事態を政治(政策)として解くのか、それとも人権問題として解くのか」、それが問題なのだ、と。

同時にこれに付け加えると、「福島原発事故によってもたられた異常事態を政治(政策)として解くよりも、人権問題として解くことのほうがはるかに重要でかつすこぶる困難」だということ。にもかかわらず、この困難な道を歩み続ける中でしか、この問題は最終的に解決しない、あたかも南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)を政治(政策。たとえば社会主義国家の樹立)として解くのではなく、人権問題として解こうとしたマンデラの苦難の歩みのように。

2、立てた問題を正しく解く

上記に「立てた問題」、つまり「福島原発事故によってもたられた異常事態を政治(政策)として解くのか、それとも人権問題として解くのか」を解いた時、その答えは後者である。

その理由については、この間、あちこちに書いた。 その1つが以下。

なぜ市民運動は人々を分断させるのか。その分断を克服する可能性は人権にある

生き直すーー原発事故後の社会を生き直すーーV.3 

 なぜ「生き直す」のか。それは、これまで漫然と、福島原発事故によってもたられた異常事態は政治(政策)として解くしかないと、それ以外、思い付かなかった。だが、そのようなやり方で何度も袋小路に入り、その果てに、このやり方の限界を振り返り、人権問題として解くことでその問題点を克服する可能性の道が見えてきたとき、それは「生き直す」ということにほかならないから。

 3、実行の「最初の一歩」

 そこで、上記のように解いた答えを具体的なケースに当てはめたのが、最高裁に「一歩前に出る司法」を訴えた以下の文案。
 このメッセージのエッセンスは末尾の次の言葉に凝縮されている。
「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」の問題を積極的に審査して欲しい。

考える葦が行動する葦に向けて「最初の一歩」に踏み出した瞬間。

  *****************

4、本裁判に対し上告人らが望むこと(案)

(1)、結論

本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは真空地帯で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して上告人らが裁判所に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。以下、その理由について述べる。

(2)、司法権のスタンス――司法消極主義と司法積極主義の使い分け――

福島原発事故が国難ともいうべきカタストロフィ(大惨事)であり、これに対する国の政策も国策と呼ぶに相応しいものであることは誰しも否定し得ないところであろう。従って、国策という政治性の極めて強い問題に対し、民主主義社会における司法が、国民の信託を受けた立法・行政の判断を尊重し、自らの判断に控え目になることいわゆる司法消極主義にはそれ相応の理由があるものというべきである。

他方で、どんな原則も万能ではあり得ず、例外のない原則がないことも古来から知られているところである。この理は司法消極主義にも当てはまる。司法消極主義の例外について述べた、古くから有名な文書が、別紙にその訳文を添付した、1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4である。そこでは、司法消極主義を正当化する根拠となる民主主義の政治過程が正常に機能しない場合もしくはその根拠が性質上及びにくい場合、民主主義の政治過程やその根拠が及びにくい領域の人権問題について、司法がもし司法消極主義に徹していたら、それは司法が司法消極主義では治癒できない病理現象から目を背けることであって、正義にもとることになる。このような場合には司法は自ら積極的に司法判断に出る必要がある。他方、ここで行う審査とは政策の当否といった政治論争の審査ではなく、あくまでも人権保障という法的観点から人権侵害の審査を行なうことであり、それ以上でもそれ以下でもない。そして、それはもともと司法が最もよく果たし得る作用である。その意味で、これは司法が積極的に司法判断に出るに相応しい場面である。すなわちこの場面での司法積極主義は司法に課せられた重大な使命と言うことができる。上記のストーン判事の脚注4はこのことを、次の3つの類型で示して明らかにしたものである。

①.民主主義の政治過程を制約する法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。

②.憲法が掲げる基本的人権を制約する法律については、合憲性の推定が働かず、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。

③.特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた法律、すなわち個々の孤立した少数者の人権を制約するような法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
(泉徳治元最高裁判事の20041030日「司法とは何だろう」講演録74~75頁[1]による)

(3)、本件

 ところで本件は上記脚注4の③のケースに該当する[2]。なぜなら、上告人らは災害弱者だからである。上告人の多くはもともと福島原発事故以前から社会的、経済的弱者に属する人たちであったところ、自分たちには何の落ち度もない福島原発事故というカタストロフィが発生した結果、一層、苦境に追いやられ、孤立した災害弱者の地位に落とされてしまったものである。この意味で、本裁判は「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」が問われているからである。

のみならず、本件は①と②の両方にかかわる。しかもそれも最も救済を必要とする切実なケースに該当する。なぜなら、本件は単に上告人らの基本的人権が問われているのではないからである。民主主義社会において、「法の支配」や「法律による行政の原理」は「法律」が存在していることを大前提としているところ、福島原発事故まで日本の法体系は原発事故を実際には想定してなかったため、原発事故の救済に関して真空地帯の発生、つまり完全な「法の欠缺」状態にあった。なおかつ福島原発事故後も、この真空地帯に対し、半世紀前の「公害国会」のときのような「欠缺の補充」のために立法的解決が殆ど実行されなかった。その結果、福島原発事故の救済に関して「法の支配」「法律による行政の原理」に用いるべき「法律」がずっと真空地帯(欠缺状態)のまま、「法の支配」「法律による行政の原理」が正常に機能しないという異例の事態となった。この意味で、本件は、民主主義の政治過程に真空地帯という重大な欠陥が生じるという極めて憂慮すべき事態のもとで上告人らの基本的人権の侵害が問われた裁判である。こうした真空地帯が発生した場合には司法が人権問題を積極的に審査する、それがストーン判事の脚注4の立場である。

(4)、上告人らの真意

上告人らは訴状の最後をこう締めくくった。

《子ども原告ら及び保護者原告らは、被告国及び被告福島県の行為によって深刻な精神的苦痛を被っている。よって、子ども原告らは、国賠法1条(民法709条)により、保護者原告らは、国賠法1条(民法711条)により、その精神的苦痛に対する慰謝料を請求することができる。
    
そして、この苦痛は金銭に換算できるような性質のものではなく、あえて換算すれば多額に及ぶが、本訴訟では、その一部請求として、原告1人について10万円を請求することとする。》

 上告人らが一部請求した理由は上告人の真意を裁判所に伝えるためである。すなわち、上告人らは自分たちを金銭で救済せよと求めているのではなく、これは人間の命、健康に関わる最も重要な基本的人権の問題なんだ、だから、この人権侵害を何としてでも是正して欲しいと、それで、国らの行政行為が違法であること(人権侵害をしていること)の確認を求めて本訴に及んだものである。訴状の通り、上告人が受けた「苦痛は金銭に換算できるような性質のものではなく」、その苦痛はあくまでも人権侵害を回復する中でしか癒されない――本裁判を起こした上告人の真意を司法は真摯に受け止めて、「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たち基本的人権」の問題を積極的に審査して欲しいと切に願うものである。

別紙

アメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4

 ①立法が、その文面上、憲法修正 l条から修正 10条までの10箇条(これらの条項が修正14条の正当な法の手続及び法の平等なる保護の原則の中に包含されると考えられる場合も同様であるが)による禁止のように、憲法による明確な人権制限禁止の範囲内に入っていると考えられる場合には、合憲性推定の働きはより狭い範囲となろう。 

②望ましくない立法の廃止をもたらすことを通常期待することができる政治過程を制約する立法は、修正14条の一般的禁止の下で、他の多くの類型の立法の場合よりも、より厳格な司法審査に服すべきかどうかということを、州際通商の問題を扱っている本件では考える必要がない。ここで政治過程を制約する立法とは、選挙権の制限、情報を広めることの制限、政治団体に対する干渉、平和的集会の禁止などの立法を指す。

③特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた立法の審査について、政治過程を制約する立法の審査と同様の考慮が及ぶかどうかを、本件において調査する必要はない。すなわち、個々の孤立した少数者に対する偏見が、通常は少数者を擁護するために頼りとされる政治過程の働きをひどく抑制し、それに対応してより厳密な司法審査を要求するであろうというような特別の状況となり得るかどうかを、本件において審査する必要はない。

以 上



[1]近畿大学法科大学院 秋期講演会 https://x.gd/igPIU(短縮URL

[2]尤も、本件は「行政行為」の違憲、違法が問われているものであり、「法律」の違憲が問われているのではないが、司法消極主義と積極主義はいかなる場面に適用されるかを考える上では基本的に同様に考えてよい。

 

 

【第129話】本日、10年間の総決算の書面(上告理由書等)を最高裁判所宛に提出(24.3.7)

                                        提訴前のアクション(14.8.29) 

2014年8月29日に提訴して以来、10年間続いている子ども脱被ばく裁判(以下、提訴時のお知らせ)、
【速報】第二次裁判の概要決定。提訴は8月29日。子ども人権裁判に加えて、3.11以降の国と福島県の救護政策の違法性を問う親子裁判を追加

本日、その10年間の総決算の書面である上告理由書、上告受理申立理由書をまもなく最高裁へ 提出します(今、予定通り提出が完了しました)。

以下は提出した仙台高裁前の写真とその表紙と全文と目次です。

本日の上告理由書提出に際して

1、上告理由書 ->全文PDF

        目 次

第1 はじめに                                                     3                        
1 本件訴訟の意義                                              3
2 本件訴訟の概要                                              4
3 原判決の骨子                                               4
4 本件訴訟に対し上告人らが望むこと                        5
第2 上告理由(その1)                                      8
1 第1の3(1)の判断に対し                                     8
2 第1の3(2)の判断(違法事由①)に対し                  11
3 第1の3(3)の判断(違法事由②)に対し                  16
4 第1の3(4)の判断(違法事由③)に対し                  20
5 第1の3(5)の判断(違法事由④)に対し                  25
6 第1の3(6)及び3(7)の判断(違法事由⑤⑥)に対し  26
7 第1の3(8)の判断(違法事由⑦)に対し                  28
第3 上告理由(その2)~裁量権の逸脱・濫用問題に対する「判断の遺脱」   
1 本件の行政裁量論                                             42
2 原判決                                                        44
3 本件におけるあるべき行政裁量論(法の欠缺と欠缺の補充) 44
第4 終わりに                                                     53
【添付資料】                                                      54
別紙                                                                55

2、上告受理申立理由書 ->全文PDF


 

 

 

2024年3月1日金曜日

【第128話】今まで書いたことがなかった「司法積極主義」と「法の欠缺」の補充と「国際人権法」の相互関係に言及した準備書面の提出(24.3.1)

原告準備書面(12) 1頁目(ー>PDF全文

1、はじめに、つぶやき。
 昨年末から今年の年明けにかけて、過去58年間の振り返りをする中から、法律家として態度変更するしかない、そして、そのことにもっと自覚的になるほかないと悟った。

 58年間の振り返り:法律家としてはともかく、人権法律家として完全失格

ただ、頭の中で、新しい歩みを踏み出すしかないと悟りながらも、いざ現実にその一歩を踏み出すとなると、どのように踏み出したらよいのか問題の決着がつかないまま、グルグルと堂々巡りするか決着の前に逡巡し続けていた。この思案と試行錯誤の日々が続く中で、とうとう、現実の一歩を踏み出す仕事の〆切が2月末に迫ってきた。
それが、2年前の3月、自主避難者から福島県を提訴して始まった、福島県による自主避難者の仮設住宅からの追い出しをめぐる裁判。

 もうこれ以上、猶予はできないというギリギリのところに追い詰められて、そこでようやく、腹を括って書くことに決めたのが、冒頭の準備書面(ー>PDF全文)。

それは、提訴以来2年近くの双方の主張を振り返って、現時点における裁判の核心となる課題を掴み取り、これを裁判所に提示したもの。

一言で言って、それは「裁判所が 一歩 前に出ること」

たとえ一歩であろうとも、その積極的な姿勢のない裁判所に向けて、国際人権法にしても行政裁量論にしても、どんなに立派な法律論を並べてみたところで、彼らには「絵に描いた餅」「猫に小判」、糞の役にも立たない。
ただし、そのことを感情論や道徳論として示すのではなく、あくまでも論理的、理論的にそれしかないことを論証するというスタイルで示そうとした。
裁判官にこんなケッタイなラブレターを書いたのは、大昔の著作権裁判は別にして、社会的な裁判に手を染めるようになって以来、初めてのことだ。だが、こういうコミュニケーションは司法の本質に思いを致す時、普遍的なアクションだと改めて確信している。 

少々長い手紙だが、以下に転載する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

第1、本裁判に対し原告らが望むこと
1、結論
本裁判の特徴を一言で言い表わすと、それは真空地帯で災害弱者の基本的人権が問われた裁判である。その本裁判に対して原告らが裁判所に望むこと、それは司法が一歩前に出ることである。以下、その理由について述べる。

2、司法権のスタンス――司法消極主義と司法積極主義の使い分け――
福島原発事故が国難ともいうべきカタストロフィ(大惨事)であり、これに対する国の政策も国策と呼ぶに相応しいものであることは誰しも否定し得ないところであろう。従って、国策という政治性の極めて強い問題に対し、民主主義社会における司法が、国民の信託を受けた立法・行政の判断を尊重し、自らの判断に控え目になることいわゆる司法消極主義にはそれ相応の理由があるものというべきである。
他方で、どんな原則も万能ではあり得ず、例外のない原則がないことも古来から知られているところである。この理は司法消極主義にも当てはまる。その司法消極主義の例外について述べた、古くから有名な文書が別紙にその訳文を添付した、1938年のアメリカ連邦最高裁判所のカロリーヌ判決のストーン判事の脚注4である。そこでは、司法消極主義を正当化する根拠となる民主主義の政治過程が正常に機能しない場合もしくはその根拠が性質上及びにくい場合、民主主義の政治過程やその根拠が及びにくい領域の人権問題について、司法がなおも司法消極主義にとどまっていたら、それは司法が司法消極主義では治癒できない病理現象から目を背けることにほかならず、正義にもとることになる。このような場合には司法は態度を変更して自ら積極的に司法判断に出る必要がある。他方、ここで行う審査とは政策の当否といった政治論争の審査ではなく、あくまでも人権保障という法的観点から人権侵害の審査を行なうことであり、それ以上でもそれ以下でもない。そして、それはもともと司法が最もよく果たし得る作用である。その意味で、これは司法が積極的に司法判断に出るに相応しい場面である。すなわちこの場面での司法積極主義こそ司法に課せられた重大な使命と言うことができる。上記のストーン判事の脚注4はこのことを、次の3つの類型で示して明らかにしたものである。
①.民主主義の政治過程を制約する法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
②.憲法が掲げる基本的人権を制約する法律については、合憲性の推定が働かず、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
③.特定の宗教的、人種的、民族的少数者に向けられた法律、すなわち個々の孤立した少数者の人権を制約するような法律については、裁判所はその合憲性を厳格に審査しなければならない。
(泉徳治元最高裁裁判官の2004年10月30日「司法とは何だろう」講演録 74~75頁による)

3、本件
 ところで本件は上記脚注4の③のケースに該当する 。なぜなら、原告らは災害弱者だからである。原告らはもともと福島原発事故以前から社会的、経済的弱者に属する人たちであったところ、自分たちには何の落ち度もない福島原発事故というカタストロフィが発生した結果、行政が被災者へのヒアリングもしないまま勝手に線引きした強制避難区域の網から漏れて、命、健康を守るための自衛措置として自力で避難する中で一層苦境に追いやられ、孤立した災害弱者の地位に落とされてしまったものである。この意味で、本裁判は「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」が問われているからである。
のみならず、本件は上記脚注4の①と②の両方のケースにもかかわる。しかもそれは最も救済を必要とする切実な事例に該当する。なぜなら、本件は②のケースにように、単に原告らの基本的人権だけが問われているのではないからである。本件には以下のような本件に特有な事情が存在する。民主主義社会において、「法の支配」や「法律による行政の原理」は「法律」が存在していることを大前提としているところ、福島原発事故まで日本の法体系は原発事故を実際には想定してなかったため、原発事故の救済に関して真空地帯の発生、つまり完全な「法の欠缺」状態にあった。なおかつ福島原発事故後も、この真空地帯に対し、半世紀前の「公害国会」のときのような「欠缺の補充」のために立法的解決が殆ど実行されなかった。その結果、福島原発事故の救済に関して「法の支配」「法律による行政の原理」に用いるべき「法律」がずっと真空地帯(欠缺状態)のまま、「法の支配」「法律による行政の原理」が正常に機能しないという異例の事態となった。この意味で、本件は、民主主義の政治過程に真空地帯という重大な欠陥が生じるという極めて憂慮すべき事態のもとで、原告らの基本的人権の侵害が問われている裁判である。それが本件は①と②の両方のケースにかかわるという意味である。それゆえ、こうした真空地帯が発生した場合には司法は人権問題を積極的に審査する、それがストーン判事の脚注4の立場である。

4、原告らの真意
 本裁判で原告らが一部請求したのは貼用印紙代という経済的理由ばかりではなく、原告らの真意を裁判所に伝えるためである。すなわち、原告らは自分たちを金銭で救済せよと求めているのではなく、これは人間の命、健康に関わる最も重要な基本的人権の問題である、だから、この人権侵害を何としてでも是正して欲しいと、それで、被告県の行政行為が違法であること(人権侵害をしていること)の確認を求めて本訴に及んだものである。訴状に記載の通り、「原告らの受けた精神的苦痛は筆舌に尽くし難いものであり」、その苦痛はあくまでも原告らが受けた人権侵害を回復する中でしか癒されない――本裁判を起こした原告らの真意を司法は真摯に受け止めて、「個々の孤立した少数者である災害弱者の地位に落とされ、苦しみの中で救いを求めている人たちの基本的人権」の問題を積極的に審査して欲しいと切に願うものである。
 

 

 

 

2024年1月19日金曜日

【第127話】7月10日第1回弁論だけで審理終結した、避難者追出し裁判の仙台高裁第3民事部の1月15日判決に対する弁護団の声明(2024.1.17)

判決前の入廷行動
判決後

判決文1頁目

昨年7月10日第1回弁論だけで審理終結した、避難者追出し裁判の仙台高裁第3民事部(弁護団の抗議文は->第110話)による判決言渡しが、今週15日14時半からあり、判決文は被控訴人福島県の主張を全面的に認め、避難者の控訴人の主張をすべて退けるものでした(判決の全文はー>こちら)。
なかでも特筆すべきは、判決には控訴人が一審から、本裁判のメインテーマとして全力をあげ主張した「国際人権法」の論点について(その詳細はー>第70話第72話第77話)、国際人権法のこの字も触れられなかったことです。

近代裁判の恐ろしいところは、結論を出して終わりなのではなく、なぜその結論が引き出せるのか、その理由を証明することを裁判所に課したことです。
その結果、仙台高裁は国際人権法に関する我々の主張を否定するんだったら、それを論証しなければならなかった。しかし、仙台高裁もそれなりに検討した末についにこれができないと観念し、そこで、この論点からとんづらすることにした。それが国際人権法に一言も触れない完全黙殺判決でした。
国際人権法が裁判の付随的なテーマなんだったらまだしも、追出し裁判では殆ど唯一のメインテーマとして全面的に主張してきたものを、仙台高裁は完全無視することでしか結論を引き出せなかった。ここに、この判決が国際人権法の論点において完全敗北したことを自ら最も雄弁に証明したものです。
「証明からの逃避」、そして「国際人権法からの逃避」これがこの判決の最大の特徴です。

まさしく、
国際人権法を知らないものは、この国の法律のことがわからない」(第122話

当日の判決前行動、判決後の集会の報告は->民の声新聞を参照。

以下は、この判決に対する弁護団の声明です。

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弁護団声明

「原発事故後の人間」裁判と徹底して向き合わなかった仙台高裁判決

 

2011年福島原発事故で自主避難した人たちが適法に入居した仮設住宅(東京東雲の国家公務員宿舎)から出て行けと2020年、訴えられました。訴えたのは家主の国でも宿舎を提供した東京都でもない、入居とは無関係の福島県。これが通称「追出し裁判」。その二審判決の言渡しが、今週1月15日、仙台高裁でありました。

「追出し裁判」の主題は自主避難者の仮設住宅からの退去の是非です。しかし、この追出しをめぐる紛争の核心は、日本史上未曾有の過酷事故である福島原発事故の発生以来、仮設住宅の無償提供しかあてがわれなかった自主避難者の人たちが、避難先でいかなる生活再建の見通しを抱き、道筋をたどってきたのかという苦難の現実に即して、自主避難者は果たして、本当に人間として扱われてきたのか、それが問われる、言い換えれば
原発事故の避難者の真の救済はいかにあるべきか」という311前には私たちが経験したこともない人権裁判という点にありました。
それに比べれば、仮設住宅からの退去
の是非という問題なんて、しょせん、避難者がたどらざるを得なかった苦難の全過程の中で発生した「ひとつの中継点」にすぎません。なぜなら、避難者が直面する苦難の生活は仮設住宅から退去したからといって何一つ解決しないからです。

その結果、「追出し裁判」の審理の核心も、国や福島県がいかなる「自主避難者の真の救済のビジョン」を抱いて自主避難者と向き合って来たかにありました。しかし、一審福島地裁の審理の中で明らかになったことは、国も福島県も「自主避難者の真の救済のビジョン」なぞこれっぽっちも持っていないばかりか、そもそも国も福島県も自主避難者が避難先で直面していた苦難に寄り添う姿勢が皆無であり、彼らの頭にあったことは世間の反発が起きないように、一刻も速やかに自主避難者への無償提供を打切って、自主避難者という「存在」を消し去ることだけでした。果たしてそれは、自主避難者を本当に人間として扱うことでしょうか。

そもそも、国会(立法)や政府(行政)とは別に、なぜ裁判所(司法)が存在するのでしょうか。それは、司法とは立法や行政の網から漏れて、谷間に落っこちてしまった人々、しかも谷間に落ちてしまったことについて本人の責任ではないのにたまたま落ちてしまった人々、そのために苦難な状況に置かれている人々が何も救済されないで本当にいいのだろうか、という反省に立って彼らの救済をめざすものだからです(そのことを表明したのが2008年の国籍法違憲最高裁大法廷判決の藤田宙靖判事()です)。


           国籍法を違憲とした最高裁判決の共同通信記事より

 そうだとしたら、「追出し裁判」の自主避難者らも変わりません。彼らもまた、自分たちには何の責任もない福島原発事故の発生のおかげで、行政が勝手に線引きした強制避難区域の網からは漏れて、谷間に落っこちてしまった人だからです。本人の責任ではないのにたまたま落ちてしまったのを何も救済されないで本当にいいのだろうか?これを問うのが司法の本来の姿です。つまりこれこそ「追出し裁判」の真の主題なのです。

しかし、一審福島地裁(小川理佳裁判官)は最初から最後まで、この問いかけを1ミリもしようとはしませんでした。威風堂々と行政(福島県)の代理人のように振る舞ったあげく、自主避難者らの明渡しを厳しく命じる福島県の全面勝訴判決を出しました(その報告ー>こちら)。司法が行政の代理人では三権分立の否定であり、民主主義の崩壊です。二審で、私たち控訴人は、一審判決の致命的な誤りを正すために審理の全面的なやり直しを求め、控訴人本人・内堀福島県知事ほか計9名の尋問を求めました(その報告ー>こちら)。しかし、二審仙台高裁(瀬戸口壯夫裁判長)は1回の審理で、いきなり「終結」を宣言したのです(その報告ー>こちら)。
それは仙台高裁も上記の誠実な問いかけを1ミリたりともしないという宣言であり、行政の代理人の再宣言であり、詰まるところ司法の自死の宣言でした。この宣言を受けて1月15日に、自主避難者の人権侵害にお墨付きを与える残忍酷薄な判決が下されました。これを裁判所による人権侵害と呼ばずして何と呼んだらよいのでしょうか。

 この判決の形式と内容にわたる人権侵害振りについては、改めて報告します。

 「追出し裁判」は2011年以前に日本が経験したことがなかった「原発事故の避難者の真の救済はいかにあるべきか」が問われた前例のない人権裁判です。これに対し、仙台高裁判決は、福島地裁判決に続いて、人権と徹底して向き合わない判断とはいかなるものかについてこの上ない貴重な「暗黒と詭弁の判決」を残してくれました。私たちはこれを大いなるバネにして、判決を徹底的に分析、解明し、そこから「暗黒と詭弁の論理」をひっくり返す「希望と正論の論理」を練り上げ、これを最高裁と、そして最高裁が最も恐れる日本の市民社会の皆さんに提示する積りです。「追出し裁判」は災害先進国の日本においていつでも原発災害当事者となる皆さん自身の明日の姿です。未来を生きる人たちのためにも、原発災害当事者である皆さんと一緒に「原発事故の避難者の真の救済はいかにあるべきか」について考えていくことを願ってやみません。

 最後に、「追出し裁判」の印紙代などの裁判費用の工面のため、引き続き、皆さんのご支援をお願いする次第です。

 寄付の振込先 「郵便口座」 口座番号 11440-2577971

        「振替口座」 口座番号 00230-8-110127

         加入者名  原発避難者の住宅追い出しを許さない会

 

                       2024年1月17日

                             弁護団 一同

 藤田宙靖「裁判と法律学-『最高裁回想録』補遺」282~284頁(有斐閣)









2023年11月12日日曜日

【第126話】第125話の続き「子ども脱被ばく裁判のもう1つの意義」(2023.11.12)

昨日の脱被ばく実現ネット主催の第19回目新宿デモは来月18日に、仙台高裁で判決が出る「子ども脱被ばく裁判」を応援するためのもの。


そのデモ前スピーチのラストに、弁護団の一員として「子ども脱被ばく裁判」の振り返りと国際人権法が令和の黒船であることについて喋った。

この話は、2012年にジュネーブ国連へ、福島の救済を訴えに行った「ここ一番」という時にもまだ話すことが出来なかったもので、2012年10月15日のデモ以来、今までのデモの中で一番喋りたかった内容だった。
今の心境をズカッと言えば、時計をもう一度2011年に巻き戻して、自分たちの主張をすべて国際人権法の正義の観点から再吟味して再主張したい。その時、日本の法体系(の解釈)はがらりと塗り替えられると確信するからだ。
今、初めて自分が法律家になった理由が分かったような気がする。昨日のスピーチが新生法律家の第1歩。

同時に、もし、国際人権法の金字塔であるチェルノブイリ法が福島原発事故のあと速やかに制定されていれば、ふくしま集団疎開裁判も、子ども脱被ばく裁判も必要なかった。みんなこの法律で救済されたから。
その意味で、ふくしま集団疎開裁判と子ども脱被ばく裁判はチェルノブイリ法日本版が日本にないことがいかに被災者の人権を踏みにじるかを他に例がないくらい明るみにしたものだった。
だから、この2つの裁判をおいて、チェルノブイリ法日本版の必要性をネガティブな面から、これ以上雄弁に明るみにした事例はない。だから、この2つの裁判を経験した者が、もし諦めることをしないならば、その人に残されている次のアクションは市民立法「チェルノブイリ法日本版」に向うほかない。

【第125話】2023.11.11新宿デモのスピーチ「国際人権法が311後の日本社会を変える」


【第125話】2023.11.11新宿デモのスピーチ「国際人権法が311後の日本社会を変える」(2023.11.11)

2023年11月11日の第19回目の脱被ばく実現ネットの新宿デモは来月12月18日に控訴審判決が出る子ども脱被ばく裁判を支援するためのものだった。 以下は、そのデモ前スピーチのラストに喋った原稿に一部加筆したもの。ですます調をだである調に変更してある。

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今日、私が話したいことはマスコミの報道しないテーマ「国際人権法が311後の日本社会を変える」ことです。

1、311福島原発事故で、日本政府は敗戦を迎えました。なぜなら、それまで日本政府は日本ではチェルノブイリ事故のような原発事故は起きないと考え、いわば原発事故に勝てると公言していた。しかし、311で勝てなかったことが判明した。その意味で、これは敗戦です。その結果、この敗戦で、当然、敗戦(原発事故)の責任が問われることになるはずだった。しかし、311直後の日本政府の唯一最大の目標は、国体護持(自己保身)、すなわちこの敗戦(原発事故)の戦争責任を回避し、不問に付すことだった。「原発事故は起きない」と豪語していた311前の振舞いを猛省するのではなく、この振舞いに一点も言及することなく、「原発事故は起きたけれど、起きてもたいしたことはない。健康被害も無視してもいいくらい問題ない。だから、311前の振舞いも別に問題なかったのだ」と原発事故で迷惑をかけた人々に対し何らの責任を取らない、この無責任体制=全面的な開き直りの態度に出た。
この態度が311後の日本政府の根本的な姿勢であり、そこに根本的な誤りがあった。
そして、これが根本である以上、この姿勢は各論の個別の問題でも貫徹されざるを得ない。
そのひとつが、避難者追出し裁判でも、無理やり避難者を仮設住宅から追出し、彼らの存在を消し去る必要があり、
また、小児甲状腺がん患者に対し、無理やり、被ばくとの因果関係を否定して、健康被害の実相にフタをする必要があった。
これらの異常な事態はすべて、根本の病巣である「福島ファシズムの支配と服従の構造」から派生する個別の吹き出物、おできのようなものだった。

 この根幹の問題である福島ファシズムの違法性を真正面から問うたのが子ども脱被ばく裁判だった。こんな裁判はほかにはなかった。


2、今週月曜日に、最高裁に1通の書面を提出した。それは福島が起こした避難者を仮設住宅から追出す裁判で、仙台高裁の裁判官の訴訟指揮があまりにひどいので、裁判官を辞めさせてくれと忌避申立した事件の書面「特別抗告申立理由書」(全文は
ー>こちら)だった。

私はこれを書いて、これがもし将棋の世界だったら、藤井八冠のように完全に詰んだと確信した。その理由はつい3週間前、先月25日に出た最高裁大法廷の決定を読んだからだ(全文はー>こちら

この最高裁決定とは何か。それは令和の黒船だ。これで日本が引っくり返るからだ。この最高裁の決定は、性同一性の不一致で苦しんでいる人たちの問題を「これは天災、自然災害ではない、人間がもたらした人災だ」ととらえ、その人災を国際人権法の正義の眼から見て許されないと判断したものだ。

だとしたら、これは福島原発事故と同じではないか。福島原発事故で苦しんでいる人たちの問題を「これは単なる天災、自然災害ではない、人間がもたらした人災だ」ととらえ、日本政府や福島県の政策を国際人権法の正義の眼から見て裁く必要がある。

それを真正面から問うた裁判が問うたのが来月判決のある子ども脱被ばく裁判の控訴審だ。


3、もともと法律には「下位の法令は上位の法令に従い、これに適合する必要がある」という掟がある()。例えば、交通規制の法律で「車は左側通行」と決めたら、その下位の法令は全てこれに従って定められる。それが守られなかったら法体系は秩序が保たれず、機能しない。当然の掟だ。

この掟のことを序列論あるいは上位規範(国際人権法)適合解釈と言う。

先月25日に出た最高裁大法廷の決定もこの当然の掟に従ったまでのことだ。ただし、今回、法律の上位の法令として「国際人権法」があることを正面から認めた。日本で国際人権法が法律の上位の法令であるなんて今さら言うまでもない。その当たり前のことを、今やっと初めて認めた。

 重要なことは、最高裁がこの大法廷決定で使ってしまったカード、

日本の法令は国際人権法に適合するように解釈しなければならない

という原理が性同一性の法令と事件だけにとどまらないということだ。法規範は普遍的な性格を持つ。あなろしや、ここが法律の恐ろしいところで、この上位規範(国際人権法)適合解釈という原理は、それ以外の法令にも、またそれ以外の事件にも適用される。その結果、どういうことになるか。

第1に、この原理により、日本のあらゆる法令を国際人権法の観点から再解釈されることになる。これを本気で検討したらどういうことになるか。それまで鎖国状態の中にあった日本の法令は、幕末の黒船到来以来の「文明開化」に負けない「国際人権法化」にさらされ、すっかり塗り替えられるだろう。

第2に、この原理は福島原発事故関連の全ての裁判に適用される。これを本気で検討したらどういうことになるか。その時、福島原発事故関連の全ての裁判のこれまでの判決はみんなひっくり返る可能性がある。そして、これから出る判決もこの原理に従えば必ず勝てる。


4、だから、この最高裁決定は、311以来、日本を覆っている福島ファシズムを打破する令和の黒船だ。311直後に「ピンチはチャンス」と言った人物がいたが、この言葉は今日のこの日のためにこそある。最高裁決定という黒船の到来を合図に、最高裁もついに認めた世界の良識=国際人権法を使って、私たちの社会を福島ファシズムから解放する最大のチャンスにしようではありませんか。今日のデモはそのための最初の一歩になるものと信じて疑いません。ともに頑張りしょう。

 

【第186話】もうひとりの新老年の盟友、大庭有二さんとの対話(26.3.15)

      2025年8月長野県松本駅(左が大庭さん、その右が菅谷昭さん) ◆ はじめに  以下を書きながら、なんでもっと早く、大庭さんが新老年の盟友のひとり=真の友であることに気がつかなかったのかと、己の鈍感力に無力感に襲われている。 ◆ 本論 大庭有二さんとは、子ども同士が、...