◆はじめに
柄谷行人は私にとって恩人である。また、10代のときの小林秀雄、20代のときの埴谷雄高に続いて、30代の時の師でもある。もし彼と出会わなかったならおそらくマルクスもカントも読むことは適わなかっただろう(養老孟司みたいに食わず嫌いで終わっていただろう)。
しかし、2000数年後、私は意識して彼と距離を置いた。彼は再び理論的探求、私は現場の実践に向かったからだ。私自身、何よりも現実に向かうことの重要性を確信したからだ。そして、それまで曲りなりに考え、掴んできた確信(とはいえ、それらは殆ど3人の師から学んだものだった)の意味を現実の実践の中で鍛え直し、再検証したいと思った。
その最初の現実が2005年5月、新潟県で降って沸いたように起きた、日本で初めての遺伝子組換えイネの「野外実験」の実施とそれに猛反対した農民、市民たちの抵抗運動だった(以下。そのHP>「禁断の科学」裁判)。
私の目の前に現れた2つの災害、バイオ災害と放射能災害、それはバイオ災害であるコロナ禍がそうだったように、人類が推し進めてきた科学技術の最先端で登場した、最先端の科学技術がもたらした最先端のカタストロフィー(大惨事)だ。しかし、我々人類の側には、この最先端科学を制御する、技術的、倫理的、思想的な準備が全くできていない。それがこの事件を前例のない深刻なもの=未曾有のゴミ屋敷にした。同時に、それが私の中で何が最も重要であるか、それを考え続けさせた。
以下は、その中で気づいたことである。
◆本題
311後に東京から長野県に移住した息子家族の長男がこの4月から、単身、リターンして我が家から学校に通うことになり、急遽、家中の在庫一掃整理が始まった。30年以上前の書面を整理している中で、以下の1枚の紙切れから次のことに気づかされた。
これが詰るところ、私が師と仰いだ「柄谷行人その可能性の中心」だったのではないかと。
それは現在の私の取組みの核心でもある。
1、非人権侵害的人権保障への取組み
人権保障の実現への道は「非人権侵害的人権保障への取組み」の中にあり、なおかつその中にしかない。つまりそれは、
人権保障は人権保障を訴えることで実現されるのではなく、その反対であり、人権侵害を否定する人権侵害へのクリティーク=抵抗を続けることを通じて初めて実現される。
このクリティーク=抵抗を通じてこそ初めて人権保障への確かな道が開ける。
2、対話への取組み
つまりそれは多くの人に向けて投げられる一般的なメッセージではなく、目の前のひとりの人に向かって投げられる固有の対話。そのやり取りの中でこそ最も核心的な道が開ける。その典型がソクラテス。
それは、馬の周りにまとわりついて刺し続ける虻(あぶ)のようなソクラテス、その彼の対話をモデルにする。
柄谷行人のエッセンスもまたクリティークと対話(ダイアローグ)。彼が膨大なダイアローグを残したのは別に会話の名手だからではなく、それが彼にとって余技ではなく、必要不可欠の実践だったから。この意味で、彼はソクラテスに似ている(対話についてのメモ>こちら「分断に橋を架けるための試み:ソクラテスの対話に倣って(25.11.5→6加筆)」)。
2001年6月大阪


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