今週、ブックレット「わたしたちは見ている」の最初の勝利を経験した。
それはつつましい、だが、長く余韻が続く勝利。
それが、避難者の住まいの権利裁判(>その概要)で、国際人権法の論点が311後初めて、本格的に審理のまな板に乗ったこと。
なぜ、それが可能だったのか。
それを可能にした原動力は何だったのか。
それはひとつには、昨年秋から今年冬にかけて、ブックレットを書いたことにある。
その中で、政策・政治の運動を人権の運動に転換することの必要性、その意義についてあれこれ考えたから。人々は政治に辟易、ウンザリしているけれど、むしろそれだけに一層、個人の尊厳、自己決定をとことん大切にする人権には、依然、情熱を失わない。
そこに焦点を当てて、具体的な問題に立ち向かおうとしたーーその最初の実践が今週の避難者の住まいの権利裁判。
そこで、今週、はやくもひとつの結果(上に述べたもの)が出た。私自身、その結果に正直、驚いている。
そして、なぜ、このような結果が出たのか、その理由を探求する必要がある。そして、この成果をもっと拡張、広げていく必要がある。
以下は、そのための、直後のつぶやきのメモ。
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本日22日14時から、東京地裁の大法廷で、住まいの権利裁判の第10回目の弁論を実施しました。
この裁判、提訴が2022年3月11日、第1回弁論よりより2年が経過、その2年前に先行して福島地裁に提訴された避難者追出し裁判が第1回弁論(2021.5.14)から1年2ヶ月で審理打切りを裁判所が通告したような強引、乱暴な訴訟指揮はしてきませんでした。
しかし、この裁判の肝心のメインテーマ「国際人権法と県知事決定の裁量権の逸脱」について裁判所は、この間、「敬して遠ざける」という態度で全く検討に入らず、他方で、その罪滅ぼしのように、付随的な主張(「復興公営住宅」の避難先での建設のサボタージュ。親族に原告の立退きを求める。プライバシーの侵害)に滅茶苦茶深掘りして争点整理に励むという姿勢でした。
この人間的個性(大きな人権問題から目を背け、小さな人権問題に目を向ける)が色濃く反映した訴訟指揮を正常化させなくてはと、
今年2月に、裁判所に、この裁判から逃げないで、一歩前に出て、積極的な審理をすることを正面から求めるラブレターみたいな以下の書面(準備書面(12))を提出。
そして、3月の期日にこの書面の要旨(>
PDF)を陳述した直後、はからずも裁判長から「原告の言いたいことは理解した積りだ」と前向きに受け止める発言。一瞬、大きな期待を抱かせたものの、しかし具体的な取組みはその次の期日(前回の5月)でも全く変わらず、ガッカリさせてくれました。それで、業を煮やした私は、前回の期日直後の非公開の進行協議の場で、上のメインテーマについて「争点整理案をこちらで作りましょうか」と半ば嫌味、ヤケクソで提案したら、裁判長はニコリと「じゃあ、お願いします」とあっさり振られてしまいました。
しかし、「言うは易き、行い難し」で、そのあと、上のメインテーマについて「争点整理案」を作成しようとしたのですが、ぜんぜんはかどらない。実は、
先行した福島地裁の追出し裁判でも同じく争点整理案をめぐって裁判所と激論になったのですが、そのとき、準備したものが不発で、それ以来、正直、争点整理案に自信を無くしていました・・・そうこうしているうちに、どんどん時間が経ち、〆切が迫る中で、尻に火がついて、以下の文から書面を書き起こしたら、ようやく、自分の悩みが解けました。
率直に言って、本件は争点整理がすこぶる難しい。一筋縄ではいかず、立ち往生しまいそうになる。これは裁判所も争いのないところだと思う。ところで、翻ってなぜ争点整理がかくも困難なのか。それは決して偶然ではない。そこには本件に特有の本質的な法律問題が潜んでいるからである。すなわち、本件の「争点整理の困難性」は本件に特有の本質的な法律問題に由来するものであり、この点の正しい認識から、初めて本件に相応しい争点整理への途が開ける。そこで、ここから本件の争点整理を始めたい。
このように問題を立て、それを追及して行ったら、そこから答えが見えてきました。そのまま引用すると以下です。
本件の争点整理が一筋縄ではいかず、困難なのは本件の紛争が既存の法律体系の枠組みに収まらず、そこから大きくはみ出した紛争だからである。これまでの訴訟で我々が通常おこなって来た争点整理とは、実は当該紛争が既存の法律体系の枠組みに収まるものであることを大前提にして、その上で「既存の法律体系の枠組みの中で要件事実を取り出し、かつそれらを両当事者に分配し、その整理に基いて具体的な紛争事実を当てはめる」ものであった。だとすれば、新たに発生した紛争が既存の法律体系の枠組みに収まらず、そこからはみ出した場合にはもはや上記の争点整理の方法がそのまま使えなくなるのは当然のことであった。その典型が、既存の法律体系が当該紛争を予想しておらず、当該紛争に対して法律から具体的な判断基準が直接引き出せない場合すなわち「法の欠缺」状態が発生した場合である。しかも本件では、この「法の欠缺」状態が全面的、顕著に発生した。
換言すれば、本件で争点整理が一筋縄ではいかず、困難なのは「法の欠缺」状態が発生しているからである。
ここに至った時、私は初めて、「法の欠缺」という問題は法の体系のみならず、裁判手続の全体まで根底から揺るがす一大事件なのだということを思い知らされたのです。つまり、「法の欠缺」問題は実体法ばかりか裁判の手続法まで、その基本問題の枠組みをすべて塗り替えるような一大事件なのだという自覚が必要なことを教えられました。2年前の追出し裁判の時には、まだこの自覚ができなかったため、争点整理も未消化、不発で終わってしまったことに気がつきました。
もともと、裁判のクライマックスは争点整理とそれに基づく証拠調べの2大柱です。
ですが、「法の欠缺」問題がこの2大柱にどう影響し、どう関わるのかについて考えを押し及ぼさなかったため、裁判の中で「法の欠缺」問題を徹底的に論じ、取上げることが出来ませんでした。
しかし、今度は今回、この点(争点整理と「法の欠缺」の関係)の検討ができたので、これを裁判所にもぶつけて、勝負に出ることにした。それが準備書面(17)(>PDF)と以下の争点整理案(>PDF)です。
いわば、「法の欠缺」が生じている場合の争点整理はいかに実施されるべきかという問題提起とその解決について、ひとつの仮説を提示したのが、この準備書面(17)と争点整理案です。なので、裁判所がこれらの書面をどう受け止めるかによって、この仮説をどう評価したかが分かる。それが本日の弁論だった。
そして、本日の弁論で、裁判長は、被告福島県に、原告作成の争点整理案のブランクの部分(被告の認否・反論とその理由)について書き込むようにと指示を出しました。ひとまず原告の争点整理を承認し、これを前提に争点整理を進めるという態度を表明したのです。
のみならず、前回期日に提出した、311以後の日本政府の原発事故の収拾に関する政策の集大成をした準備書面(14)(>
PDF
。
その報告)についても、我々から次の求釈明(>
PDF)を出していました。
もし、被告において、本書面(準備書面(14))で主張した事実のうち争うものがあるというのであれば、速やかにその部分を明示のうえ否認及びその理由(民訴法規則79条3項)を明らかにされたい。
そしたら、本日の弁論で、「裁判所もこれを知りたいと考えるので、福島県に、次回までに、この点を明らかにするように」と指示しました。
専門的な話になりますが、裁判手続では裁判の主題の判断にとって直接必要な事実については必ず相手に認否・反論をさせますが、裁判の主題の判断にとって背景となる事実についてはとくに認否はしなくてもよいと考えます。今回の準備書面(14)は副題として「本件住宅支援打切りの経緯及び背景事情」と書いているくらいですから、通常なら、相手は認否しなくてもよいとされます。事実、福島県は準備書面(14)を、なんだ、うるさい蝿野郎めくらいにしか考えず、無視、黙殺したのですが、そこに嚙み付いたのが、今回の求釈明書。そこでは、
一般論はともかく、本件の背景事情は一般論とは訳がちがう。それは、
本裁判の主題である法的争点と密接不可分のいわばコインの表と裏の関係にあり、本訴の真相解明に基いて法的争点を的確に下す上でないがしろにできない重要な事実だ、と。しかも、
本書面で述べている事実はいずれも公表もしくは公開された媒体に記載された事実であって、基本的に被告にとっても異論がないものと原告らは理解している。
と追い込んで、だから、もし争うならそれを明らかにしろ、と。しないなら、それは争いがないものとして、今後の審理の基礎にするからな、と。
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そしたら、裁判所も、この考えに共鳴し、乗ってくれた。
これには福島県の代理人もビックリしたはず。準備書面(14)は311後の国の悪行の限りを尽くした政策が網羅されています。これを認めるのか否かを、否定するならその理由を示せと、まるで踏み絵みたいに明らかにしろと迫られた訳ですから。勘弁してよというのが代理人の心情だと思いますが、裁判長は、福島県に踏み絵を踏ませることにしました。
加えて、新たに予備的に主張を追加した準備書面(18)についても、裁判所から被告に認否反論をするように指示しました。
おまけが、個人情報の公開をめぐる論点で、県の書面に反論した準備書面(16)についても、あれだけ県に嚙み付いた書面を黙ってる訳にはいかないのを分かって、さり気なく、「もし反論があれば次回までにするように」と。
以上のような裁判所の訴訟指揮を、福島県の代理人は予想していなかったらしく、裁判所の指示に対し、一言も釈明も反論もせず(できなかった)、あっさり手続が済んだ。
結局、今回初めて、裁判所は原告の求める訴訟展開を全て受け入れ、被告にそれに答えるように指示を出しました。
本日は、福島地裁の追出し裁判も含め、この3年間の中で最も充実した期日でした。
というより、311以後の13年間、いつも敗北の連続の中で、今日が、硬直した事態を突破する最も強烈な抵抗の日でした。
それ加えて、本日の原告Aさんの意見陳述がそれを象徴する、聞く者の心に飛び込む、本当に素晴らしいものでした(>意見陳述原稿)。
この間、原告Aさんの担当で、意見陳述の準備をしてきた井戸さんは、本日、新幹線不通のため出廷が適わず、私が井戸さんの代理人になってAさんの陳述を胸に刻んだのですが、返す返す無念だったろうと思います。
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【参考】避難者追出し裁判の最新書面:もし日本版があれば追出し裁判の争点整理は一発で解決
昨日(2024年7月16日)、東京地裁の避難者追出し裁判(通称、原発避難者住まいの権利裁判)で、書面6通を提出しました。
ちょうど今が、この裁判の折り返し点で、双方の主張がほぼ出揃って、主張整理(裁判では争点整理といいます)が煮詰まるとても重要な時点にさしかかっています。
しかし、にもかかわらず、肝心の争点整理がぜんぜん進まない、国際人権法の核心的論点に全く入ろうとしない。ただし、裁判所が決して避難者側を軽んじて、福島県よりの偏向した態度を取っている訳でもありません。そこで、この優柔不断の態度をどう打開したらよいものか、正直なところ、恐らく争点整理をどうしたらよいのか途方に暮れている裁判所と同じくらい、こちらも途方に暮れてしまいました。
そのような途方に暮れる日々の中から、何とか、打開策を探り当てたのが今回の書面です。
その打開の鍵は、チェルノブイリ法日本版でした。正確に言うと、チェルノブイリ法日本版の持つ意義にありました。
ブックレットにも書きましたが、少し専門的ですが、チェルノブイリ法日本版とは311後の原発事故の救済について日本の法体系が何も解決方法を制定していないという、恐るべき「法の穴(欠缺)」状態を穴埋め(補充)する立法的解決のことです。
そこから眺めると、現状は、日本の法体系が何も解決方法を制定していないままです。それなら、私たちは原発事故の救済を一切諦めなければならないのかというと、そうではありません。立法的解決の替わりに司法的解決の途がまだ残されています。先日の旧優生保護法の人権侵害に対し救済した最高裁の判決がそうです。
このような司法的解決をめざしているのが、避難者追出し裁判です。
ですから、この裁判とチェルノブイリ法日本版とは原発事故の真っ当な救済を実現するための両輪の輪です。
そのことを自覚していたので、この裁判の争点整理で行き詰った時、その打開策はチェルノブイリ法日本版にあると直観し、そこから打開の途を見出しました。
そのエッセンスを一言で言うと、
①.まず原発事故の救済についての「法の穴(欠缺)」状態を正しく穴埋め(補充)せよ、
②.その補充された法体系に沿って争点整理を行えば、適切な争点整理が実現される
というものです。
チェルノブイリ法日本版の画期性、視点を意識することによって、現状の様々な問題の本質がクリアになるという貴重な経験をしました。
以下は、その一部始終をつぶやきとして書き残したものです。合わせて昨日提出した争点整理の肝に関する準備書面と争点整理のモデル案を添付します。
住まいの権利裁判で、未知の争点整理に挑戦する書面を提出(直後のつぶやき)