今から27年前、当時、日本で一番遊ぶと言われた、埼玉県飯能市の奥のとある私立の中高等学校で、校内暴力に端を発した大量退学問題が起きた。それは当人たちとその家族だけでなく、学校の生徒全体と親たちを巻き込んだ、未曾有の大事件となった。たまたま息子がその学校に通っていたせいで私も巻き込まれ、そのうち週の大半をその学校で過ごす羽目になった。
その中で、この退学問題の起源について語られていた生徒の同人誌を知り、その鋭い指摘に感銘をうけた。それが「大地に緑を 壁に表現を」という次の詩だった。そこに盛り込まれた思想は、27年後、原発事故の救済について、「真空」状態になっている日本の法体系に「表現を」と願って刻み込まれたチェルノブイリ法日本版の思想と一致する。例えば、この詩のラストはこう置き換えられる。
もう一度繰り返すけれど、原発事故の救済に関する法律がただカラッポであることが、なぜそんなに重要なのだろうか?いったい誰がどういう権限のもとに、なんの権利があって、僕たちの命と健康への願いを殺し、僕たちの生きる可能性を押し消そうとするのか?
原発事故の救済に関する法律はただカラッポであることが、もし重要であるのなら、そのわけを教えてほしい。
今思うに、当時のこの学校の高校生たちは、チェルノブイリ法日本版を推進する市民立法の力を蓄えていた若者たちだった。彼らこそ、なによりもまず自己決定の重要性を全身で理解していた者たちだったから。だから、これは自己決定に捧げられた詩だ。
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大地に緑を 壁に表現を
昨日悲しい話を聞いた。
高2の生徒が学校の校舎の壁に自分のやっているバンドのメッセージを貼ったところ、先生の手で勝手にはがされてしまったという。何度貼ってもそのたびに、次の日には根こそぎはがされてしまうそうだ。
でも別に、彼女のビラが嫌がらせに貼っているわけじゃない。事実、掲示板に貼ってあるビラはそのまま残っている。
彼女の書いたビラは、掲示板以外の場所に貼られたゆえに剥がされてしまった。
でも、彼女は、掲示板に押し込められた画一的な表現に飽きたらなかった。もっといろんな場所で彼女のメッセージをみんなに伝えたかった。でも、自由の森という場所ではそういうことが許されないらしい。
そこにある壁がただ白くあることがそんなに大切なのだろうか?
白い壁を大地にたとえれば、そこに自然に種が運ばれ、芽吹き、草が生い茂るごとく、壁に表現がうまれ、広がってゆくのは当たり前ではないか。1枚のビラから生まれた出会いが、その人の人生まで変えることだってある。目の前にあるビラをただ機械的に剥がす前に、その1枚のビラから広がるかもしれない人々の輪を想像することのほうがどんなに楽しくて意義のあることだろう。
大地に除草剤をまくごとく、白い壁に芽吹いたささやかな表現を殺してしまえば、命を失った大地のごとく、壁も死んでしまうだろう。死んでしまった砂漠は美しくあるけれど、何も生み出さない。
自由の森の先生たちは、確かに素晴らしい理想を持っているけれど、自分の足下である学校から、雑多な可能性がつみとられていく現状ではその言葉もうつろにしか響かない。自由の森は、製品を作る工場ではない。誰かの夢のなかの箱庭ではない。
もう一度繰り返すけれど、そこにある壁がただ白くあることが、なぜそんなに重要なのだろうか?いったい誰がどういう権限のもとに、なんの権利があって、僕たちの表現を殺し、僕たちの可能性を押し消そうとするのか?
壁はただ白くあることが、もし重要であるのなら、そのわけを教えてほしい。」
(H・S「水曜日」88年12月)
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