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2021年10月31日日曜日

【第83話】法律の発見(2021.10.31)

なぜか、町内の自治会から、自治会の広報誌に原稿を書けと依頼された。テーマは「近隣トラブルに遭わないための対処法」。そんなノウハウ、書けるはずない。第1、そもそも存在しない。しかし、拝み倒され、書く羽目となった。そこで、窮した挙句、法律原理主義に還れ、を書くことにした。それが以下の雑文である。

  ***************

 法律の発見

はじめに
10年単位で考える癖がある。10年前の2011年は日本史上未曾有の人災が発生、10年後の今は世界史上未曾有の天災(人災?)のさ中。こんな激動の10年は初めて、一体自分がどこにいるのか、どこへ行くのか分からなくなる。そんな時の対処方法の一つが「原点に還ること」。では、紛争解決のモノサシとされる法律についてはどうか。

法律家の正体

「法律家とは何者?」と問われたら、私の答えは「法律を一番信用していない連中」。法律とは表向き、紛争を解決するモノサシと言われるがそれは全くの幻想であって、法律こそ紛争を作り出す魔法のことであり、そのことを法律家は熟知しているから。もともと自然の世界も人間の世界も複雑精妙で分からないことだらけである。だから、その世界で発生した紛争に対し万人が納得のいくように解決のモノサシを用意すること自体が土台無理な注文である。にも関わらず、それを用意したことにしたのが法律。それは一見、美しく整合性が取れているように作られているが、しかし、ひとたび紛争の中にほおりこまれるとそんなやわなモノサシが使い物にならないことはすぐ判明する。紛争という複雑怪奇な世界を前にして、法律は穴だらけ、使い物にならないことが示される。

13年費やした或る裁判
私の専門は著作権で、駆け出しの頃にやったのが、ある作家が自分の作品をNHKが大河ドラマの原作として無断で使用したと訴えた裁判だった。著作権法という法律にはドラマの原作者を保護する条文がある。だがどの場合に著作権の違反になるのか、具体的な基準が何も書いてない。その結果、裁判では原告の作家と被告NHKが、著作権の違反についてめいめい自分が信ずる基準を主張し、裁判所に判断を仰いだ。原告の作家も「著作権法は私の味方。私は勝てる」と確信したらしく、13年間最高裁まで争ったが負け続けた。今でも忘れられないシーンがある。数回の裁判の後、裁判官が原告被告双方の代理人を非公開の部屋に呼んでこう言った――この間、お二人の主張を聞きましたが、正直な所、どうやってこの事件を解決してよいのか、私にはさっぱり分かりません。皆さんもどうなんですか。すると、この問いに、双方の代理人ともニヤニヤと苦笑するばかりだった。それを見て、私は密かに思った、そうなんだ、ここにいる人たちは誰一人、この裁判の解決のモノサシが何であるか確信が持てない。そのため、めいめいが自分の信ずる所に従い紛争の解決基準(法律)を主張するしかなく、裁判官も裁判官で、手探りで、暗闇の中から、えいやあと自分の信ずる所で結論を示すしかない。この誠に心細い、実に不安の中で暗中模索する作業が法律の世界なんだ、と。

法律の原点
それがこの10年間でますますハッキリした。法律が信用できないことがハッキリした時、どうするか。法律の原点に帰るしかない。私にとってそれは次の2つである。1つは、真実を畏れること。どんな不都合な真実であろうとも、それと向き合う勇気を持つこと。そして自分を愛するように他人を愛すること。憲法は「人間」を最高の存在と認め、自分の人権にこれ以上ない高い価値を認める。と同時に、他人の人権にもそれと同様の高い価値を認める。だから、自分の人権を愛するのと同様に、他人の人権も愛することが求められる。この原点さえ見失わない限り、法律がどんなに穴だらけで信用できず、紛争解決の使い物にならない時でも、嘆きは無用。その空洞の中から新たな法律を創り出し、紛争を解決することが出来るから。その意味で現代はアマチュアの時代、コモンセンスの時代である。法律が穴だらけとなった今日、私たち一人一人こそ法律家となることが求められている時代である。
                                                    (2021.10.31)

 

2021年10月24日日曜日

【第82話】10.22子ども脱被ばく裁判控訴審第1回期日:事実は足りている。足りないのは愛と愛をカタチにした「新しい革袋(人権・予防原則)」(2021.10.23)

 子ども脱被ばく裁判は、3月1日の原告の全面敗訴判決()を受けて、控訴審第1回裁判が10月22日、仙台高等裁判所開かれました。
                  裁判前の原告・弁護団・支援者のデモ

                             

                裁判前の集会に参加した原告(控訴人)の人たち

 
                     裁判後の記者会見・報告集会


)「理不尽の極み」を本質とする一審判決についての速報と評価は、以下を参照。

【速報】春望:民破れて医大栄えり 弱きをくじき、強きを助ける理不尽の極み判決、言渡される(2021.3.1) 【速報2】 【速報3】 【速報

【報告】3.19官邸前アクションのスピーチ&3.1福島地裁判決の歴史的意義について(2021.3.20)

控訴人の6月7日付控訴理由書ー>その1その2、これに対する国や福島県らの反論は->こちら(準備中) 

法廷

法廷では、控訴理由書の要旨を原告(控訴人)代理人6名が順番に陳述しました。そのあと、原告(控訴人)らを代表して今野寿美雄さんが意見陳述を朗読しました(その全文は->こちら)。

以下は、弁護団の柳原担当の「1、原発事故の救済に関する法令の特筆すべき事情-全面的「法の欠缺」状態の発生 2、山下発言問題」の要旨原稿(そのPDFは->こちら)。

そのエッセンスは表題の通り、事実は足りてる。足りないのは愛とそれをカタチにした理念。そして、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」。二つをまとめれば、
子ども脱被ばく裁判控訴審において、事実問題は基本的に足りてる。足りないのは、福島原発事故という未曾有の現実(新しい酒)に相応しい人権・予防原則(新しい革袋)の発見。

私たちは今、目に見えない「新しい革袋」=人権・予防原則を発見する必要がある。

  **********************

第1、控訴理由書第1章第3、原発事故の救済に関する法令の特筆すべき事情-全面的「法の欠缺」状態の発生10頁以下)について
1、法令について
福島原発事故は、一時は吉田昌郎福島第一原子力発電所所長に「東日本壊滅」を覚悟させたほどの、日本史上最悪の、未曾有の過酷人災であった。

この未曾有の原発事故がもたらした衝撃は日本の政治経済にとどまらず、日本の法体系にも及んだ。2011年3月11日まで、日本政府は安全神話のもとで、原発事故の発生を想定しておらず、備えが全くなかった。これに対応して、日本の法体系もまた原発事故の救済に関する備えが全くなく、文字通りノールール状態つまり全面的な「法の欠缺(けんけつ)」状態であった。

しかも、この全面的な「法の欠缺」状態は原発事故後においてもなお立法的解決が図られず、放置されたままだった。
このような時、裁判所に求められることは、深刻な全面的な「法の欠缺」状態に対し、その穴埋め(補充)をする解釈作業である。その解釈作業において主導的な役割を果すのが法律の上位規範である憲法及び条約とりわけ避難民などの人権救済と積極的に取り組んできた国際人権法であり、その内容は控訴理由書に述べた通りだが、控訴人は今後、さらにこれを充実させ、国際人権法等を用いて補充し、再構成された法令に照らし、国らの行為の違法性を明らかにしていく予定である。

ここでは、「法の欠缺」に関連してもう1つ重要な問題を強調しておきたい。それは行政庁の裁量判断に関するいわば「裁量の欠缺」ともいうべき問題である。

2、裁量について
 実は、福島原発事故の深刻な影響は行政庁の裁量にも及んだ。これまで、科学的専門技術事項について行政裁量が認められてきた根拠は行政庁の判断課程に、それまで科学的な検討や知見を蓄積してきた当該科学技術の専門家集団が関与すれば、いちおう、合理的な判断が期待できたからである。

しかし、原発事故については、安全神話に眠りこけていた原子力の専門家集団も原発事故を想定しておらず、原発事故発生後の影響や救済に関する具体的な科学的な検討も蓄積もなく(例えば現場の優秀な技術者である福一吉田所長も、一時は東日本壊滅を覚悟した2号機の暴走が、その後収束した理由はついに分らなかった)、専門家集団の裁量に委ねたところで合理的な判断への期待もへったくれもない。

この意味で、本件は、科学的専門技術事項についての裁量を正当化する前提条件が欠缺しているという「裁量の欠缺」状態が発生している。原発事故という重大な緊急事態のもとで「裁量の欠缺」状態に陥っているとき、これに対し何をなすべきか。この点、控訴人は行政裁量の幅はゼロに収縮するという「裁量権収縮」論を適用すべきだと控訴理由書で主張したが、次回までにその詳細を準備する予定である。

3、小括
以上の通り、本裁判で求められていることは、原発事故という未曾有の新しい現実に対し、これに相応しく、日本の法体系の解釈を再構成し、そして行政裁量のあり方を再構成する勇気である。控訴人は、これを裁判所に強く期待するものである。

第2、控訴理由書第6章第7、(国賠違法事由)-被控訴人県が福島県の放射線健康リスクアドバイザーに委嘱した山下俊一氏の発言の違法134頁)について
控訴人が原審で、山下発言がいかに科学的知見から逸脱したものか、これを証明する事実を例えば2011年3月11日以前の山下発言を示して主張したのに対し、原判決は、これらの不都合な主張を全て無視、スルーして判断を下したことを、控訴人は控訴理由書の中で縷々述べたのでくり返さない。
ここでは次の1点だけ強調しておきたい。
それは控訴人らをはじめとする福島原発事故の被災住民は、決して2011年3月11日より前にだけ、この国の主権者であり、人権の主体であった訳ではなく、福島原発事故発生後も途切れることなく主権者であり、人権の主体であったということである。

ところが、現実には、被災住民は、20キロ圏内の避難指示など、国が出す指示命令勧告等に従うだけの、あくまでも保護や救助の対象としてだけ、専ら受身の存在としてしか扱われて来ず、この国の主権者人権の主体として扱われたことは一度もなく、権利者の地位が認められたことは一度もなかった。

そして、この「被災住民は国の指示に従うだけの義務者であること」を最も鮮明に示したのが山下俊一氏であった。彼はこう言っている。「私は日本国民の一人として国の指針に従う義務があります。‥‥私たちは日本国民です。」或いは「国の指針が出た段階では国の指針に従うと、国民の義務だと思います。」そして、福島県民に対する山下氏の数々の荒唐無稽な発言は根本的にこの考え方から発している。

しかし、これは明らかにおかしい。被災住民は原発事故発生後も、どこにいようとも、一瞬たりとも、この国の主権者、人権の主体であることをやめたことはない。日本国憲法はこのことを当然の大前提として承認している。しかるに、山下発言には、国の出した指示命令勧告等によって、福島原発事故の被災住民が「主権者として、或いは人権の主体として、どれほどむごい人権侵害を被っているか」という人権保障の観点が完全に欠落している。

本裁判においても、裁判所はこの大前提を改めて想起し、この大前提を踏まえて、国の出した指示命令勧告等の人権侵害という違法性に注目し、山下発言の違法性についても正しい判断を下して頂きたいと切に願うものである。
                                                以 上



2021年10月14日木曜日

【第81話】国内避難民の人権として「生活再建権」があることを追出し裁判という公の場で初めて主張(2021.10.7)

避難者追出し訴訟(一審福島地裁)の報告です。 

 原告福島県の明渡請求に対し、被告避難者は、その請求には次の理由で根拠がないと反論(被告準備書面(4)。その全文のPDF->こちら)。
第1が、国際人権法が認める居住権。
第2に、仮にこの主張が認められない場合に、予備的な主張として「福島県の建物明渡請求は信義誠実の原則に反し、権利の濫用である」

この第2の予備的な主張を基礎づける事由(事実関係)の1つとして、公の場で、恐らく初めて、国内避難民に認められるべき人権として「生活再建権」があることを主張。
それが次の主張。

②.「避難者が有する生活再建権という権利を国も福島県も全く保障しなかった」という問題。
 福島原発事故から6年経過した、2017年3月、被告避難者が住む建物の利用関係の終了により避難者は路頭に迷いかねないという、生存の危機に追い込まれるおそれがあった。その最大の理由は何か。それは避難者がそれまでに、経済的に自立できるだけの安定した仕事に従事できる環境が全くなかったからである。それは避難者個人の努力では如何ともし難い社会問題である。本来であれば、原発事故という国難を引き起こした国と福島県が国難の被害者である避難者の経済的自立に向けて積極的な就労支援を行う責任があった。すなわち国難の被害者である避難者に避難先で、自ら生活を再建する権利(生活再建権ともいうべき新しい人権)が原発事故下における社会権の1つとして、国・福島県により保障されるべきであった。
しかし、国も福島県も、避難者が避難先で経済的自立することに向けて積極的な就労支援を何一つ実行しなかった。自主避難者の「自己責任」という名のもとに、避難も「自己責任」で実行したのだから、「生活再建」もどうぞ「自己責任」で頑張って下さいと、「自己責任」を振りかざし、その結果、避難者の生活再建に対する国・福島県自身の責任を完全に放棄・放置した。その結果、国・福島県から何ら積極的な就労支援を与えられなかった避難者はアルバイトや非正規労働者として日々の生活をしのぐのが精一杯であり、それ以上、経済的に自立できるだけの安定した仕事に就くことは到底不可能であった。

その必然的な帰結が、2017年3月、被告避難者が住む建物の利用関係の終了により避難者が路頭に迷いかねない生存の危機に追い込まれるおそれである。それは国・福島県によって企み、作られた危機である。
それは「人権侵害」であり、「犯罪」と呼びかえられるべき振舞いではないだろうか。

以下は、これを主張した被告準備書面(4)の該当部分(②.要実行事項の不実行(その2))(また、この権利濫用論の主張の詳細は->こちら



 

 

2021年10月13日水曜日

【第80話】かりに国際人権法の主張が認められない場合でも、福島県の建物明渡請求は信義誠実の原則に反し、権利の濫用であると主張した書面を提出(2012.10.7)

避難者追出し訴訟(一審福島地裁)の報告です。

1、予備的主張としての権利濫用論を主張する書面(準備書面(4))提出までの顛末
2021年5月11日付の被告準備書面(1)で、被告が、

 (1) 被告は原告に対し、本件建物の明渡義務を負っていない。
   その論拠は、憲法13条・25条により保障された、被告の基本的人権であり、これを無視した原告の権利濫用などが理由として挙げられるが‥‥

と主張したことに対し、その後、裁判所から書面で、

 権利濫用の抗弁を主張するのか否か明らかにされたい

と連絡があった。そこで、2021年7月8日付の準備書面(2)で国際人権法を全面的に主張すると共に、これに対し、権利濫用の主張は予備的な主張であると、次の通り上申した。

被告らが第2準備書面で詳述した国際人権法の主張が被告主張の主位的主張であり、第1準備書面第4、被告主張の概略で述べた「原告の明渡請求は権利濫用である」旨の主張は予備的主張という位置づけである。そして、審理において、当面、国際人権法の主張・立証に全力を尽くすという立場である。従って、現時点では「権利濫用論」についてはその具体的な主張は展開しないが、将来、審理の成り行きによっては正式に具体的な主張を展開する可能性がある(ただし、その立証のために新たな審理を求めることはしない)。

ところが、裁判所は8月6日の弁論において、予備的主張の内容がどのようなものか明らかにするよう、 被告に求めてきた。被告は、上記の上申書で述べたとおり、当面、国際人権法の主張・立証に全力を尽くす予定である旨くり返したが、なおも裁判所は譲らす、概要だけでも明らかにするように求めてきたので、被告はこれを了解した。その宿題に答えたものが、今回の被告準備書面(4)である。

2、権利濫用論とは何か(一般論)
権利濫用論は、法律実務の中では、既存の法体系の中で主張できる法的な根拠が見つからない場合、万策が尽き、達磨さんになった(手も足も出ない)場合の窮余の策としてくり出す主張、というイメージがある(少なくとも私はそう感じてきた)。なので、権利濫用論を熱心に主張することは、取りも直さず、本裁判で万策が尽きていることを自ら証明するようなもので、不本意極まりなかった。ましてや、本裁判は、国際人権法という国境(国法)を越えた普遍法が法的根拠となりうることが発見できたのだから、もはや権利濫用論は無用ではないかとすら思えた。
ただし、万が一、国際人権法が否定された場合に備えて、予防しておく必要があった。そこで、内心、不承不承、権利濫用論の検討を始めたところ、
日本における権利濫用論の起源とも言うべき文献を、戦前の歴史的転換点にもなった京大の滝川事件(1933年)に抗議して京大を辞職した末川博がライフワークとして研究してきたことを知り、私自身の権利濫用論の捉え方(上記の達磨さん)が全く的外れだったことを思い知らされ、末川が権利濫用論をライフワークにしようと思ったのも、当時の先進的な法学者である末弘厳太郎や我妻栄らと同様の次の問題意識に由来するものであることを思い知らされた。これは私にとって、今年、国際人権法の発見につぐ、第2の発見(権利濫用論の発見)だった。

社会事情が著しき変遷を遂げた結果、その合理的体系の裡に収められた箇々の法律が、新たなる社会現象に適用せられたときに、現時の新しい倫理観念に矛盾するような結果が生じることが多い。この時、法律の純論理的解釈に満足せざる法律家の総ての努力は、社会事情の著しき変遷に対し、現時の新しい倫理観念に適合した法律の解釈はいかにして可能か、に向けられる 》(我妻栄 「私法の方法論」 )

すなわち、社会現象の著しい変遷或いは未曾有の社会現象に対し、その事態に相応しい新しい倫理観念に適合した法律の解釈はいかにして可能か、この問いに答える最初の一歩、それが「権利濫用論」である。そして、具体的な法律構成、権利を持つ法律論の構築、展開がその次の二歩目である。本件で言えば、国際人権法の法律論である。この意味で、権利濫用論と国際人権法はコインの表裏の関係にある。

この発見の時から、私は権利濫用論に夢中になってしまった。ここには、次の二歩目について堅固でなおかつ豊饒な法律論(本件では国際人権法)を構築する上で不可欠な素材がごっそり埋まっているから。
 

2、本件における権利濫用論の内容

とはいえ、今回、権利濫用論を検討する過程で考え出すと分からなくなり、私は次の問題に翻弄された。
(1)、私法で誕生した権利濫用論を全分野の法の基本原理としてそのまま公法(行政法)に適用することには根本的な問題がある。
なぜなら、
一口に権利といっても、私法(民法)の権利と行政法の権利は天と地の差がある。
私法の私人の権利の本質は、他者から容易に侵害される(おそれがある)こと。そうした侵害から権利者を守るために、権利という概念を導入する必要がある。
宮沢俊義は、人権の本質を抵抗権に見出すが、私権もそれと似ている。侵害者の侵害に対し抵抗する、その中で権利が確立していったと考えられるから。

しかし、行政法の行政庁の権利には、そんな「他者から容易に侵害される(おそれがある)こと」はまず考えられない。彼らは国家権力の主体という国の中で最強の組織だから。そんな強者に、「侵害から権利者を守るために、権利という概念を導入する必要」なぞ全くない。

元来、他者から容易に侵害される(おそれがある)状況においてそれを保護するために認められた権利の行使が行き過ぎる場合に問題となる「権利の濫用」と、
本来、最強の権力者・実力者として国民の前に立ち現れる組織の振る舞いが、行き過ぎる(暴走する)ことがあるのはむしろ当然であり、権力に内在する本質的特徴ともいうべきこと。だから、暴走すること自体が「権利の発現」とでもいうべき最強の権力者の本来の姿を、わざわざ「権利の濫用」と言い換えるのは不自然極まりない。
         ↓
なので、私としては、私権における「権利の濫用」と切り離して、最強の権力者である行政に内在する本質的特徴として、権力者の暴走問題を指摘すべきではないかと思うようになった。
         ↓
そうすると、暴走することが「最強の権力者である行政に内在する本質的特徴」に相応しい言い方をするとなると、
もともと、「最強の権力者である行政」が暴走しないためには、裁量行為の行使の手続、範囲について(緩やかではない)厳格な基準、範囲が定められている。もしこの厳格な「裁量行為の行使の手続、範囲について基準、範囲」を超えた場合には、裁量行為の逸脱(行き過ぎ)として、違法とされる。
         ↓
つまり、本件も、この「裁量行為の逸脱(行き過ぎ)濫用」の問題として構成するのがベストではないか、と。         ↑
(2)、これに対する根本的な違和感・異議の登場
しかし、これに対して、行政法専門の友人弁護士から猛烈な反発を食らう。
彼に言わせると、
今回の「避難者の国家公務員宿舎の利用関係」について、これを行政裁量権の行使とされる「処分」と捉え、そこから「裁量行為の逸脱」の問題を論じているが、そもそも上記宿舎の利用関係を「処分」と捉えるのには根本的に異論がある。
なぜなら、
行政裁量権の行使とされる「処分」というのは公権力の行使を念頭に置いている、しかし、国家公務員宿舎の利用とは、私人の権利を制限したり義務を課したりすることではなくて、私経済的なもの、つまり非権力的作用ではないか。
その意味で、本件で、公権力の行使を前提にした「行政裁量の濫用」には根本的な違和感がある。
      ↑
確かにそう言われてみたら、その通りか、と。本件の「避難者の国家公務員宿舎の利用関係」は、行政法の教科書の行政の分類に当てはめると、 
3、公官庁の建物の建設・財産的管理など、直接公の目的を図るのではなく、その準備的な活動とも言える「私経済的行政」
に該当する。それなら、これは「直接、私人の権利を制限したり義務を課したりすること」とはちがう、非権力的な作用ではないか。
      ↓
この友人に言わせれば、なにも2017年4月以降、セイフティネット契約を締結したから、「私経済的行政」に該当する訳ではなく、それ以前の、避難者が東京都に一時使用の許可申請を出し、これに対し東京都が許可書を出したときから「私経済的行政」に該当する、
つまり、2011年から国家公務員宿舎を使わせるという関係は、首尾一貫して「私経済的行政」というべきで、そこには首尾一貫して(法律等で問う別な定めがない限り)私人間同士の契約法理が適用されてしかるべきだ、と。
      ↓
そこから、本件では、契約法理における権利濫用論を使うのがふさわしい、と。
      ↑
(3)、これに対する根本的な違和感・異議の登場
しかし、これに対しては、今度は私から猛烈な違和感の表明。
なぜなら、
民法の権利濫用論というのは結局、「私権同士の衝突の調整」が問題になるのに対し、本件では「私権同士の衝突」は起きない。福島県は公の目的達成のために存在する組織であり、私権の主体ではないから。
      ↑
この点を踏まえて、本件の権利濫用論を構成する必要がある。では、どういう風に構成できるか?
      ↓
ひとつは、
民法の権利濫用論では、私権同士の衝突の調整が問題になるのだから、私権の保護の必要性を考慮する必要がある。その上で、この私権の保護の必要性を考慮したとしても、それでもなお、全体の状況を考慮した時、その私権の行使は行き過ぎであると評価せざるを得ない場合が権利の濫用。
これに対し、本件では、公の目的しか持たない行政庁と私権(人権等)を訴える市民との衝突の調整が問題となる。そもそも福島県側には私権の保護の必要性を考慮する必要がない。福島県はもっぱら公の目的のために行動する義務を負い、その行動が本来のあるべき公の行動に照らし、逸脱、行き過ぎ等が認められる場合を問題にすればよい。
この意味で、本件の行政における権利濫用は、民法の権利濫用論よりも成立が認めやすくなるばず。
      ↓
この点に着目して数多く出されたのが信義則違反を問題にした行政事件の判例。
      ↓
そこで、信義則違反と権利濫用はコインの表と裏みたいな関係にあるから、本件も、これらの判例を参考にして信義則違反を問えばよい、と。
      ↓
さらに、「行政権の濫用」に関する判例は、いわゆる公権力の行使としての処分(行政裁量)の濫用を問題にしたもので、これと私経済的なもの、非権力作用である本件とは本質的に性格を異にするから、この意味で、上記判例はそのまま使えないが、にも関わらす、そこには参考になる重要な要素が含まれている。
それが、信義則違反を問う場合の「行政庁は私権の主体ではなく、もっぱら公の目的のために行動する義務を負うだけだから、その行動が本来のあるべき公の行動に照らし、逸脱、行き過ぎ等が認められる場合を問題にすればよい」とは、 「行政権の濫用」の判断においても 行政庁の逸脱、行き過ぎ等を判断する際の指標になる。

(4)、まとめ
ここから、本件の「国家公務員宿舎の利用関係」をめぐる信義則違反・権利濫用論を論ずる際は、
私権同士の衝突の調整は問題にならないから、純然たる私法の利用関係と捉えることはできない。
かといって、公権力の行使を前提にしておらず、私経済的な非権力作用であるから、「裁量行為の逸脱・濫用」と捉えることはできない。
つまり、一方で純然たる「私法の利用関係」でもなく、他方で純然たる「行政庁の裁量行為」でもなく、いわば私法と行政法の中間に位置する「オルタナテブな利用関係」と捉え、その性質・特質を精査する必要がある。
       ↓
それを曲がりなりにも吟味検討して書面化したのが、今回提出の準備書面(4)。
以下がその1頁目と目次(全文のPDF->こちら

                      目 次
第1、はじめに
1、権利濫用と信義誠実の原則(信義則)の関係
2、本件建物の使用関係
第2、本件建物の明渡請求が信義誠実の原則に反すること
1、原告が、2017年3月末で本件建物の使用関係を更新しないことを決定したこと自体が信義誠実に反すること。
①.要実行事項の不実行(その1)
②.要実行事項の不実行(その2)
2、原告の「禁止事項の実行」は信義誠実に反すること。
①.禁止事項の実行(その1)
②.禁止事項の実行(その2)
③.禁止事項の実行(その3)
3、被告らから原告への使用許可申請に対する原告の対応は信義誠実に反すること。
4、被告らの側に、本件建物の提供者である東京都との信頼関係を破壊すると認められる事情は存在しないこと。
5、原告の側に、本件建物の入居者である被告らとの信頼関係を破壊すると認められる事情は存在すること。 
6、原告の側に、本件建物の退去明渡を求める必要性は存しないこと。
7、結語

【第79話】避難者の生存を賭けた国際人権法の主張に対し、説明責任を負う行政庁として福島県は1頁分の反論しか提出せず(2012.9.28)

避難者追出し訴訟(一審福島地裁)の報告です。

福島県の避難者に対する建物明渡請求は、避難者を路頭に迷わせかねない、生存の危機に直結する重大問題であった。そのような重大な事態に直面した避難者が、2021年8月、「福島県の明渡請求は理由がない」と己の生存を賭けて反論した国際人権法の主張(被告準備書面(2))に対し、このたび、福島県は認否反論をしてきた。
それが以下の書面(全文のPDF->こちら)。
避難者が
44頁を費やし全面展開した国際人権法の主張(以下の書面〔
全文のPDF->こちら〕)に対し、この日の福島県の反論はわずか1頁分。耐え難いほどのこの軽さ--それだけでも、国際人権法を己の生存を賭けて主張している避難者の思い、立場を、福島県がどのように受け止めているか、一目瞭然である。

その上、民事裁判の目的は民事紛争の適正迅速な解決であるが、民事裁判のイロハとして、民事紛争の適正迅速な解決のためには、審理において、当事者が好き勝手に言いたい放題を主張すればそれで充実した審理が実現し真相解明が図られるはずもないことは周知の事実で、真相解明に向けて充実した審理を実現するためには、何がその裁判の本質的な争点なのかを裁判所と当事者が協力して見つけ出すことが不可欠とされている。この点で、福島県の今回の認否反論の態度は民事裁判の審理のイロハも弁えない、手抜きも甚だしい。

以上の通り、行政庁としてあるまじき、この不誠実極まりない態度に到底承服できない被告避難者は、ただちに、福島県に争点の整理(認否反論を真面目にやり直せ!)を求める準備書面(5)を提出(末尾の書面。全文のPDF->こちら)。

原告福島県の書面


被告避難者の国際人権法の書面



今回の福島県の書面に対し、被告避難者から、福島県の争点の整理(認否反論のやり直し)を求めた書面





2021年10月12日火曜日

【第78話】311以後のあべこべの世界を正す取り組み:避難者から福島県に対し、避難者に対する福島県の一連の追い出し行為は不法行為を構成し損害賠償の責任があるとする反訴状を提出(2021.9.29)

避難者追出し訴訟(一審福島地裁)の報告です。

(なぜか国ではなく)福島県が原告となり、東京都東雲の国家公務員宿舎に避難している自主避難者を被告として、国家公務員宿舎からの退去を求めて訴えた追出し訴訟の中で、被告は、2021年9月29日、(これまで、福島県の明渡請求は理由がないと否定、反論していたのに対し、それにとどまらず)被告こそ福島県のこの間の一連の追い出し行為による被害者であり、福島県は加害者として謝罪し、被告が受けた精神的苦痛という損害を賠償する責任があると福島県を訴えた反訴状を提出(全文のPDF->こちら)。


反訴状の概要
被告避難者は福島県が住宅無償提供を打ち切った2017年4月以降も、避難した建物に国際人権法に基づき居住する権利が認められているにも関わらず、原告福島県は、
第1に、被告をあたかも不法占拠者であるかのように考え、追出しに関するさまざまな嫌がらせによる不法行為に出た、
第2に、福島原発事故により被告が余儀なくされた窮状に即して居住の確保について実質的平等の扱いをせず、法の下の平等に反する違憲行為に出て、被告を救済しようとしなかった。
その結果、被告は筆舌に尽くし難い苦しみを味わった。この重大な精神的な苦痛を与えたことに対し、福島県は被告に謝罪し、賠償する責任があると主張したもの。

具体的な主張
とりわけ次の事実は、国際人権法が保障する「国内避難民の居住権」に照らし、さらには憲法の平等原則に照らし、福島県の重大な違法行為を構成する。

①.「長期入居が可能な適切な代替住宅の誠実な提供」について
国際文書「国内避難民の指導原則」は、次の原則を明らかにしている。
(a)、国内避難民は、恣意的に強制移動されることのない権利を有すること(原則6)、
(b)、自らの生命、安全、自由もしくは健康が危険にさらされるおそれのあるあらゆる場所へ強制移動されることのない権利を有すること(原則15)、
(c)、政府などの当局は、国内避難民の強制移動につながるような状態を防止する義務を負うこと(原則5)、
(d)、強制移動を全面的に回避するため、すべての実行可能な代替案が検討する義務を負うこと(原則7)
最後の(d)が本件では「長期入居が可能な適切な代替住宅の誠実な提供」である。
しかし、福島県が2人の被告避難者に対し、現実に行ったことは次のことである。
()、被告1
 2年間の避難生活の精神ストレスからバセドウ氏病・心臓病を発症、入院生活を余儀なくされた。そのため、退院後は定職に就く自信がなく、仕事をせず、預金を切り崩して何とか生活してきた。しかし、2017年3月の住宅の無償提供打ち切りを知り、福島県の職員に、「住宅を出されてもほかに行き場が見つからない、精神不安で職が安定せず経済的にやっていけない、」と窮状を訴え、被告1の条件の下で居住を確保できるよう対策を要望したが、福島県の職員が紹介する代替住居の物件は、いずれも2DKで最低月7万以上、といったインターネットで調べたものでどれも被告1の入居が実現不可能なものばかりであった。福島県の職員、経済的窮状・精神不安定状態を訴える被告1にとって、はじめから、入居が到底実現不可能と分かっている情報を提供して憚らなかったのである。

()、被告2
 
被告2は、2016年に、翌2017年3月の住宅の無償提供打ち切りを知り、「本件建物から追い出されることになったら、とてもじゃないが民間賃貸住宅に入ることはできない、どうしようか」と悩んだ。2019年11月、福島県の職員から紹介された不動産関係者に従い代替住居の物件をいくつか下見に行ったが まだクリーニングも入ってない カビやホコリだらけの物件(複数)もあり 又 反訴原告2の家族構成や条件も伝えてあるにも関わらず バス停の場所、駅までの所要時間、スーパーの有無など生活必須情報を全く調べてなく 返答すらできないいい加減な態度だった。
 この対応振りを目の当たりにした被告2は、福島県の職員は単に、自分たちの「避難者へ物件の紹介実績」を残すために事務的に紹介しただけと感じ、被告2に寄り添って探した物件とは到底思えなかった。福島県の職員、経済的窮状を訴える被告2にとって、はじめから、入居が到底実現不可能と分かっている情報を提供して憚ら
なかったのである。

②.避難者向け300戸の都営住宅の募集と法の下の平等
憲法が保障する法の下の平等とは、あらゆる場合にルールを単に機械的に当てはめて差別しないという趣旨ではなく、民主主義の理念に照して不合理と考えられる差別を禁止する趣旨であり、民主主義の理念に照して合理と考えられる差別はむしろ実質的な平等を実現するものとして要請される(宮沢俊義「憲法Ⅱ」[法律学全集]288頁)。
この「民主主義的合理性」に基づく平等とは、人間を形式的にではなく実質的に尊重することであり、そこから、憲法上要請される平等も、単なる形式的平等ではなく、人間を実質的に尊重する実質的平等でなくてはならない(宮沢俊義「憲法Ⅱ」289頁)。
この原理に基づけば、一般市民と前例のない未曾有の過酷事故である福島原発事故により「国内避難民」となった人々に対する公営住宅の都営住宅の募集条件は形式的に同一である必然性はなく、むしろ「国内避難民」の惨状に即して、人間性の実質的尊重ないし個人の尊厳という観点から、募集条件の緩和が当然要請されると解すべきである。
 
()、被告2
被告2にとって、民間の賃貸住宅への入居は極めて厳しい状況だったため、残された道は、2016年夏の避難者向け300戸の都営住宅の募集だった。ただし、募集要件として母子世帯に該当するためには、同居家族が母と18歳未満の子であったが、被告2の家族は母と18歳未満の次女と18歳以上の長女であったため、上記母子世帯に該当しなかった。この母子世帯で暗礁に乗り上げた被告2は、何とか東京都に口ぞえをと福島県に相談したところ、福島県の職員は、単に「福島県の人達は一般の人達と違い枠を広げて設けてあるので 通常の申し込みで頑張って下さい」と言うだけで、それ以上 東京都に働きかけをすることは決してしなかった。その結果、採用されなかった。
この福島県の職員の振舞いこそ、一見、形式的な平等を貫いたように見えて、しかしその内実は、「国内避難民」の惨状に即して人間を実質的に尊重する実質的平等の実現に目を背けた非人間的な行為そのものであり、その意味で法の下の平等に違反する憲法違反と言わざるを得ない。

()、被告
被告1にとって唯一のチャンスと思われた2016年夏の避難者向け300戸の都営住宅の募集についても、精神疾患を患っていた被告1が精神保健福祉手帳を取得すれば入居資格があったにもかかわらず、相談を受けた福島県の職員は、そうした必要適切な助言は一切行わず、単に「あなたは単身だから難しい」と一言回答するばかりで、そのため、被告1は居住を確保する絶好のチャンスを失ってしまった(その後精神保健福祉手帳を取得し、都営団地の入居資格を得て申込をしてきたが、これについて東京都に対する福島県からの具体的な働きかけが一切ないこともあり、15回、連続落選を余儀なくされている)。
この福島県の職員の振舞いは、前例のない未曾有の過酷事故である福島原発事故により「国内避難民」となった被告1に寄り添い、被告1の条件のもとで代替住居を何とか実現しようという誠実さのカケラもない





2021年10月11日月曜日

【第77話】10.8世界の常識(国際人権法)でもって日本の非常識(避難者追出し)を裁く「避難者追出し訴訟」第3回口頭弁論の報告(2021.10.11)

10月8日(金)午後3時、福島地裁で、避難者追出し訴訟の第3回口頭弁論を行いました(避難者追出し訴訟の概要は->こちら)。

次回第4回口頭弁論は12日()午後3時(当初の11月29日は裁判所の都合により変更)。


裁判開始前の駅前宣伝活動・集会

 裁判開始に先立ち、福島駅東口で本日の裁判のチラシを配布し、2時から裁判所前で集会を行いました。以下、本日の裁判のチラシと駅前配布・裁判所前集会の写真と動画です。

                      福島駅東口でのチラシ配布
                      
                      裁判前の裁判所前での集会

 
法廷

1、原告福島県
 原告福島県より、国際人権法について被告が主張した準備書面(2)に対する認否反論をした準備書面(1)を提出(その全文のPDF->こちら)。
 しかし、その中身は、被告が44頁を費やして全面展開した国際人権法の主張に対し、この日の福島県の反論はわずか1頁。その軽さだけでも、被告の生存を賭けた国際人権法の主張を、福島県がどのように受け止めているか、一目瞭然。


 そこで、被告より、福島県の準備書面(1)では被告の全面的な国際人権法の主張に対して、何が具体的な争点なのかさっぱり明らかにならない、具体的な争点が明らかになるように認否反論をやり直すべきであると主張。もともと福島県は行政庁として、己の行政作用(本件では明渡請求)を法の根拠に基づいて実施するものであり(行政の法律適合性)、あらかじめ己の行政作用が法の根拠に基づくものか吟味検討をした上で実施しているはずであるから、もしその行政作用によって不利益を被る市民から「法の根拠」について疑義が出された場合(本件なら、国際人権法に基づけば、明渡請求には理由がないと異議を申立てた)には、その「法の根拠」について、異議申立てをした市民に説明する責任がある。それが、今回、本来福島県が行うべき認否反論。このような説明責任の観点から、福島県の認否反論のやり直しを求めた準備書面(5)を提出(その詳細は->こちら

2、被告避難者
(1)、2021年9月29日付の反訴状提出
(その詳細は->こちら
 被告避難者は福島県が住宅無償提供を打ち切った2017年4月以降も避難した建物に国際人権法に基づき居住する権利が認められているにも関わらず、原告福島県は、
第1に、被告をあたかも不法占拠者であるかのように考え、追出しに関するさまざまな嫌がらせによる不法行為に出た、
第2に、福島原発事故により被告が余儀なくされた窮状に即して居住の確保について実質的平等の扱いをせず、法の下の平等に反する違憲行為に出て、被告を救済しようとしなかった。
その結果、被告は筆舌に尽くし難い苦しみを味わった。この重大な精神的な苦痛を与えたことに対し、福島県は被告に謝罪し、賠償する責任があると主張したもの。

(2)、10月7日付の準備書面(4)
(その詳細は->こちら
 原告福島県の明渡請求には理由がない、これについて被告避難者の予備的な主張して「権利濫用に該当する」の概要を述べた準備書面(4)を提出。
 この書面の中で、被告避難者は、権利濫用を基礎付ける事由の1つとして、
「本来実行すべき事項の実行を怠ったこと」を挙げ、その具体的事実として、
①.被告避難者が住む建物の利用関係を終了させることは、避難者が路頭に迷いかねない、生存の危機に直結する重大問題であった。そのような重大な事態に相応しく福島県には行政庁として最大限の誠実な対応が求められ、その代表的なものが「長期入居が可能な適切な代替住宅の誠実な提供」であった。しかし、福島県は、このような代替住宅の誠実な提供を何一つしてこなかった。
そればかりか、権利濫用を基礎づけるより抜本的な事由として、
②.「避難者が有する生活再建権という権利を国も福島県も全く保障しなかった」という問題があった。すなわち、
被告避難者が住む建物の利用関係の終了により避難者が路頭に迷いかねない生存の危機に追い込まれる最大の理由は、避難者がそれまでに、経済的に自立できるだけの安定した仕事に従事できる環境が全くなかったからである。それは避難者個人の努力では如何ともし難い社会問題であり、本来であれば、原発事故という国難を引き起こした国と福島県が国難の被害者である避難者の経済的自立に向けて積極的な就労支援を行う責任があった。すなわち国難の被害者である避難者に避難先で、自ら生活を再建する権利(生活再建権ともいうべき新たな人権)が原発事故下における社会権の1つとして、国・福島県により保障されるべきであった。しかし、国も福島県も、避難者が避難先で経済的自立することに向けて積極的な就労支援を何一つ実行しなかった。自主避難者の自己責任という名のもとで、避難者の生活再建に対する自らの責任を完全に放棄・放置した。その結果、国・福島県から何ら積極的な就労支援を与えられなかった避難者はアルバイトや非正規労働者として日々の生活をしのぐのが精一杯であり、それ以上、経済的に自立できるだけの安定した仕事に就くことは到底不可能であった。

(3)、10月7日付の準備書面(5)
(その詳細は->こちら) 
 
上記1に述べた通り、国際人権法について被告が主張した準備書面(2)に対する認否反論をした福島県の準備書面(1)の中身は、被告が44頁を費やして全面展開した国際人権法の主張に対し、わずか1頁。まるで被告の主張は存在しないかのような無関心を如実に示した書面。
 しかし、 法治国家において、福島県は行政庁として、己の行政作用(本件では明渡請求)を法の根拠に基づいて実施しており(行政の法律適合性)、あらかじめ己の行政作用が法の根拠に基づくものか吟味検討をした上で実施しているものであるから、もし「法の根拠」について不利益を被る市民から疑義が出された場合(本件なら、国際人権法に基づけば、明渡請求には理由がないと異議を申立てた)には、その「法の根拠」について、異議申立てをした市民に説明する責任がある。それが、今回、本来福島県が行うべき認否反論。
このような説明責任の観点から、福島県は認否反論をやり直すべきであると、やり直しを求めたのが準備書面(5)


3、裁判所の対応
被告が、原告福島県の認否反論のやり直しを求めたのに対し、裁判所は「原告がそう言ってるんだから、それに従ってやればいいんじゃないですか」と自由放任論をぶち、一般論として異論がない「適正迅速な審理の実現に向け、論点整理に必要な積極的な争点形成に取り組む」ことは本件の国際人権法の論点ではやらないと宣言。しかし、そんな大雑把ないい加減なやり方で、どうやって国際人権法の論点が解明され得るのか、被告は納得できない旨を表明。
ただし、さすがの裁判所も、被告が、原告の明渡請求が理由がないことの根拠としている、
「特定非常災害の被害者の権利利益の保全等を図るための特別措置に関する法律」(平成8年6月14 日法律第85号。以下、本特別措置法という)8条の解釈に対して、原告福島県は具体的にどう反論するのか今回の原告準備書面(1)では何一つ明らかでない。これを次回までに明らかにするようにと釈明を求めた。
なおかつ原告福島県に反訴状の認否反論の準備も指示。

4、次回
(1)、原告福島県
①.被告が主張する本特別措置法8条の解釈に対する原告の見解(認否反論)
②.反訴状に対する認否反論
(2)、被告
①.訴訟要件論(代位行使)について原告準備書面(1)に対する反論

 

裁判終了後の記者会見・報告会
 
裁判終了後、裁判所近辺福島市民会館で記者会見と裁判報告会。
以下、その会見と報告会の写真と動画(準備中)。






2021年9月4日土曜日

【第76話】筑波大「学問の自由侵害」裁判9月8日第1回弁論を前に 「なぜ今、学問の自由の侵害なのか」(21.9.4)

来週9月8日(水)午前10時から、東京地裁6階631号法廷で、平山朝治VS筑波大学の「学問の自由」侵害裁判の第1回弁論が開かれる(第1回弁論の詳細は->こちら裁判の概要->こちら)。

     時事通信の記事『削除は違憲筑波大を提訴 アイドル暴行事件論文で教授 東京地裁」より

事件の概要
原告は、論説NGT48問題・第四者による検討結果報告」の著者。本論説2020年1月より筑波大学のリポジトリで一般公開され話題となっていたところ、年4月、株式会社Vernalossom(旧社名AKS。以下、AKSという)より「論説は当社の名誉毀損にあたり、リポジトリからの削除を求める、さもなければ提訴する」という抗議文が原告と筑波大学に寄せられた。それに対し、筑波大学は自分の大学に所属する原告の学問の自由の擁護に努めるのではなく、「提訴を避けたい」という我が身の保身しか考えず、原告に内密にAKSと連絡を取り、原告に無断で、すぐさま筑波大学のリポジトリから本論説を削除。

この削除を知った原告の度重なる抗議にもかかわらず、さらには、AKSの抗議文を調査するため大学が設置した調査委員会の報告書が「論説の内容が名誉棄損であるとはいえない」と結論を出したにもかかわらず、筑波大学はAKSとの密約を履行するため、迅速に削除した後1年以上にわたり現在に至るまで、本論説をリポジトリに再公開しなかった。

今回の事件は、本来、所属する研究者の学問の自由を擁護する立場にある大学がこともあろうに、所属する研究者の学問の自由の侵害を自ら進んで手を貸して実行・継続するという、大学としてあるまじき前代未聞の醜聞、大学の自殺行為。この裁判はこうした異常事態をただし、もって、学問の自由の回復をめざそうとする取り組み。


この裁判開始にあたって、改めて、なぜ今、この国で学問の自由の侵害が問題になるのか、それについて、本年6月18日 の提訴直後に書いたコメントを再掲する。

その答え一言で言うと、この国の研究者、専門家は今、
歌を忘れたカナリア」になることを止め現代の隠れキリシタン」になることを止め、「歌を取り戻すカナリア」に戻る必要があるということ、この裁判の原告「歌を取り戻すカナリア」になろうとした一人である。

そして、私の頭にあるのは、戦前の、90年前日本。当時始まったばかりの民主主義が崩壊し、急速に軍国主義、戦争へと転落していった転換点が京大と東大で起きた学問の自由の侵害事件(1933年の滝川事件、1935年の天皇機関説事件)だったこと。この2つの事件をきっかけに、研究者、専門家は一斉に「歌を忘れたカナリア隠れキリシタン」に転じてしまった。この出来事は、決して過去の過ぎ去った出来事ではなく、いつでも反復する可能性を持った今の問題であことを教えてくれたのは、晩年の丸山真男である(『丸山眞男回顧談』ほか)。

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【ブログ再開の言葉】なぜ今、学問の自由の侵害なのか(21.6.23) 

民主主義が幕を閉じ、独裁国家が完成するというのはお隣の香港やミャンマーの話だけではなくて、この私たちの国で進行中の話だ。
ただし、この国の光景は香港やミャンマーのように市民に対する公然の強権的な弾圧や抑圧ではなく、このたび開示された森友学園の財務省決済文書改ざん問題の「赤木フィアル」が示すように、もっと陰険で、陰でコソコソ、そしてジワジワと抑圧が進められる。
その結果、私たち市民の知らない間に、民主主義の基盤・中核部分が破壊されていき、民主主義から独裁体制にじわりじわりと移行する。
その民主主義の基盤・中核の1つが、今日の文明社会の科学・技術・文化を担う知識人、研究者、技術者たちの市民的自由とりわけ彼らの発言の自由、表現の自由。それが学問の自由と言われるものだ。
彼ら知識人、研究者、技術者たちが帰属する組織は「言うことを聞かなければココから排除する」と恐怖心をもって彼らを制圧し、メシを食うためには発言の自由、表現の自由は押し殺さなければならないことを悟らせる。
その結果、彼ら知識人、研究者、技術者たちは自分たちに発言の自由、表現の自由があったことを忘れる「歌を忘れたカナリア」になるか、忘れずにそれらの自由は心の奥にしまい込んだ「隠れキリシタン」のいずれかになってしまう。
これが権力者にとって理想的な、強権的な弾圧や抑圧が見えない、臭わない、痛みもない独裁体制である。
いま、この国で進行しているのは、放射能災害のような、見えない、臭わない、痛みもない「理想的な独裁体制」だ。

この息が詰まるような「理想的な独裁体制」にノーという声をあげたひとりが4年前、東京大学による学問の自由の侵害を告発した柳田辰雄東大教授(当時)(提訴時の彼のメッセージは->こちら。そして、今月、筑波大学による学問の自由の侵害を告発した平山朝治筑波大教授(提訴時の彼のメッセージは->こちら)。
彼らは、知識人の市民的自由の大切さを、単に象牙の塔の教壇の上から語るのではなく、現実の場で勝ち取るために象牙の塔の外に出て、提訴という行動に出た。
それは市民にとっては迂遠な、無関係な雲の上の出来事に写るかもしれない。
しかし、それは「歌を忘れたカナリア」になることも「現代の隠れキリシタン」になることも拒否した、「歌を取り戻すカナリア」の出現である。
かつて、炭鉱事故を察知するために坑内に「カナリア」が置かれた。「カナリア」はいち早く炭鉱事故を察知し、その危険を訴えたから。
学問の自由の侵害を告発した彼らもまた民主主義の事故(独裁体制)を察知するために社会に出現した「カナリア」である(
)。
彼らが目指すのは、彼ら自身の人権の回復にとどまらず、私たち市民にとってかけがいのない、人が人として尊重される民主主義の基盤・中核を取り戻すことそのものである。 
                                                                (文責 原告代理人柳原敏夫)

)それは日本の戦前の歴史が証明している。戦前、京大と東大で起きた学問の自由の侵害事件(1933年の滝川事件、1935年の天皇機関説事件)を境に、日本社会は民主主義が幕を閉じ、独裁国家が完成する分岐点となった。
この2つの事件の歴史的意義を自らの体験も交えて強調するのは政治思想史家の丸山真男である(
『丸山眞男回顧談』ほか)。

2021年9月3日金曜日

【第75話】チェルノブイリ法日本版条例のモデル案(柳原案バージョン2)の解説(1)(前文)

 今年2月6日、チェルノブイリ法日本版条例のモデル案(柳原)の改訂版(バージョン2) を公開しましたが(その記事は->こちら、以下その解説、まず前文についてです。

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前文
                             【前 文】

伊勢市民は、全世界の市民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに健やかに生存する権利を有することを確認し、なにびとといえども、原子力発電所事故に代表される放射能災害から命と健康と生活が保障される権利をあることをここに宣言し、この条例を制定する。

他方、原子力発電所等の設置を認可した国は、放射能災害に対して無条件で加害責任を免れず、住民が放射能災害により受けた被害を補償する責任のみならず住民の「移住の権利」の実現を履行する責任を有すると確信する。その結果、この条例の実施により伊勢市が出費する経費は本来国が負担すべきものであり、この点を明らかにするため、国は、すみやかに地方財政法10条17号、同法28号に準ずる法改正を行なう責務を有すると確信する。

加えて、放射能災害に対して無条件の加害責任を負う国は、事故が発生した原子力発電所等の収束に従事する作業員に対しても、放射能災害により被害を被った住民と同様、当該作業員が放射能災害により受けた被害を補償する責任のみならず当該作業員の命・健康を保全する責任を有すると確信する。

もっとも、今日の原子力発電所事故の巨大な破壊力を考えれば、この条例の制定だけで放射能災害から伊勢市民の命と健康と生活を保障することが不可能であることを認めざるを得ない。したがって、私たちは、三重県の自治体、さらには日本の全自治体に対して、各自治体の住民の名において、この条例と同様の条例を制定すること、さらにはこれらの条例の集大成として、日本国民の名において同様の日本国法律を制定することを呼びかける。

さらに、原子力発電所事故が国境なき過酷事故であることを考えれば、わが国の法律の制定だけで放射能災害から日本国民の命と健康と生活を完全に保障することが困難であることも認めざるを得ない。したがって、私たちは、この条例制定を日本のみならず、全世界の自治体、各国に対して、原子力発電所を有する世界の住民の命と健康と生活が保障する自治体の条例、法律の制定を呼びかける。

この呼びかけが放射能災害から全世界の市民の命と健康と生活を保障する条約を成立させるための基盤となることを確信する。
伊勢市民は市の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


参考1(憲法 前文)

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 
参考東京都公害防止条例 前文)
     (準備中。とりあえず画像で


前文の解説

チェルノブイリ法日本版条例(柳原案)の前文について

1、パクリ

憲法や人権宣言に通じている人なら、この前文がパクリだと気がついたと思います。確かにそれは日本国憲法前文とマンチェスター非核平和都市宣言の呼びかけ文[1]のパクリでした。ここで重要なことは、なぜパクリをしてまで、この前文を置くべきだと考えたかです。普通の法律や条例なら、わざわざ前文など置かないからです。実は、なぜ前文が必要と考えたのか、草案作成当時(2017年)、「置くべきではないか」と直感的に思っただけで、その理由を明確に自覚していませんでした。4年も経った今年になって初めてそれがハッキリしました。

2、新しい革袋

前文を置いたのは、チェルノブイリ法日本版が原子力災害(放射能災害と同じ意味で使います)における日本のそれまでの法律の延長線上の法ではなくて、それとは基本的な性格を一変した「新しい酒は新しい革袋に盛れ」の「新しい革袋」であったので、その点を明確に示しておくことが必要だと考えたからです。ではどの点で、それまでの法律の基本的な性格が一変したのか。これまで日本の法律は、災害の救済において市民に「生命・健康・身体を害されない」という人権を保障してきませんでした。災害が発生すると政府や自治体は市民の災害救助のために必要な指示・命令を出し、市民はこれらの指示・命令に従う義務を負う、受動的な存在に過ぎませんでした。災害救助法には「権利」という言葉は一度も登場しません。災害の1つである原子力災害(原発事故など)でもこの性格は変わりません。福島原発事故発生により、政府の判断で事故周辺市町村の市民に「避難指示」という命令を出し、周辺市民はこの命令に従う義務を負う存在にすぎませんでした。そこには次の考え方はこれっぽっちもありませんでした――市民には放射能から生命、健康、身体が害されないために「避難する権利」が保障されており、政府はこの人権を保障する義務を負っている、と。つまり、311まで放射能災害における法律の基本的性格は、原子力災害の救済において市民は無権利であり、政府の指示命令に服従するだけの受身の存在にすぎない、と。しかし、よく考えたらこれはおかしいのではないか。そもそも個人の生命を最大限尊重し、保障されることは、日本国憲法が最高の価値を置く個人の尊厳からの当然の帰結であるばかりか、我々市民がこの国の主権者であること(国民主権)からも導かれる帰結です。だとしたら、この「命こそ宝」という人権の原理は原子力災害の場面においても、否、この場面においてこそ貫徹されるべきです。すなわち市民には放射能から生命、健康、身体が害されないために「避難する権利」が保障されており、政府はこの人権を保障する義務を負っている、と。これを明文化したのがチェルノブイリ法日本版です。そして、この態度は原子力災害におけるこれまでの(子ども被災者支援法も含む)法律の性格を一変する――原子力災害の救済における市民と国との関係をひっくり返す――画期的なものです。だから、このコペルニクス的転回のことを法律の冒頭で、前文として明らかにしておく必要があったのです。

3、日本国憲法の前文

これと同様の発想で、前文が置かれたのが日本国憲法です。日本国の憲法は、それまでの天皇主権と富国強兵に基づく明治憲法を抜本的に否定し、「人類普遍の原理」として市民が主権者であること、戦争を放棄し、戦争以外の方法で紛争を解決することを決意したもので、これは日本の歴史上前例のない画期的な出来事でした。そこで、この画期性、コペルニクス的転回を遂げたことの意義を憲法の冒頭で、前文として明らかにしておく必要があったのです。まさに「新しい酒は新しい革袋に盛れ」を実行したことを明確にするために前文を置いたのです。

この意味で、日本国憲法の前文はアメリカ独立宣言やフランス人権宣言に匹敵する、日本人権宣言なのです。

4、東京都公害防止条例の前文

同じく、これと同様の思想で、前文が置かれたのが翌年の「公害国会」を導いた1969年制定の東京都公害防止条例です。これはそれまでの「市民の生命、健康は経済の発展を阻害しない限りにおいて守られる」という調和条項を否定し、市民の生命、健康が害されないことは憲法が保障する最高の価値を有する人権であることを認め、この人権保障に対応して、東京都はこの人権を保障する最大限の義務を負うことを認めたもので、それまでの公害対策の法体系の性格を一変するものでした。そこで、この画期的なコペルニクス的転回について、条例の冒頭で、前文として明らかにしておく必要があったのです。公害対策において「新しい酒は新しい革袋に盛れ」を実行したことを明確にするために前文を置いたのです。この意味で、本条例の前文は公害という「社会的災害」に対する日本最初の人権宣言です。

ブリタニカ国際大百科事典は、次のように、この条例が日本の民主主義(直接民主主義住民参加)の偉大な成果・賜物であったことを指摘する。

1969年東京都が激化する公害に対処するために制定した条例。具体的施策を盛込むと同時に,住民の健康と快適な生活環境を保全することで,憲法 25条にある健康で文化的な最低限度の生活をおくる権利と,同 13条の幸福追求権を具体的基本権としたもの。これが契機となって全国的に環境保全,反公害の機運が高まり,70年のいわゆる公害特別国会において,公害対策基本法の改正をはじめ公害関係法令の大幅整備を行う機運が促された。また,この条例自体が,当時急速に底辺を広めていた住民運動の力に負うところが大きかったことから,初めての行政への住民参加の制度をつくり,その後の住民参加の原型の1つとなった。


5、チェルノブイリ法日本版条例の前文

以上の意味で、この前文の意義を正しく理解するためには、前文が否定しようとしたものが何であるかを注視する必要があります。311まで日本の災害救助の法体系は市民に人権を認めてこなかった。しかし、市民の生命、健康、身体に未曾有の惨禍をもたらす原子力災害が発生した時、そのような法体系では市民の生命、健康、身体を守ることができないことが明らかになった。そこで、市民の生命、健康、身体を守るためにはそれまでの国と市民の関係(国は指示命令し、市民は受動的にそれに服従する義務を負う)を否定し、これと正反対の関係(市民は生命に対する人権を保有し、国はこの人権を保障する義務を負う)を導入するしかなかった。そう決意した点がチェルノブイリ法日本版であり、この点が従来の法体系にはない画期的なところであり、その画期性を明らかにしたのが前文というわけです。この意味で、本条例の前文は放射能災害に対する日本で最初の人権宣言なのです。



[1] 「今日の核兵器の巨大な破壊力を考えれば、われわれの決議がそれ自体では意味を持たないことを、われわれは認めざるを得ない。したがって、われわれは、北西イングランドの近接自治体、さらには英国の全自治体に対して、その住民の名において、われわれと同様の宣言を行うことを呼びかける。(それらが)ヨーロッパに非核地帯を設置し、拡大して行くための基盤になり得ることを確信する」

2021年8月24日火曜日

【第74話】市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会の第4回総会の第2部「1年を振り返って『311から10年経過した今なぜ、チェルノブイリ法日本版なのか? →311後の真空地帯と理不尽が続く限り、抵抗権の行使としてのチェルノブイリ法日本版は存在することをやめない』」(2021.7.24)

2021年7月24日に、市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会の第4回総会が開かれ、その第2部で、「1年を振り返って」というテーマで話をする機会を与えられ、
311後の真空地帯と理不尽、抵抗権の行使としてのチェルノブイリ法日本版
(ただし、そのあと、表題を以下の通り変更)
311から10年経過した今なぜ、チェルノブイリ法日本版なのか? →311後の真空地帯と理不尽が続く限り、抵抗権の行使としてのチェルノブイリ法日本版は存在 することをやめない。
という表題で話をし、そのあと意見交換をしました。

この話をしたあと、なぜ自分が法律家になったのか、その訳が初めて分かり、これでやっと「新米法律家」としてスタートできると思いました(以下、その感想文)。

311から十年、新米法律家のスタート(2021.8.22)


以下は、この日の動画、事前に配布したレジメと話で使用したパワーポイントの資料(ただし、話の後で未完の部分を加筆)。

動画



配布資料(レジメ) 全文のPDF->こちら




パワーポイントの資料  全文のPDF->こちら


 

2021年8月23日月曜日

【第73話】市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会の原点(2021.8.23)

              2018年3月18日の「育てる階」結成集会終了後の記念撮影
                        結成集会の報告->こちら  

市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会(育てる会)の原点

柳原 敏夫

2021年7月に、市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会(以下、育てる会)結成3年目の総会をやりました。そこで再認識したことがあります。
それは、育てる会の原点は、次の3つ「無知の涙」と「人権(侵害)の発見」と「理不尽をただしたい」ではないかということです。

1、無知の涙

終戦直前に広島で被爆した丸山真男は、のちに、自分は原爆はけしからんと言ってきたのに、原爆の本質つまり放射能による健康被害(その惨禍は一度ならず毎日々々原爆が落ちているにひとしい)のことは言って来なかったと己の無知を自己批判しました。これは育てる会のメンバーの大半も同様です。私も311まで、日本に原発事故が起きるなんて夢にも思わず、己の無知に恥じ入りました。或いは、原発事故のことを考えていた人でも、原発はけしからんとその中止を求めてきたのに、原発事故の本質つまり放射能による健康被害(その惨禍は一度ならず毎日々々原発事故が発生しているにひとしい)は言って来なかったと己の無知に恥じ入りました。放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対する己の無知に涙を流したことが育てる会発足の原点でした。

2、人権の発見

人権はこれを保障する憲法が制定されたから私たちの目の前に存在するものではありません。私たちが発見して初めて存在するものです。なぜなら、人権の本質であり出発点である「個人の尊厳」つまり、どんな地位、職業、社会的評価であろうとそれに関係なく、この世に同じ人間は二人といない、ゆえにひとりひとりの存在こそ至高の価値を有し尊い存在なのだという「個人の尊厳」は、事実として自然に存在するものではなく、私たちが「価値」というメガネをかけたとき初めて見出しうるもの、人間が「考える葦」になったとき初めて発見できるものだからです。

なおかつ、人権宣言の歴史が教えることは、私たちはいきなり「人権を発見」することができないということです。いつも最初に発見するのは「人権侵害」だからです。その上、目の前にいくら悲惨な現実を積み上げていったとしも、それで「人権侵害」に辿り着く訳ではありません。「人権侵害」に辿り着くのは、目の前の悲惨な現実に対し、私たちの心の中で「私たちを人間として扱え!」という声が沸きあがったときだからです。その意味で、「人権侵害」も発見するほかないものです。

放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対し、放射能災害における人権保障という観点から救済を定めたのがチェルノブイリ法日本版です。しかし、この法律の意義を理解するためには、放射能による健康被害という現実を「人権侵害」としてとらえることが不可欠です。それは私たちが「考える葦」になったとき初めて発見できるものなのです。

3、理不尽をただす

前述した、放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対する己の無知に涙を流し、「考える葦」として目の前の放射能による健康被害という現実を「人権侵害」としてとらえた人---- この人に残されたことは、もはや「この理不尽な人権侵害をただすこと」しかないのではないでしょうか。なぜなら「人権侵害」を発見した人は同時に「人権」も発見した人です。ひとたび「私たちを人間として扱え!」という声を聞き、人権を発見した人は、「私たちを人間として扱わない」人権侵害の理不尽の極みの中に身を置くことには耐えられず、そこで、どんなにゴール(人権救済)が遠くにあろうとも、どんなにルートはジグザグであろうとも、その光に向かって歩み続けるしかないことを確信するからです。

4、おわりに

以上の意味で、311後の現実は私たちの目の前に自然に存在するものではなく、私たちが発見して初めて存在するものです。今年月6日、福島地裁の「避難者追出し裁判」で、初めて「国際人権法に基づく人権(居住権)」を全面的に主張した時(その報告は->こちら)、この「国際人権法に基づく人権」は決して自然に存在したのではなく、私たちが発見したものだと確信しました。

だから、私たちが「考える葦」をめざし、ひとりひとりの私たちが発見した「人権侵害」「人権」「理不尽の是正」を、一人でも多くの市民に伝え、共有することで、311後の現実は変わります。311後の現実をどう認識し、どう作り直していくか、それは私たちひとりひとりの発見に、ひとりひとりの私たちの手に、ひとりひとりの私たちの姿勢、主体の関わり方にかかっているのです。

2021.8.23

 

 

【第171話】最高裁にツバを吐かず、花を盛った避難者追出し裁判12.18最高裁要請行動&追加提出した上告の補充書と上告人らのメッセージ、ブックレット「わたしたちは見ている」(24.12.20)

1、これまでの経緯 2011年に福島県の強制避難区域外から東京東雲の国家公務員宿舎に避難した自主避難者ーーその人たちは国際法上「国内避難民」と呼ばれるーーに対して、2020年3月、福島県は彼らに提供した宿舎から出て行けと明渡しを求める裁判を起こした。通称、避難者追出し訴訟。 それ...