子ども脱被ばく裁判は、3月1日の原告の全面敗訴判決(※)を受けて、控訴審第1回裁判が10月22日、仙台高等裁判所開かれました。
裁判前の原告・弁護団・支援者のデモ
裁判前の集会に参加した原告(控訴人)の人たち
裁判後の記者会見・報告集会
(※)「理不尽の極み」を本質とする一審判決についての速報と評価は、以下を参照。
【速報】春望:民破れて医大栄えり 弱きをくじき、強きを助ける理不尽の極み判決、言渡される(2021.3.1) 【速報2】 【速報3】 【速報4】
【報告】3.19官邸前アクションのスピーチ&3.1福島地裁判決の歴史的意義について(2021.3.20)
控訴人の6月7日付控訴理由書ー>その1、その2、これに対する国や福島県らの反論は->こちら(準備中)
◆法廷
法廷では、控訴理由書の要旨を原告(控訴人)代理人6名が順番に陳述しました。そのあと、原告(控訴人)らを代表して今野寿美雄さんが意見陳述を朗読しました(その全文は->こちら)。
以下は、弁護団の柳原担当の「1、原発事故の救済に関する法令の特筆すべき事情-全面的「法の欠缺」状態の発生 2、山下発言問題」の要旨原稿(そのPDFは->こちら)。
そのエッセンスは表題の通り、事実は足りてる。足りないのは愛とそれをカタチにした理念。そして、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」。二つをまとめれば、
子ども脱被ばく裁判控訴審において、事実問題は基本的に足りてる。足りないのは、福島原発事故という未曾有の現実(新しい酒)に相応しい人権・予防原則(新しい革袋)の発見。
私たちは今、目に見えない「新しい革袋」=人権・予防原則を発見する必要がある。
**********************
第1、控訴理由書第1章第3、原発事故の救済に関する法令の特筆すべき事情-全面的「法の欠缺」状態の発生(10頁以下)について
1、法令について
福島原発事故は、一時は吉田昌郎福島第一原子力発電所所長に「東日本壊滅」を覚悟させたほどの、日本史上最悪の、未曾有の過酷人災であった。
この未曾有の原発事故がもたらした衝撃は日本の政治経済にとどまらず、日本の法体系にも及んだ。2011年3月11日まで、日本政府は安全神話のもとで、原発事故の発生を想定しておらず、備えが全くなかった。これに対応して、日本の法体系もまた原発事故の救済に関する備えが全くなく、文字通りノールール状態つまり全面的な「法の欠缺(けんけつ)」状態であった。
しかも、この全面的な「法の欠缺」状態は原発事故後においてもなお立法的解決が図られず、放置されたままだった。
このような時、裁判所に求められることは、深刻な全面的な「法の欠缺」状態に対し、その穴埋め(補充)をする解釈作業である。その解釈作業において主導的な役割を果すのが法律の上位規範である憲法及び条約とりわけ避難民などの人権救済と積極的に取り組んできた国際人権法であり、その内容は控訴理由書に述べた通りだが、控訴人は今後、さらにこれを充実させ、国際人権法等を用いて補充し、再構成された法令に照らし、国らの行為の違法性を明らかにしていく予定である。
ここでは、「法の欠缺」に関連してもう1つ重要な問題を強調しておきたい。それは行政庁の裁量判断に関するいわば「裁量の欠缺」ともいうべき問題である。
2、裁量について
実は、福島原発事故の深刻な影響は行政庁の裁量にも及んだ。これまで、科学的専門技術事項について行政裁量が認められてきた根拠は行政庁の判断課程に、それまで科学的な検討や知見を蓄積してきた当該科学技術の専門家集団が関与すれば、いちおう、合理的な判断が期待できたからである。
しかし、原発事故については、安全神話に眠りこけていた原子力の専門家集団も原発事故を想定しておらず、原発事故発生後の影響や救済に関する具体的な科学的な検討も蓄積もなく(例えば現場の優秀な技術者である福一吉田所長も、一時は東日本壊滅を覚悟した2号機の暴走が、その後収束した理由はついに分らなかった)、専門家集団の裁量に委ねたところで合理的な判断への期待もへったくれもない。
この意味で、本件は、科学的専門技術事項についての裁量を正当化する前提条件が欠缺しているという「裁量の欠缺」状態が発生している。原発事故という重大な緊急事態のもとで「裁量の欠缺」状態に陥っているとき、これに対し何をなすべきか。この点、控訴人は行政裁量の幅はゼロに収縮するという「裁量権収縮」論を適用すべきだと控訴理由書で主張したが、次回までにその詳細を準備する予定である。
3、小括
以上の通り、本裁判で求められていることは、原発事故という未曾有の新しい現実に対し、これに相応しく、日本の法体系の解釈を再構成し、そして行政裁量のあり方を再構成する勇気である。控訴人は、これを裁判所に強く期待するものである。
第2、控訴理由書第6章第7、(国賠違法事由⑧)-被控訴人県が福島県の放射線健康リスクアドバイザーに委嘱した山下俊一氏の発言の違法(134頁)について
控訴人が原審で、山下発言がいかに科学的知見から逸脱したものか、これを証明する事実を例えば2011年3月11日以前の山下発言を示して主張したのに対し、原判決は、これらの不都合な主張を全て無視、スルーして判断を下したことを、控訴人は控訴理由書の中で縷々述べたのでくり返さない。
ここでは次の1点だけ強調しておきたい。
それは控訴人らをはじめとする福島原発事故の被災住民は、決して2011年3月11日より前にだけ、この国の主権者であり、人権の主体であった訳ではなく、福島原発事故発生後も途切れることなく主権者であり、人権の主体であったということである。
ところが、現実には、被災住民は、20キロ圏内の避難指示など、国が出す指示命令勧告等に従うだけの、あくまでも保護や救助の対象としてだけ、専ら受身の存在としてしか扱われて来ず、この国の主権者、人権の主体として扱われたことは一度もなく、権利者の地位が認められたことは一度もなかった。
そして、この「被災住民は国の指示に従うだけの義務者であること」を最も鮮明に示したのが山下俊一氏であった。彼はこう言っている。「私は日本国民の一人として国の指針に従う義務があります。‥‥私たちは日本国民です。」或いは「国の指針が出た段階では国の指針に従うと、国民の義務だと思います。」そして、福島県民に対する山下氏の数々の荒唐無稽な発言は根本的にこの考え方から発している。
しかし、これは明らかにおかしい。被災住民は原発事故発生後も、どこにいようとも、一瞬たりとも、この国の主権者、人権の主体であることをやめたことはない。日本国憲法はこのことを当然の大前提として承認している。しかるに、山下発言には、国の出した指示命令勧告等によって、福島原発事故の被災住民が「主権者として、或いは人権の主体として、どれほどむごい人権侵害を被っているか」という人権保障の観点が完全に欠落している。
本裁判においても、裁判所はこの大前提を改めて想起し、この大前提を踏まえて、国の出した指示命令勧告等の人権侵害という違法性に注目し、山下発言の違法性についても正しい判断を下して頂きたいと切に願うものである。
以 上
1、法令について
福島原発事故は、一時は吉田昌郎福島第一原子力発電所所長に「東日本壊滅」を覚悟させたほどの、日本史上最悪の、未曾有の過酷人災であった。
この未曾有の原発事故がもたらした衝撃は日本の政治経済にとどまらず、日本の法体系にも及んだ。2011年3月11日まで、日本政府は安全神話のもとで、原発事故の発生を想定しておらず、備えが全くなかった。これに対応して、日本の法体系もまた原発事故の救済に関する備えが全くなく、文字通りノールール状態つまり全面的な「法の欠缺(けんけつ)」状態であった。
しかも、この全面的な「法の欠缺」状態は原発事故後においてもなお立法的解決が図られず、放置されたままだった。
このような時、裁判所に求められることは、深刻な全面的な「法の欠缺」状態に対し、その穴埋め(補充)をする解釈作業である。その解釈作業において主導的な役割を果すのが法律の上位規範である憲法及び条約とりわけ避難民などの人権救済と積極的に取り組んできた国際人権法であり、その内容は控訴理由書に述べた通りだが、控訴人は今後、さらにこれを充実させ、国際人権法等を用いて補充し、再構成された法令に照らし、国らの行為の違法性を明らかにしていく予定である。
ここでは、「法の欠缺」に関連してもう1つ重要な問題を強調しておきたい。それは行政庁の裁量判断に関するいわば「裁量の欠缺」ともいうべき問題である。
2、裁量について
実は、福島原発事故の深刻な影響は行政庁の裁量にも及んだ。これまで、科学的専門技術事項について行政裁量が認められてきた根拠は行政庁の判断課程に、それまで科学的な検討や知見を蓄積してきた当該科学技術の専門家集団が関与すれば、いちおう、合理的な判断が期待できたからである。
しかし、原発事故については、安全神話に眠りこけていた原子力の専門家集団も原発事故を想定しておらず、原発事故発生後の影響や救済に関する具体的な科学的な検討も蓄積もなく(例えば現場の優秀な技術者である福一吉田所長も、一時は東日本壊滅を覚悟した2号機の暴走が、その後収束した理由はついに分らなかった)、専門家集団の裁量に委ねたところで合理的な判断への期待もへったくれもない。
この意味で、本件は、科学的専門技術事項についての裁量を正当化する前提条件が欠缺しているという「裁量の欠缺」状態が発生している。原発事故という重大な緊急事態のもとで「裁量の欠缺」状態に陥っているとき、これに対し何をなすべきか。この点、控訴人は行政裁量の幅はゼロに収縮するという「裁量権収縮」論を適用すべきだと控訴理由書で主張したが、次回までにその詳細を準備する予定である。
3、小括
以上の通り、本裁判で求められていることは、原発事故という未曾有の新しい現実に対し、これに相応しく、日本の法体系の解釈を再構成し、そして行政裁量のあり方を再構成する勇気である。控訴人は、これを裁判所に強く期待するものである。
第2、控訴理由書第6章第7、(国賠違法事由⑧)-被控訴人県が福島県の放射線健康リスクアドバイザーに委嘱した山下俊一氏の発言の違法(134頁)について
控訴人が原審で、山下発言がいかに科学的知見から逸脱したものか、これを証明する事実を例えば2011年3月11日以前の山下発言を示して主張したのに対し、原判決は、これらの不都合な主張を全て無視、スルーして判断を下したことを、控訴人は控訴理由書の中で縷々述べたのでくり返さない。
ここでは次の1点だけ強調しておきたい。
それは控訴人らをはじめとする福島原発事故の被災住民は、決して2011年3月11日より前にだけ、この国の主権者であり、人権の主体であった訳ではなく、福島原発事故発生後も途切れることなく主権者であり、人権の主体であったということである。
ところが、現実には、被災住民は、20キロ圏内の避難指示など、国が出す指示命令勧告等に従うだけの、あくまでも保護や救助の対象としてだけ、専ら受身の存在としてしか扱われて来ず、この国の主権者、人権の主体として扱われたことは一度もなく、権利者の地位が認められたことは一度もなかった。
そして、この「被災住民は国の指示に従うだけの義務者であること」を最も鮮明に示したのが山下俊一氏であった。彼はこう言っている。「私は日本国民の一人として国の指針に従う義務があります。‥‥私たちは日本国民です。」或いは「国の指針が出た段階では国の指針に従うと、国民の義務だと思います。」そして、福島県民に対する山下氏の数々の荒唐無稽な発言は根本的にこの考え方から発している。
しかし、これは明らかにおかしい。被災住民は原発事故発生後も、どこにいようとも、一瞬たりとも、この国の主権者、人権の主体であることをやめたことはない。日本国憲法はこのことを当然の大前提として承認している。しかるに、山下発言には、国の出した指示命令勧告等によって、福島原発事故の被災住民が「主権者として、或いは人権の主体として、どれほどむごい人権侵害を被っているか」という人権保障の観点が完全に欠落している。
本裁判においても、裁判所はこの大前提を改めて想起し、この大前提を踏まえて、国の出した指示命令勧告等の人権侵害という違法性に注目し、山下発言の違法性についても正しい判断を下して頂きたいと切に願うものである。
以 上
0 件のコメント:
コメントを投稿