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市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会(育てる会)の原点
柳原 敏夫
2021年7月に、市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会(以下、育てる会)結成3年目の総会をやりました。そこで再認識したことがあります。
それは、育てる会の原点は、次の3つ「無知の涙」と「人権(侵害)の発見」と「理不尽をただしたい」ではないかということです。
1、無知の涙
終戦直前に広島で被爆した丸山真男は、のちに、自分は原爆はけしからんと言ってきたのに、原爆の本質つまり放射能による健康被害(その惨禍は一度ならず毎日々々原爆が落ちているにひとしい)のことは言って来なかったと己の無知を自己批判しました。これは育てる会のメンバーの大半も同様です。私も311まで、日本に原発事故が起きるなんて夢にも思わず、己の無知に恥じ入りました。或いは、原発事故のことを考えていた人でも、原発はけしからんとその中止を求めてきたのに、原発事故の本質つまり放射能による健康被害(その惨禍は一度ならず毎日々々原発事故が発生しているにひとしい)は言って来なかったと己の無知に恥じ入りました。放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対する己の無知に涙を流したことが育てる会発足の原点でした。
2、人権の発見
人権はこれを保障する憲法が制定されたから私たちの目の前に存在するものではありません。私たちが発見して初めて存在するものです。なぜなら、人権の本質であり出発点である「個人の尊厳」つまり、どんな地位、職業、社会的評価であろうとそれに関係なく、この世に同じ人間は二人といない、ゆえにひとりひとりの存在こそ至高の価値を有し尊い存在なのだという「個人の尊厳」は、事実として自然に存在するものではなく、私たちが「価値」というメガネをかけたとき初めて見出しうるもの、人間が「考える葦」になったとき初めて発見できるものだからです。
なおかつ、人権宣言の歴史が教えることは、私たちはいきなり「人権を発見」することができないということです。いつも最初に発見するのは「人権侵害」だからです。その上、目の前にいくら悲惨な現実を積み上げていったとしも、それで「人権侵害」に辿り着く訳ではありません。「人権侵害」に辿り着くのは、目の前の悲惨な現実に対し、私たちの心の中で「私たちを人間として扱え!」という声が沸きあがったときだからです。その意味で、「人権侵害」も発見するほかないものです。
放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対し、放射能災害における人権保障という観点から救済を定めたのがチェルノブイリ法日本版です。しかし、この法律の意義を理解するためには、放射能による健康被害という現実を「人権侵害」としてとらえることが不可欠です。それは私たちが「考える葦」になったとき初めて発見できるものなのです。
3、理不尽をただす
前述した、放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対する己の無知に涙を流し、「考える葦」として目の前の放射能による健康被害という現実を「人権侵害」としてとらえた人---- この人に残されたことは、もはや「この理不尽な人権侵害をただすこと」しかないのではないでしょうか。なぜなら「人権侵害」を発見した人は同時に「人権」も発見した人です。ひとたび「私たちを人間として扱え!」という声を聞き、人権を発見した人は、「私たちを人間として扱わない」人権侵害の理不尽の極みの中に身を置くことには耐えられず、そこで、どんなにゴール(人権救済)が遠くにあろうとも、どんなにルートはジグザグであろうとも、その光に向かって歩み続けるしかないことを確信するからです。
4、おわりに
以上の意味で、311後の現実は私たちの目の前に自然に存在するものではなく、私たちが発見して初めて存在するものです。今年8月6日、福島地裁の「避難者追出し裁判」で、初めて「国際人権法に基づく人権(居住権)」を全面的に主張した時(その報告は->こちら)、この「国際人権法に基づく人権」は決して自然に存在したのではなく、私たちが発見したものだと確信しました。
だから、私たちが「考える葦」をめざし、ひとりひとりの私たちが発見した「人権侵害」「人権」「理不尽の是正」を、一人でも多くの市民に伝え、共有することで、311後の現実は変わります。311後の現実をどう認識し、どう作り直していくか、それは私たちひとりひとりの発見に、ひとりひとりの私たちの手に、ひとりひとりの私たちの姿勢、主体の関わり方にかかっているのです。
(2021.8.23)
ブレずにずっと人権を見つけめていらした団体。深く尊敬と感謝する
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