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2020年11月5日木曜日

【第56話】311後の自分を「気が狂った」のではないかと思ったことは異常だったのか(第2稿)(2020.11.5)

或る個人的な体験
311後に、自分のことを「気が狂う」のではないかと思ったことがたびたびあった(たとえば、2011年4月19日の文科省のいわゆる20ミリシーベルト通知)を知ったあとに)。なぜなら、311後に「頭の中がグジャグジャになり」、その結果、正気を保っていられないのではないか、気が狂うのではないかという恐怖に襲われたからである。

文科省が、ICRP勧告を大義名分にして出した、暫定的に福島県内の小中学校等の安全基準として年20mSvを適用する旨の

しかし、私は、これまで、なぜ、自分が気が狂うのではないかという恐怖に襲われたのか、その恐怖の感情の中で、もっぱら個人的な資質・原因によるものだろうと勝手に決め付けて、それ以上、理由を正面から突き詰めたことがなかった。

だが、先日もらった福島の人のメールを読み、この人の、311以来、時間が止まり、福島原発事故はさながら昨日の出来事みたいに生々しい体験として、思いの丈をぶつける激しいメールの文面から、ひょっとして、この人もまた、私と同様の経験をしたのではないかと思った。

似たような人がいるということは、私だけの特殊な個人的な体験では済まない、もっと普遍的な事情がそこに潜んでいることをうかがわせた。

新青年」の最初の作品
そんなことをぼんやり考えていた折、 先ごろ、近代中国の民主主義の原点である五・四運動、この運動を準備した「新青年」の発刊という文化運動、とりわけ知識を一握りの権力者、知識人の手に独占させるのではなく、一般民衆に解放させる白話運動を調べている中で、この解放運動の最初の作品が魯迅の「狂人日記」(1918年)だったことを知り、衝撃を受けた。生まれによる差別、身分による差別を当然と考える身分制社会の束縛から人々の心、精神を解放し、正常化するための白話運動の第一歩を、魯迅が「狂人日記」という形で示したことに、魯迅の並々ならぬ決意のようなものを感じたからである。
その理由は以下の通りである。

たとえ、魯迅が生まれによる差別、身分による差別は理不尽だと考えたとしても、たとえ、魯迅が人々がまっとうに生きるためには、身分制社会の束縛から人々の心、精神を解放し、正常化する必要があると考えたとしても、生まれ・身分による差別を当然のものとする身分制社会をよしとする連中からみれば、魯迅の考えはバリバリの異端であり、異常であり、気ちがい沙汰であり、自分たちとは相容れない絶対許せない考えである。このように考える連中が当時の世の中を牛耳っているとき、彼らの見解が世論であり、常識であり、正常とされた。だとすれば、魯迅の考えは非常識であり、気ちがい沙汰であり、「狂人」とみなされたのは当然である。であれば、変なてらいも、へつらいもせずに、世の支配者の考え通り、いさぎよく、気ちがい扱いされることを正面から堂々と掲げて、自分たちの信念を述べる作品を「狂人日記」と命名したのは、きわめて素直なこと、すこぶる健全な行動だと分かったから。

 百年後にもし魯迅が生きて311後の日本を見ていたら、事故後まもなく、アンダーコントロールをうたい文句にしてオリンピック誘致に狂走し、原発事故はなかったかのように振舞う311後の日本社会の「世論」「常識」「正常」からすれば、原発事故による被ばくとりわけ内部被ばくの危険性を訴え続け、人の、とりわけ子どもの命、健康の救済を訴え続ける人たちの声は「非常識」とされ、「非国民」とされ、「風評被害」とされ、つまるところ「異端」「異常」、ズカッと言えば「狂っている」=「狂人」扱いされることを見て取るだろう。この意味で、私は311後に、自分が狂うのではないかと感じたのはきわめてノーマルな、健全な感覚だった。

魯迅は「狂人日記」の最後をこう締めくくった。救うべき相手は子どもだ、と。

四千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。真実の人間の得がたさ。

       十三
人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。
子どもを救え‥‥‥‥

漱石の「文学論」序

このように「狂人日記」の題名の歴史的な意味を自分なりに理解した時、同じ時代の日本に、もう一人、自分のことを狂人のように考え、それをあけすけに語った人物がいたことを思い出した。夏目漱石である。

 1906年、漱石は「文学論」の序の最後に、こう書いた。

原 文

現代語訳

英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。
賢明なる人々の言ふ所には偽りなかるべし。ただ不敏にして是等の人々に対して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。
帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。
親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。
ただ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集」を出し、又「鶉籠」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するのは至当なるを信ず。
余が身辺の状況にして変化せざる限りは、余の神経衰弱と狂気とは命のあらん程永続すべし。
永続する以上は幾多の「猫」と幾多の「漾虚集」と、幾多の「鶉籠」を出版するの希望を有するが為めに、余は長(とこ)しへに此神経衰弱と狂気の余を見棄てざるを祈念す。

英国人は私を見て、神経衰弱と言った。ある日本人は、手紙を本国に書いて、私が狂気であると言ったそうである。
賢明な人たちの言う所には、偽りはないだろう。ただ機敏でないため、これらの人々に対して、感謝の意を表することができないことを、遺憾とするのみである。
帰朝後の私も依然として神経衰弱にして狂人とのことである。親戚のものすら、これを是認するようだ。
親戚の者にすらこれを是認される以上は、本人である私が弁解する余地がないことを悟る。
ただ神経衰弱にして狂人であるがために、「猫」を書き、「漾虚集」を出し、又「鶉籠」を公けにすることができたと思えば、私はこの神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表すのは至当であると信じる。
私の身辺の状況が変化しない限りは、私の神経衰弱と狂気とは、命のある限り、永続するだろう。
永続する以上は、沢山の「猫」と、沢山の「漾虚集」と、沢山の「鶉籠」を出版するという希望を有しているので、私は、とこしえに、この神経衰弱と狂気が私を見捨てないことを祈念する。


30年前、初めてこのくだりを読んだ時、その激しい開き直りに、漱石の桁違いの孤独を感じた。しかし今、魯迅の「狂人日記」と比較してみて、初めて気がついたことがある。それは、漱石はただ開き直っていたのではなかった。正常と異常、常識と非常識、正統と異端はいくらでも入れ替わることが可能な相対的なものであって、単に、世の支配的な見解、立場がそれを決定しているだけのものでしかないことを彼はよく分かっていた。その上で、漱石は、自身の立場にひそかに自信を持ち、それゆえ、狂人と思われることを何一つはばかることなく、何一つおそれることなく、ズケズケと表明したのだ、本当はどちらが狂っているのか、今に裁かれる時が来る、と。これもまた、「坊ちゃん」を書いた漱石にふさわしい健全な態度だと思った。

ルソーの神経衰弱・狂気
百年前、魯迅と漱石が直面した「頭の中がグジャグジャになる」という現実が百年後の311で、再び、私の前に出現した。そのことに気がついた時、そこから私は、さらに百年以上前に、「神経衰弱と狂気」と「被害妄想」に苦しめられてきたもうひとりの人物のことが思い出された。ルソーである。


「人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鉄鎖につながれている」と、身分制秩序の徹底的な否定を唱えたルソーは、かつての友人も含めルソーに対する執拗な陰謀と攻撃、不当な迫害から自己の正当性を弁明するため、「いまなお正義と真実を愛するすべてのフランス人に」という題のビラを書き、街頭で道ゆく人に自らビラ配りした。250年近く前、街頭でビラ配りするルソーを想像したとき、彼もまた、自分のことを「気ちがいじみている」と思ったのではないかと私には思える。

ただ、ルソーは、差別と束縛の身分制秩序への徹底した批判が、世の支配者たちから、当然猛反発を買い、彼の見解が「非常識」とされ、「異端」「異常」とされ、「気ちがい沙汰」とされ、「狂人」扱いされてしまうことを、魯迅や漱石のように冷静に受け止めることができなかった。心情的に猛反発し、この不当な扱いを激しく呪った。学生時代、ルソーのこの呪いのくだりを読むと、正直、ウンザリし、そのため、彼を敬して遠ざけてしまった。しかし今は、魯迅、漱石を鏡にしてルソーを再定義してみた時、やたら愚痴をこぼすルソーが、どんなに愚痴をこぼそうが、魯迅、漱石と並ぶ、社会の不正・矛盾に対する情け容赦ない批判者として、永遠の「幼な心」を抱く健全な精神の持ち主として、無条件で大切な人と思えるようになった。これは新老年の私にとって、これ以上ない真実の宝物との出会いである。

このように、ルソー、漱石、魯迅から、正義と不正義がひっくり返るあべこべの異常な時代において、自分が狂人のように思えるという異常体験の正当な意味を考える手がかりを教えられた。

結論
私もまた、ルソー、漱石、魯迅のように、「神経衰弱と狂気」と「被害妄想」が否応なく、私を追い立てて、創造的なアクション、活動に駆り立てることに深く感謝し、311後の異常事態が正常化するまで、とこしえに、この神経衰弱と狂気が私を見捨てないことを願う。





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