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2020年11月3日火曜日

【第53話】311後の私たちは第四の開国&市民革命の継続の中にいる(1)(第1稿)(2020.11.2)

「311後の私たち」が経験したことの意味
私の問題意識は、
【第51話】の冒頭、311原発事故の自己封鎖(封印)で書いた通り、
311原発事故のあと「頭の中がグジャグジャになり」、何度か進退窮まる絶体絶命の場面に出くわし、途方に暮れる経験をした
それが何であったのか、その意味を問うことだった。そのとき、それは単に「歴史の激動期・大変動期」だけではなく、さらに日本の歴史に特有な要素があるのではないか、だった。

最近、それについて1つの手がかりが見つかった。
それが日本史の「開国」。そして、それに続いて起こった市民革命。

日本政治思想史専攻の丸山真男は、日本が欧米との関係で「開国」した経験はこれまで3つあると言う。
第一の開国が16世紀半ば、南蛮人が種子島に漂着、その後、イエズス会宣教師も来日したとき。西欧との初めての接触による多彩な南蛮文化が一気に流入。
第二の開国が、徳川250年の幕藩体制の国策である鎖国を、1853年のペリーの黒船来航で撤廃したとき。しかし欧米との貿易で輸入超過、物価高騰、庶民の生活苦が一気に到来、10年余りで幕藩体制崩壊。尊王攘夷で明治維新を実行した政府は欧米に対し「和魂洋才」という使い分け政策に出る。
第三の開国が、明治以来の国体である天皇主権体制が1945年のポツダム宣言受諾で人民主権に転換したとき。欧米思想の全面解禁の中で、戦後民主主義の登場。

3つの開国の共通点

この3つの開国には共通する点が少なくとも2つある。
1つは、当時の「最先端科学技術」が日本社会を震撼させ、日本社会に激動をもたらした要因になったこと。
第一の開国では鉄砲技術。
このテクノロジーの採用が全国制覇の行方を決めた。しかし、これは既成観念にどっぷり漬かった旧来の支配者に出来ることではなく、新興勢力である信長と自由都市堺を中心とする一向宗門徒たちの間で雌雄を決することとなった
第二の開国では軍艦黒船の大砲等の戦闘技術。
このテクノロジーが200年以上続いた徳川体制の国策=鎖国政策を断念させた。その後、欧米の脅威からいかにして日本の独立を守るか、その方策をめぐり、激烈な意見対立・抗争(攘夷論・尊王論‥‥)が展開された。
第三の開国では広島長崎に投下された原爆(核兵器)。
日本民族の絶滅の可能性を示唆したテクノロジーの出現が、天皇・軍国主義者に本土決戦を断念させ、無条件降伏(人民主権の民主主義国家)を選択させた。その後、どんな民主主義を作るのか、戦後民主主義の中身をめぐって激烈な意見対立・抗争が展開された。

もう1つは、「開国」が当時の市民革命の激動・大変動に火をつけたこと。
第一の開国で、民衆史にとって最初の市民革命である中世の一揆(一向一揆)が強大な力を持ち得た理由の1つが、一向一揆の担い手たちが開国によりもたらされた鉄砲技術をいち早く導入したことである(それがいかに強烈なものであったかは、のちにその反動として、平民から権力者に登りつめた秀吉が、刀狩りをして市民から鉄砲を取り上げずにはおれなかったことに如実に示されている)。
第二の開国で、明治維新の進行の中で、進歩派・自由民権運動・大正デモクラシー(福沢諭吉、中江兆民、吉野作造‥‥)が大活躍した理由の1つが、彼らが開国により流入した欧米の自由主義、人権思想(モンテスキュー。ルソー。アメリカ独立宣言‥‥)をいち早く学び、己の主張の拠り所にしたことである。
第三の開国で、敗戦で占領したGHQが、「人民主権」の憲法草案、共産党員ら政治犯の即時釈放、治安維持法の廃止等、想定外の民主的な政策を実施したため、戦後の民主化運動に火をつけた(ただし、GHQは5年の「短い春」の後、反動に転じた)。

その結果、いみじくも第二の開国当時、
「泰平(注:太平の意味)の眠りを覚ます上喜撰(注:宇治茶の名前で、蒸気船とかけた) たつた四杯で夜も寝られず」
と歌われたように、いずれの「開国」でも、それまで通用してきた旧来の世界観が崩れてしまい、権力者のみならず、民衆もまた安住していた環境からほおり出されるという強烈な精神的衝撃を経験した。それは一種の崩壊感覚という経験であり、それもまた「頭の中がグジャグジャになる」ことを意味した。

そこで、このような「開国」の歴史のダイナミズムとジレンマを手がかりにして見えてくることがある。

3つの開国から見えてくる311原発事故の姿
それは、

311原発事故もまた、もうひとつの「開国」ではなかったか、である(ただし、後述する通り、欧米との関係というより、欧米の文明〔科学技術〕との関係という意味である)。
なぜなら、もともと3つの開国はいずれも、その当時の「最先端科学技術」が日本社会を震撼させ、日本社会に激動をもたらした。だとしたら、311原発事故もまた、今日の「最先端科学技術」がもたらした未曾有の事故であり、それまで「安全神話」の中に安住していた私たちはほおり出されるという強烈な精神的衝撃を経験し、「最先端科学技術」の事故が日本社会を震撼させ、日本社会に激動をもたらしたからである。
もし311原発事故がなかったなら、それまでと変わらない環境で変わらない非政治的な生活を送っていたはずの多くの市民が、311原発事故による強烈な精神的衝撃を経験し、その崩壊感覚の中で、「頭の中がグジャグジャになる」感覚で居ても立ってもいられなくなり、多くの人々が官邸前に、デモに引き寄せられていったからである。

もっとも、311の場合、「開国」は欧米との関係ではなく、原発事故という欧米に起源を持つ「最先端科学技術」との関係という意味だった。日本政府は原発導入以来ずっと「我々の原発は安全だ、事故とは無縁だ」と言い続けてきた。いわば原発事故と鎖国してきた。しかし、311でとうとう原発事故と向き合い、つきあう羽目となった。311で原発事故との鎖国を断念したという意味で、311も「開国」である。
そして、原発事故という「開国」によって、それまで、アジアで唯一、デモをしない去勢された市民と言われてきた日本の市民にデモを、直接行動をもたらし、日本の市民が「政治的去勢」市民でないことを証明した。

この意味で、311後の私たちは、日本の歴史上、第四の開国という激動期の中にいると考えることができる。
もし第一の開国のとき、ヨーロッパのカルヴァンらの宗教改革に負けないくらい、市民の自己統治・直接行動(一向一致など)が力を発揮し、信長たちに壊滅させられずに済んだなら、日本のその後の近代化、民主化はずいぶん違ったものになった(もっとずっと進んだ可能性が高い。チェルノブイリ法日本版もとっくに成立していた可能性がある)。
もし第二の開国のとき、第一の開国の失敗と教訓の歴史から学び、進歩派・自由民権運動・社会主義運動・大正デモクラシーが力を発揮し、軍国主義者たちに壊滅させられずに済んだなら、日本のその後の近代化、民主化はずいぶん違ったものになった(もっとずっと進んだ可能性が高い)。
もし第三の開国のとき、第一と第二の開国の失敗と教訓の歴史から学び、戦後民主主義運動がもっと力を発揮できたなら、日本のその後の近代化、民主化はもっとずっと進んだ可能性が高い。
なぜなら、開国のときとは「歴史の安定期」ではなく、人々の「頭の中がグジャグジャになって」、価値観、世界観の崩壊感覚を経験する「歴史の激動期・大変動期」であって、ここで頑張ってこそ、その後の民主化の行方が決まるものだから。

開国が人々にもたらすもの:自主避難とは思想問題のことである
「開国」についてずっと考えてきた丸山真男は、開国が人々を動物(存在)から人間に進化させたこと、人々が人間の尊厳を全身全霊でつかんだこと語っていた。して、開国の中で、人々は
基本的人権民主主義を知識としてではなく、思想として、生きる姿勢としてつかんだことを語っていた。

そうだとしたら、第四の開国の中にいる311後の私たちもまた、動物(存在)から人間に進化するチャンスを授かったのだ。人間の尊厳を全身全霊でつかむチャンスを授かったのだ。基本的人権、民主主義を知識としてではなく、思想として、信念としてつかむチャンスを授かったのだ。
311原発事故が「
第四の開国だと理解したとき、自主避難とは思想問題なのだということがすんなり合点できる

私もまた、
第四の開国の中で、どんなにモタモタしても、「考える葦」の人間に進化したい。

このことを考えさせてくれたのが
丸山真男の以下の言葉である。「開国」の中で、(原発事故を予感しさせる)突発的な大事故の中で、人々が「考える葦」であることを自覚せざるを得ないこと語った、311後の私たちに残した遺言である。

  *************** 

人間ってのは、環境に対して意味を付与しながら生きていく動物なんです。これは不幸の源泉でもあるんです。動物の方が幸福なんですよ。やせたソクラテスと太った豚というミルの問いは、そこから生まれました。太った豚のほうが幸福だったら、もうおしまいですよ。だけど、俺はやせたソクラテスを取るというのは、ある意味では、やっぱり人間の尊厳と関係してるんです。
[人間は]環境に意味を付与することによって生きていく存在なんです。思想は大きくいえば環境への意味付与なんです。意味を付与しながら我々は生きてるんです。ただ、いちいち意味を付与してると、これはもう、面倒くさくってしようがないでしょ。それでルーティーンというのを作るわけです。朝、歯を磨く時に「歯を磨くべきか、磨くべからずか」って考えないですよ。習慣にしちゃって、ルーティーンを作っちゃうの。そうすると、意味を付与しないで済むわけです。
しかし、突発事故が起こって、例えば、この部屋で爆発が起こるとしますね、すると、どこから逃げるべきか、それとも、ここにじっとしているべきか、選択しなければいけないじゃないですか。これは環境の意味付与がなくちゃできないんですよ。
だから、状況がしょっちゅう変わると、意味付与[の必要]が増大する。維新とか幕末にいろいろな思想家が出て来たのは、それなんです。昨日のごとく今日もないもんだから、ルーティーンが効かなくなっちゃう。ルーティーンが効いてる間は、意味付与なんてしないで生きてりゃいいわけですよ。環境から投げ出されると、そこで初めて意味付与の必要が生じてくる。思想というのは意味付与ですが、意味付与は、いいとか悪いとかの価値判断だけじゃないんです。認識も意味付与なんです。つまり、これは机であるとか、コップであるとか、みんな意味付与なんです。動物は、意味付与して「これはコップだ」なんて言いませんよ。環境と自分があるだけなんです。
環境と自分との間に、われわれは動物も人間も含めて環境からの刺激に対して反応しながら生きてるんです。これをSR方式といいます。Sはstimulus[刺激]です。Rはresponse[反応]。人間も動物も含めていえば、全部、刺激-反応-刺激-反応、こういう過程なんです。SとRとの反応の速さは、動物のほうが速いです。本能で反応するから。人間は「考える葦」であるっていう、その間に何かモタモタがあるんだ。SとRの間にモタモタがあるんです。「生きるべきか生かざるべきか」っていう、やっかいな動物なんですよ、人間ってのは。Sに対してすぐRというわけにはいかない。刺激に対して意味付与をして初めて反応が出てくる。SとRの間にモタモタがあるんです。考える葦だから、弱いわけね。動物はいわば刺激に対して本能的に行動するから、反応が速いんです。
‥‥
テレビ人間ってのは、反応だけ速くなって考える力がなくなって動物に近くなる。そのほうが幸福かもしれませんよ。〔けれど、人間は〕考える葦だからやっかいなんだ。やっかいだけれど、そこに人間の尊厳を認める。
つまり、人間として生まれて人間の人間たるゆえんを認める以外に生き方がありますか、ということなんですね。‥動物は生きがいなんて考えなじゃないですか。生きがいなんて考えなきゃ、楽だっていえば楽ですよ。だけど、人間である以上、考えざるを得ない。

丸山真男話文集2 274頁~)

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