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2020年11月9日月曜日

【第58話】友あり遠方より来る、痛い!11月のアブラセミ(2020年11月9日)

新老年とはいえ、老年にはちがいないから、抜歯みたいなのが日常の話題である。今日は7日の新宿デモのため、延期してもらった歯医者の治療日。虫歯の様子を見て判断する予定だったが、診断の結果、抜歯と決定、即実施。60数年間の分身にお別れのあいさつをする間もなく、「帰りの自転車はゆっくりこぐように」とかこまごまとした注意事項を与えられる。

少々、クラクラした頭で帰宅。すると、玄関わきに、アブラセミが腹を上に寝そべっている。夏の間捕まえて、そのまま標本みたいにしていたやつがここに転がっていたのかと拾い上げる。すると、足が動き出す。一瞬、ウソだろう!しかし、セミはお構いなく、足を必死にバタバタさせる。11月にセミにお目にかかったことは初めてのことで、よくぞ遠方より来てくれたと家に招き入れる。

テーブルの上に置いて、様子を見る。動かないので、足に触れると、少しずつ前に動く。しかし、また止まる。こちらがまた足に触れると、また動き始める。こいつ、11月なんかに地上に現れて、俺なんかよりもうよっぽど老年なのかも。しかし、ほっとくと、しばらくすると、ずんずん前に向かって歩き出していた。どこへ行くんだい?ここにいても、何も食べ物ないし‥‥





庭のみかんの若枝にでも連れていってあげようかと、人差し指にセミをとまらせて、2階から庭に移動し始めた。
その時である。私の指にちょっとした激痛が走った。何だ、この痛みは?!
痛みは、セミがとまっていた人差し指から来た。見ると、セミの長い口が私の親指に突き立っている。
こいつ、オレの人差し指に突き刺して、オレから養分を吸おうとしたのか。
この無謀な行動に、思わず、感動してしまった。

市民立法「チェルノブイリ法日本版」の行動は、「全ての希望の扉をたたき、開き、注ぎ込む」という取り組みだ。今日、出会ったセミが生きるために、私の親指に口を突き刺そうとしたのは、君もまた「全ての希望の扉をたたき、開き、注ぎ込もう」としたからだ。君の「全ての希望の扉をたたくぞ」という意気込みは、私に鋭い痛みとしてしっかり伝わった。おかげで、抜歯の痛みが、一瞬、どこかに吹き飛んだ。

その意気込みで、君に残された老年を、庭のみかんの樹液で満たしてくれることを祈る。
私も、君から授かった意気込みを胸に、私の「全ての希望の扉をたたく」取り組みに向う。




追伸(11.12)

翌日、その後、セミはどうしているだろう?とミカンの木の周りの様子を探ってみたが、姿は見つからなかった。3日後の今日、再び、ミカンの木の下を探してみたら、地面にセミが横たわっていた。そっと救い上げ、そっとお腹を押してみる。3日前のように、足をバタバタさせるんじゃないか、と。それはなかった。しかし、セミは私の指にゆっくりと押された。

まだ命が宿っているかのようなつややかなうちに、記念撮影。


そのあと、君の生きた最後の場所に穴を掘ってささやかな墓を作る。君が私の人差し指を突き刺そうとした志は永遠の命の証だ。




2020年11月8日日曜日

【第57話】コロナ災害が教えたこと、それは311原発事故と同様、私たちの科学技術文明の大敗北だということ(2020.11.7第15回新宿デモスピーチ原稿)

以下は、11月7日(土)に行った、素人市民グループ「脱被ばく実現ネット」主催の第15回新宿デモのスピーチ原稿。

現在の出来事を過去の出来事と比較してみる:15年前の新型病原菌出現の警告
 私たちは、15年前の2005年から、今日のコロナ災害のような、世界規模で健康被害を及ぼす、強力な新型病原菌が出現する可能性が大であると警鐘を鳴らしてきました(禁断の科学裁判)。当時、新潟県上越市で、国が地元市民の反対を押し切って、強力なテクノロジーを用いたの遺伝子組み換えイネの野外実験を強行しようとし、その実験の過程で、最強の新型病原菌(ディフェンシン耐性菌)が出現する可能性があることを、耐性菌の世界的権威である平松啓一順天堂大学教授の「これは決して荒唐無稽な夢物語ではない」と警告する意見書等をもとにし、実験の中止を強く求めたからです。いわば怪物のような科学技術の行使が怪物のような新型生物を生み出す危険性があると警告しました。

しかし、国も遺伝子組み換え技術を推進する研究者たちもこの警告をまもとに取り合わず、無視しました。しかし、 15年後に、最強の新型ウイルスにより世界規模の健康被害が現実のものとなりました。

その上、これは何かに似ています。どこかで聞いたことがあります。
それは、1986年、チェルノブイリ事故が発生した時です。「原発事故は決して荒唐無稽な夢物語ではない」と日本の原発を警告する市民の声が高まりました。しかし、日本政府はこう言って無視した。「日本はソ連とちがい、高度の技術を持っている。チェルノブイリのような事故は絶対起きない」と。しかし、25年後に、日本政府が荒唐無稽な夢物語と無視した原発事故が福島で現実のものとなりました。

さらに、災害発生後の政府の対応もどこか似ています。
福島原発事故に対する政府の三大政策は「情報隠蔽」「事故を小さく見せること」「基準値の引き上げ」。当初、政府は、原発事故は短期間で収束すると言い、人々に年内には自宅に戻れると楽観させましたが、やがてその見通しは崩壊しました。
コロナ災害も、政府らは東京オリンピックを予定通り実施すると言い、短期間で収束する楽観を人々に振りまきました。しかし、今、その見通しは原発事故と同様、崩壊しつつあります。

加えて、今回のコロナ災害で、私の中で初めてハッキリしたことがあります--私たちはコロナウイルスに勝てない、だからコロナから遠ざかるしか、逃げるしかない。これは原発事故とそっくりではないか。私たちは放射能に勝てない、だから放射能から遠ざかるしか、逃げるしかない、と。また、福島で異常に多発している小児甲状腺がんの原因をめぐって、けんけんがくがくの議論や発症数の隠蔽といったことが問題になっている。それはなぜか。その根本的な理由は、我々の現在の科学技術では、被ばくと小児甲状腺がんの因果関係(メカニズム)をズバリ解明する力がないからです。いわんや、被ばくとほかの病気との因果関係についてはなおさら解明する力がありません。つまり、我々が誇る科学技術はコロナにも放射能にも無力だ、どちらについても我々のこれまでの科学技術は無ざんな敗北を喫しているのだということです。
この意味で、福島原発事故と新型コロナウイルスは一直線につながっている。
この意味で、私たちは、311以来ずうっと、同じ敗北、同じ危機の中にある。

だから、私たちは、福島原発事故と新型コロナウイルスによる我々の科学技術文明の決定的な大敗北の中から、二度と、このようなことをくり返さない新らたな科学技術と社会を、私たちの手で作り上げていく必要があり、このことを私たち市民自身が決意する必要があります( 参考:2020年4月28日の大村智氏の発言)。

日本の出来事を世界の出来事と比較してみる(その1):ウクライナがやったこと
だが、311後の現実の日本の政府、日本の社会はどうでしょうか。311後の日本政府と日本社会の正体を浮き彫りにするため、同じ原発事故を経験した国ウクライナと対比してみます。
(1)、旧ソ連崩壊後のウクライナの初代大統領(レオニード・クラフチュク)はこう言いました。
チェルノブイリ事故は、ウクライナにとって宇宙規模の悲劇だ」と。
これに対し、この国の政権担当者はどう言ったでしょうか。
「健康に直ちに影響はない」
「国の定めた基準値以下だから心配ない」
福島の状況は「アンダーコントロール」
経済復興のため、福島の「風評被害の払拭に向けて」全力で取り組む。
恥ずかしくなるほどの何というちがいでしょう。

(2)、ウクライナは原発事故の被害から人々の命、健康を世代を超えて守るため、憲法を改正して、「チェルノブイリ事故から子孫を守ることは国家の義務である」と宣言した(16条)。
これに対し、この国の首相は何をしたでしょうか。
「福島原発事故から子孫を守ることは国家の義務である」などとは一言も口にせず、命を奪う人殺しつまり戦争が堂々とできるように憲法9条を改正することをライフワークに掲げ、その実現に血なまこになりました。
恥ずかしくなるほどの何というちがいでしょう。

(3)、ウクライナは、旧ソ連時代に成立した、国際標準の年1mSvで避難の権利を保障するチェルノブイリ法を旧ソ連崩壊後も、困難な経済状況の中で維持継続、人々の命、健康、暮らしを守ろうとしました。
これに対し、この国の政府は何をしたでしょうか。
他国jの危機である、2012年の欧州の金融危機に直ちに「4.8兆円の拠出」を表明し、ウクライナとは比較にならないほど経済的余裕を示したにもかかわらず、自国の国難である311原発事故に対しチェルノブイリ法日本版の制定を一度も口にしなかった。
恥ずかしくなるほどの何というちがいでしょう。

(4)、ウクライナは、2011年、小児甲状腺がん以外にも実に多くの病気が、とりわけ子どもたちに心筋梗塞や狭心症など心臓や血管の病気の増加が、低線量被ばくにより発症したとする「ウクライナ政府報告書「未来のための安全を発表しました。

              (ウクライナ政府報告書の目次より
第4節 人々の健康に対するチェルノブイリ惨事の複雑な要因の影響
3.4.1 神経精神医学的影響
3.4.2 循環器系疾患
3.4.3 気管支肺系統疾患
3.4.4 消化器系疾患
3.4.5 血液学的影響

これに対し、この国の政府は何をしたでしょうか。
ウクライナ政府報告書に匹敵するような報告書は何ひとつ作成しなかった。やったのは健康被害に関する情報封鎖。小児甲状腺がんの発症数すら経過観察中に発症した数を開き直って封鎖している有様です(経過観察問題)。この徹底した情報封鎖のおかげで、被ばくによりどれくらいの健康被害が発生しているのか、その真実は私たちの前から完全に隠蔽されたままです。
恥ずかしくなるほどの何というちがいでしょう。

これが311後の私たちの社会です。311後の日本はどこに向かっていくのでしょうか。

日本の出来事を世界の出来事と比較してみる(その2)核兵器禁止条約の発効
しかし、日本のことは日本だけでは分かりません。世界と比較してみて初めて見えてくるものがあります。世界では、ここ最近、すごい出来事が起きました。トランプの国の大統領選挙の話ではありません。そんなマイナーな話題ではありません。先ごろ、核兵器禁止条約が世界中で50ヶ国の批准が得られ、正式に発効するという世界史的な出来事です。

この出来事がなぜすごいか。それは、トランプが公言してはばからなかったように、
核兵器を保有するアメリカ、中国、ロシアなどの超大国は世界中の国々に対し「批准をするな」と強烈な圧力をかけたにもかかわらず、50ヶ国が超大国の圧力をはねのけて、条約を批准したからです。では、これらの国々が超大国の圧力をはねのける力はどこにあったのでしょうか。思うにそれは、基本的に、世界中の市民からの圧力以外あり得ません。核兵器の廃絶を願い、求める世界市民のネットワークの力・声が50ヶ国の批准を勝ち取ったのです。

ところで、この条約の発効に対し、マスコミは「批准しない核兵器を保有する超大国に対し拘束力はないから、条約の実効性が乏しい」と指摘します。その通りです。しかし、画期的なことは、
核兵器禁止条約が発効したことで、核兵器の禁止をめぐって国際上の規範が二重状態になったことです。これがなぜ画期的かというと、それまで、国際上の規範は、核拡散防止条約という核兵器保有国優先の規範だけしかなかった一重の状態から、この条約と核兵器保有国の優先を認めない核兵器禁止条約が並存するという拮抗する規範の二重状態がスタートしたことで、しかもこの2つの規範の二重状態を、世界中の市民のネットワークの力が出現させたことです。つまり、私たち市民のネットワークの力が社会のあるべき規範をジワジワと作り出していく原動力であることを示したのです。

核兵器禁止条約の発効が意味することは、311後の世界の特徴は、私たち市民のネットワークの力が社会のあるべき規範をジワジワと作り出していく市民立法の時代だということです。

私たちも、この
核兵器禁止条約の発効という偉業から学び、市民のネットワークの力を育てることの大切さに注目する必要があります。では、どうしたら、この「市民のネットワークの力」を育てられるでしょうか。
そのためには、まず
市民のネットワークの力」を学ぶことです。

学ぶことの根本は「習慣を変えること」
直接民主主義の重要性を訴えたルソーは、学ぶことの根本は「習慣を変えることだ」と言いました。学ぶとは習慣を変えることであり、習慣が変わらなければ本当に学んだとは言えない、と(丸山真男話文集続2.165頁による)。
私は、311で、それまでの習慣が変わりました。一番変わったことが、それまで殆ど行ったことがなかったデモに行くようになったことです。それどころか、仲間と一緒にデモを企画し、実行するようになりました。デモの経験を通じ、市民が心から願っていることを声に出し行動に移すことがどれほど大切なことか、デモが市民のその願いを無条件でかなえる、いかに素晴らしい政治参加のツールであるかを身をもって学びました。それは
市民のネットワークの力」を学ぶ生きた実例でした。その学びをした結果、私は「デモをする習慣に変わった」のです。

「日本の出来事を、日本だけで眺めるのではなく、世界の出来事と比較して眺める習慣に変えること」「現在の出来事を過去の出来事と比較して眺める習慣に変えること」「デモをする習慣に変えること」、これらは私にとって、どんなにささやかで小さな習慣であっても、とても大切な習慣です。
このような習慣を今後とも生涯身に付ける努力を続けていきたい、そして自分ひとりだけでなく、一人でも多くの人たちとこのような習慣を共有できるように取り組んでいきたいと思います。


)ノーベル生理学・医学賞を受賞した大村智氏は、従来の科学技術ではない、予防原則という観点からの新型の科学技術の必要性について、日経のインタビューに次のように答えている(4月28日付日経新聞
――人類の英知で危機は乗り切れますか。
治療薬はいずれできるが、それで感染症の脅威を切り抜けられると考えるのは甘い。‥‥現代人は感染症を避けようと、便利な製品や技術に依存してきた。たとえば除菌剤を多用し、至る所を抗菌処理して安心しきっていた。それが通用しないことが、図らずも明らかになった

――では、どうすればよいと。
薬が必要な状態になる前に、病気の芽を摘めるようにするための科学が重視されるべきだ。そのうえで、感染症の基本に立ち返り一人ひとりが先回りして自ら備えをしておく。北里柴三郎先生が唱えた予防医学の考え方とも一致する」
「特別に難しいことではない。身近なところでは、生活リズムをあらためる。きちんと食事して栄養をとり、体力をつける。体調が悪いのに無理に仕事に出かけることはしない。そんな当たり前のことが大切にされる社会に、少しでも近づくと期待したい


2020年11月5日木曜日

【第56話】311後の自分を「気が狂った」のではないかと思ったことは異常だったのか(第2稿)(2020.11.5)

或る個人的な体験
311後に、自分のことを「気が狂う」のではないかと思ったことがたびたびあった(たとえば、2011年4月19日の文科省のいわゆる20ミリシーベルト通知)を知ったあとに)。なぜなら、311後に「頭の中がグジャグジャになり」、その結果、正気を保っていられないのではないか、気が狂うのではないかという恐怖に襲われたからである。

文科省が、ICRP勧告を大義名分にして出した、暫定的に福島県内の小中学校等の安全基準として年20mSvを適用する旨の

しかし、私は、これまで、なぜ、自分が気が狂うのではないかという恐怖に襲われたのか、その恐怖の感情の中で、もっぱら個人的な資質・原因によるものだろうと勝手に決め付けて、それ以上、理由を正面から突き詰めたことがなかった。

だが、先日もらった福島の人のメールを読み、この人の、311以来、時間が止まり、福島原発事故はさながら昨日の出来事みたいに生々しい体験として、思いの丈をぶつける激しいメールの文面から、ひょっとして、この人もまた、私と同様の経験をしたのではないかと思った。

似たような人がいるということは、私だけの特殊な個人的な体験では済まない、もっと普遍的な事情がそこに潜んでいることをうかがわせた。

新青年」の最初の作品
そんなことをぼんやり考えていた折、 先ごろ、近代中国の民主主義の原点である五・四運動、この運動を準備した「新青年」の発刊という文化運動、とりわけ知識を一握りの権力者、知識人の手に独占させるのではなく、一般民衆に解放させる白話運動を調べている中で、この解放運動の最初の作品が魯迅の「狂人日記」(1918年)だったことを知り、衝撃を受けた。生まれによる差別、身分による差別を当然と考える身分制社会の束縛から人々の心、精神を解放し、正常化するための白話運動の第一歩を、魯迅が「狂人日記」という形で示したことに、魯迅の並々ならぬ決意のようなものを感じたからである。
その理由は以下の通りである。

たとえ、魯迅が生まれによる差別、身分による差別は理不尽だと考えたとしても、たとえ、魯迅が人々がまっとうに生きるためには、身分制社会の束縛から人々の心、精神を解放し、正常化する必要があると考えたとしても、生まれ・身分による差別を当然のものとする身分制社会をよしとする連中からみれば、魯迅の考えはバリバリの異端であり、異常であり、気ちがい沙汰であり、自分たちとは相容れない絶対許せない考えである。このように考える連中が当時の世の中を牛耳っているとき、彼らの見解が世論であり、常識であり、正常とされた。だとすれば、魯迅の考えは非常識であり、気ちがい沙汰であり、「狂人」とみなされたのは当然である。であれば、変なてらいも、へつらいもせずに、世の支配者の考え通り、いさぎよく、気ちがい扱いされることを正面から堂々と掲げて、自分たちの信念を述べる作品を「狂人日記」と命名したのは、きわめて素直なこと、すこぶる健全な行動だと分かったから。

 百年後にもし魯迅が生きて311後の日本を見ていたら、事故後まもなく、アンダーコントロールをうたい文句にしてオリンピック誘致に狂走し、原発事故はなかったかのように振舞う311後の日本社会の「世論」「常識」「正常」からすれば、原発事故による被ばくとりわけ内部被ばくの危険性を訴え続け、人の、とりわけ子どもの命、健康の救済を訴え続ける人たちの声は「非常識」とされ、「非国民」とされ、「風評被害」とされ、つまるところ「異端」「異常」、ズカッと言えば「狂っている」=「狂人」扱いされることを見て取るだろう。この意味で、私は311後に、自分が狂うのではないかと感じたのはきわめてノーマルな、健全な感覚だった。

魯迅は「狂人日記」の最後をこう締めくくった。救うべき相手は子どもだ、と。

四千年の食人の歴史をもつおれ。はじめはわからなかったが、いまわかった。真実の人間の得がたさ。

       十三
人間を食ったことのない子どもは、まだいるかしらん。
子どもを救え‥‥‥‥

漱石の「文学論」序

このように「狂人日記」の題名の歴史的な意味を自分なりに理解した時、同じ時代の日本に、もう一人、自分のことを狂人のように考え、それをあけすけに語った人物がいたことを思い出した。夏目漱石である。

 1906年、漱石は「文学論」の序の最後に、こう書いた。

原 文

現代語訳

英国人は余を目して神経衰弱と云へり。ある日本人は書を本国に致して余を狂気なりと云へる由。
賢明なる人々の言ふ所には偽りなかるべし。ただ不敏にして是等の人々に対して感謝の意を表する能はざるを遺憾とするのみ。
帰朝後の余も依然として神経衰弱にして兼狂人のよしなり。親戚のものすら、之を是認するに似たり。
親戚のものすら、之を是認する以上は本人たる余の弁解を費やす余地なきを知る。
ただ神経衰弱にして狂人なるが為め、「猫」を草し「漾虚集」を出し、又「鶉籠」を公けにするを得たりと思へば、余は此神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表するのは至当なるを信ず。
余が身辺の状況にして変化せざる限りは、余の神経衰弱と狂気とは命のあらん程永続すべし。
永続する以上は幾多の「猫」と幾多の「漾虚集」と、幾多の「鶉籠」を出版するの希望を有するが為めに、余は長(とこ)しへに此神経衰弱と狂気の余を見棄てざるを祈念す。

英国人は私を見て、神経衰弱と言った。ある日本人は、手紙を本国に書いて、私が狂気であると言ったそうである。
賢明な人たちの言う所には、偽りはないだろう。ただ機敏でないため、これらの人々に対して、感謝の意を表することができないことを、遺憾とするのみである。
帰朝後の私も依然として神経衰弱にして狂人とのことである。親戚のものすら、これを是認するようだ。
親戚の者にすらこれを是認される以上は、本人である私が弁解する余地がないことを悟る。
ただ神経衰弱にして狂人であるがために、「猫」を書き、「漾虚集」を出し、又「鶉籠」を公けにすることができたと思えば、私はこの神経衰弱と狂気に対して深く感謝の意を表すのは至当であると信じる。
私の身辺の状況が変化しない限りは、私の神経衰弱と狂気とは、命のある限り、永続するだろう。
永続する以上は、沢山の「猫」と、沢山の「漾虚集」と、沢山の「鶉籠」を出版するという希望を有しているので、私は、とこしえに、この神経衰弱と狂気が私を見捨てないことを祈念する。


30年前、初めてこのくだりを読んだ時、その激しい開き直りに、漱石の桁違いの孤独を感じた。しかし今、魯迅の「狂人日記」と比較してみて、初めて気がついたことがある。それは、漱石はただ開き直っていたのではなかった。正常と異常、常識と非常識、正統と異端はいくらでも入れ替わることが可能な相対的なものであって、単に、世の支配的な見解、立場がそれを決定しているだけのものでしかないことを彼はよく分かっていた。その上で、漱石は、自身の立場にひそかに自信を持ち、それゆえ、狂人と思われることを何一つはばかることなく、何一つおそれることなく、ズケズケと表明したのだ、本当はどちらが狂っているのか、今に裁かれる時が来る、と。これもまた、「坊ちゃん」を書いた漱石にふさわしい健全な態度だと思った。

ルソーの神経衰弱・狂気
百年前、魯迅と漱石が直面した「頭の中がグジャグジャになる」という現実が百年後の311で、再び、私の前に出現した。そのことに気がついた時、そこから私は、さらに百年以上前に、「神経衰弱と狂気」と「被害妄想」に苦しめられてきたもうひとりの人物のことが思い出された。ルソーである。


「人間は自由なものとして生まれたが、いたるところで鉄鎖につながれている」と、身分制秩序の徹底的な否定を唱えたルソーは、かつての友人も含めルソーに対する執拗な陰謀と攻撃、不当な迫害から自己の正当性を弁明するため、「いまなお正義と真実を愛するすべてのフランス人に」という題のビラを書き、街頭で道ゆく人に自らビラ配りした。250年近く前、街頭でビラ配りするルソーを想像したとき、彼もまた、自分のことを「気ちがいじみている」と思ったのではないかと私には思える。

ただ、ルソーは、差別と束縛の身分制秩序への徹底した批判が、世の支配者たちから、当然猛反発を買い、彼の見解が「非常識」とされ、「異端」「異常」とされ、「気ちがい沙汰」とされ、「狂人」扱いされてしまうことを、魯迅や漱石のように冷静に受け止めることができなかった。心情的に猛反発し、この不当な扱いを激しく呪った。学生時代、ルソーのこの呪いのくだりを読むと、正直、ウンザリし、そのため、彼を敬して遠ざけてしまった。しかし今は、魯迅、漱石を鏡にしてルソーを再定義してみた時、やたら愚痴をこぼすルソーが、どんなに愚痴をこぼそうが、魯迅、漱石と並ぶ、社会の不正・矛盾に対する情け容赦ない批判者として、永遠の「幼な心」を抱く健全な精神の持ち主として、無条件で大切な人と思えるようになった。これは新老年の私にとって、これ以上ない真実の宝物との出会いである。

このように、ルソー、漱石、魯迅から、正義と不正義がひっくり返るあべこべの異常な時代において、自分が狂人のように思えるという異常体験の正当な意味を考える手がかりを教えられた。

結論
私もまた、ルソー、漱石、魯迅のように、「神経衰弱と狂気」と「被害妄想」が否応なく、私を追い立てて、創造的なアクション、活動に駆り立てることに深く感謝し、311後の異常事態が正常化するまで、とこしえに、この神経衰弱と狂気が私を見捨てないことを願う。





【第55話】「311後の私たちが起こした行動は人権の実行だった」とはどういう意味か(第1稿)(2020.11.5)

 311で還暦を迎えた私は、これまでの人生でデモをしたことは2度しかない。1度目は70年安保反対デモのとき。2度目は2003年の米国らのイラク侵略戦争への反戦デモのとき。しかし、それらは自分の生活に中で持続性が持てず、そのあと、潮が引くように自分の中で消えていった(正確には、記憶の底にしまいこみ、封鎖した)。

 しかし、311後に起きた出来事は違った。自分の中で何かが変わった。それは習慣が変わった。デモをする習慣がついた。それと同時に、長らく記憶の底にしまい込み、封鎖していた過去の経験が、再び頭をもたげる瞬間でもあった。それは311後の新しい習慣がなせる「歴史の経験から学ぶ」ことの1つである「過去の自分史の再定義・再発見」だった。

私は新老年として、 「過去の自分史」の1つを、以下に再定義・再発見する。

***************

四半世紀前、埼玉県で「I LOVE 憲法」という市民によるミュージカルが企画実施され、私の妹家族も参加し、母子ともすっかりはまっていた。その練習風景を見に行っていた折り、主催者から私に、法律家として「I LOVE 憲法」について何か喋って欲しいと言われ、きゅうきょ、以下のことを話した。

私の妹はこれまで専業主婦でずっと家にいました。しかし、そのうちに、何だかこれはおかしい、いつも家に縛り付けられるのではなく、私にももっと私なりの生き方があったもいいのではないかと思うようになりました。その中で、彼女は、この「I Love 憲法」のミュージカルを見つけました。ここは彼女にとって、新しい生き甲斐の場だったのです。
しかし、彼女の夫は、これを必ずしも歓迎しませんでした。家に、自分の元に置いておきたかったのです。しかし、彼女は、私にも自分なりの生き甲斐を求める権利があると思いました。だから、夫の反対を押し切って、それに抵抗して、ミュージカルの練習場に来たのです。
その話を聞き、私は、これが憲法(人権)なのではないかと思いました。憲法では、いかなる個人にも、その人なりの幸福追求権を保障しています。しかし、それは、抽象的な、絵に描いた餅ではなく、私の妹の場合、夫の反対に抵抗してみずからこの場に来るという行為を通じて初めて実現されるものでした。だから、彼女は、この場に来るという行為を通じて憲法を実現し、憲法を愛することを実行している、つまり、「I Love 憲法」そのものを実行していると思ったのです。

人々は「I Love 憲法」と口にします。しかし、憲法を愛するというのは一体どういうことでしょうか。憲法を愛するというけれど、そもそも憲法は目に見えるものでしょうか、或いは、手で触ることができるものでしょうか。もし憲法が六法全書という紙に書いてあると言うのでしたら、それならば、その紙を燃やしてしまえは、憲法はなくなるものでしょうか。それとも、六法全書を燃やしても憲法はなお存在するというのであれば、それはどのように存在しているものでしょうか。

その答えは、憲法(人権)とは、人権侵害という事実があったとき、その事実に対して、「おかしい!」と声をあげること、抵抗すること、そのときに初めて憲法がその人を守ってくれる、つまり、その抵抗という姿勢、構えをする限りで、憲法もまた存在するのだということです。
だから、人権侵害の事実があったとき、その事実に対して、「おかしい!」と声をあげないとき、抵抗をしないとき、憲法もまた存在しなくなるのです。
この意味で、憲法は私たちの生きる姿勢、構えそのものだということです。
そのことを、私の妹は、夫の反対に押し切ってみずからこの場に来るという抵抗を通じて憲法を実現し、憲法を愛することを実行したのです。この点で、彼女は「生きる人権」、まさに「I Love 憲法」に相応しい存在です。

‥‥とっさの思いつきでこの話をしたら、予想外にも、参加者の人たちから拍手喝さいを浴びた。
想定外の拍手を聞きながら、それまでひそかに考えてきた「人権とは理不尽に抵抗するという私たちの生きる姿勢、構えそのもののこと」という自分の考えがこの人たちには伝わった、これで間違っていなかったとこの時、確信した。 

***************

311後に、再び、この時の記憶がよみがえってきた。
それは、311後の私たちの行動とは、311後の日本社会の前代未聞の理不尽さに抵抗せずにおれなかった抗議のアクションであり、そのエッセンスは人権を自ら実行することと一直線にリンクしたから。このリンクを通じ、私は、このときの自分の経験の意味を味わい、改めて自信を持った。と同時に、311後の自分たちの行動の意味も新たに与えられ、新たな確信を与えられた。

新老年とは、自分の青年時代、中年時代の自分史の再定義・再発見でもある。



 

 

2020年11月3日火曜日

【第54話】311後の私たちは第四の開国&市民革命の継続の中にいる(2)「第三の開国の原点、それは民主主義は理念(精神)と運動と制度の三位一体」(第1稿)(2020.11.3)

なぜイギリスで世界最初の市民革命が成功したのか
半世紀前に買ったまま一度も手にしたことのなかった本を 先日たまたま読んでいて、釘付けになる記述に出会った。
それは、世界で最初に、民主主義の獲得に成功した運動=18世紀半ばのイギリスの清教徒(ピューリタン)革命について、なぜそれが成功したのか、その理由について述べた次の記述だった。

当時、すでにイギリスの新興勢力であるジェントリー(貴族と平民の中間の階層で、新興地主、大商人、法律家など)が支配者の王・貴族に対し、経済的、政治的不満を募らせていた。
しかし、彼らが支配者に対し革命に立ち上がるためには、経済的、政治的不満だけでは十分ではなかった。
その不満に、より高い観点から「意味」を与え、更に、その不満を解決する「方法」を与え、加えて、その解決された後の社会のビジョンを与える理念・思想が備わっていなければ、革命は実現し得なかったであろう。
その理念・思想がピュータリズム(清教徒主義)で、その思想の主体がピューリタンである。

(有斐閣新書「近代政治思想史2」29頁)

なぜ釘付けになったかと言うと、たまたま、昨日「第三の開国」として紹介した戦後民主主義の激動期について、丸山真男の次の記述とリンクしたから。

民主主義というのは理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、何十年前にいったことをくりかえすのは気が引けるけれど、「永久革命」なんですね。
資本主義も社会主義も永久革命ではない。その中に理念はあるけれども、やはり歴史的制度なんです。ところが、民主主義だけはギリシャの昔からあり、しかもどんな制度になっても民主主義がこれで終わりということはない。絶えざる民主化としてしか存在しない。現在の共産圏の事態を見ても分ります。
それが主権在民ということです。主権在民と憲法に書いてあるから、もう主権在民は自明だというわけではなく、絶えず主権在民に向けて運動していかなくてはならないという理念が掲げられているだけです。決して制度化しておしまいということではないんです。
その理念と運動面とを強調していくことがこれからますます大事になって行くと思います。

(天安門事件直後の1989年7月7日「戦後民主主義の『原点』」

1945年の三島市の庶民大学
このエッセイで紹介しているが、第三の開国の当時、それまで天皇主権の絶対制国家の中にいた市民は、敗戦と同時に、天皇の人間宣言という緊急事態宣言を受け、おったまげてしまい、人民主権、民主主義の到来に「頭の中がグジャグジャになって」、311後の私たちがベクレルやシーペルトを必死になって学んだように、主婦や労働者たちが人民主権、民主主義を必死になって学んだ。

丸山真男自身も、1945年の暮れから静岡県三島市の庶民大学に講師として、市民の学びに参加した経験をこのエッセイで語っている。この当時、彼が感じたことは、
1つは、これは明治維新(第二の開国)の追体験ではないか、ということ。
明治維新の時、封建制度が崩壊し、それまでの理念だった封建思想も崩れたとき、これからどんな理念を支えに生きていったらよいのか、当時の市民は必死になってこれを求め、福沢諭吉の「学問のすすめ」を10人に1人が読んだ。その再来が戦後にまたやってきた、と。
だから、この時、学問は知識でも情報でもなくて、どう生きるかという「主体の問題」だった。これが戦後民主主義の原点だった。敗戦当時、日本国憲法は制定以前で、制度はまだなかった。しかし、民主主義の理念と運動はものすごい勢いで始まっていた。
もう1つは、丸山が三島の庶民大学で話したことはフランス革命から始まるヨーロッパの思想史だった(当時のノート->こちら)。なぜなら、今日の社会主義も実存主義もナチズムも、それらが提起した問題はすべてフランス革命から始まるヨーロッパの思想が提起した問題が未解決まま、今日までずっと来ているからで、今日の問題を解くためには、そこから学ばないと分からないから。

彼自身がほおり込まれた戦後の激動期という「第三の開国」を、同じく激動の「第二の開国」との比較の中でとらえること、さらに歴史のダイナミズム、ジレンマの中でとらえることが、丸山真男の現実と向き合う姿勢だった。

第四の開国
もし今、これと同じ姿勢で、311後の私たちがほおり込まれている「第四の開国」をとらえようとしたなら、民主主義を「理念と運動と制度との三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、絶えず理念の実現に向けて運動していかなくてはならない『永久革命』である」ととらえたなら、例えば、311後の懸案事項である「チェルノブイリ法日本版の市民立法」のプロジェクトは次のようにとらえ直すことができる。

「制度」として何を目指すかは、ひとまず「チェルノブイリ法日本版」の案(私案は->こちら)として明らかにされている。
しかし、この法律案が日の目を見るためには、有力政治家にお任せするのではなく、主権者である私たち市民が民主主義の力で勝ち取るしかない。だとしたら、
そのためには、本来、理念と運動と制度の三位一体である民主主義の「理念と運動」の取り組みに力を注ぐ必要がある。このうち、「運動」は、これまで、日本各地で、会のメンバーがめいめいの条件の中で創意工夫して取り組んできた(もちろん、これをもっと精力的に取り組んでいく必要がある)。
これに対し、「理念」については、殆どやってこなかったのではないか。
私からみてその最大の理由は、「民主主義は理念と運動と制度の三位一体である」という認識がなかった(とても弱かった)からだと思う。市民立法を掲げていたのは「運動」の方法を示したものであっても、「理念」についてまで考えていなかった。今までは、目標の「制度」(チェルノブイリ法日本版という条文)と方法の「運動」(市民立法)さえあればそれで十分だと思っていた。
しかし、ここまでやってきて、民主主義の「運動と制度の三位一体」という本質を突きつけられた時、今までのやり方ではダメで、不十分だと分った。

「理念」の運動=文化運動(五・四運動)の日本版
そこで、「第四の開国」の激動期の中にいる私たちは、最も遅れている「理念」について、第二の開国(明治維新)、第三の開国(戦後民主主義)当時の理念・精神・息吹にならって、「学問のすすめ」に取り組んでいきたいと思う。

それは、一昨日、【第52話】のしめくくりで書いた、「民主主義と科学」をスローガンに掲げた、百年前の中国の「理念」の運動=文化運動(五・四運動)の精神・志を継続する積りで、新老年=「新『新青年』」の運動をやりたい、これとまっすぐにつながっている。どちらも、311後の私たちの経験したことの意味を「歴史の経験から学ぶ」ことを具体化したものだから。

【第53話】311後の私たちは第四の開国&市民革命の継続の中にいる(1)(第1稿)(2020.11.2)

「311後の私たち」が経験したことの意味
私の問題意識は、
【第51話】の冒頭、311原発事故の自己封鎖(封印)で書いた通り、
311原発事故のあと「頭の中がグジャグジャになり」、何度か進退窮まる絶体絶命の場面に出くわし、途方に暮れる経験をした
それが何であったのか、その意味を問うことだった。そのとき、それは単に「歴史の激動期・大変動期」だけではなく、さらに日本の歴史に特有な要素があるのではないか、だった。

最近、それについて1つの手がかりが見つかった。
それが日本史の「開国」。そして、それに続いて起こった市民革命。

日本政治思想史専攻の丸山真男は、日本が欧米との関係で「開国」した経験はこれまで3つあると言う。
第一の開国が16世紀半ば、南蛮人が種子島に漂着、その後、イエズス会宣教師も来日したとき。西欧との初めての接触による多彩な南蛮文化が一気に流入。
第二の開国が、徳川250年の幕藩体制の国策である鎖国を、1853年のペリーの黒船来航で撤廃したとき。しかし欧米との貿易で輸入超過、物価高騰、庶民の生活苦が一気に到来、10年余りで幕藩体制崩壊。尊王攘夷で明治維新を実行した政府は欧米に対し「和魂洋才」という使い分け政策に出る。
第三の開国が、明治以来の国体である天皇主権体制が1945年のポツダム宣言受諾で人民主権に転換したとき。欧米思想の全面解禁の中で、戦後民主主義の登場。

3つの開国の共通点

この3つの開国には共通する点が少なくとも2つある。
1つは、当時の「最先端科学技術」が日本社会を震撼させ、日本社会に激動をもたらした要因になったこと。
第一の開国では鉄砲技術。
このテクノロジーの採用が全国制覇の行方を決めた。しかし、これは既成観念にどっぷり漬かった旧来の支配者に出来ることではなく、新興勢力である信長と自由都市堺を中心とする一向宗門徒たちの間で雌雄を決することとなった
第二の開国では軍艦黒船の大砲等の戦闘技術。
このテクノロジーが200年以上続いた徳川体制の国策=鎖国政策を断念させた。その後、欧米の脅威からいかにして日本の独立を守るか、その方策をめぐり、激烈な意見対立・抗争(攘夷論・尊王論‥‥)が展開された。
第三の開国では広島長崎に投下された原爆(核兵器)。
日本民族の絶滅の可能性を示唆したテクノロジーの出現が、天皇・軍国主義者に本土決戦を断念させ、無条件降伏(人民主権の民主主義国家)を選択させた。その後、どんな民主主義を作るのか、戦後民主主義の中身をめぐって激烈な意見対立・抗争が展開された。

もう1つは、「開国」が当時の市民革命の激動・大変動に火をつけたこと。
第一の開国で、民衆史にとって最初の市民革命である中世の一揆(一向一揆)が強大な力を持ち得た理由の1つが、一向一揆の担い手たちが開国によりもたらされた鉄砲技術をいち早く導入したことである(それがいかに強烈なものであったかは、のちにその反動として、平民から権力者に登りつめた秀吉が、刀狩りをして市民から鉄砲を取り上げずにはおれなかったことに如実に示されている)。
第二の開国で、明治維新の進行の中で、進歩派・自由民権運動・大正デモクラシー(福沢諭吉、中江兆民、吉野作造‥‥)が大活躍した理由の1つが、彼らが開国により流入した欧米の自由主義、人権思想(モンテスキュー。ルソー。アメリカ独立宣言‥‥)をいち早く学び、己の主張の拠り所にしたことである。
第三の開国で、敗戦で占領したGHQが、「人民主権」の憲法草案、共産党員ら政治犯の即時釈放、治安維持法の廃止等、想定外の民主的な政策を実施したため、戦後の民主化運動に火をつけた(ただし、GHQは5年の「短い春」の後、反動に転じた)。

その結果、いみじくも第二の開国当時、
「泰平(注:太平の意味)の眠りを覚ます上喜撰(注:宇治茶の名前で、蒸気船とかけた) たつた四杯で夜も寝られず」
と歌われたように、いずれの「開国」でも、それまで通用してきた旧来の世界観が崩れてしまい、権力者のみならず、民衆もまた安住していた環境からほおり出されるという強烈な精神的衝撃を経験した。それは一種の崩壊感覚という経験であり、それもまた「頭の中がグジャグジャになる」ことを意味した。

そこで、このような「開国」の歴史のダイナミズムとジレンマを手がかりにして見えてくることがある。

3つの開国から見えてくる311原発事故の姿
それは、

311原発事故もまた、もうひとつの「開国」ではなかったか、である(ただし、後述する通り、欧米との関係というより、欧米の文明〔科学技術〕との関係という意味である)。
なぜなら、もともと3つの開国はいずれも、その当時の「最先端科学技術」が日本社会を震撼させ、日本社会に激動をもたらした。だとしたら、311原発事故もまた、今日の「最先端科学技術」がもたらした未曾有の事故であり、それまで「安全神話」の中に安住していた私たちはほおり出されるという強烈な精神的衝撃を経験し、「最先端科学技術」の事故が日本社会を震撼させ、日本社会に激動をもたらしたからである。
もし311原発事故がなかったなら、それまでと変わらない環境で変わらない非政治的な生活を送っていたはずの多くの市民が、311原発事故による強烈な精神的衝撃を経験し、その崩壊感覚の中で、「頭の中がグジャグジャになる」感覚で居ても立ってもいられなくなり、多くの人々が官邸前に、デモに引き寄せられていったからである。

もっとも、311の場合、「開国」は欧米との関係ではなく、原発事故という欧米に起源を持つ「最先端科学技術」との関係という意味だった。日本政府は原発導入以来ずっと「我々の原発は安全だ、事故とは無縁だ」と言い続けてきた。いわば原発事故と鎖国してきた。しかし、311でとうとう原発事故と向き合い、つきあう羽目となった。311で原発事故との鎖国を断念したという意味で、311も「開国」である。
そして、原発事故という「開国」によって、それまで、アジアで唯一、デモをしない去勢された市民と言われてきた日本の市民にデモを、直接行動をもたらし、日本の市民が「政治的去勢」市民でないことを証明した。

この意味で、311後の私たちは、日本の歴史上、第四の開国という激動期の中にいると考えることができる。
もし第一の開国のとき、ヨーロッパのカルヴァンらの宗教改革に負けないくらい、市民の自己統治・直接行動(一向一致など)が力を発揮し、信長たちに壊滅させられずに済んだなら、日本のその後の近代化、民主化はずいぶん違ったものになった(もっとずっと進んだ可能性が高い。チェルノブイリ法日本版もとっくに成立していた可能性がある)。
もし第二の開国のとき、第一の開国の失敗と教訓の歴史から学び、進歩派・自由民権運動・社会主義運動・大正デモクラシーが力を発揮し、軍国主義者たちに壊滅させられずに済んだなら、日本のその後の近代化、民主化はずいぶん違ったものになった(もっとずっと進んだ可能性が高い)。
もし第三の開国のとき、第一と第二の開国の失敗と教訓の歴史から学び、戦後民主主義運動がもっと力を発揮できたなら、日本のその後の近代化、民主化はもっとずっと進んだ可能性が高い。
なぜなら、開国のときとは「歴史の安定期」ではなく、人々の「頭の中がグジャグジャになって」、価値観、世界観の崩壊感覚を経験する「歴史の激動期・大変動期」であって、ここで頑張ってこそ、その後の民主化の行方が決まるものだから。

開国が人々にもたらすもの:自主避難とは思想問題のことである
「開国」についてずっと考えてきた丸山真男は、開国が人々を動物(存在)から人間に進化させたこと、人々が人間の尊厳を全身全霊でつかんだこと語っていた。して、開国の中で、人々は
基本的人権民主主義を知識としてではなく、思想として、生きる姿勢としてつかんだことを語っていた。

そうだとしたら、第四の開国の中にいる311後の私たちもまた、動物(存在)から人間に進化するチャンスを授かったのだ。人間の尊厳を全身全霊でつかむチャンスを授かったのだ。基本的人権、民主主義を知識としてではなく、思想として、信念としてつかむチャンスを授かったのだ。
311原発事故が「
第四の開国だと理解したとき、自主避難とは思想問題なのだということがすんなり合点できる

私もまた、
第四の開国の中で、どんなにモタモタしても、「考える葦」の人間に進化したい。

このことを考えさせてくれたのが
丸山真男の以下の言葉である。「開国」の中で、(原発事故を予感しさせる)突発的な大事故の中で、人々が「考える葦」であることを自覚せざるを得ないこと語った、311後の私たちに残した遺言である。

  *************** 

人間ってのは、環境に対して意味を付与しながら生きていく動物なんです。これは不幸の源泉でもあるんです。動物の方が幸福なんですよ。やせたソクラテスと太った豚というミルの問いは、そこから生まれました。太った豚のほうが幸福だったら、もうおしまいですよ。だけど、俺はやせたソクラテスを取るというのは、ある意味では、やっぱり人間の尊厳と関係してるんです。
[人間は]環境に意味を付与することによって生きていく存在なんです。思想は大きくいえば環境への意味付与なんです。意味を付与しながら我々は生きてるんです。ただ、いちいち意味を付与してると、これはもう、面倒くさくってしようがないでしょ。それでルーティーンというのを作るわけです。朝、歯を磨く時に「歯を磨くべきか、磨くべからずか」って考えないですよ。習慣にしちゃって、ルーティーンを作っちゃうの。そうすると、意味を付与しないで済むわけです。
しかし、突発事故が起こって、例えば、この部屋で爆発が起こるとしますね、すると、どこから逃げるべきか、それとも、ここにじっとしているべきか、選択しなければいけないじゃないですか。これは環境の意味付与がなくちゃできないんですよ。
だから、状況がしょっちゅう変わると、意味付与[の必要]が増大する。維新とか幕末にいろいろな思想家が出て来たのは、それなんです。昨日のごとく今日もないもんだから、ルーティーンが効かなくなっちゃう。ルーティーンが効いてる間は、意味付与なんてしないで生きてりゃいいわけですよ。環境から投げ出されると、そこで初めて意味付与の必要が生じてくる。思想というのは意味付与ですが、意味付与は、いいとか悪いとかの価値判断だけじゃないんです。認識も意味付与なんです。つまり、これは机であるとか、コップであるとか、みんな意味付与なんです。動物は、意味付与して「これはコップだ」なんて言いませんよ。環境と自分があるだけなんです。
環境と自分との間に、われわれは動物も人間も含めて環境からの刺激に対して反応しながら生きてるんです。これをSR方式といいます。Sはstimulus[刺激]です。Rはresponse[反応]。人間も動物も含めていえば、全部、刺激-反応-刺激-反応、こういう過程なんです。SとRとの反応の速さは、動物のほうが速いです。本能で反応するから。人間は「考える葦」であるっていう、その間に何かモタモタがあるんだ。SとRの間にモタモタがあるんです。「生きるべきか生かざるべきか」っていう、やっかいな動物なんですよ、人間ってのは。Sに対してすぐRというわけにはいかない。刺激に対して意味付与をして初めて反応が出てくる。SとRの間にモタモタがあるんです。考える葦だから、弱いわけね。動物はいわば刺激に対して本能的に行動するから、反応が速いんです。
‥‥
テレビ人間ってのは、反応だけ速くなって考える力がなくなって動物に近くなる。そのほうが幸福かもしれませんよ。〔けれど、人間は〕考える葦だからやっかいなんだ。やっかいだけれど、そこに人間の尊厳を認める。
つまり、人間として生まれて人間の人間たるゆえんを認める以外に生き方がありますか、ということなんですね。‥動物は生きがいなんて考えなじゃないですか。生きがいなんて考えなきゃ、楽だっていえば楽ですよ。だけど、人間である以上、考えざるを得ない。

丸山真男話文集2 274頁~)

2020年11月2日月曜日

【第52話】311後の私たちは今どこにいるのか、どこに向かうのか(2)「歴史の激動期の4つの段階」(第1稿)(2020.11.2)

歴史のダイナミズム・ジレンマと激動期の4つの段階
歴史を学生時代のように、クソ暗記の学問と考えている限り、歴史のリアルな姿は見えてこない(韓国の歴史ドラマのほうがずっとましだ)。ひとたび、歴史を様々な利害関係に立つ人々の押し合い、へし合いのダイナミックな運動と考えると、そこから、歴史のリアルな姿が見えてくることを知った。
歴史をダイナミズムそして相異なる立場同士の衝突・葛藤・ジレンマの中でとらえるという見方である。
この立場から、イギリスの歴史家(クレーン・プリントン「革命の解剖」)が、フランス革命とロシア革命の歴史を検討する中で、歴史の激動期・大変動期はだいたい次の4つの段階を経ると指摘しているのを丸山真男話文集4から知った。(そのダイナミズムのイメージを雑駁な図で示すと、右の矢印の通り) 

1、貴族の改革・反抗(上からの改革)   
2、大衆の急進的な変革・反抗       ---->
3、支配者の反動               <----
4、激動(2の変革)の再定義        -→  

フランス革命とロシア革命の4つの段階
これによると、きわめて大雑把だが、1789年のフランス革命は次の4段階のプロセスを経る。

 

段階

内容

貴族の改革

深刻な財政危機を、ネッケルら貴族が上から改革を試みる。

大衆の変革

バスティーユ襲撃以後、改革の担い手は、裕福な商工業者(ジロンド派)へ、さらに一般大衆(ジャコバン派)へ。急進的から恐怖政治へ。

支配者の反動

5年後のテルミドールの反動、ジャコバン派の粛清・排除。その後、ナポレオンのクーデタ、ブルボン王朝の復活と反動が続く。

激動の再定義

1848年の二月革命で共和制復活。1852年のルイ・ナポレオンのクーデタで帝政復活。普仏戦争後、1870年に第3共和制復活と行きつ戻りつ。ここまで来て「フランス革命が再定義」され、君主制否定、共和制が最終確立。


1917年のロシア革命は次の4段階のプロセスを経る。

 


段階

内容


貴族の改革(と挫折)

1904年の血の日曜日事件のあと、首相ストルイピンが上からの改革に取り組む(のちに暗殺)。


大衆の変革

第一次世界大戦の激動の中、1917年、ロマノフ王朝崩壊。政権の担い手は資本家の代弁者らへ(2月革命)。さらに労働者農民ら一般大衆へ(10月革命)。


支配者の反動

1929年、スターリンの富農の粛清を皮切りに、反対派の粛清が続く。


激動の再定義

1956年、首相フルシチョフによるスターリン批判で、「ロシア革命の再定義」の初めての試み。

 近代中国の辛亥革命
近代中国の辛亥革命次の4段階のプロセスを経る。

 

段階

内容

貴族の改革(と挫折)

アヘン戦争敗北後、読書人(貴族)による清朝内部の改革(変法自強運動)と西太后・保守派による処刑・追放。

大衆の変革

1912年、各地の蜂起により清朝崩壊。孫文を臨時大総統とする中華民国が成立。国会議員選挙で孫文の国民党が過半数を制する。

支配者の反動

1913年、軍人の袁世凱、国民党指導者を暗殺、議会を解散。1915年、共和制を廃止、帝政を復活。

激動の再定義

1915年、陳独秀、孫文らによる「民主主義と科学」をスローガンとする雑誌「新青年」を発行、その影響を受けた若者らによる1919年の五・四運動の発生。「中国革命の再定義」「中国民主化の再定義」が始まる。


日本の第二の開国と第三の開国
丸山真男は、日本が欧米との関係で「開国」した経験はこれまで3つあると言う。第一の開国が16世紀に南蛮人が渡来したとき。第二が幕末の黒船来航の時。第三が第二次大戦の日本敗戦の時。

このうち、第二の開国である1853年のペリーの黒船来航から明治維新までの激動期は、次の4段階のプロセスを経る。

 

段階

内容

貴族の改革

幕末に、有力藩主による幕藩体制の改革(公武合体論)。

大衆の変革

幕府の権威失墜の中で大政奉還(崩壊)。内戦(戊辰戦争)を経て、明治4年の廃藩置県で政権の担い手は大名から木戸、大久保ら急進派下級武士へ。

支配者の反動

明治6年征韓論クーデタで進歩派の江藤新平下野。明治14年のクーデタ、政府進歩派の大隈派、慶応義塾派を全て追放。

激動の再定義

「明治維新の再定義」をスローガンに掲げる自由民権運動の高揚により明治22年、東アジア発の立憲政治(明治憲法制定)がスタート。

第三の開国である第二次大戦の日本敗戦のあとの戦後民主主義の激動期は、次の4段階のプロセスを経る。

 

段階

内容

貴族の改革(と挫折)

ポツダム宣言受諾後、近衛らが「天皇主権」を前提にした国体・旧憲法の改革(人民主権を求めるGHQ「天皇主権」を否定)

大衆の変革

軍国主義者らの追放、治安維持法の廃止、農地改革、人民主権の憲法制定、社会党政権の誕生。民主化の春到来。

支配者の反動

5年後にGHQの反動で、再軍備スタート。共産党員の追放(「追放」をめぐるあべこべの事態出現)、憲法改正論議。民主化の春の終焉。

激動の再定義

15年後の六十年安保で、「戦後民主主義の再定義」が始まる。

 
日本の第四の開国「日本史上、最悪、最大の人災である福島原発事故」
福島原発事故は、戦争を除いて、日本史上未曾有の、最悪の人災である。これが大事件、激動であることは誰にも異論がない。また、それまで太平の世に眠りこけていた人々が黒船の出現で思い切り動揺し、途方に暮れた第二の開国のように、それまで安全神話の中で眠りこけいていた人々は福島原発事故の出現で思い切り動揺し、途方に暮れた。その意味で、これは第四の開国と言うことができる。
そこで、第四の開国である福島原発事故の激動期も、以上の歴史の激動期・大変動期の4つの段階を当てはめると、次の4段階を経ると言うことができるのではないか。

 

段階

内容

貴族の改革(と挫折)

2011年5月、首相菅直人の濱岡原発の運転中止要請、7月の事実上の「脱原発」宣言。その後、「菅おろし」へ。

大衆の変革

2011年9月19日、明治公園の「さようなら原発」集会に6万人参加。2012年、官邸前金曜デモの盛り上がり。デモ初参加、運動未経験者の参加。

支配者の反動

民主党惨敗後に登場した安倍政権、201311月の秘密保護法の成立、20147月、集団的自衛権の行使容認の閣議決定、20159月、安保関連法の成立、20176月、共謀罪の成立。戦争への体制作りの完成へ。

激動の再定義

「福島原発事故と救済(復興)の再定義」が始まる。それは同時に、未完の市民革命である「戦後民主主義の再定義」の継続であり、同じく未完の市民革命である「明治維新の再定義」の継続である。

 

しめくくり
このような激動期の歴史4つの段階というダイナミズムを手がかりに見えてくることがある。それは、

1、311後の私たちは今どこにいるのかについて、
私たちは今、第二段階の2011~2012年の大衆の変革の運動に対し、第三段階の2013年から「福島原発事故は終わった」かのような反動の大波が続いていて、その波の中から、再び、第四段階の「福島原発事故とは何だったのか」「その救済(復興)とは何か」について再定義しようとしている。

2、311後の私たちはどこに向かうのかについて、
日本史上未曾有の人災である福島原発事故で誰も罰せられていない、何ひとつ解決していないという異常な現実を直視し、この異常事態を正すこと。
そこで、「福島原発事故と救済(復興)の再定義」に必要な取り組みをすすめること。
それは、改めて、個人の尊厳、基本的人権、民主主義を再定義し、再発見することでもある。

その意味で、チェルノブイリ法日本版の市民立法の運動は、福島原発事故と救済(復興)を再定義することそのものである。
もし私たちがこの運動に困難や課題を感じているとしたら、それは、
ひとつには、私たちが311後の激動期の第三段階の「反動期」から第四段階の「激動の再定義」との過渡期にいるからである。

のみならず、私たちの市民社会が、1945年に始まり未完にとどまっている「戦後民主主義の再定義」の運動の中にいるからである。

そればかりか、150年以上前に始まり未完の市民革命「明治維新の再定義」の運動の中にいるからである。

その未完の市民革命のために、私たち市民の中に、個人の尊厳も、基本的人権も、民主主義もまだ深く根を降ろすに至っていないため、依然、獏とした、宙をつかむようなものにとどまっていて、例えば「避難の権利」ひとつとっても、それが、私たちにとってどれほどの価値があるもので、無くてはならないものであるかを頭ではなく、身体で全身全霊で実感できずにいる。

これを全身全霊で実感できるようになるためには、(私自身にとっても)地道な意識改革が必要である。
そして、この意識改革に果敢に取り組んだ市民運動の輝かしい実例が、今から1世紀前、中国で、辛亥革命の反動期に30代の陳独秀、孫文らが行った「民主主義と科学」をスローガンに掲げた「新青年」の発刊(1915年)、五・四運動(1919年)である。

私は、「新青年」の運動を始めた当時の陳独秀、孫文のように若くないが、彼らの精神・志を継続する積りで、今から「新老年」=「新『新青年』」の運動をやりたい、これをやらない限り、「民主主義と科学」に基づくチェルノブイリ法日本版の市民立法もあり得ないと確信するからだ。


 

【第171話】最高裁にツバを吐かず、花を盛った避難者追出し裁判12.18最高裁要請行動&追加提出した上告の補充書と上告人らのメッセージ、ブックレット「わたしたちは見ている」(24.12.20)

1、これまでの経緯 2011年に福島県の強制避難区域外から東京東雲の国家公務員宿舎に避難した自主避難者ーーその人たちは国際法上「国内避難民」と呼ばれるーーに対して、2020年3月、福島県は彼らに提供した宿舎から出て行けと明渡しを求める裁判を起こした。通称、避難者追出し訴訟。 それ...