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2021年6月23日水曜日

【第69話】【感想】市民立法「チェルノブイリ法日本版」と原子力ムラ立法「アンチ・チェルノブイリ法日本版」は不断の対立&対決の中にある(2021.6.23)

 次の有名な言葉がある。
君たちは戦争に関心がないかもしれないが、戦争は君たちに関心がある。

ここから、もう1つの核戦争である放射能災害について、次の言葉が引き出すことができる。
「君たちは放射能災害に関心がないかもしれないが、放射能災害は君たちに関心がある。」

そして、これは次のように言い直すことができる。
君たちは放射能災害(とその加害者である国際原子力ムラ)に関心がないかもしれないが、放射能災害(の加害者である国際原子力ムラ)は君たちに関心がある。
なぜなら、君たちは放射能災害の被害者か被害予定者だから。
そうだ、私たちは、好むと好まざるにかかわらず、みんな放射能災害の被害者か被害予定者だ。

この真理を熟知していた国際原子力ムラの総本山IAEAの事務局長をながらく務めたハンス・ブリックスは、(あやうくヨーロッパ全土に人が住めなくなるかもしれなかった)チェルノブイリ事故の直後に次のように言った。
我々は、毎年、チェルノブイリ級の事故が起きてもびくともしない
このとき、彼らは自分たちが崖っぷちに立っていることを知り、その上で「(あやうくヨーロッパ全土に人が住めなくなるかもしれなかった)チェルノブイリ級の事故が毎年起きてもびくともしない体制」を作るという賭けに出る決意をした(もしそのことを市民が知ったら「勘弁して欲しい!」と叫んだと思うが、不幸にして、今もって殆どの市民はこの事実を知らない)。
ただし、この賭けが成功するかどうかのカギは「毎年、チェルノブイリ級の事故が起きてもびくともしない体制」を人々が受け入れるかどうかにかかっていることも承知していた。
そのためには、ちょうど戦争遂行のためには人々が不承不承でも戦時体制を受け入れざるを得ないように尽力するのと同様、人々にこの体制をしぶしぶであっても受け入れさせるために、ありとあらゆる手を尽くす決意だった。それが「放射能災害(国際原子力ムラ)は君たちに関心がある」最大の理由だ。
ということは、チェルノブイリ法日本版の市民立法の取り組みが前進しないときには、ただ単に、私たちが望む救済法が実現しないのではなく、私たちが望まないアンチチェルノブイリ法日本版の法令や政策が着々と実現していくことを意味する。

放射能災害(の加害者である国際原子力ムラ)が被害者か被害予定者の市民に関心を寄せない日は一日たりともなく、彼らはチェルノブイリ級の事故が毎年起きてもびくともしない体制」を作るために、日夜せっせと、アンチチェルノブイリ法日本版の実現に向け尽力し切磋琢磨している。

2021年5月18日火曜日

【第68話】5.14世界の常識(国際人権法)でもって日本の非常識(避難者追出し)を裁く「避難者追出し訴訟」第1回口頭弁論の報告(2021.5.18)

 5月14日午後4時と4時半に、予定通り、福島地裁の避難者追出し訴訟の第1回口頭弁論を行いました(避難者追出し訴訟の概要は->こちら)。

裁判開始前の集会・入廷行動
 裁判開始に先立ち、3時15分から裁判所前で集会と入廷行動を行いました。以下、その集会とスピーチと入廷行動の動画と写真(注:以下の各動画は、いずれも、すぐ上の見出しの場面から中途再生されます)。


被告避難者の代理人による、本日の裁判の説明。





法廷
この日、法廷の記者席と一般傍聴席はほぼ満席。冒頭にメディアの撮影。この避難者追出し訴訟に対するメディアの関心の高さをうかがわせました(以下は、当日の夜8時のNHKニュース。→ニュースの詳細は以下の写真か見出しをクリック)。

          「東京の東雲にある国家公務員宿舎の立ち退き訴訟始まる

法廷では、5月11日に提出した被告の準備書面(1)の要旨を陳述、次の2点を訴えました。
1、国難の責任者である国ではなく、福島県に原告の資格はない
国難である福島原発事故の救済に関する自主避難者の居住権の問題について、国の持ち物である国家公務員宿舎の明渡を、なぜ国難の責任者の国ではなく、なぜ国家公務員宿舎の持ち主の国ではなく、福島県が原告となって自主避難者を提訴できるのか、という原告適格の問題。

2、国際人権法に適合した法律の解釈をとれば、福島県の明渡し請求は認められない
国内法の序列体系からすれば、国際法(条約)は法律の上位規範であり、本件に即して言えば、法律である災害救助法及びその関連法令の内容は国際法である国際人権法に矛盾抵触することはできず、これらの法律の内容は国際人権法に適合するように解釈されなければならない。
「国際人権法に適合した法律の解釈」――この基本原理を本件に当てはめれば、災害救助法及びその関連法令は「国内避難民となった原発事故被災者の居住権」を保障する社会権規約及びその内容を具体化、普遍化した一群の国際人権法に矛盾抵触することはできず、これらに適合するように解釈しなければならない。そこで、この国際人権法に忠実に災害救助法等を解釈すれば、原告の追出しの請求は認められないという結論が導かれる、という国際人権法の問題。

以下、これを主張した被告準備書面(1)(ただし、当日、口頭で行った誤記訂正済みのもの)。
                        全文のPDFは->こちら

【次回期日】
第2回口頭弁論は7月15日(金)午後3時と3時半。


裁判終了後の記者会見・報告会
 
裁判終了後、福島駅前のアオウゼで記者会見と裁判報告会。
以下、その会見と報告会の動画と写真。


記者会見



被告避難者の代理人による本日の裁判の報告




被告自身のメッセージその1(代読)

都営住宅に14回連続落選した被告自身の無言アピールとメッセージ(代読)

 報告会
被告避難者の代理人による本裁判の争点「国内避難民の居住権を保障する国際人権法」についての解説

日本各地の避難者、支援者の人たちから寄せられた応援メッセージ


2021年5月13日木曜日

【第67話】311から10年「民破れて官栄えり」「弱きをくじき、強きを助ける」を求めた避難者追出し訴訟の第1回口頭弁論、明日に迫る(2021.5.13)

            明日5月14日に「避難者追出し訴訟」の第1回口頭弁論が開かれる
                          福島地方裁判所

                             裁判所のHPより
この間の経緯
2020年3月、福島県は、東京都江東区東雲にある国の持ち物である国家公務員宿舎に避難した福島からの自主避難者4世帯に対し、宿舎から退去するよう求める「避難者追出し訴訟」を提訴。
このうち2世帯の被告は、もしこの裁判を起すのであれば、本来、原告となるのは国家公務員宿舎の持ち主である国であり、東京地方裁判所で起すはずのものであること、せめて自身の住む東京で審理して欲しいと福島から東京に裁判所の変更を希望しました。しかし、最高裁まで争ったにもかかわrず、裁判所はすべて「裁判は福島でやって構わない」と血も涙もない判断を下し、却下。

その結果、福島地方裁判所から、裁判所の変更を申し立てた2世帯の被告に対し、5月14日、第1回口頭弁論が指定され、明日14日に、開かれることになりました。

 その弁論に先立って、2世帯の被告は、裁判所に次の2点を骨子とする主張書面を提出(その全文は->こちら)。

この裁判が原発事故により発生した国内避難民の居住権問題に関して、世界の常識(国際人権法)でもって日本の非常識(避難者追出し)を裁く、世界で最初の人権裁判であることを、21世紀の「人間裁判」であることを主張しました。

この裁判が、日本と世界で、国際人権法の光によって人権侵害から身を守ろうと奮闘している人々の共有財産となれるよう頑張りたいと思います。

1、責任者が真っ先に避難・逃亡、責任者出てこい!訴訟
 第1に、本裁判をもし起すとすれば、本来国が起すべき訴訟であり、それをせず、自らは奥に引っ込んで福島県にやらせているのはおかしい。なぜなら、福島原発事故は東日本壊滅寸前までいった(吉田元福一所長)、コロナ禍以上の国難であり、国難の収拾の主体は国に決まっているからです。ましてや、本裁判の追出し建物は国家公務員宿舎です。家主の国がやらないで誰がやるんですか。それを福島県にやらせるとは、国に国難収拾の自覚も責任のカケラもありません。その点だけでも本裁判の原告は失当です。責任者出てこい!

2、国内法だけではなく、国際人権法に適合する裁きを、避難者を「人間として扱う」ことを求める世界で最初の人権裁判
 第2に、もともと日本では国際法(条約)は法律の上位規範であり、第二次大戦後目覚しい発展を遂げつつある国際人権法も国際法の1つとして、法律の上位規範として君臨します。すなわち、我が国の法律の内容は国際人権法に矛盾抵触することはできず、法律の内容は国際人権法に適合するように解釈されなければならない。「国際人権法に適合した法律の解釈」――この基本原理を本件に当てはめれば、災害救助法及びその関連法令は「国内避難民となった原発事故被災者の居住権」を保障する社会権規約及びその内容を具体化、普遍化した一群の国際人権法に矛盾抵触することはできず、これらに適合するように解釈しなければならない。そこで、この国際人権法に忠実に災害救助法等を解釈すれば、原告の追出しの請求は認められないという結論が導かれる。これが我々の主張です。
ましてや、311まで日本政府は原発事故を想定していなかったため、いざ福島原発事故が発生した時点で、原発事故の救済に関する制定法が全く未整備、いわばあたり一面ノールール(=無法地帯)でした。そこで、この深刻な全面的なノールールという法律の穴(法律上「法の欠缺」と言います)を埋める作業が必要となり、そのために主導的な役割を果すのが、ほかならぬ、法律の上位規範である国際法、とりわけ従前より国内避難民の居住権問題と積極的に取り組んできた国際人権法なのです。

以下、日の裁判のスケジュールです。

裁判所前 入廷行動   午後3時15分
第1回口頭弁論      午後4時 と 午後4時30分
記者会見     アオウゼ(福島市) 階小活動室1,2 
            福島県福島市曽根田町1−18 MAXふくしま4階->地図
                  午後6時15分 ~6時45分
報告会       同  
                  午後6時45分~7時45分


以下、日の裁判後の記者会見用に作成した弁護団からのチラシです(そのPDFは->こちら)。

    世界の常識(国際人権法)でもって日本の非常識(避難者追出し)を裁く
          避難者追出しVS責任者出てこい!国際人権法裁判


8年前の2013年4月24日、福島の子ども達を避難させて欲しいと訴えた「ふくしま集団疎開裁判」の二審で、仙台高裁は「福島は子ども達にとって危険な場所である。安全な場所に避難するしか手段はない。しかし、危ないと思ったら子ども達は自分で逃げばよい、被告郡山市に子ども達を避難させる義務はない」という判決(決定)を出したとき(その紹介ブロ)、AP通信はこれを世界に発信(記事はこちら)、世界の主要メディア(ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムズ、RTニュース、ガーディアン、ABCニュース、FOXニュース‥‥)はこのトンデモ判決を一斉に報道しました(詳細はこちら)。

ワシントン・ポスト;Japan court rejects demand to evacuate children while acknowledging radiation risks on health


RTニュース: Japanese court refuses to rehouse children near Fukushima site



世界の常識が日本の非常識(人権侵害)に驚愕した瞬間でした。

そして今、再び、世界の常識は、各国の非常識(人権侵害)に厳しい目を向けています。
しかし、日本はおともだちの欧米首脳から直接名指しで人権侵害を批判されないことをいいことに、この日本の非常識(人権侵害)を311後にひそかに脈々と続けています。その非常識の頂点、理不尽の極みの1つが今回の避難者追出し訴訟です。
今回、世界の常識が驚愕するであろう、日本の非常識(人権侵害)は次の2点です。


1、責任者が真っ先に避難・逃亡、責任者出てこい!訴訟
  
              (上記の内容

2、国内法だけではなく、国際人権法に適合する裁きを、避難者を「人間として扱う」ことを求める世界で最初の人権裁判

                 (上記の内容


 

2021年4月23日金曜日

【第66話】4.19官邸前アクションでのスピーチ「いま私たちに必要なのは『被ばく正義』」(2021.4.19)

 以下は、4月19日、毎月の官邸前アクションで話した、子ども脱被ばく裁判3月1日一審判決に対するスピーチ「いま私たちに必要なのは『被ばく正義』」の動画と文字起しです。

 

 先月3月19日、ここで、3月1日判決が出た「子ども脱被ばく裁判」について感想を述べさせてもらいました。今日は、その後考えたことを話させていただきます。

  3・11の前代未聞の福島原発事故の後、いったい何が起きたのか、国や福島県が何をしようとしたのか、正直なところ当時の私たちには、その意味がはっきり分かりませんでした。  しかし、この3月1日の「子ども脱被ばく裁判」の判決は、国と福島県が何をしようとしたのか、まざまざと明らかにしてくれました。その事を今日お話ししたいと思います。

  実はこの判決の後に、支援者の方から、6年間頑張ってやって来たのに、こんなひどい判決を受けて、本当に報われませんねと同情されました。私はその方に「それは大きな勘違いです。全く同情されるようなことはありません」といいたいと思いました。なぜなら、先ほどもどなたかがいっていましたが、日本各地で避難者関連の訴訟は沢山ありますが、避難者の慰謝料の額をアップするかどうか争われていいます。しかし、この裁判は、補償ではないのです。3・11原発事故の後、国の県が子どもたちや県民に行った政策が法的にみておかしいのではないかと真正面から問い、その責任を追及する裁判であり、日本で初めてのみならず、世界でも初めての裁判なのです。この裁判においては、原告がかわいそうだから、少し慰謝料を水増ししてあげようとかといった生易しい判断をすることは許されず、国と福島県の責任を認めて断罪するのか、国、福島県の犯罪を、目をつぶって認めるのかという本当にシビアな赤裸々な判断が裁判所に求められたからです。裁判所にとっては、ここで、国や福島県の責任を認めることは自らの将来を棒に振る、冷や飯を食う状況になることであるから、裁判所が勇気をもってそのような判決は書くのはほとんど不可能だろう判断していましたから、敗訴は初めから覚悟していました。それでも、同じ敗けるにしても、今回の敗訴判決は私たちの主張を100%否定し、考えられる限りのあらゆる屁理屈を使って、国と福島県の政策をよしとしました。このような理不尽極まりない判決理由を書かないと国と福島県のとった政策を認める判決は書けないということをはっきりしめしました。それは、私たちの望む最高の判決だと私は思っています。 

   その最も輝かしい判決理由の一つが、子どもたちの学校の環境安全基準です、これは、50年前私達の先人が、当時の深刻な公害の中で、子どもたちの命、健康を守ろうと必死になって取り組んできました。ここ東京都においては、美濃部都政、東京都公害研究所の面々の尽力に依って、学校の安全基準は、生涯その有害物質を吸い込み、体内にいれても、10万人に1人、健康被害者が出るというまで基準を厳しくしました。ところが、今回の子ども脱被ばく裁判の判決は、ここ福島の子どもたちが、生涯放射性物質を浴びて、10万人中7千人が、がんで死んでも許されるという新しい基準値を国がとったことを容認しました。私たちの先人が、子どもの命と健康を守るために、10万人に1人しか病気が発症してはならないという基準を7000倍も緩める基準を正当であると書き込んだのが、3月1日の判決です。こんな言語道断な判決を絶対に許すわけにはいきません。3・11に何が起きたのか、ここにはっきり読み取ることが出来ます。私たちの安全基準は、放射能に関しては、従来の毒物の7000倍危険であっても我慢せよということです。こんなことを認めていいでしょうか。  日本は、放射性物質と放射性物質以外の有害物質の二つの安全基準があるのだ、矛盾しないとすり抜けようとする人がいます。

私には、思い至ることがあります。日本国憲法です。憲法は、悲惨な第2次戦争のあと、2度と戦禍をくり返さないよう、軍国主義から決別して、国民主権の民主主義国家を打ち立てました。しかしさまざまの理由から天皇制は存続しました。天皇制は日本国憲法が保障する法の上の平等に違反する差別的な制度です。しかしながら天皇制を温存させるにあたっては、明治憲法のような天皇主権であってはならない、天皇は日本国の単なる象徴にすぎない、宣旨行為などを行ったら、国民主権の憲法違反だということを明記して、ダブルスタンダードを認めたのです。これが本来のダブルスンダードの意味です。
 
今福島県の子ども達は、ベンゼン、有機水銀、ヒ素などの有害物質からは、10万人に1人以上の健康被害が起こってはならないという、従来のきびしい基準で守られていますが、福島に一番多く存在する放射能に対しては、7000倍も緩い健康被害を甘受せよという判断基準を押し付けられています。福島の子どもたちにとっては、従来の安全基準は無意味になったということです。日本国憲法において、ダブルスタンダートを認めるために、天皇制は国民主権を犯してはならないというもとに存在していることに比べてみれば、なぜ放射性物質能だけが、一人のうのうと7000倍も緩い基準で、福島の子ども達に浴びせられるのかまったく理由がありません。こんな理不尽なダブルスタンダード、20m㏜を認めることは断じて正義に反します。

  私は3年前に一人の少女の言葉を耳にしました。16歳のスエーデンのグレタ・トゥーンベリさんです。  彼女は各国の政府が環境に優しいとか、持続可能な経済発展とか口当たりのいい言葉を人々に振りまいて、環境問題に真剣に取り組んでいない現実に対して抗議の声を上げました。その時彼女の言った言葉が、クライメイト・ジャスティス、気候正義でした。環境問題において、世界の政府の人々に最も欠けているのが正義という問題です。彼女はそのことを真正面から主張して、私たちに必要なものは環境に関する正義だと訴え、その言葉は多くの若者の心を捉えました。

  3・11原発事故以後、政府は復興とかオリンピックとか、口当たりのいい言葉ばかりを言って、被ばくして健康を損なっている人々の問題を何一つまともな取り組みをしてこなかった。その意味で私たちに今本当に必要なこと、3・11後の日本に最も必要なことは、グレタさんが「気候正義」といったように、「被ばく正義」です。公害において作られた安全基準、10万人に1人の以上の健康被害を許さない基準が正義です。7000倍も緩い被ばく基準は不正義です。放射能物質の被ばくについても、10万人に1人以上の健康被害は許されないという基準を打ち立てることが私たちの正義です。  



 

2021年4月21日水曜日

【第65話】いまも子どもがあぶない。いま必要なのは「被ばく正義」(2021.4.20)

まつもと子ども留学基金理事 柳原敏夫

私は、2014年8月提訴した「子ども脱被ばく裁判」の弁護団に参加しています。311後、至る所で原発事故関連の裁判が起されましたが、それは主に原発事故で大変な目に遭ったからその精神的苦痛の賠償を求めた裁判でした。これに対し、子ども脱被ばく裁判がそれらの裁判と根本的にちがうのは、第1に、子どもにとって被ばくの危険性を正面から問うたこと、すなわち事故後の汚染地で教育を受けることは、憲法が保障した「安全な環境で教育を受ける権利」を侵害するものであり、即刻、子どもたちを被ばくの危険のない安全な環境で教育を実施することを福島県内の市町村に求めたこと、第2に、日本史上最悪の過酷事故を起こしておきながら、事故後に「事故を小さく見せること」しか眼中になく、子どもらに無用な被ばくをさせた日本政府と福島県の法的責任を真正面から問うた裁判だということです。チェルノブイリ事故でもこのような裁判はなく、それは世界で最初の裁判です。

今年3月1日、この世界で最初の裁判に対する一審判決の言渡しがありました。裁判長は事前に用意した判決要旨すら読み上げず、小声の早口で主文だけ読み上げ1分足らずでハヤテのように立ち去りました。中身は原告主張を100%退ける全面敗訴判決。その判決理由は一言で言って「理不尽の極み」でした。

その典型が7千倍の学校環境衛生基準でした。半世紀前、私達の先人は深刻な公害被害に対する真摯な反省から、公害で苦しむ子ども達の命・健康を守るため、それまでの経済最優先の立場から「人間の尊厳をすべての価値の最上位に置き、命、健康、環境保全を最優先に置く」立場に大転換し、世界最先端の安全基準を制定しました(公害対策基本法ほか)。その基準とは毒物に生涯晒された時10万人に1人健康被害発生でした。ところが、毒物のうち放射性物質は現在まで、学校環境衛生基準が定められておらず、法の穴があいたままでした。そこでこの穴に対し、裁判で、原告は放射性物質も他の毒物と同等の基準を適用すべきだと主張したのに判決はこれを真っ向から否定しました。生涯晒されると「10万人中7千人ががん死」を意味する年20ミリシーベルトで問題ないと判示しました。しかし、判決は、なぜ他の毒物と比較し、ひとり放射性物質だけ安全基準の7千倍の引き上げが正当化されるのか、その理由を一言も述べないままでした。というのは、もしこの引き上げを正当化しようとしたら、子どもというのは、本来、他の有害物資に比べ、放射能に対しては7千倍強い身体で出来ているんだと言うしかなかったからです。こんなことがあっていいものでしょうか。私は裁判官は頭が狂ったのではないかとすら思いました。これを「理不尽の極み」と呼ばずに、いったい何と呼んだらよいのでしょうか。

一事が万事この調子で貫かれた今回の判決。まさしくそれは、「放射能が危ないと思ったら、そう思った本人が自分で勝手に逃げればよい」という新自由主義に裏付けられた311後の日本社会を赤裸々に映し出した鏡、その結果、「弱きをくじき、強きを助け、正義と不正義があべこべになった」311後の弱肉強食の日本社会を鮮明に映し出した鏡です。

この鏡が無言のうちに私達に訴えることは「いまも子どもがあぶない!」。

この人権蹂躙の事態に、3年前、北欧の16歳の少女が「気候正義」と声を上げたように、私たちもまた「被ばく正義」という声を上げずにはおれない。





2021年3月22日月曜日

【第64話】「311から10年」を迎えた新老年の抱負:つつしんで老年に告ぐ「老年よ、理不尽を共有せよ」(2021.3.20)

 3月19日、脱被ばく実現ネット主催の官邸前アクションに参加、3月1日の子ども脱被ばく裁判の福島地裁判決に対する報告を喋った。それは同時に、「311から10年」を迎えた新老年である私の抱負でもある。その意味で、昨年10月のつつしんで老年に告ぐ「老年よ、大志を抱け」の続編。以下はその動画。



上記の報告を整理して、上記の福島地裁判決に対する新老年の抱負を書いた。

      ***************

3月1日福島地裁判決に関する原子力ムラの2つの誤算

弁護団 柳原敏夫

311から10年、私たちは今、どこにいる?

確信を持って言えることが1つある。それは――311から10年が経過し、「私たちは今、どこにいるのか?どこに行くのか?」と問うた時、その答えは子ども脱被ばく裁判の中にある、と。

なぜなら、福島原発事故は日本史上最悪の未曾有の過酷事故であり、事故の被ばくにより多くの子ども・市民の命、健康が前代未聞の危機に陥った時、こともあろうに、この事故発生の張本人の1人である日本政府は事故後に「事故を小さく見せること」しか眼中になく、その結果、多くの子ども・市民に無用な被ばくをさせ、未曾有の危機を招いた。この国家の犯罪の法的責任を真正面から問うた裁判が子ども脱被ばく裁判だからである。言い換えると、311後に出現した、
・子どもの命・人権を守るはずの文科省が「日本最大の児童虐待」「日本史上最悪のいじめ」の当事者になり、
・加害者が救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、経済「復興」に狂騒し、
・被害者は「助けてくれ」という声すらあげられず、経済「復興」の妨害者として迫害され、
・密猟者が狩場の番人を、盗人が警察官を演じている。狂気が正気とされ、正気が狂気扱いされる、
「異常が正常とされ、正常が風評被害、異端とされる世界」その世界のあべこべを根本から正そうとした、原発事故に関する「世界で最初の裁判」だからである。

原子力ムラの2つの誤算

この「世界で最初の裁判」の一審判決(以下、単に「一審判決」という)が日、福島地裁であった。結果は原告の全面敗訴(その報告->こちら)。だが、そこには原子力ムラにとって大きな誤算が2つ生じた。  

誤算の第1が判決の理由づけ。日本の支配者の古くからの教え「百姓は死なないように生きないように」によれば、正しい敗訴判決とは「一方で、原告が矛先を収めるようにご褒美を与えて適当になだめすかし、他方で、しょうがないかと諦めるようにチンプンカンプな理由で原告をチョロまかす」ことにある。ところが、今回の判決は第1に、原告を「適当になだめすかす」ようなご褒美が一つもない!その上、チンプンカンプで原告をチョロまかす理由になっていない!「子どもの命、健康を守って欲しい」という原告のささやかな願いを託した原告主張をことごとく、これでもかこれでもかと完膚なきまでに完璧に蹴っ飛ばし、真っ向から否定してしまった。原告をリングの底に思い切り叩きのめし、二度と再挑戦できないように蹴散らしてしまった。その判決理由は一言で言って「理不尽の極み」だった(その中身は後述)。これがそして、次の誤算を招いた。
誤算の第2が控訴手続き
(その報告->こちら。2014年8月提訴以来既に6年半の歳月が流れ、この間、「原発事故は終わった。東京オリンピックを復興のシンボルに」といったまことの風評被害が吹き荒れる中で、提訴当時の決意を維持持続することは困難を極め、それに追い討ちをかける3月1日の原告全面敗訴の過酷判決という逆風、控訴は原告にとって大きな試練だった。ところが、この逆境の中、控訴期限の15日に行政訴訟6名、国賠訴訟125名の原告が控訴した。311から10年も経った今、約8割の原告が控訴したことは「原発事故は終わっていない」ことの何より証であり、原子力ムラにとって大誤算である。

この誤算をもたらした最大の原因は「理不尽の極み」判決にある。「子どもの命、健康を守って欲しい」という原告のささやかな願いに頭から冷や水をかけ、散々に蹴散らした「理不尽の極み」判決にもし異議申立しなかったら、「子どもの命、健康を守って欲しい」という願いを自らの手で葬り去ってしまうことになる。そのような理不尽の共犯者になることだけは、普段はこの裁判のことを忘れていたとしても、どんなことがあっても出来ない、許せない、と。「理不尽の極み」判決が原告に提訴の原点を鮮やかに呼び覚ましてくれ、再び、原告の心を突き動かし、異議申立という新たな行動を引き起こした。

理不尽の極めつけ――7千倍の学校環境衛生基準問題

 一審判決の理不尽の極めつけが7千倍の学校環境衛生基準。私たちの先人は、半世紀前、深刻な公害で苦しむ日本の子ども・市民の命・健康を守るため、コロナによるマスク着用どころか、ガスマスク着用が必要になると警鐘を鳴らし[1]、その救済に尽力した結果、世界最先端の安全基準を制定するに至った。それが、子どもたちの通う学校の環境衛生基準として、その毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というものだった。ところが、現在に至るまで日本政府はサポタージュして放射性物質について学校環境衛生基準を定めようとしない。この法の抜け穴に対し、原告は本裁判の最重要論点として、放射性物質についても学校環境衛生基準が定める他の毒物と同等の基準つまり「10万人に1人が健康被害」を適用すべきと当然のことを主張したが、一審判決はこれを真っ向から否定、生涯晒されると「10万人中7000人ががん死」を意味する年20ミリシーベルトで問題ないと判示した、他の毒物と比較し、安全基準の7千倍の引き上げがなぜ正当化されるのか、その理由を一言も述べないまま。半世紀前、宇井純、田尻宗昭、戒能通孝東京都公害研究所所長、美濃部亮吉元都知事らが命がけで公害問題と取り組み、尽力を尽くした末に勝ち取った環境基準という先人の努力の賜物を、311後の日本政府と一審判決は放射性物質という毒物についてチャラにし、7千倍引き上げという安全基準の世界最貧民国に転落した。このままでは宇井純ら無数の先人たちの努力は浮かばれない。

不都合な真実にはスルー――科学的知見から逸脱した山下俊一発言問題
2011年に提訴したふくしま集団疎開裁判で仙台高裁にただ一人踏みとどまった原告のお母さんに「放射能の安全基準をどのように評価しているか」と質問した時、彼女は「311事故前の基準と比べて評価している」と答えた。事故前との比較、これが本裁判でも、事故直後の福島での山下俊一発言が科学的知見から逸脱したものかどうかを照らし出す鏡だった。
例えば、山下氏は3月20日の記者会見で「この数値(毎時20マイクロシーベルト)で安定ヨウ素剤を今すぐ服用する必要はありません」と断言した。しかし、311前、チェルノブイリ事故直後、ソ連では安定ヨウ素剤は配布されず、そのため多くの子どもたちがのちに甲状腺がん等の病気になったのに対し、隣国ポーランドでは直ちに 安定ヨウ素剤を配布したため、子どもの甲状腺がんの発生はゼロだった事実を指摘したのは山下俊一氏その人である[2]
また、山下氏は5月3日二本松市講演で、「何度もお話しますように、100ミリシーベルト以下では明らかに発ガンリスクは起こりません。」と安全性を断言した。しかし、311前、山下氏は講演で、チェルノブイリ事故について、「放射線降下物の影響により‥‥半減期の長いセシウム137などによる慢性持続性低線量被ばくの問題が危惧される。」[3]、医療被ばくについて、「主として20歳未満の人たちで、過剰な放射線を被ばくすると、10~100mSvの間で発がんが起こりうるというリスクを否定できません」[4]と危惧、リスクをを指摘したのは山下俊一氏その人である。

 原告は、山下発言と311前の発言を「比較した時、その正反対とも言うべき矛盾した内容に、果して同一人物の発言なのかといぶかざるを得ない」と子どもでも分かるほど明快な矛盾を突いた。

 その上で、原告は、山下発言の評価方法について、現在の定説であるテクスト論[5]に基づき《山下発言の意味を判定するのは語り手の山下氏ではなく、放射能の危険性について専門的知識を持たない聞き手の一般聴衆である。一般聴衆にとって切実なことは、自分が知りたいと思っている問題について山下氏がどう発言したかという個別具体的な発言であって、山下講演の全体的な評価などではない。山下講演の個々の発言中に「一つでも不合理な発言」を聞いた一般市民がそこから放射線健康リスクについて「不合理な結論」を引き出し、「すっかり安心して」それまで抱いていた放射能に対する警戒心を解いてしまう恐れがあったかどうかがここで問題なのである》と常識的見解を主張した。

 しかし、一審判決は一方で、山下発言の評価方法に関する原告の常識的な主張を真っ向から否定、またしてもその理由を一言も明らかにしないまま。他方で、山下発言と311前の発言との矛盾について、真っ向から否定するどころか、ただの一言も触れずコソドロのようスルーして蹴っ飛ばした。これは真っ向から否定する勇気すら持てなかったからである。こんないい加減なやり方で、山下発言を「科学的知見を一般の参加者向けに平易に説明したもの」[6]と全面的に擁護した。あたかも独裁者が自国の民主主義を云々するようなもので、「理不尽の極み」以外に表現が見つからない。

「理不尽の極み」判決は311後の日本社会を写し出す鏡

とはいえ、裁判所は決して自ら望んで、あのような理不尽満載の判決を書いたのではなかった。放射性物質に関する環境基準の抜け穴問題ひとつ取っても、もし原告があそこまで厳しく追及しなければ、一審判決も適当にお茶を濁したかったに違いないが、原告の峻烈な追求を前にその余地はなかった。この意味で、「理不尽の極み」判決は311後の日本政府の対応の問題全てと正面から向き合い、その理不尽さを余すところなく解明しようと努力した原告の追及がもたらした帰結であった。この意味で、我々が手にした「理不尽の極み」判決は311後の日本社会を写し出す鏡である。

歴史の訓えによれば、理不尽が凝縮された出来事が人々の心に共有された時、それは社会に途方もない地殻変動を引き起こす。1987年6月の韓国の民主化運動も、ひとりの学生の拷問死という理不尽な出来事が引き金であり、 2011年春の中東の民主化運動も、ひとりの露天商の若者の抗議死という理不尽な出来事が引き金だった。この意味で、原告が6年半かけて手に入れた「理不尽の極み」判決もまた地殻変動を引き起こす可能性を秘めた理不尽のかたまりだ。「理不尽の極み」判決を手に入れるためにこの間、数え切れないほどの人々の参加、協力、応援があった。この尽力を無駄にすることのないよう、世の人々にこの「理不尽の極み」判決を示して、「この酷い判決が311後の私たち日本社会を写し出す鏡なんですよ」と訴え、理不尽を共有していきたい。その共有の積み重ねの中から未来の「地殻変動」を引き起こすために、ささやかでも、これからも奮闘したいと思う。

以上が、私がこの判決から引き出した歴史的意義である。

                                 (2021.3.20



[1] 1970年7月25日朝日新聞()「亜硫酸ガスの危険警告 10年後には5倍 ガスマスクが必要に」

[2]論文「放射線の光と影:世界保健機関の戦略20093月。537頁左段1行目以下。

[3] 講演「被爆体験を踏まえた我が国の役割」3頁(2000年)

[4] 上記論文543頁左段。

[5] ある作品の意味は何かついて、作品の作者にその答えがあるのではなく、読む側、つまり読者がその解釈の答えを握っているという考え方。テキスト論、読者論ともいう。

[6] 判決要旨15頁。

 

2021年3月14日日曜日

【第63話】「311から10年」の振り返り:【意見表明】福島で子どもたちのマラソン大会を強行した主催者・後援者らは全員、国際刑事裁判所の被告人席で裁かれるべきである(2012.12.2)

 以下は、9年前の2012年12月、福島県南相馬市で、「復興記念」と称して、子どもたちを参加させて「野馬追の里健康マラソン大会」が2年ぶりに≪雨天決行≫という不退転の決意の中で開催されたことに対しておこなった抗議の声明

ここ語られた内容は今もって意味を失わず、むしろ、「復興推進」といった愛国者のスローガンは、今や、福島のみならず中国、ベラルーシ、ミャンマーなど国境を越えたスローガンとして、民主化、人権を求める世界中の市民を抑圧、排除する際の決めゼリフとして大活躍している。311から10年の振り返りの中で再発見した、現在進行形の問題として紹介する。

     ***************

 本日2日、福島県南相馬市で、「復興記念」と称して、子どもたちを参加させて「野馬追の里健康マラソン大会」が2年ぶりに≪雨天決行≫という不退転の決意の中で開催されました。
 これに対し11月30日、「市民と科学者の内部被曝問題研究会」から、このマラソン大会の開催の即時中止を求める抗議声明が出され、関係者に送付されました(以下の書面)。
                            
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その理由は、以下の通りです――市民の測定によればコースの場所によっては年14mSvあり、南相馬市が提供する線量データでも最高年6mSv以上、最低で年1.8mSvの高線量であり、そのような場所でマラソンという呼吸が激しくなる運動をする場合には被ばくの危険性がさらに高まることは3.11直後に被災地に入った米軍も警告しているとおり、よく知られた事実だからです。この、子どもたちに激しい呼吸を伴うマラソンを長時間、高線量地域で走らせることが極めて危険なことを南相馬市の市長、教育委員会はじめ関係者が知らない筈がなく、従って、このマラソン大会によって、子どもたちに今すぐか将来かを問わず健康被害が出た場合には彼らの刑事責任が問われる「殺人行為に匹敵する」ほどの重大行為である、と。

 この抗議声明について、以下、私の感想を4つ述べます。
1つ目は、本来、国と自治体は子どもたちを安全な環境で教育するという憲法上の義務を負っています。従って、原発事故により地域の空間線量が年1mSv以上に汚染されたにもかかわらず、そこから子どもたちを集団避難させ教育を実施しない場合、「避難させない」という不作為が子どもに対する虐待行為=違法行為となります。なぜなら、もし人が溺れているとき、救助義務を負う人が救助せず傍観していたら、それは不作為による殺人であり、「何もしない」だけでも法律上の責任が問われますが、国や自治体が「避難させない」不作為はそれと同じことだからです。ところが、本件はそんな生易しいものではありません。南相馬市は「何もしない」どころではない。危険な地域で、マラソン大会という危険な活動をやらせるという子どもたちを積極的に危険な目に遭わせている。たとえて言えば、沈没する船に閉じ込められた子どもたちを、救助も何もしないのではなく、子どもたちを海に突き落とすような真似をしている。その虐待としての悪質性、残虐性は群を抜いています。

2つ目は、この抗議声明は、過度の被ばくにより子どもたちに健康被害という結果が出た場合に刑事責任を問題としていますが、刑事責任は結果が出た場合に限定されません。結果が発生しなくても、結果の発生のおそれのある行為についても刑事責任が問われるからです(未遂罪といいます)。被ばくから現実の健康被害の発生まで時間がかかる場合であっても、マラソン大会のように過度の被ばくが明らかに深刻な内部被ばくをもたらし、それがDNA等の深刻な破壊をもたらすことが確実である以上、その結果、将来、何らかの健康被害の発生をもたらすおそれがあると判断される場合には、未遂罪が成立します。ミサイルが発射されてから目標物に到達するまでたとえどんなに時間がかかったとしても、「ミサイル発射」こそ危険な行為と考えられるのと同じことです。

3つ目は、今回の場合、南相馬市の責任は危険なことを知らないでやった「過失責任」ではありません。南相馬市にも高名な専門家がアドバイザーとしており、マラソン大会がどれほど危険なものかを彼らは重々承知の上で実施しているからです。これを危険なことを知ってやった「故意責任」と言います。この抗議声明が、過失致死罪ではなく、故意責任である「殺人行為に匹敵する」と表明したのは決して誇張ではなく、まさしく正当です。のみならず、南相馬市は、単に危険なことを知っているだけでなく、「復興」の御旗を掲げてこれをしゃにむに突き進むために、「殺人マラソン大会」を「健康マラソン大会」と言いくるめて、意図的に子どもたちを危険な目に遭わせています。その意味で、彼らの故意責任の悪質度は飛びぬけて悪質と言わざるを得ません。

4つ目は、以上から当然のことですが、この最上級の犯罪行為は関係者一同が厳正に裁かれるべきです。そのためには、国内だけではなく、国際的にも裁かれるべきです。なぜなら、国内だけならうやむやにされる恐れがあるからです。他方、原発事故は「国境なき人災」であり、それによる人々の重大な被害と人権侵害は国際社会全体の関心事とならざるを得ず、それに関して発生した重大な犯罪(原発事故そのものに由来する一次的な犯罪に限らず、今回のマラソン大会のように、原発事故から派生した二次的な犯罪も含む)は「罰せられることなく放置」されてはならないからです。そのために、「これらの犯罪を行なった者が処罰を免れることに終止符を打ち、もってそのような犯罪の防止に貢献することを決意して」、2003年に国際刑事裁判所が創設されたからです(→詳細は後述の参考)。

                      オランダ・ハーグの国際刑事裁判所
                      出典「ウィキメディア・コモンズ」より 
        
国際刑事裁判所が裁く犯罪の1つが「人道に対する罪」です。この「人道に対する罪」の中に「その他の同様の性質を有する非人道的な行為であって、身体又は心身の健康に対して故意に重い苦痛を与え、又は重大な傷害を加えるもの」があり(「国際刑事裁判所に関するローマ規程」7条1項ラスト)、南相馬市の「健康=殺人マラソン大会」がこれに該当する可能性があります。
つまり、本件のような悪質な犯罪行為こそ、その抜本的な再発防止のために、本来、国際刑事裁判所の法廷で関係者一同が厳正に裁かれるべきなのです。

まとめ
これまで、福島原発告訴団の人たちの努力により原発事故そのものに由来する一次的な犯罪(過失責任)の責任追及がなされてきました。しかしこれからは、事故後の、「事故を小さく見せる」ため、或いは「復興」という名目で行なわれる二次的な犯罪(故意責任)が決定的に重要です。なぜなら、マラソン大会にせよ、除染作業にせよ、中間貯蔵施設問題にせよ、それらは被ばくにより住民に健康被害が及ぶことを分かっていて、回避することが十分可能にもかかわらず、敢えて実施されるという点で故意のそれも悪質極まりない故意の犯罪であり、なおかつ、くり返し、或いは継続的に実施されるため、住民はその都度過剰な被ばくを余儀なくされる現在進行形の犯罪だからです。これを根絶するためには、機能不全に陥っているおそれのある国内司法だけではなく、本年9月に南アフリカのツツ元大主教がやったように(下の参考(2))、速やかに、厳正中立な国際法上の裁判所による正しい裁きを求める必要があります。様々な圧力を受けている国内司法も、国内世論の監視だけでなく、国際法上の厳正中立な裁きを後ろに控えてこそまともな一歩が踏み出せるのです。
                              (12.12.02 柳原敏夫)
参考
(1)、国際刑事裁判所とは
国際刑事裁判所は、2003年、国際社会にとって最も重大な4つの犯罪(a集団殺人罪〔ジェノサイド〕、b人道に対する罪、c戦争犯罪、d侵略の罪)を防止するため、これらの犯罪の責任者を訴追し、裁くための常設の国際法廷として創設されました。国連創設以来50年間の悲願でした(→国際刑事裁判所の歴史)。竹島問題でも話題になった国際司法裁判所が当事者となりうるのは国家のみで、個人や法人には資格がないのに対し、国際刑事裁判所は個人の国際犯罪を裁くものです(→国際刑事裁判所)。

(2)、国際刑事裁判所の精神
国際刑事裁判所の精神は、1998年、その創設を決定し採択された「国際刑事裁判所に関するローマ規程」の次の前文に見ることができます(→ローマ会議)。
「20世紀に何百万人もの子どもたち、女性及び男性が、人類の良心に深い衝撃を与えた想像を絶する行為の犠牲になったことに留意し‥‥」
「国際社会全体の関心事である最も重大な犯罪は、罰せられることなく放置されてはならないこと‥‥を確認し、これらの犯罪を行なった者が処罰を免れることに終止符を打ち、もってそのような犯罪の防止に貢献することを決意して‥‥以下の通り合意に達した。」(前文)
さらに、時効について次のように定めています(29条)。
「本裁判所の管轄権に属する犯罪は、いかなる消減時効または出訴期限にも服さない。」
すなわち、国際刑事裁判所は
何よりも第一に、子どもたちが想像を絶する行為の犠牲になったことを忘れない、
そして犯罪者は決して見逃さない、時効で訴追が免れることもない、犯罪者はいつまでも、どこにいても犯罪者、世界中の人々の手で必ず追及する。
本年9月、ノーベル平和賞(1984年)を受賞した南アフリカのツツ元大主教がブレア元英首相とブッシュ前米大統領を2003年のイラク戦争開戦の刑事責任を問い、国際刑事裁判所に訴追するよう呼び掛けました。(「時事通信」2012/09/03
「イラクで失われた人命への責任を負う者は、ハーグで現在、責任を問われているアフリカやアジアの指導者らと同じ道を歩むべきだ」

(3)、国際刑事裁判所が裁く「人道に対する罪」とは、
「国際刑事裁判所に関するローマ規程」7条で、次のように定義されています。今回、注目するのはアンダーラインを引いた箇所。

第7条 人道に対する犯罪
1 この規程の適用上、「人道に対する犯罪」とは、文民たる住民に対する攻撃であって広範又は組織的なものの一部として、そのような攻撃であると認識しつつ行う次のいずれかの行為をいう。
(a) 殺人
(b) 絶滅させる行為
(c) 奴隷化すること。
(d) 住民の追放又は強制移送
(e) 国際法の基本的な規則に違反する拘禁その他の身体的な自由の著しいはく奪
(f) 拷問
(g) 強姦、性的な奴隷、強制売春、強いられた妊娠状態の継続、強制断種その他あらゆる形態の性的暴力であってこれらと同等の重大性を有するもの
(h) 政治的、人種的、国民的、民族的、文化的又は宗教的な理由、3に定義する性に係る理由その他国際法の下で許容されないことが普遍的に認められている理由に基づく特定の集団又は共同体に対する迫害であって、この1に掲げる行為又は裁判所の管轄権の範囲内にある犯罪を伴うもの
(j) 人の強制失踪
(j) アパルトヘイト犯罪
 その他の同様の性質を有する非人道的な行為であって、身体又は心身の健康に対して故意に重い苦痛を与え、又は重大な傷害を加えるもの
2 1の規定の適用上、
(a) 「文民たる住民に対する攻撃」とは、そのような攻撃を行うとの国若しくは組織の政策に従い又は当該政策を推進するため、文民たる住民に対して1に掲げる行為を多重的に行うことを含む一連の行為をいう。
  ‥‥(以下、略)

 

【第186話】もうひとりの新老年の盟友、大庭有二さんとの対話(26.3.15)

      2025年8月長野県松本駅(左が大庭さん、その右が菅谷昭さん) ◆ はじめに  以下を書きながら、なんでもっと早く、大庭さんが新老年の盟友のひとり=真の友であることに気がつかなかったのかと、己の鈍感力に無力感に襲われている。 ◆ 本論 大庭有二さんとは、子ども同士が、...