避難者追出し訴訟(一審福島地裁)の報告です。
1、予備的主張としての権利濫用論を主張する書面(準備書面(4))提出までの顛末
2021年5月11日付の被告準備書面(1)で、被告が、
(1) 被告は原告に対し、本件建物の明渡義務を負っていない。
その論拠は、憲法13条・25条により保障された、被告の基本的人権であり、これを無視した原告の権利濫用などが理由として挙げられるが‥‥
と主張したことに対し、その後、裁判所から書面で、
権利濫用の抗弁を主張するのか否か明らかにされたい
と連絡があった。そこで、2021年7月8日付の準備書面(2)で国際人権法を全面的に主張すると共に、これに対し、権利濫用の主張は予備的な主張であると、次の通り上申した。
被告らが第2準備書面で詳述した国際人権法の主張が被告主張の主位的主張であり、第1準備書面第4、被告主張の概略で述べた「原告の明渡請求は権利濫用である」旨の主張は予備的主張という位置づけである。そして、審理において、当面、国際人権法の主張・立証に全力を尽くすという立場である。従って、現時点では「権利濫用論」についてはその具体的な主張は展開しないが、将来、審理の成り行きによっては正式に具体的な主張を展開する可能性がある(ただし、その立証のために新たな審理を求めることはしない)。
ところが、裁判所は8月6日の弁論において、予備的主張の内容がどのようなものか明らかにするよう、 被告に求めてきた。被告は、上記の上申書で述べたとおり、当面、国際人権法の主張・立証に全力を尽くす予定である旨くり返したが、なおも裁判所は譲らす、概要だけでも明らかにするように求めてきたので、被告はこれを了解した。その宿題に答えたものが、今回の被告準備書面(4)である。
2、権利濫用論とは何か(一般論)
権利濫用論は、法律実務の中では、既存の法体系の中で主張できる法的な根拠が見つからない場合、万策が尽き、達磨さんになった(手も足も出ない)場合の窮余の策としてくり出す主張、というイメージがある(少なくとも私はそう感じてきた)。なので、権利濫用論を熱心に主張することは、取りも直さず、本裁判で万策が尽きていることを自ら証明するようなもので、不本意極まりなかった。ましてや、本裁判は、国際人権法という国境(国法)を越えた普遍法が法的根拠となりうることが発見できたのだから、もはや権利濫用論は無用ではないかとすら思えた。
ただし、万が一、国際人権法が否定された場合に備えて、予防しておく必要があった。そこで、内心、不承不承、権利濫用論の検討を始めたところ、
日本における権利濫用論の起源とも言うべき文献を、戦前の歴史的転換点にもなった京大の滝川事件(1933年)に抗議して京大を辞職した末川博がライフワークとして研究してきたことを知り、私自身の権利濫用論の捉え方(上記の達磨さん)が全く的外れだったことを思い知らされ、末川が権利濫用論をライフワークにしようと思ったのも、当時の先進的な法学者である末弘厳太郎や我妻栄らと同様の次の問題意識に由来するものであることを思い知らされた。これは私にとって、今年、国際人権法の発見につぐ、第2の発見(権利濫用論の発見)だった。
《社会事情が著しき変遷を遂げた結果、その合理的体系の裡に収められた箇々の法律が、新たなる社会現象に適用せられたときに、現時の新しい倫理観念に矛盾するような結果が生じることが多い。この時、法律の純論理的解釈に満足せざる法律家の総ての努力は、社会事情の著しき変遷に対し、現時の新しい倫理観念に適合した法律の解釈はいかにして可能か、に向けられる 》(我妻栄 「私法の方法論」)
すなわち、社会現象の著しい変遷或いは未曾有の社会現象に対し、その事態に相応しい新しい倫理観念に適合した法律の解釈はいかにして可能か、この問いに答える最初の一歩、それが「権利濫用論」である。そして、具体的な法律構成、権利を持つ法律論の構築、展開がその次の二歩目である。本件で言えば、国際人権法の法律論である。この意味で、権利濫用論と国際人権法はコインの表裏の関係にある。
この発見の時から、私は権利濫用論に夢中になってしまった。ここには、次の二歩目について堅固でなおかつ豊饒な法律論(本件では国際人権法)を構築する上で不可欠な素材がごっそり埋まっているから。
2、本件における権利濫用論の内容
とはいえ、今回、権利濫用論を検討する過程で考え出すと分からなくなり、私は次の問題に翻弄された。
(1)、私法で誕生した権利濫用論を全分野の法の基本原理としてそのまま公法(行政法)に適用することには根本的な問題がある。
なぜなら、
一口に権利といっても、私法(民法)の権利と行政法の権利は天と地の差がある。
私法の私人の権利の本質は、他者から容易に侵害される(おそれがある)こと。そうした侵害から権利者を守るために、権利という概念を導入する必要がある。
宮沢俊義は、人権の本質を抵抗権に見出すが、私権もそれと似ている。侵害者の侵害に対し抵抗する、その中で権利が確立していったと考えられるから。
しかし、行政法の行政庁の権利には、そんな「他者から容易に侵害される(おそれがある)こと」はまず考えられない。彼らは国家権力の主体という国の中で最強の組織だから。そんな強者に、「侵害から権利者を守るために、権利という概念を導入する必要」なぞ全くない。
元来、他者から容易に侵害される(おそれがある)状況においてそれを保護するために認められた権利の行使が行き過ぎる場合に問題となる「権利の濫用」と、
本来、最強の権力者・実力者として国民の前に立ち現れる組織の振る舞いが、行き過ぎる(暴走する)ことがあるのはむしろ当然であり、権力に内在する本質的特徴ともいうべきこと。だから、暴走すること自体が「権利の発現」とでもいうべき最強の権力者の本来の姿を、わざわざ「権利の濫用」と言い換えるのは不自然極まりない。
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なので、私としては、私権における「権利の濫用」と切り離して、最強の権力者である行政に内在する本質的特徴として、権力者の暴走問題を指摘すべきではないかと思うようになった。
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そうすると、暴走することが「最強の権力者である行政に内在する本質的特徴」に相応しい言い方をするとなると、
もともと、「最強の権力者である行政」が暴走しないためには、裁量行為の行使の手続、範囲について(緩やかではない)厳格な基準、範囲が定められている。もしこの厳格な「裁量行為の行使の手続、範囲について基準、範囲」を超えた場合には、裁量行為の逸脱(行き過ぎ)として、違法とされる。
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つまり、本件も、この「裁量行為の逸脱(行き過ぎ)濫用」の問題として構成するのがベストではないか、と。 ↑
(2)、これに対する根本的な違和感・異議の登場
しかし、これに対して、行政法専門の友人弁護士から猛烈な反発を食らう。
彼に言わせると、
今回の「避難者の国家公務員宿舎の利用関係」について、これを行政裁量権の行使とされる「処分」と捉え、そこから「裁量行為の逸脱」の問題を論じているが、そもそも上記宿舎の利用関係を「処分」と捉えるのには根本的に異論がある。
なぜなら、
行政裁量権の行使とされる「処分」というのは公権力の行使を念頭に置いている、しかし、国家公務員宿舎の利用とは、私人の権利を制限したり義務を課したりすることではなくて、私経済的なもの、つまり非権力的作用ではないか。
その意味で、本件で、公権力の行使を前提にした「行政裁量の濫用」には根本的な違和感がある。
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確かにそう言われてみたら、その通りか、と。本件の「避難者の国家公務員宿舎の利用関係」は、行政法の教科書の行政の分類に当てはめると、
3、公官庁の建物の建設・財産的管理など、直接公の目的を図るのではなく、その準備的な活動とも言える「私経済的行政」
に該当する。それなら、これは「直接、私人の権利を制限したり義務を課したりすること」とはちがう、非権力的な作用ではないか。
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この友人に言わせれば、なにも2017年4月以降、セイフティネット契約を締結したから、「私経済的行政」に該当する訳ではなく、それ以前の、避難者が東京都に一時使用の許可申請を出し、これに対し東京都が許可書を出したときから「私経済的行政」に該当する、
つまり、2011年から国家公務員宿舎を使わせるという関係は、首尾一貫して「私経済的行政」というべきで、そこには首尾一貫して(法律等で問う別な定めがない限り)私人間同士の契約法理が適用されてしかるべきだ、と。
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そこから、本件では、契約法理における権利濫用論を使うのがふさわしい、と。
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(3)、これに対する根本的な違和感・異議の登場
しかし、これに対しては、今度は私から猛烈な違和感の表明。
なぜなら、
民法の権利濫用論というのは結局、「私権同士の衝突の調整」が問題になるのに対し、本件では「私権同士の衝突」は起きない。福島県は公の目的達成のために存在する組織であり、私権の主体ではないから。
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この点を踏まえて、本件の権利濫用論を構成する必要がある。では、どういう風に構成できるか?
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ひとつは、
民法の権利濫用論では、私権同士の衝突の調整が問題になるのだから、私権の保護の必要性を考慮する必要がある。その上で、この私権の保護の必要性を考慮したとしても、それでもなお、全体の状況を考慮した時、その私権の行使は行き過ぎであると評価せざるを得ない場合が権利の濫用。
これに対し、本件では、公の目的しか持たない行政庁と私権(人権等)を訴える市民との衝突の調整が問題となる。そもそも福島県側には私権の保護の必要性を考慮する必要がない。福島県はもっぱら公の目的のために行動する義務を負い、その行動が本来のあるべき公の行動に照らし、逸脱、行き過ぎ等が認められる場合を問題にすればよい。
この意味で、本件の行政における権利濫用は、民法の権利濫用論よりも成立が認めやすくなるばず。
↓
この点に着目して数多く出されたのが信義則違反を問題にした行政事件の判例。
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そこで、信義則違反と権利濫用はコインの表と裏みたいな関係にあるから、本件も、これらの判例を参考にして信義則違反を問えばよい、と。
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さらに、「行政権の濫用」に関する判例は、いわゆる公権力の行使としての処分(行政裁量)の濫用を問題にしたもので、これと私経済的なもの、非権力作用である本件とは本質的に性格を異にするから、この意味で、上記判例はそのまま使えないが、にも関わらす、そこには参考になる重要な要素が含まれている。
それが、信義則違反を問う場合の「行政庁は私権の主体ではなく、もっぱら公の目的のために行動する義務を負うだけだから、その行動が本来のあるべき公の行動に照らし、逸脱、行き過ぎ等が認められる場合を問題にすればよい」とは、
「行政権の濫用」の判断においても
行政庁の逸脱、行き過ぎ等を判断する際の指標になる。
(4)、まとめ
ここから、本件の「国家公務員宿舎の利用関係」をめぐる信義則違反・権利濫用論を論ずる際は、
私権同士の衝突の調整は問題にならないから、純然たる私法の利用関係と捉えることはできない。
かといって、公権力の行使を前提にしておらず、私経済的な非権力作用であるから、「裁量行為の逸脱・濫用」と捉えることはできない。
つまり、一方で純然たる「私法の利用関係」でもなく、他方で純然たる「行政庁の裁量行為」でもなく、いわば私法と行政法の中間に位置する「オルタナテブな利用関係」と捉え、その性質・特質を精査する必要がある。
↓
それを曲がりなりにも吟味検討して書面化したのが、今回提出の準備書面(4)。
以下がその1頁目と目次(全文のPDF->こちら)
目 次
第1、はじめに
1、権利濫用と信義誠実の原則(信義則)の関係
2、本件建物の使用関係
第2、本件建物の明渡請求が信義誠実の原則に反すること
1、原告が、2017年3月末で本件建物の使用関係を更新しないことを決定したこと自体が信義誠実に反すること。
①.要実行事項の不実行(その1)
②.要実行事項の不実行(その2)
2、原告の「禁止事項の実行」は信義誠実に反すること。
①.禁止事項の実行(その1)
②.禁止事項の実行(その2)
③.禁止事項の実行(その3)
3、被告らから原告への使用許可申請に対する原告の対応は信義誠実に反すること。
4、被告らの側に、本件建物の提供者である東京都との信頼関係を破壊すると認められる事情は存在しないこと。
5、原告の側に、本件建物の入居者である被告らとの信頼関係を破壊すると認められる事情は存在すること。
6、原告の側に、本件建物の退去明渡を求める必要性は存しないこと。
7、結語