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2024年11月18日月曜日

【第166話】10.30チェルノブイリ法日本版のさいたまミニ学習会の報告(24.11.18)

 9月29日のチェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で、時間切れのため、日本版の条例案についての話が出来なかった。そこで、それについての補講を、10月30日、少数のメンバーを相手に行なった(ミニ学習会)。

以下がその動画とプレゼン資料。

 1、前半(前座)



2、後半(条例案解説)


3、プレゼン資料PDFまたは(下の画像をクリック)


以下は、参加者の皆さんに送ったコメント2つ。

1、報告
昨日は長時間に渡り、お付き合い頂き、ありがとうございました。
この夏に「脳化社会」論に直面して以来、私の頭の中は全てのことを再吟味せずにはいられなくなったのですが、その中でも、日本版の条例案の再検討は最もハードルが高く、手も足も出ないままでした。

今回、その条例案の壁に挑戦する貴重な機会を授けて頂き、感謝のコトバもありません。
若い頃に、「人は5分と思考することに耐えられない。それ以上は単に習慣、惰性、ダラダラとぼんやり考えているだけで何も考えていないにひとしい」という言葉に震撼させられ、5分以上考えることを目標にして来ましたが、今回のミニ学習会のおかげで、1日半、考える時間を持つことができ、その中での新しい気づきと出会ったことは私にとって最高の宝でした。

プレゼン資料の最後に書かせてもらいましたが、
学習するとは、単に物知りになるのではなく、自分が変わること、それは自分の認識が変わることだけでなく、自分の行動が変わること。
ただ、それは一気に変わる必要はなく、一歩変わること。
昨日の学習会を経験して、私自身もその一歩前に踏み出すことが出来ました。
これからも、皆さんと、一歩前に出る市民運動を共有できたらと願っています。
取り急ぎお礼まで。 

・・・・・・

最後にお詫びを。
昨日の第一部のあとの休憩中に、Xさんから、市民の意識の変化が社会を変えることについて、日本版の中で話して欲しいとリクエストされ、快諾したにもかかわらず、結局、話できませんでした(プレゼン資料に書いてなかったため)。

そもそも、過去に前例のない福島原発事故そのものが私たち市民の意識を否応なしに変化させました(例えば、一瞬にして東日本が壊滅の危機という意識は過去に誰も持ったことはなかった、)。それゆえ、前例のない原発事故の救済もまた、前例のない取り組みです。私たち市民が従前の意識の中にいたままで、これと取り組めるはずがありません。
日本版のエッセンスは、過去の希望の扉をすべて叩いて、そこから未曾有の惨劇と悲劇である原発事故の救済の道筋を暗中模索する、ことです。
私にとって、その希望の扉の1つが、国難に対する市民型公共事業の取り組みです。その過去の希望の扉が、70年以上前、スペイン内戦で疲弊したスペインの寒村で、28歳の神父アリスメンディアリエタたちが始めた、「みんなで働き(協同労働)、みんなで運営する(協同経営)」モンドラゴンの協同組合による経済再建の取組みです。そして、霞ヶ浦の再生をアサザと市民のゆるやかなネットワークを使って市民型公共事業で成し遂げたアサザプロジェクトでした。
とりあえず、以下がその報告ですが、改めて、この希望の扉を、今、私たち自身の市民の意識変革のテーマとして位置づけて、紹介したいと思います。
モンドラゴンの協同組合もうひとつの復興は可能だ--モンドラゴンの可能性の中心-- 

アサザプロジェクトの再定義:進化する疎開裁判:市民運動家から社会起業家へ(2013.6.21)

2、予防原則について

今、1点気づいたことがあり、それを補足させて頂きます。
昨日の話の中で、予防原則が話題になりました。予防原則がどれほど重要なものか、その重要性について、以前から私は、ロシアンルーレットになぞらえて、次のように指摘してきました(例えば2019年6月の静岡市での学習会のプレゼン資料こちら)。

> 「子どもたちを被ばくのロシアンルーレットにさらさない」、それがチェルノブイリ法日本版
> 福島原発事故で私達は途方に暮れました。放射能は体温を0.0024度しか上げないエネルギーで人を即死させるのに、目に見えず、臭わず、痛くもなく、味もせず、従来の災害に対して行ったように、五感で防御するすべがないからです。人間的スケールでは測れない、ミクロの世界での放射能の人体への作用=電離作用という損傷行為がどんな疾病をもたらすか、現在の科学・医学の水準では分からないからです。つまり危険というカードが出せない。にもかかわらず、危険が検出されない以上「安全が確認された」という従来の発想で対応し、その結果、人々の命、健康は脅かされました。「危険が検出されないだけでは足りない。安全が積極的に証明されない限り、人々の命を守る」、これが私たちの立場です。つまり人々の命を被ばくというロシアンルーレットから守る。それが予防原則で、これを明文化したのがチェルノブイリ法です。


しかし、昨日の話の中で、新たな気づきがありました。
それは、子どもたちは知らない間に、あたかも自然現象のようにロシアンルーレットの中に置かれたのではなく、ロシアンルーレットを子どもたちをはじめとする人々を置いたのは、ほかでもない、原発を設置した日本政府、電力会社、原子力ムラの科学技術者たちだということです。

つまり、彼らは、自分たちが作り出した原発から発生する事故のために、多くの人々が被ばくによる健康被害を受ける可能性があるのに、その健康被害の範囲を科学的、医学的に証明する科学技術を準備していなかった(正確には持ち合わせていなかった)。それはひとたび暴れだしたら、何するか解らない獰猛な生き物をペットとして人々に与えるにひとしいことです。
彼らは、ひとたび事故ったら、そこから発生する健康被害の範囲を科学的に証明できないことを分かっていながら、その状態のまま、原発を設置したのです。
    ↑
ここで、次の規範が問われることになります。私は当然だと思うのですが、みなさんはどう思いますか。

過去に経験のない高度の先端科学技術を開発・駆使して作り出した人工装置を社会に持ち込み実用化する場合には、その装置の事故による被害についても、過去に経験のない被害が発生する可能性は高く、その事故と被害との因果関係を現時点の科学技術では証明できない可能性が高い。その場合、その事故と被害との因果関係が証明できない、いわゆるグレーであるという理由で被害者が泣き寝入りを強いられるべきではなく、そもそもそのような過去に経験のない、因果関係がグレーの被害を発生させる原因を作った人工装置の設置者がグレーについて責任を負うべきである。

この「事故で発生する健康被害の範囲がグレー(科学的に証明できない)の場合のリスク(責任)は原発を設置した者たち(国、電力会社)が負うべきある」。それが「グレーは被害者を守る」という予防原則です。

言い換えれば、原発事故による健康被害の問題に対して、先端科学技術を開発・駆使して原発を設置した者たち(国、電力会社)は中立(ニュートラル)の立場にいるのではない。本来であれば、こんな化け物みたいな未知の危険を持つ原発を設置した彼らは、単に原発事故防止の責任を負うだけでなく、原発事故による健康被害の範囲についても、先端科学技術を開発・駆使してそれを明らかにする責任がある。その責任が果たせないというのであれば、彼らはそんな無謀な原発の設置は許されないと言うべきです。
にもかかわらず、原発事故による健康被害の範囲を明らかに出来ないような無謀な原発設置を許可するのであれば、この原発事故による健康被害の範囲について、国、電力会社は、その範囲がグレーな被害者に対し、被害者を守る予防原則を受け入れることは当然のことです。
言い換えれば、国、電力会社は原発を設置する以上、予防原則を具体化したチェルノブイリ法日本版を受け入れるほかないのです。

2024年11月15日金曜日

【第165話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者は「脳化社会」そのものの中にあり、その最大の賛同者にして被害者は「脳化社会」に安住する私たち市民である(24.11.15)

                               子ども脱被ばく裁判 福島地裁判決(2020年3月1日)

子ども脱被ばく裁判と避難者追い出し裁判が明らかにした最大のもののひとつが、人権の始まりであり人権の核心は、私の生き方、私の人生はほかならぬ私自身が選択し、決めるという「自己決定権」にあるということだ。

そこから、私たちが住む「脳化社会」がいかに人権侵害をはらんだ「人権侵害社会」であるかが浮き彫りにされた。なぜなら、福島原発事故に遭遇したとき、少なからぬ市民は、この前代未聞のカタストロフィから身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、前代未聞のカタストロフィから身を守るために選択すべき行動を決定するためには、自前で手に入る情報だけでは到底不十分・不可能であり、そのためには、これに必要な情報を独占している政府と福島県からの情報提供が不可欠だった。にもかかわらず、それを求める市民にその情報は届けられなかった(開示・提供されなかった)からである。
しかも、その悪質極まりない情報隠蔽は(政府や福島県にとって、これほどまでに深刻な原発事故は初体験だったにもかかわらず)何食わぬ顔をして、ぬけぬけと実行されたのである。
なおかつその悪徳行為の最大の被害者である市民の間からも、2014年のセウォル号沈没事故直後、遺族が朴槿恵大統領の青瓦台に向かって抗議行進したように、福島原発事故発生直後、菅直人首相の首相官邸に向かっての抗議行動はついに起きなかったのである。

セウォル号沈没事故で犠牲になった高校生らの遺族が、朴槿恵大統領との面会を求めて青瓦台に向かって抗議活動。2014年5月9日 ロイター/News1

このとき、なぜ市民の間から抗議行動は起きなかったのか。私たち市民が生涯でいっぺん経験するかしないかの「自己決定権」の行使が問われた、一世一代の瞬間だったにもかかわらず。

それはひとえに私たちが「脳化社会」に安住していたからではないのか。
なぜなら、私たちの住む「脳化社会」は、私たちに「安全・安心」な快適な環境を保障する代わりに、その代償として私たちに「脳化社会」が出す指示、命令に唯々諾々と従うことが暗黙の掟になっているからだ。その見えない「掟」が私たち市民にとってどれだけ強力なものか、それはカフカが「掟の前で」で描いた通りだ。

福島原発事故が起きるまで、原子力ムラは「安全神話」の中で眠っていたと批判されるが、眠っていたのはなにも原子力ムラだけではない。「脳化社会」に安住する限り、私たち市民はみんな眠っていたのだ。 だから、福島原発事故で無知の涙を流して覚醒した一部の人たちを除いて、「脳化社会」に安住していた市民は、原発事故後も引き続き、「脳化社会」を疑うことをせず、「脳化社会」が出す指示、命令に、内心はものすごく不信、不快だったにもかかわらず、表向きは唯々諾々と従ったのだ。その結果、他方で、彼らは原発事故から身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、その実現のために必要な抗議行動に出ることができなかった。これは一世一代の痛恨事だ。

 市民は「脳化社会」に安住する意識にとどまる限り、願いを実現するために必要な行動に移せなかった。それは生涯悔いても悔い切れない痛恨事である。

この痛恨の経験が教えることは、私たちを覆っている「脳化社会」こそ私たち市民の自己決定権を不断に奪い去る、最悪の人権侵害システムだという訓えである。この痛恨をくり返さないためには、一度は本気で、「脳化社会」の掟と対決する必要がある。

私たち市民団体が今月8日に提訴した、ゆうちょ銀行の口座開設不当拒否裁判は、「脳化社会」の掟と対決するささやかなアクション、一歩前に出る行動である(その詳細こちら)。

 

【第164話】「脳化社会」最先端を行く中国で、一歩前に出ることをやめない人、閻連科は言った「今の中国ではどんなことも起こり得る」(24.11.14)。

関連ニュース
11月16日江蘇省無錫の学校で、刃物を持った男が襲撃、8人死亡17人けが(>詳細)。
10月28日北京の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年3人を含む5人けが(>詳細)。
10月8日広州の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年2人を含む3人けが(>詳細)。 
9月30日、上海のスーパーマーケットで、刃物を持った男が襲撃、3人死亡15人けが(>詳細)。
9月18日、広東省深圳市の深圳の路上で、刃物を持った男が襲撃、日本人児童1人死亡(>詳細)。
6月24日、江蘇省蘇州の下校中の日本人学校のスクールバスで、刃物を持った男が襲撃、日本人親子がけが中国人女性1人死亡(>詳細)。
 
NHKニュース(24.11.13)

               
昨日のニュース「中国広東省で乗用車1台暴走、35人死亡、43人けが」。いったいどうやったら1台の乗用車でこれほどたくさんの人が死傷するのか。
閻連科

中国の作家閻連科は2012年にこう書いた。
今の中国ではどんなことも起こり得る

彼は、その翌年出版の小説「炸裂志」で、人口数千人の寒村が開放経済政策で瞬く間に一千万人を超える大都市に変貌した村を舞台に、経済至上主義のもとで、それまで普通だった人々が商品に化し、カネを熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、カネと権力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの富への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を描いた。
昨日のニュースの事件は、この小説の舞台のすぐ隣りの町、同じように開放経済政策で瞬く間に大都市に変貌した珠海で起きた。


その12年前の2001年、彼は、小説「硬きこと水のごとし」で、1966年から10年間続いた中国の文化大革命で献身的な若き革命家が銃殺刑に処せられる目前で語る回想録ーーそれは、政治至上主義のもとで、それまで普通だった人々が政治的人間に変身し、権力を熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、権力と暴力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの権力への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を次のような語り口で描いた。

軽々と目的を達成し、王鎮長を打倒しただけではなく、彼を監獄に送り、彼を現行反革命分子にし、二十年の刑にしたのだ。これは意外なほど簡単で、俺と紅梅は革命の魔力と刺激を心から感じることができ、‥‥そして、どうしてこの時期に、メクラも半身不随も、どんくさい豚も犬のクソ野郎も革命をやりたがり、みんな革命を起こすことができ、みんな革命家になりたいと思い、革命家になることができたのかという根本原因がどこにあるか分かったのだ。

文化大革命も開放経済政策も、それは政治と経済の分野のちがいはあるものの、どちらも人間の欲望をエサにして、社会をとことん作り変えようとする「脳化社会」の実験場だった。その狂走の末に、いま、中国社会はカネと権力が一緒になれば不可能はないと考える、誰一人まともな者はいない「脳化社会」の成れの果てを迎えている。

 いわば暴走する「脳化社会」列車に乗った中国の運転手たちは、今や茫然自失としている。その中にあって、今迎えている「脳化社会」の成れの果てをさらにもう一歩前に出ることをためらわず、やめない人がいる。それが閻連科である。

彼はまるで、かつて際限のない殺戮に陥った宗教戦争の成れの果てに、宗教的寛容という世界最初の人権が出現した人類の奇跡の瞬間を、再び、「脳化社会」の成れの果ての中に見つけ出そうと、気魄をみなぎらせ、掘り進む探求者のようだ。

その中国が開放経済政策でモデルにしたのが日本。その日本に追いつけ、追い越した中国が今迎えた「脳化社会」の成れの果て。そのゴミ屋敷の中で起きた昨日の中国ニュース、それは明日の日本の姿である。つまり日本も、これからどんなことも起こり得る国になる。
しかし、私たち市民が明日のモデルにするのは中国のゴミ屋敷だけではない。それが、「脳化社会」の成れの果てと向き合い、そこから一歩前に出ることをためらわず、やめない人、閻連科の行動である。

私がチェルノブイリ法日本版と取り組むのは「脳化社会」の成れの果てを迎えた日本のゴミ屋敷から一歩前に出るためであるが、閻連科はそのための最良のモデル、そして百年前の魯迅に続いて遭遇した朋輩である(つつしんで老年に告ぐ「老年よ、大志を抱け」)。

 

2024年10月3日木曜日

【第163話】なぜ、人権は発見されなければ分からないのか。なぜ、人権侵害もまた発見されなければ分からないものなのか(24.10.3)

 人々は、つい、人権は法律に書き込まれていれば、存在すると思い込んでいる。しかし、本当にそうだろうか。今まで、人権を見た人は誰もいない。今まで、人権を触ったことがある人は誰もいない。それほど、あやういものが人権。そんな怪しげなものが果して存在することがあるのか。

これまで、いつもこの問いにつまづいてきた。そして、今もつまづく。

以下は3年前、その問いに対する自問自答、つぶやき。今、これを取り出し、再び、つぶやいてみる。

【第73話】市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会の原点(2021.8.23)

2、人権の発見

 (1)、人権は事実として自然に存在しない

人権はこれを保障する憲法が制定されたから私たちの目の前に存在するものではありません。私たちが発見して初めて存在するものです。なぜなら、人権の本質であり出発点である「個人の尊厳」つまり、どんな地位、職業、社会的評価であろうとそれに関係なく、この世に同じ人間は二人といない、ゆえにひとりひとりの存在こそ至高の価値を有し尊い存在なのだという「個人の尊厳」は、事実として自然に存在するものではなく、私たちが「価値」というメガネをかけたとき初めて見出しうるもの、人間が「考える葦」になったとき初めて発見できるものだからです。

 (2)、人権侵害の発見

なおかつ、人権宣言の歴史が教えることは、私たちはいきなり「人権を発見」することができないということです。いつも最初に発見するのは「人権侵害」だからです。
その上、目の前にいくら悲惨な現実を積み上げていったとしも、それで「人権侵害」に辿り着く訳ではありません。「人権侵害」に辿り着くのは、目の前の悲惨な現実に対し、私たちの心の中で「私たちを人間として扱え!」という声が沸きあがったときだからです。その意味で、「人権侵害」も発見するほかないものです。

放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対し、放射能災害における人権保障という観点から救済を定めたのがチェルノブイリ法日本版です。しかし、この法律の意義を理解するためには、放射能による健康被害という現実を「人権侵害」としてとらえることが不可欠です。それは私たちが「考える葦」になったとき初めて発見できるものなのです。

2024年10月2日水曜日

【第162話】9.29チェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で、「原発事故は二度発生する」をめぐる「バカの壁」を突破した経験について(24.10.2)

 【第161話】で、9月29日のチェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で、「バカの壁」を突破する新たな気づきがあったと書いた。以下は、その気づきの中身を述べたもの。

普通、原発事故は一度発生すると思われているが、実は「原発事故は二度発生する」ことをこれまで、折に触れて言ってきた(末尾の文参照)、これが原発事故のエッセンスだ、と。
しかし、それを人々になかなか合点してもらえなかった。
ところが、今回、9月29日のお話会で、少数とはいえ、それが合点する人々が現れた。
それはどうしてか。

思うに、話の最初に、原発事故が何であったのか、その惨劇と犯罪のさまを、まるで昨日の出来事であるかのように、出来る限りリアルに伝える努力をしたからではないか。
それは、レベルは全くちがうが、1967年、大岡昇平が太平洋戦争の天王山とも言うべきレイテ島の激戦を「レイテ戦記」に書いたとき、
私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ八砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。
と述べた姿勢と共通する。

 その訓えに倣って、これから、私は「原発事故は二度発生する」といった原発事故のエッセンスを語るとき、同時に、原発事故の惨劇と犯罪をまるで昨日の出来事であるかのように伝えることに肝に銘じる。

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「原発事故は二度発生する」をめぐるこれまでの文章

なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか--チェルノブイリ法日本版その可能性の中心--(2)原発事故は2度発生する

2、原発事故は2度発生する
 私たちが科学技術によって引き起こされた事故・災害を眺める時に注意すべきことは、事故(災害)は2度発生するということです、

 1度目は「人間と自然との関係」の中で、見込み違いや偶然の要素によって発生し、2度目は「人間と人間との関係」の中、で社会との交渉の段階での世論操作において確固たる必然の要素によって発生します。

 
3.11事件はなんだったのか?――見えない政変とチェルノブイリ法日本版制定――

原発事故は二度発生する
3.11福島原発事故は二度発生した。一度目は「自然と人間の関係」の中で、福島第1原子力発電所の中で、天災などの偶然の要素と科学技術の未熟さ、見込み違いによって発生し、二度目は「人間と人間の関係」の中で、我々の社会の中で、確固たる信念と世論操作に基づいて発生した。だから、二度目の原発事故はもはや単なる事故ではない。それは事故と言うよりむしろ事件と呼ぶのがふさわしい。それが3.11事件である。 

【第161話】9.29チェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で「バカの壁」を突破する新たな気づき(24.10.1)


2024年9月29日午前、浦和駅前の浦和コミュニティセンターで、埼玉リレーカフェ主催のチェルノブイリ法日本版の学習会(お話会)をやりました。58名の方が参加。
               by 藤井 千賀子さん

 午後のアフタートークにも27名が参加。熱心な感想、質疑応答でした。

                by 埼玉リレーカフェ 

この日のお話会で参加者から「311直後のことをまざまざと思い出した」という感想がありました。
それが今回、私が最も願ったことだったので、それを体験した人がいたことは本望でした。私自身、準備の最終段階で、同様の体験に襲われ、以下の感覚が全身に貫いたからです。その時、この感覚こそ至宝、自分が一生手放さず、抱き続ける宝であることを再発見し、確信しました。

福島原発事故は、自分がたとえ鶴や亀のようにこのあと数百年生き長らえたとしても、決して体験できない、異常な事態だった。

「未曾有の異常事態」という認識が、この異常事態とどう向き合うのかという課題を私に授けました。逡巡の中、目の前に現れたのが古代イスラエルの預言者たちでした。彼らは私にその課題の解を授けました。それがふくしま集団疎開裁判、そしてチェルノブイリ日本版でした。

人権も憲法もない古代イスラエル国家の圧制のもとで、思い切り逡巡しながらも、圧制に抵抗して避難(出エジプト)を説き、実行に移したモーセ。「暗い見通しの中で希望を語り続けた」預言者エレミヤたち。 

以下、当日の動画(ただし、冒頭の30分が欠)と配布資料、プレゼン資料、埼玉リレーカフェによる報告。
1、動画



以下の動画は東京から神戸に避難した下澤陽子さん(日本版の会協同代表)のアピールです。柳原の話の中で再生した際に音声の状態が悪かったので、以下の画像をクリックして完全版で聴き直して頂けたら幸いです。

また、話の中で再生した(そして時間の都合上できなかった)避難者の訴えほかの動画は以下。 

郡山から静岡県富士宮市に避難した長谷川克己さんの発言 

山下俊一100μSv/h発言 

福島の子どもたちの避難についてのメッセージ(チョムスキー)

福島の子どもたちの避難についてのメッセージ(キャサリン・ハムネット)

放射能(被爆)についての丸山真男の証言

小児甲状腺がん裁判9月11日の期日、原告の要旨陳述

チェルノブイリ事故の映画「真実はどこに」の冒頭

2、配布資料 
全文PDF>こちら 
または以下の画像をクリック

3、プレゼン資料 
全文PDF>こちら 
または以下の画像をクリック

4、埼玉リレーカフェによる報告こちら


【第160話】「ブックレット」その可能性の中心(1):人権は、どんなに物知りになっても、どんなに情報収集しても、「発見」しない限り永遠に手に入れることはできない。なおかつそれは「人権侵害の発見」を通じてのみ見出される(24.10.1)

 ブックレット「わたしたちは見ている」が人々にもたらす影響のうち、もしポジティブなものがあるとしたらそれは何か。

これについて次の3つが思い浮かび、8月31日の東京港区三田のブックレット出版記念のお話会で話した。

1、人々に新しい気づきを与える可能性
(1)、市民運動を政治・政策ではなく人権から捉え直す。つまり対決ではなく、共存
(2)、人権は人権擁護ではなく、人権侵害を通じて実現される。
(3)、そのやり方は一気に実現するのではなく、一歩前に出るなおかつ永久運動。
      ↑
もっとも、これらは別にブックレットで初めて語ったことではなく、それまでも折に触れて語ってきたもの。
以下では、このうち2番目の「人権が実現されるプロセスとは、人権擁護ではなく、むしろその反対である人権侵害を通じてである」について述べる。

①.8月31日の話の中でこれについて述べたのが動画の以下から。 

 https://youtu.be/U1s4HqmIVPY?t=570



②.2021年11月20日、オンライン・イベント★避難者と語る「今欲しい チェルノブイリ法日本版」★のために準備したプレゼン資料

                この全文PDFはこちら

で述べたもの。ここで述べているのは、
人権は見たり触ったり出来ず、「発見」という経験を通じてしか見つからないのと同様、人権侵害もまた、見たり触ったり出来ず、「発見」を通じてしか見つからないものである。
       ↑
そう思うようになったのは、次のような反省から。

いままで「人権の尊重」などと口にしていながら、「いかにして人権を尊重するのか」その尊重の仕方については、ボーとしていただけで、実は殆ど何も考えてこなかった。この点を改め、初めて、人権の存在のあり方について、次の疑問から考えたことを記したもの。

人を愛する時、その人は目の前に実在するものとして、目に見え、触れることもできる。
だが、これまで、
人権を見た人は誰もいない。
手で触れた人も誰もいない。
人権は愛する人のように存在するものではない。
だとしたら、そのようなものを人はどのようにして愛することができるのか。どのようにして大切にすることができるのか。

以下はそれに対する私の答え。とはいえ、まだ極めて不完全なもの
ただし、少なくとも次の点だけは確実なものとして私の中に定着した。
上のような存在のあり方をする「人権」に対し、私たちは直接「人権」を見たり、あるいは直ちに「人権」を発見することはできない。人権の「発見」に至る道は、むしろ人権の反対命題である「人権侵害」の発見を通じてしかない。それは過去の「人権の発見」の歴史的経験から導かれる。

③.上の②で言ったことは、

人権は目の前に実在するものとして、目に見え、触れること」ができない。
人権は
大地や植物が存在するように存在するものではない。大地も植物も人がいようがいまいが無関係に存在する。しかし、人権は人がいない世界には存在しない。人がいる限りでのみ存在する。なぜなら、人権は「人と人との間」にのみ存在するものだから。
「人と人との間」に存在するものは「関係」である。
ところで、この人と人との「関係」にはピンからキリまで様々な関係が存在する。

このうち、人権という「関係」は、人がただ人であることだけに基づいて認められたものである。
しかし、現実の人間「関係」は、特定の地位、資格、肩書等に基づいて作られている。それゆえ、人権という「関係」は私たちが「発見」して初めて見い出すことができるもの。つまり人権は、人がただ人であることだけで、「人が個人として唯一無二の存在であること」を尊ぶ「個人の尊重」という理念のメガネを通して初めて見い出されるもの。
この意味で、
人権は私たちが「発見」して初めて見い出すことができるもの。
つまり人権は、どんなに物知りになっても、どんなに情報収集しても、「発見」しない限り、永遠に手に入れることはできない。
ところで、
私たちが人権を「発見」するに至る道は、一見奇異に見えるかもしれないが、人権を否定する「人権侵害」の発見を通じてしかない。
          ↓
では、ここでなぜ「人権侵害」を通じてではなく、「人権侵害の発見」を通じてなのか?
          ↑
人権侵害もまた、今まで誰も人権侵害をじかに見た人も、手で触れた人もいない。たとえ人が殺され、いたぶられても、その悲惨な事実を目撃した人は、その悲惨な事実を見たとしても、そこで直ちに「人権侵害」を見たことにはならない。人権侵害も愛する人のように存在するものではないから。
∴人権侵害もまた「発見」するしかない。
          ↓
そこで、いかにして「人権侵害」は発見されるか、それが問題となる。
以下は、その「人権侵害」を発見する過程について、
子ども脱被ばく裁判に即して述べたもの。
すなわち、福島原発事故により福島の子どもたちが無用な被ばくをしたことがいかに深刻な人権侵害であるか、これを発見するために探求した報告(2024年5月19日最高裁アクションの報告集会の中で喋ったもの)。全文PDFこちら


まとめ(私たちの主張)

(1)、はじめに
 自己決定権すなわち「個人に属する事柄について公権力の介入・干渉なしに各自が自律的に決定できる自由」とは実は全ての人権の大前提となるものないしはその不可欠の内容を構成するものである。
なぜなら、古典的な自由権の代表格とされる表現の自由において、人は何を表現するかはもっぱら表現者自身の意思に委ねられ、
(続き)
表現者が決定することが大前提とされているからであり、それは思想信条の自由など他の自由権も同様である。 社会権においても、例えば生活保護は人が自らの意思で申請するかどうかを決定することが大前提とされており、労働基本権も労働者が組合を結成するかは労働者が自らの意思で決定することが大前提である。
(続き)
表現者が決定することが大前提とされているからであり、それは思想信条の自由など他の自由権も同様である。 社会権においても、例えば生活保護は人が自らの意思で申請するかどうかを決定することが大前提とされており、労働基本権も労働者が組合を結成するかは労働者が自らの意思で決定することが大前提である。
(続き)
このように、もともと自己決定権はそれ抜きには人権保障は具体化・現実化しない出発点となるものであったが、 近時、このような枠組みには収まり切れない新たな権利「個人の人格的生存にとって必要不可欠な、自分の生き方を自分自身で選択する権利」として、従来の人権とは別個に、独自の権利として構成されるようになったものである[1]。
(続き)
2023年10月25日、性別変更の手術要件の規定を違憲とした最高裁大法廷判決の中でもこのような意味での自己決定権、すなわち「生殖に関する自己決定権であるリプロダクティブ・ライツ」の重要性が指摘されている。 この意味で、憲法13条の「個人の尊重」とは、「個人の自己決定権の尊重」をうたうものである。
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そして、本件において問題となった、県民の「個人の人格的生存にとって必要不可欠な、自分の生き方を自分自身で選択する権利」とは、福島原発事故という未曾有の原子力災害の危機に直面して、自らの生き方、それは生命・身体の安全を確保するためにいかなる行動を選択したらよいか、死ぬか生きるかを問われるほどの重大な岐路に立った人々の自己決定権がここで問題となったのである。
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言うまでもなく、放射能の素人である県民が原子力災害の危機においてこの自己決定権を適切に行使するためには放射能に関する正確な情報を入手することが必要不可欠だったところ、この不可欠の情報提供の責務を果すために放射線健康リスク管理アドバイザーとして登場した山下俊一の①~⑤の発言により、県民は放射能に関する正確な情報を入手することができず、むしろ彼の不適切な情報を鵜呑みにし、惑わされた結果、多くの県民が被ばくについての警戒心を解いたため、多くの県民とりわけ子どもたち
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が、無用な被ばくを強いられた。
その結果、原子力災害の危機という一大事において、生命・身体の安全を確保するための自己決定権を適切に行使することがかなわず、この意味で、生涯悔やんでも悔やみきれないほどの自己決定権の侵害を余儀なくされたものである。
    

 

【第166話】10.30チェルノブイリ法日本版のさいたまミニ学習会の報告(24.11.18)

 9月29日のチェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で、時間切れのため、日本版の条例案についての話が出来なかった。そこで、それについての補講を、10月30日、少数のメンバーを相手に行なった(ミニ学習会)。 以下がその動画とプレゼン資料。  1、前半(前座) 2、後半(条例...