Translate

2024年10月3日木曜日

【第163話】なぜ、人権は発見されなければ分からないのか。なぜ、人権侵害もまた発見されなければ分からないものなのか(24.10.3)

 人々は、つい、人権は法律に書き込まれていれば、存在すると思い込んでいる。しかし、本当にそうだろうか。今まで、人権を見た人は誰もいない。今まで、人権を触ったことがある人は誰もいない。それほど、あやういものが人権。そんな怪しげなものが果して存在することがあるのか。

これまで、いつもこの問いにつまづいてきた。そして、今もつまづく。

以下は3年前、その問いに対する自問自答、つぶやき。今、これを取り出し、再び、つぶやいてみる。

【第73話】市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会の原点(2021.8.23)

2、人権の発見

 (1)、人権は事実として自然に存在しない

人権はこれを保障する憲法が制定されたから私たちの目の前に存在するものではありません。私たちが発見して初めて存在するものです。なぜなら、人権の本質であり出発点である「個人の尊厳」つまり、どんな地位、職業、社会的評価であろうとそれに関係なく、この世に同じ人間は二人といない、ゆえにひとりひとりの存在こそ至高の価値を有し尊い存在なのだという「個人の尊厳」は、事実として自然に存在するものではなく、私たちが「価値」というメガネをかけたとき初めて見出しうるもの、人間が「考える葦」になったとき初めて発見できるものだからです。

 (2)、人権侵害の発見

なおかつ、人権宣言の歴史が教えることは、私たちはいきなり「人権を発見」することができないということです。いつも最初に発見するのは「人権侵害」だからです。
その上、目の前にいくら悲惨な現実を積み上げていったとしも、それで「人権侵害」に辿り着く訳ではありません。「人権侵害」に辿り着くのは、目の前の悲惨な現実に対し、私たちの心の中で「私たちを人間として扱え!」という声が沸きあがったときだからです。その意味で、「人権侵害」も発見するほかないものです。

放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対し、放射能災害における人権保障という観点から救済を定めたのがチェルノブイリ法日本版です。しかし、この法律の意義を理解するためには、放射能による健康被害という現実を「人権侵害」としてとらえることが不可欠です。それは私たちが「考える葦」になったとき初めて発見できるものなのです。

2024年10月2日水曜日

【第162話】9.29チェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で、「原発事故は二度発生する」をめぐる「バカの壁」を突破した経験について(24.10.2)

 【第161話】で、9月29日のチェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で、「バカの壁」を突破する新たな気づきがあったと書いた。以下は、その気づきの中身を述べたもの。

普通、原発事故は一度発生すると思われているが、実は「原発事故は二度発生する」ことをこれまで、折に触れて言ってきた(末尾の文参照)、これが原発事故のエッセンスだ、と。
しかし、それを人々になかなか合点してもらえなかった。
ところが、今回、9月29日のお話会で、少数とはいえ、それが合点する人々が現れた。
それはどうしてか。

思うに、話の最初に、原発事故が何であったのか、その惨劇と犯罪のさまを、まるで昨日の出来事であるかのように、出来る限りリアルに伝える努力をしたからではないか。
それは、レベルは全くちがうが、1967年、大岡昇平が太平洋戦争の天王山とも言うべきレイテ島の激戦を「レイテ戦記」に書いたとき、
私はこれからレイテ島上の戦闘について、私が事実と判断したものを、出来るだけ詳しく書くつもりである。七五ミリ八砲の砲声と三八銃の響きを再現したいと思っている。
と述べた姿勢と共通する。

 その訓えに倣って、これから、私は「原発事故は二度発生する」といった原発事故のエッセンスを語るとき、同時に、原発事故の惨劇と犯罪をまるで昨日の出来事であるかのように伝えることに肝に銘じる。

*************************
「原発事故は二度発生する」をめぐるこれまでの文章

なぜ今、チェルノブイリ法日本版条例の制定なのか--チェルノブイリ法日本版その可能性の中心--(2)原発事故は2度発生する

2、原発事故は2度発生する
 私たちが科学技術によって引き起こされた事故・災害を眺める時に注意すべきことは、事故(災害)は2度発生するということです、

 1度目は「人間と自然との関係」の中で、見込み違いや偶然の要素によって発生し、2度目は「人間と人間との関係」の中、で社会との交渉の段階での世論操作において確固たる必然の要素によって発生します。

 
3.11事件はなんだったのか?――見えない政変とチェルノブイリ法日本版制定――

原発事故は二度発生する
3.11福島原発事故は二度発生した。一度目は「自然と人間の関係」の中で、福島第1原子力発電所の中で、天災などの偶然の要素と科学技術の未熟さ、見込み違いによって発生し、二度目は「人間と人間の関係」の中で、我々の社会の中で、確固たる信念と世論操作に基づいて発生した。だから、二度目の原発事故はもはや単なる事故ではない。それは事故と言うよりむしろ事件と呼ぶのがふさわしい。それが3.11事件である。 

【第161話】9.29チェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で「バカの壁」を突破する新たな気づき(24.10.1)


2024年9月29日午前、浦和駅前の浦和コミュニティセンターで、埼玉リレーカフェ主催のチェルノブイリ法日本版の学習会(お話会)をやりました。58名の方が参加。
               by 藤井 千賀子さん

 午後のアフタートークにも27名が参加。熱心な感想、質疑応答でした。

                by 埼玉リレーカフェ 

この日のお話会で参加者から「311直後のことをまざまざと思い出した」という感想がありました。
それが今回、私が最も願ったことだったので、それを体験した人がいたことは本望でした。私自身、準備の最終段階で、同様の体験に襲われ、以下の感覚が全身に貫いたからです。その時、この感覚こそ至宝、自分が一生手放さず、抱き続ける宝であることを再発見し、確信しました。

福島原発事故は、自分がたとえ鶴や亀のようにこのあと数百年生き長らえたとしても、決して体験できない、異常な事態だった。

「未曾有の異常事態」という認識が、この異常事態とどう向き合うのかという課題を私に授けました。逡巡の中、目の前に現れたのが古代イスラエルの預言者たちでした。彼らは私にその課題の解を授けました。それがふくしま集団疎開裁判、そしてチェルノブイリ日本版でした。

人権も憲法もない古代イスラエル国家の圧制のもとで、思い切り逡巡しながらも、圧制に抵抗して避難(出エジプト)を説き、実行に移したモーセ。「暗い見通しの中で希望を語り続けた」預言者エレミヤたち。 

以下、当日の動画(ただし、冒頭の30分が欠)と配布資料、プレゼン資料、埼玉リレーカフェによる報告。
1、動画



以下の動画は東京から神戸に避難した下澤陽子さん(日本版の会協同代表)のアピールです。柳原の話の中で再生した際に音声の状態が悪かったので、以下の画像をクリックして完全版で聴き直して頂けたら幸いです。

また、話の中で再生した(そして時間の都合上できなかった)避難者の訴えほかの動画は以下。 

郡山から静岡県富士宮市に避難した長谷川克己さんの発言 

山下俊一100μSv/h発言 

福島の子どもたちの避難についてのメッセージ(チョムスキー)

福島の子どもたちの避難についてのメッセージ(キャサリン・ハムネット)

放射能(被爆)についての丸山真男の証言

小児甲状腺がん裁判9月11日の期日、原告の要旨陳述

チェルノブイリ事故の映画「真実はどこに」の冒頭

2、配布資料 
全文PDF>こちら 
または以下の画像をクリック

3、プレゼン資料 
全文PDF>こちら 
または以下の画像をクリック

4、埼玉リレーカフェによる報告こちら


【第160話】「ブックレット」その可能性の中心(1):人権は、どんなに物知りになっても、どんなに情報収集しても、「発見」しない限り永遠に手に入れることはできない。なおかつそれは「人権侵害の発見」を通じてのみ見出される(24.10.1)

 ブックレット「わたしたちは見ている」が人々にもたらす影響のうち、もしポジティブなものがあるとしたらそれは何か。

これについて次の3つが思い浮かび、8月31日の東京港区三田のブックレット出版記念のお話会で話した。

1、人々に新しい気づきを与える可能性
(1)、市民運動を政治・政策ではなく人権から捉え直す。つまり対決ではなく、共存
(2)、人権は人権擁護ではなく、人権侵害を通じて実現される。
(3)、そのやり方は一気に実現するのではなく、一歩前に出るなおかつ永久運動。
      ↑
もっとも、これらは別にブックレットで初めて語ったことではなく、それまでも折に触れて語ってきたもの。
以下では、このうち2番目の「人権が実現されるプロセスとは、人権擁護ではなく、むしろその反対である人権侵害を通じてである」について述べる。

①.8月31日の話の中でこれについて述べたのが動画の以下から。 

 https://youtu.be/U1s4HqmIVPY?t=570



②.2021年11月20日、オンライン・イベント★避難者と語る「今欲しい チェルノブイリ法日本版」★のために準備したプレゼン資料

                この全文PDFはこちら

で述べたもの。ここで述べているのは、
人権は見たり触ったり出来ず、「発見」という経験を通じてしか見つからないのと同様、人権侵害もまた、見たり触ったり出来ず、「発見」を通じてしか見つからないものである。
       ↑
そう思うようになったのは、次のような反省から。

いままで「人権の尊重」などと口にしていながら、「いかにして人権を尊重するのか」その尊重の仕方については、ボーとしていただけで、実は殆ど何も考えてこなかった。この点を改め、初めて、人権の存在のあり方について、次の疑問から考えたことを記したもの。

人を愛する時、その人は目の前に実在するものとして、目に見え、触れることもできる。
だが、これまで、
人権を見た人は誰もいない。
手で触れた人も誰もいない。
人権は愛する人のように存在するものではない。
だとしたら、そのようなものを人はどのようにして愛することができるのか。どのようにして大切にすることができるのか。

以下はそれに対する私の答え。とはいえ、まだ極めて不完全なもの
ただし、少なくとも次の点だけは確実なものとして私の中に定着した。
上のような存在のあり方をする「人権」に対し、私たちは直接「人権」を見たり、あるいは直ちに「人権」を発見することはできない。人権の「発見」に至る道は、むしろ人権の反対命題である「人権侵害」の発見を通じてしかない。それは過去の「人権の発見」の歴史的経験から導かれる。

③.上の②で言ったことは、

人権は目の前に実在するものとして、目に見え、触れること」ができない。
人権は
大地や植物が存在するように存在するものではない。大地も植物も人がいようがいまいが無関係に存在する。しかし、人権は人がいない世界には存在しない。人がいる限りでのみ存在する。なぜなら、人権は「人と人との間」にのみ存在するものだから。
「人と人との間」に存在するものは「関係」である。
ところで、この人と人との「関係」にはピンからキリまで様々な関係が存在する。

このうち、人権という「関係」は、人がただ人であることだけに基づいて認められたものである。
しかし、現実の人間「関係」は、特定の地位、資格、肩書等に基づいて作られている。それゆえ、人権という「関係」は私たちが「発見」して初めて見い出すことができるもの。つまり人権は、人がただ人であることだけで、「人が個人として唯一無二の存在であること」を尊ぶ「個人の尊重」という理念のメガネを通して初めて見い出されるもの。
この意味で、
人権は私たちが「発見」して初めて見い出すことができるもの。
つまり人権は、どんなに物知りになっても、どんなに情報収集しても、「発見」しない限り、永遠に手に入れることはできない。
ところで、
私たちが人権を「発見」するに至る道は、一見奇異に見えるかもしれないが、人権を否定する「人権侵害」の発見を通じてしかない。
          ↓
では、ここでなぜ「人権侵害」を通じてではなく、「人権侵害の発見」を通じてなのか?
          ↑
人権侵害もまた、今まで誰も人権侵害をじかに見た人も、手で触れた人もいない。たとえ人が殺され、いたぶられても、その悲惨な事実を目撃した人は、その悲惨な事実を見たとしても、そこで直ちに「人権侵害」を見たことにはならない。人権侵害も愛する人のように存在するものではないから。
∴人権侵害もまた「発見」するしかない。
          ↓
そこで、いかにして「人権侵害」は発見されるか、それが問題となる。
以下は、その「人権侵害」を発見する過程について、
子ども脱被ばく裁判に即して述べたもの。
すなわち、福島原発事故により福島の子どもたちが無用な被ばくをしたことがいかに深刻な人権侵害であるか、これを発見するために探求した報告(2024年5月19日最高裁アクションの報告集会の中で喋ったもの)。全文PDFこちら


まとめ(私たちの主張)

(1)、はじめに
 自己決定権すなわち「個人に属する事柄について公権力の介入・干渉なしに各自が自律的に決定できる自由」とは実は全ての人権の大前提となるものないしはその不可欠の内容を構成するものである。
なぜなら、古典的な自由権の代表格とされる表現の自由において、人は何を表現するかはもっぱら表現者自身の意思に委ねられ、
(続き)
表現者が決定することが大前提とされているからであり、それは思想信条の自由など他の自由権も同様である。 社会権においても、例えば生活保護は人が自らの意思で申請するかどうかを決定することが大前提とされており、労働基本権も労働者が組合を結成するかは労働者が自らの意思で決定することが大前提である。
(続き)
表現者が決定することが大前提とされているからであり、それは思想信条の自由など他の自由権も同様である。 社会権においても、例えば生活保護は人が自らの意思で申請するかどうかを決定することが大前提とされており、労働基本権も労働者が組合を結成するかは労働者が自らの意思で決定することが大前提である。
(続き)
このように、もともと自己決定権はそれ抜きには人権保障は具体化・現実化しない出発点となるものであったが、 近時、このような枠組みには収まり切れない新たな権利「個人の人格的生存にとって必要不可欠な、自分の生き方を自分自身で選択する権利」として、従来の人権とは別個に、独自の権利として構成されるようになったものである[1]。
(続き)
2023年10月25日、性別変更の手術要件の規定を違憲とした最高裁大法廷判決の中でもこのような意味での自己決定権、すなわち「生殖に関する自己決定権であるリプロダクティブ・ライツ」の重要性が指摘されている。 この意味で、憲法13条の「個人の尊重」とは、「個人の自己決定権の尊重」をうたうものである。
(続き)
そして、本件において問題となった、県民の「個人の人格的生存にとって必要不可欠な、自分の生き方を自分自身で選択する権利」とは、福島原発事故という未曾有の原子力災害の危機に直面して、自らの生き方、それは生命・身体の安全を確保するためにいかなる行動を選択したらよいか、死ぬか生きるかを問われるほどの重大な岐路に立った人々の自己決定権がここで問題となったのである。
(続き)
言うまでもなく、放射能の素人である県民が原子力災害の危機においてこの自己決定権を適切に行使するためには放射能に関する正確な情報を入手することが必要不可欠だったところ、この不可欠の情報提供の責務を果すために放射線健康リスク管理アドバイザーとして登場した山下俊一の①~⑤の発言により、県民は放射能に関する正確な情報を入手することができず、むしろ彼の不適切な情報を鵜呑みにし、惑わされた結果、多くの県民が被ばくについての警戒心を解いたため、多くの県民とりわけ子どもたち
(続き)
が、無用な被ばくを強いられた。
その結果、原子力災害の危機という一大事において、生命・身体の安全を確保するための自己決定権を適切に行使することがかなわず、この意味で、生涯悔やんでも悔やみきれないほどの自己決定権の侵害を余儀なくされたものである。
    

 

2024年9月2日月曜日

【第159話】ブックレットの「バカの壁」を突破する試み(2024.8.31ブックレット出版記念のお話会)


2024年8月31日、ブックレット「わたしたちは見ている」の「バカの壁」(放射能の危険性や原発事故の救済といった問題を理解しようとしない、したくないと思っている人々の壁)、これを突破する試みに挑戦した。それが、ブックレット出版記念(お知らせ>こちら)でのお話会。

「バカの壁」をどこまで突破できたか、それはこれを聞いた人たちの判断による。
私にとって、311以来(より正確には物心ついてからこの方)、一度も突き詰めてことのなかった「脳化社会と原発事故」という問題について、今まで語ったことのない新しいビジョンを示した。それがどこまでリアリティを持ち得るのか、それはこれから検証していくしかない。
それは私にとって、この夏をかけて取り組んだ甲斐があったテーマ、それを初めて開陳した甲斐のあった一夜だった。

以下、その動画とプレゼン資料と配布資料。



プレゼン資料>全文PDF








 

 

レジメ>全文PDF



 

 

2024年7月27日土曜日

【第158話】「注文の多いブックレット」の価値を発見した2024年7月27日東京新聞の書籍紹介欄(2024.7.27)

私は、宮沢賢治の「注文の多い料理店」の序が好きだ。

わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、ももいろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
 またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗らしゃや、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
 わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、にじや月あかりからもらってきたのです。
 ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりのいくきれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。

ブックレット「わたしたちは見ている」も福島原発事故とチェルノブイリ事故に向き合って、その惨劇ともいうべき現実の前に震えながらも立ち続け、希望と正義を見失うまいとふるえながら立ち続けますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたない、ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはブックレットにそのとおり書いたまでです。そして、ブックレットのいくつかの文章が、読者のすきとおったほんとうのたべものになることを願って、5月に出版した(>出版の報告)。

ただし、このブックレットの読者は、「注文の多い料理店」を訪れたお客のような立場に立たされるので、マスコミはもちろんのこと、多くの人たちにも煙たがられるのを覚悟していた。

その中にあって、ごくごく少数の読者からとはいえ、10冊、50冊と大量の注文がはいったことは、この人たちにとって、ブックレットはすきとおったほんとうのたべものになっているのだという密かな自信を授かった。

そしたら、本日、東京新聞の書籍紹介欄に、ブックレットとしてはおそらく破格の扱いで、このブックレットが紹介された。その紹介文もただのうわべの要約にとどまらない、ブックレットの核心に迫るもの、つまりすきとおったほんとうのたべものだった。

「注文の多い料理店」がそうだったように、こうして一歩ずつ、ブックレットの価値を発見する読者が出現することこそ、私たちが心から望んでいることです。


 

 



【第157話】住まいの権利裁判で、原告Aさんの心情を訥々と訴える意見陳述、本人もこれで一歩前に出ることができたという、その動画

 7月22日14時から、東京地裁大法廷で、住まいの権利裁判の10回目の弁論を実施。
この日、原告のAさんが、311後の避難生活の中での生活再建の大変さ、それに対する被告福島県の何も寄り添わない残忍な対応振りを、訥々と訴える意見陳述をした。
以下は、裁判のあとに再度、読み上げたものを録音した動画(意見陳述原稿は>こちら)。



原告A本人は、最初、裁判官の前での意見陳述をものすごく恐れていたと言う。紆余曲折を経て、意見陳述する覚悟を決め、準備をし、本番で話してみて、それが自分にとってどれくらい良かったか、納得がいったか、実際にやってみて初めて分かったという。まさに、彼女も実行してみて、確実に一歩前に出た。
以下は、そのことを語った、裁判直後の報告集会での彼女の発言の動画(UPLAN提供)。

【第163話】なぜ、人権は発見されなければ分からないのか。なぜ、人権侵害もまた発見されなければ分からないものなのか(24.10.3)

 人々は、つい、人権は法律に書き込まれていれば、存在すると思い込んでいる。しかし、本当にそうだろうか。今まで、人権を見た人は誰もいない。今まで、人権を触ったことがある人は誰もいない。それほど、あやういものが人権。そんな怪しげなものが果して存在することがあるのか。 これまで、いつも...