人々は、つい、人権は法律に書き込まれていれば、存在すると思い込んでいる。しかし、本当にそうだろうか。今まで、人権を見た人は誰もいない。今まで、人権を触ったことがある人は誰もいない。それほど、あやういものが人権。そんな怪しげなものが果して存在することがあるのか。
これまで、いつもこの問いにつまづいてきた。そして、今もつまづく。
以下は3年前、その問いに対する自問自答、つぶやき。今、これを取り出し、再び、つぶやいてみる。
【第73話】市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会の原点(2021.8.23)
2、人権の発見
(1)、人権は事実として自然に存在しない
人権はこれを保障する憲法が制定されたから私たちの目の前に存在するものではありません。私たちが発見して初めて存在するものです。なぜなら、人権の本質であり出発点である「個人の尊厳」つまり、どんな地位、職業、社会的評価であろうとそれに関係なく、この世に同じ人間は二人といない、ゆえにひとりひとりの存在こそ至高の価値を有し尊い存在なのだという「個人の尊厳」は、事実として自然に存在するものではなく、私たちが「価値」というメガネをかけたとき初めて見出しうるもの、人間が「考える葦」になったとき初めて発見できるものだからです。
(2)、人権侵害の発見
なおかつ、人権宣言の歴史が教えることは、私たちはいきなり「人権を発見」することができないということです。いつも最初に発見するのは「人権侵害」だからです。
その上、目の前にいくら悲惨な現実を積み上げていったとしも、それで「人権侵害」に辿り着く訳ではありません。「人権侵害」に辿り着くのは、目の前の悲惨な現実に対し、私たちの心の中で「私たちを人間として扱え!」という声が沸きあがったときだからです。その意味で、「人権侵害」も発見するほかないものです。
放射能による健康被害という未曾有の惨禍に対し、放射能災害における人権保障という観点から救済を定めたのがチェルノブイリ法日本版です。しかし、この法律の意義を理解するためには、放射能による健康被害という現実を「人権侵害」としてとらえることが不可欠です。それは私たちが「考える葦」になったとき初めて発見できるものなのです。
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