ブックレット「わたしたちは見ている」が人々にもたらす影響のうち、もしポジティブなものがあるとしたらそれは何か。
これについて次の3つが思い浮かび、8月31日の東京港区三田のブックレット出版記念のお話会で話した。
1、人々に新しい気づきを与える可能性
(1)、市民運動を政治・政策ではなく人権から捉え直す。つまり対決ではなく、共存。
(2)、人権は人権擁護ではなく、人権侵害を通じて実現される。
(3)、そのやり方は一気に実現するのではなく、一歩前に出るなおかつ永久運動。
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もっとも、これらは別にブックレットで初めて語ったことではなく、それまでも折に触れて語ってきたもの。
以下では、このうち2番目の「人権が実現されるプロセスとは、人権擁護ではなく、むしろその反対である人権侵害を通じてである」について述べる。
①.8月31日の話の中でこれについて述べたのが動画の以下から。
https://youtu.be/U1s4HqmIVPY?t=570
②.2021年11月20日、オンライン・イベント★避難者と語る「今欲しい チェルノブイリ法日本版」★のために準備したプレゼン資料
で述べたもの。ここで述べているのは、
人権は見たり触ったり出来ず、「発見」という経験を通じてしか見つからないのと同様、人権侵害もまた、見たり触ったり出来ず、「発見」を通じてしか見つからないものである。
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そう思うようになったのは、次のような反省から。
いままで「人権の尊重」などと口にしていながら、「いかにして人権を尊重するのか」その尊重の仕方については、ボーとしていただけで、実は殆ど何も考えてこなかった。この点を改め、初めて、人権の存在のあり方について、次の疑問から考えたことを記したもの。
人権を見た人は誰もいない。
手で触れた人も誰もいない。
だとしたら、そのようなものを人はどのようにして愛することができるのか。どのようにして大切にすることができるのか。
以下はそれに対する私の答え。とはいえ、まだ極めて不完全なもの。
ただし、少なくとも次の点だけは確実なものとして私の中に定着した。
上のような存在のあり方をする「人権」に対し、私たちは直接「人権」を見たり、あるいは直ちに「人権」を発見することはできない。人権の「発見」に至る道は、むしろ人権の反対命題である「人権侵害」の発見を通じてしかない。それは過去の「人権の発見」の歴史的経験から導かれる。
人権は「目の前に実在するものとして、目に見え、触れること」ができない。
人権は大地や植物が存在するように存在するものではない。大地も植物も人がいようがいまいが無関係に存在する。しかし、人権は人がいない世界には存在しない。人がいる限りでのみ存在する。なぜなら、人権は「人と人との間」にのみ存在するものだから。
「人と人との間」に存在するものは「関係」である。
ところで、この人と人との「関係」にはピンからキリまで様々な関係が存在する。
しかし、現実の人間「関係」は、特定の地位、資格、肩書等に基づいて作られている。それゆえ、人権という「関係」は私たちが「発見」して初めて見い出すことができるもの。つまり人権は、人がただ人であることだけで、「人が個人として唯一無二の存在であること」を尊ぶ「個人の尊重」という理念のメガネを通して初めて見い出されるもの。
この意味で、人権は私たちが「発見」して初めて見い出すことができるもの。
ところで、
以下は、その「人権侵害」を発見する過程について、子ども脱被ばく裁判に即して述べたもの。
すなわち、福島原発事故により福島の子どもたちが無用な被ばくをしたことがいかに深刻な人権侵害であるか、これを発見するために探求した報告(2024年5月19日最高裁アクションの報告集会の中で喋ったもの)。全文PDF>こちら
まとめ(私たちの主張)
(1)、はじめに
自己決定権すなわち「個人に属する事柄について公権力の介入・干渉なしに各自が自律的に決定できる自由」とは実は全ての人権の大前提となるものないしはその不可欠の内容を構成するものである。
なぜなら、古典的な自由権の代表格とされる表現の自由において、人は何を表現するかはもっぱら表現者自身の意思に委ねられ、
(続き)
表現者が決定することが大前提とされているからであり、それは思想信条の自由など他の自由権も同様である。社会権においても、例えば生活保護は人が自らの意思で申請するかどうかを決定することが大前提とされており、労働基本権も労働者が組合を結成するかは労働者が自らの意思で決定することが大前提である。
(続き)
表現者が決定することが大前提とされているからであり、それは思想信条の自由など他の自由権も同様である。社会権においても、例えば生活保護は人が自らの意思で申請するかどうかを決定することが大前提とされており、労働基本権も労働者が組合を結成するかは労働者が自らの意思で決定することが大前提である。
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このように、もともと自己決定権はそれ抜きには人権保障は具体化・現実化しない出発点となるものであったが、近時、このような枠組みには収まり切れない新たな権利「個人の人格的生存にとって必要不可欠な、自分の生き方を自分自身で選択する権利」として、従来の人権とは別個に、独自の権利として構成されるようになったものである[1]。
(続き)
2023年10月25日、性別変更の手術要件の規定を違憲とした最高裁大法廷判決の中でもこのような意味での自己決定権、すなわち「生殖に関する自己決定権であるリプロダクティブ・ライツ」の重要性が指摘されている。この意味で、憲法13条の「個人の尊重」とは、「個人の自己決定権の尊重」をうたうものである。
(続き)
そして、本件において問題となった、県民の「個人の人格的生存にとって必要不可欠な、自分の生き方を自分自身で選択する権利」とは、福島原発事故という未曾有の原子力災害の危機に直面して、自らの生き方、それは生命・身体の安全を確保するためにいかなる行動を選択したらよいか、死ぬか生きるかを問われるほどの重大な岐路に立った人々の自己決定権がここで問題となったのである。
(続き)
言うまでもなく、放射能の素人である県民が原子力災害の危機においてこの自己決定権を適切に行使するためには放射能に関する正確な情報を入手することが必要不可欠だったところ、この不可欠の情報提供の責務を果すために放射線健康リスク管理アドバイザーとして登場した山下俊一の①~⑤の発言により、県民は放射能に関する正確な情報を入手することができず、むしろ彼の不適切な情報を鵜呑みにし、惑わされた結果、多くの県民が被ばくについての警戒心を解いたため、多くの県民とりわけ子どもたち
(続き)
が、無用な被ばくを強いられた。
その結果、原子力災害の危機という一大事において、生命・身体の安全を確保するための自己決定権を適切に行使することがかなわず、この意味で、生涯悔やんでも悔やみきれないほどの自己決定権の侵害を余儀なくされたものである。
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