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2023年2月23日木曜日

【第101話】光を理解するには闇の中から光を見つけ出すしかないことを教えてくれた、99歳肥田舜太郎との出会い(2023.2.23)

                (自問自答‥‥の投稿)

        95歳肥田舜太郎&映画監督マーク・プティジャン(2012年)

311後にいろんな医療関係者の人と知り合った。その中で最も強烈な印象だったのが肥田舜太郎さん。直接お目にかかったのは2012年に浦和のご自宅を訪問した時1回きり。けれど、なぜか強烈な印象が残った。

それから10年経ち、ようやくその訳が分かったような気がした。それは、つい最近、まつもと子ども留学の理事会に松本市に行った折、理事の橋本俊彦さんから「これ、よかったら」と快医学ネットのブックレットを貰った、それが肥田舜太郎さん99歳の最後のインタビュー記事「自分がいのちの主人公になる」だった。


それを読み、最初から、がつんと頭を殴られるような衝撃だった。99歳になっても、まるで昨日のことのように鮮明に、この時の経験を語るその語り。それは彼が広島原爆投下で経験したことを語る次の語りだった。

 今まで医学で習ってきた死に方とちがう人たちが目の前でどんどん死んでいった。

 その時、初めて分かった――自分の知っている医学は本物じゃない、と。

目の前で、原因が分からず死んでいってしまう、そっちのほうが事実。その事実に医者としてぶつかって、なんで死ぬのか、どこが悪くて死んでいくのか全然分からない。それを助けなきゃならない。

でも俺にはわかんないよなんて言えないから、わかったような顔をして、どんどん死んでちゃう。そういう時に医者であるっていうことが本当に恨めしくなりましたね。

その立場にぶつかって、もう自分が今まで習ってきた医学が全く役に立たない。何が原因で死んでいくのか自分で見つけなけりゃなんない。

その中で、アメリカで「内部被ばく」という問題があることに初めて気がついた。

 これを読んだ瞬間、自分の問題の本質が分かった気がした。私も、自主避難者の仮設住宅追出し裁判に関わってみて、これとほぼ同じ体験をしたことに気がついたからだ。

 今まで法律で習ってきた紛争とちがう紛争で目の前で避難者がどんどん追い詰められていく。

 その時、初めて分かった――自分の知っている法律は本物じゃないんじゃないか、と。

目の前で、原因が分からず追出されていってしまう、そっちのほうが事実。その事実に弁護士としてぶつかって、法律的になんで追出されるのか、どこが悪くて追出されいくのか実は分からない。それを助けなきゃならない。

でも俺にはわかんないよなんて言えないから、わかったような顔をして、どんどん追い出されていっちゃう。そういう時に弁護士であるっていうことが本当に恨めしくなった。

その立場にぶつかって、もう自分が今まで習ってきた法律が全く役に立たない。何が原因で追い出されなければいけないのか自分で見つけなけりゃなんない。

その中で、国外に「国際人権法」という問題があることに初めて気がついた。

それは、私自身が法律家として過去に経験したことのないような「躓きの石」だった。

その根本の原因は、福島原発事故が過去に経験したことがないような未曾有の過酷事故で、日本の法律の体系の中に、この過酷事故に匹敵するような備えが全くなかったからだ。しかし、専門家としてのプライドのせいもあり、多くの法律家はそのことを率直に、正面から認めることができず、いろんな屁理屈をこねて原発事故の未曾有の新しさから逃げてきた。その最大の逃亡者が福島県と福島地裁の裁判官たち。
だが、実は私も似たような立場だった。

だから、2年前、「国際人権法」という問題に出会った時、最初、その中身を伝えることに必死だったが、今振り返ってみて、それと同時に、なぜ今、「国際人権法」という問題が重要なのか?、その訳をしっかり伝えることがまず最初にものすごく重要な課題だと痛感している。なぜなら、いま、ここで「国際人権法」という問題が重要であるという自覚がない人たちが裁判官をはじめ、殆んどの人がそうだから。その自覚にめざめて、初めて、「国際人権法」という問題に取り組もうという気持ちになるから。
今回の高裁の取り組みでもそこからスタートしなければならない、と。

初めから、いきなり「内部被ばく」という重要な問題がありますといくら強調しても、内部被ばくの問題の重要性は伝わらない。そのためには、肥田舜太郎さんが苦渋の体験の末に、未知との遭遇として「内部被ばく」という問題の重要性を自覚する必要がある。

それは「国際人権法」という問題の重要性でも同様だ。いくら「国際人権法」の重要性を強調しても、それは伝わらない。そのためには、肥田さんが辿ったように、私たちも同様のプロセスを経て、未知との遭遇として「国際人権法」という問題の重要性を自覚する必要がある。

そのためには、

まず、目の前で起きている福島原発事故の未曾有の新しさ、そしてそのために避難した人たちの未曾有の苦しみ、その事実と向き合うことが最初の最も重要な事実。

そのために、改めて、被告の避難者が経験しなければならなかった苦しみを裁判所に伝えることが不可欠。

それがきちんと伝えられて初めて、この人たちの救済がやっぱり必要という自覚が生まれ、同時に、日本の法律にこれに応えるような法律の体系がないこと、つまり、法の穴(=法の欠缺)という発見につながり、そのひどい法の穴を、何とかして穴埋めしなくてはという自覚のもとで、そこから、穴埋めとして「国際人権法」を救済の啓示として受け止めることができるようになる。

高裁の裁判官たちにも、このプロセスを追体験してもらう、踏んでもらう必要がある。

これで今の自分に必要な次の2つが完結した--一方で徹底した形式主義を追求する「純粋法学」の取り組みと、他方で、徹底した現実凝視を追及する「純粋紛争学」の取り組みの両輪が不可欠だということ。

         肥田舜太郎「自分のいのちの主人公になる



【第100話】歩くチェルノブイリ法日本版、関久雄さんとの出会い(2023.2.23)

 福島県二本松市の関久雄さんとは、2011年5月22日、郡山市でやった「こども福島の準備会」で出会って以来の知り合いだ(あの場にはその後、より知り合うことになる沢山の人たちが参加していた)。

昨年10月8日、まつもと子ども寮がある長野県松本市四賀地区で快医学ネットの講座があり、二本松市から来た関久雄さんと寝る部屋もずっと一緒だった。

泊まった夜、子ども寮で快医学ネットのメンバーと食事していたら、(どうも恒例らしく)関さんの弾き語りとなり、快医学ネットのメンバーと前日即席で作った、エレクトーンとバイオリンの豪華が演奏が始まった。
同席した快医学のメンバーのせいなのか、この時の関さんは私がそれまで見て知っていた彼とは別人のようだった。全身解放されて、心ゆくまで歌を楽しむ、とても味わい深いライブで、正直、「オレはこれまで関さんのことを全く分っていなかったんじゃないか」と我ながら思ったほどだった。  

そしたら、翌日、講座の会場で、関さんが私に「これ、プレゼント」と本をくれた。それが、
なじょすべ: 詩と写真でつづる3・11


奥付を見て、彼が私と同年生まれと分り、生まれた場所やその頃の話を聞いたら、岩手県盛岡の北の開拓部落出身で、戦争帰りの親父が戦後、労働組合運動に飛び込んで、会社から解雇され、それで、出稼ぎ生活をする中で、出稼ぎ先で蒸発してしまった。それで、中学から働きながら学校に通う生活が始まった。
大学も昼間働き、夜通う夜学生。昼間から学校に通えた自分とは何という違いなんだろうと思った。

その時、彼がずっと自分の人生を語るのを聞き、これはオレが知っていると思っていた関さんじゃない、彼は大地に這いつくばって生きてきたことを初めて知った。彼が書いた詩は、みんな事故後に初めて書いたこともこの時知った。
私自身、大昔、それまで詩なんて書けないと思っていた自分が、或る時から突然詩を書くようになった経験をしたので、関さんが詩を書き始めた時の心境がなんだか少し分るような気がして感動した。
それは、生活する人、こつこつ生きている人が、苦しみの中から嘆きと希望が交錯する中で、言わずにおれない言葉をつむぎ出している、地味だけれど、読む者の心にどっしり響くものがあった。 

例えば、母子避難についていかず、二本松に残った息子から「オヤジ、やめて!」となじら
れた歌。

いい年、と言われても
https://johnny311.exblog.jp/19246662/

その息子から、布団を干してくれて、ありがとうと感謝された時の歌。

2年6ヶ月のふとん干し
https://johnny311.exblog.jp/19834791/

 これらの詩を彼が朗読するのを聞き、彼こそ、311以後「福島原発事故の被ばく者の心を歌った詩人」だと思った。

これに対し、或る人は「なあに、プロの歌手のような声量もないじゃない」となじるかもしれない。 確かにそうかもしれない。だが、それがどうしたというのだ。むしろそうであるがゆえに、彼のような歌こそ、これを聴いた人たちが「このへたくその歌こそ俺たちの歌だ!」と感じることができる。それがスゴイことだ。 

311後に、放射能にいじめられ、その上、国にも福島県にも東電にもいじめられ、それで「なじょすべ」と悲嘆にくれながら、それでもなお、言わずにおれないことを言い続け、行動しないでおれないことを行動に移す。この面魂(つらだましい)こそ、チェルノブイリ法日本版のエッセンス。
歩いて歩いて歩き続ける、歩くチェルノブイリ法日本版。

そのような彼の言葉、彼の行動を見た人、聞いた人は「このへたくその言葉、へたくその行動、これこそ俺たちのことだ!」ときっと感じることができる。
彼こそ、311以後「チェルノブイリ法日本版の魂を歌った詩人」。そう思った。 

       「歩いても歩いても


2023年2月22日水曜日

【第99話】2023.2.12子ども脱被ばく裁判・判決前アクション第2弾(第1部映画「かくれキニシタン」上映。第2部原告、避難者、残留者が語る「12年目の福島」)(2023.2.21)

2023年2月12日に、子ども脱被ばく裁判の判決前集会を東京都港区田町のリーブラホールで開催。
311以来12年の逆流の歳月に洗われ、今、福島の人たちの珠玉の声、詩、歌がよみがえる。

前座:事前の楽屋裏の話
企画者(柳原敏夫)から、ゲストの3人に宛てたメッセージ。

私の独断で恐縮です、私が希望する当日のテーマは以下です。
福島原発事故から11年以上経過し、多くの人たちは、漠然と、福島原発事故はもう終わった過去の出来事であるかのように感じている。しかし、原発事故を従来型の災害の延長線上で考える見方が根拠のないただの幻想であって、原発事故の影響(身体と心の健康影響・病気の発症)は今なお現在進行形であるという認識を持ってもらいたい、その認識を新たにしてもらうために、3人の皆さんからお話して頂けたらと希望しています。 「認識は悲観的に、行動は楽観的に」が私のモットーで、まずは、今の世に広まっている、10年余りの時間の経過でもう福島原発事故の影響は終わっただろうというお目出たい楽観主義に頭から冷水を浴びせるよう、新たな認識をもたらしてもらうことを願っています。 それは、例えば、昨年暮れ、橋本俊彦さんが「宮城県丸森町の奇形の干し柿のニュースを、福島の人たちは話題にすらしない(したくない)という態度を取る」と仰ったのを聞き、福島県民の心根のなまの部分に触れた気がして、正直、戦慄が走りました。こういうお話がとても大切で、こういうお話をして
頂けたらというのが率直な希望です。 その点で、これまで、健康影響と言うと、甲状腺がんとか、白血病、糖尿病といった身体の病気が問題にされて来ましたが、この間、原発事故は終わった、健康影響の問題はないと安全神話を押し付けられてきた福島県内に住む県民の心はグチャグチャになってしまってるのではないか、その心の傷の深さが身体の病気以上に深刻な問題ではないかと感じています。 精神科医の蟻塚亮二さんの本「沖縄戦と心の傷」にもそのことが率直に書かれていて、この心の傷についても、皆さんが見聞した事実を差し支えない範囲で(個人情報を秘して)お話して頂けたら幸いです。 以上がメインの話題です。が、これを徹底してやると本当に気が狂うほど滅入ります、だからこそ「認識は悲観的に、行動は楽観的に」で、第二部的な意味で、「行動は楽観的に」のアクションもお願いしたいというのが、私の欲張りメニューです。 つまり、悲観的な認識があってこそ、楽観的な行動をリアルに受け止められるので、最初からただ楽観的なことをやっても、極楽トンボみたいにしかならない、それが私の独断的なスタンスです。

 第1部:映画「隠れキニシタン」上映    
上映前の監督関久雄さんのお話(予告編→こちら)

 

第2部 福島の今を語る
1. 子ども脱被ばく裁判の最新情報とその意義(プレゼン資料のPDF→こちら
 弁護団 柳原敏夫



2. 橋本俊彦さんのお話(子ども脱被ばく裁判・原告/まつもと子ども留学基金理事)

橋本さんは、311後、三春町から東京→長野県松本に避難・移住。311以後今日までずっと、福島に通い、伝統医学・自然医学・近代医学の良いところを組み合わせた健康相談を実施。

上記の事前打合せのメッセージに対し、以下の、印象に残るコメントを寄せてもらった。

先日、震災直後、都内に一家で避難したMさんが、
当時の想いをいまだに素直に言葉にできない
と言っていたことが印象に残っています。 時に身体レベルに記憶された表現されなかった想いは、 さまざまな症状となり出現することがあります。 福島での健康相談では、同じような病態・症状であっても 質量の違いを感じることが少なくなくありません、重いのです。

  

3. 星ひかりさんの詩の朗読と歌(避難者/詩人/ NPO法人ライフケア理事)

星ひかるさんは、 311後、郡山から東京→長野県安曇野に避難・移住。ふくしま集団疎開裁判の2011年10月15日の郡山デモに参加、スピーチをされた(その動画→こちら

あれから12年、その間「とにかく子どもを守る」それだけを考え、行動してきた星さん。しかし、避難の権利が保障されない生活の中で精神的にも追い込まれ、言葉を失い‥‥そこから再び、言葉を出す(詩を書く)ことを通じて何とか自分を少しずつ取り戻していった日々。



4、関久雄さんの歌・詩の朗読(福島二本松在住/詩人/NPO法人ライフケア代表理事)

関さんとは311直後の「こども福島」の準備会の時以来の知り合いだ。なのに、つい最近まで、彼のことを何も知らなかった。昨秋、長野県松本市の「まつもと子ども留学基金」で彼と同宿し、その時、彼が長野県が生んだ異能の法学者戒能通孝の最高傑作「小繋事件三代にわたる入会権紛争」(岩波新書)の舞台となった岩手県小繋山の近くの開拓部落出身だったこと、それゆえ大変な辛酸をなめて成人したこと、横浜で無農薬八百屋をやっている時、チェルノブイリ事故で野菜が汚染され商売が大打撃を受けたこと(なおかつ25年後には「二重被ばく」)、その数々の逆境の人生を知り、初めて関さんと知り合うことができたと思った。以下は、彼の詩(その詩集は->こちら)の中でも彼の心根が私にとりわけ伝わった詩。

      「2年6ヶ月のふとん干し

お日さまを いっぱいにあびた 
ふわふわの 布団

干してくれたんだ ありがとう お父さん
いい においがする 今夜は気持ちよく  眠れそう
でも なんで 外に出したの
放射能は だいじょうぶなの

うーん カビくせえのに 耐え切れんでな
風もなくて お天気良くてなあ
えーい いいや と 外に出したのさ
2年6ヶ月ぶりに 物干し出して
ふいてさ 布団 干したのさ

それから マスクして 掃除して 
カビた たたみも 雑巾がけしてな
窓も 戸も 玄関も み~んな開けた
風が おもてから裏へ おだやかに 抜けてなあ
ほんとに 気持ち 良かった
あぐらくんで 風に あたりながら 
ふとん干しはお父さんの 仕事だったなあって
思い出したら  涙 出た

今夜の 布団には 
セシウムが くっついているかも しんねえ
心配だったら マスクして寝れば 大丈夫
はは これは 冗談 
だども
やっぱし 出ること 考えねば なんねえ
こんなこと いつまでも 続けられねえしな

(2013.10.7)

 

 5. パネルディスカッション&会場との質疑応答
 橋本俊彦さん・関久雄さん・星ひかりさん・光前幸一さん(子ども脱被ばく裁判弁護団)・司会 柳原敏夫


 
 

【第98の2話】追出し裁判の1.13福島地裁判決に対する「弁護団の声明」(2023.1.16)

以下は、1月13日に、訴訟手続の停止に関する民事訴訟法の大原則を踏みにじって言渡された(その理由はー>こちらを参照)避難者追出し裁判の福島地裁判決に対する被告弁護団の声明です。

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              弁護団の声明
                            2023年1月16日
――「判決の体裁さえ放棄したエセ判決文」から「裁判を受ける権利」を取り戻すために――
1、概要
2023年1月13日、福島地裁は避難者追出し裁判の判決言渡しを行い、共同通信、NHKが速報として報道しました。しかし、この報道は判決のうわべをなぞったものでしかなく、何がこの裁判で問われたのか、何が判決で明らかにされたのか、その一番肝心な点は何ひとつ報じられませんでした。
まず、そもそもこの判決言渡し自体が民事訴訟法違反に違反した無効な行為です。なぜなら、被告らは昨年10月、裁判官の忌避申立を行い、この忌避申立は現在、最高裁に係属中で、民事訴訟法26条によって福島地裁は訴訟手続の停止を命じられていたからです。被告らは判決言渡しの前日、裁判所に法令遵守を求める警告文書を出しました。しかし、裁判所はこれを無視してコンプライアンス違反の無法行動に出ました。これは法治国家の自殺行為であり、その最大の被害者は被告ら福島原発事故の避難者です。
次に、この裁判の一番肝心な点とは――私たち被告らの次の主張、すなわち被告らには居住権が保障されており、追出しに応ずる義務はないこと、その居住権の最大の根拠は①国際人権法と②裁量権の逸脱濫用にある。この一番肝心な点に対し裁判所はせめて何か屁理屈でもこねて理由を書いてくるかと思いきやそれすらせず、13日の判決はこの肝心な問題を指一本検討、応答しないまま被告らの主張を退ける結論を引き出しました。これは「100%理由なしの結論だけ」の結論先取り判決、ウルトラ全面的開き直りの判決、門前払いですらない「判決の体裁さえ放棄したエセ判決文」と呼ぶほかない、過去に前例のない異常極まりない「判決もどき」でした。
こうした手続的にも内容的にもコンプライアンス違反の判決を断じて認めるわけにはいきません。
私たちは、控訴審で被告らに保障された「裁判を受ける権利」を行使して、高等裁判所に福島地裁のごとき「裁判の拒絶」をさせず、被告らの居住権の正当性をさらに手厚く論証して、裁判所をして、もし不当な福島県の追出し請求を追認する判決を書こうものなら国民全体から総スカンを食らうのではないかと戦慄せしめるまで引き続き裁判の準備に励む所存です。

2、詳細
ところで、これがなぜ前代未聞の「判決もどき」と評されるほど異常なものなのか、その点を合点するためには、まず、本来の裁判手続と本来の判決の形式・方法がどのようなものであるのか、そこに込められた基本理念がどんなものであるのかを理解しておくことが必要です。以下、この基本理念について概要をお伝えします。

(1)、裁判の意義と「裁判を受ける権利」の意義
 日ごろは余り考えませんが、裁判というのは考えると実に恐ろしい制度です。なぜなら、裁判手続は、その手続をきちんと順番通り踏んでいくと、最後に正しい答えが出るように用意周到に組み立てられた、他の国家制度に比べるものがないほど考え抜かれた制度だからです。つまり、経済的、社会的に対等な当事者間で発生した紛争の解決を求めて裁判を起こした場合、裁判手続は、それが正義公平にかなった解決が引き出せるように、数百年に及ぶ長年の経験に学んで最も有効なやり方を採用したものだからです。それは、
第1に、当事者の主張を尽くさせて、何が彼らの間の紛争の争点であるかを争点整理するために、例えば相手の主張を否定・争う場合にはその理由を明らかにするよう求められます(言いっぱなしは許されない)。いわばお互いの主張をキャッチボール(対話)する中で、おのずと紛争の核心があぶりだされるように手続が組み立てられている。これが争点整理の手続です。
第2に、この争点整理をしっかりやった上で、そこで核心と判明した争点について必要な証拠調べを集中して実施する。これが集中証拠調べの手続です。
第3に、以上の審理(主張の争点整理と集中証拠調べ)の結果から結論を論証(証明)するのが判決文です。従って、判決文では必ず結論を導いた理由を論証して明らかにする必要がある。審理結果という材料からゴールを論証(証明)するという方法、この論証という方法こそ適正な判決を担保する生命線となる極めて重要な方法です。
紛争の中で市民の人権を守るには、以上のような考え抜かれた手続、論証方法による裁判手続を通じて解決するのがいちばん有効な手段であると長年の経験から引き出し、そこで、憲法32条で、市民に「裁判を受ける権利」を保障しました。だから、基本的人権が絵に描いた餅にならないように、基本的人権が侵害された時にこれを回復する不可欠の方法として「裁判を受ける権利」が存在するのです。その意味で、「裁判を受ける権利」とは、「基本的人権の死命を制する」最も重要な基本的人権なのです。
ところが、先に結論を言うと、13日の判決は、正義公平にかなった解決を引き出すよう組み立てられたこれらの裁判手続をすべて無視、すっ飛ばすという、唖然とするほかない、異常な判決だったのです。その結果、憲法が保障した被告らの「裁判を受ける権利」は無残に踏みにじられました。

(2)、訴訟手続の打ち切りの強行とこれに対する抵抗
 (1)の第1と第2で述べた「主張の争点整理と集中証拠調べ」を求めて、私たち被告は福島地裁に、その実行を要求しました。なぜなら、原告福島県は、私たち被告の①国際人権法と②裁量権の逸脱濫用に関する詳細な主張に何ひとつまともな応答をせずボイコットしたため、争点整理が全く進まなかったからです。しかし、福島地裁は「弱きを挫き、強きを助ける」態度で、福島県はボイコットしたままでよいと優しく丁重に扱い、争点整理しないまま審理の打切りを宣言し、昨年7月26日、被告らが申請した6名の証人全員を却下し、終結を強行しました。
その後、被告らは、昨秋訪日し、福島原発事故の避難者の人権状況を調査したダマリー国連特別報告者がこの裁判に対し「賛成できない。避難者への人権侵害になりかねない」と論評した事実に基づき、ほったらかしの争点整理と却下した6名の証拠調べによる徹底的な真相解明を求め、10月21日、弁論の再開を求めました。しかし、裁判所はこれを無視、10月27日に判決言渡しを強行する構えだったので、被告らは憲法で保障された「裁判を受ける権利」を守るため、やむなく、10月25日、裁判官の交替を求める裁判官忌避申立という抵抗権の行使に出ました。しかし、福島地裁は、この忌避申立が最高裁に係属中にもかかわらず、昨年末に1月13日の判決言渡しを通告し、その判決期日受書を出せ(つまりこの違法行為を被告も追認しろ)と再三要求してきました。被告らはこの無法者の無法行為を断じて認める訳にはいかず、不服従の態度を示すため、1月13日の判決言渡しの前日、コンプライアンス違反である判決言渡しを即時に停止するよう求める警告文書を提出しました。しかし、無法行為を屁とも思わない福島地裁は、13日、主文を読み上げる裁判長の声が聞き取れないほどか細い声で、民事訴訟法を踏みにじる判決言渡し行為に出たのです。

(3)、メディアに配布された判決全文のスカスカの中身(その1)
 違法な判決言渡しに服従しなかった被告らはメディアから、彼らに配布された判決全文の内容を知りました。そこで、唖然とする判決内容を知ったのです。
第1が、この裁判の中心論点である国際人権法です。
(3)-1、さらにその中心となった「国際人権法の間接適用」の主張です。
被告らは2021年7月の準備書面で、44頁にわたり、次のロジックに従って詳細に主張したのに対し、これに対する裁判所の応答はたった2行の次の記述だけです。
《被告ら主張の社会権規約委員会の一般的意見や総括所見が直ちに締結国を法的に拘束すると解すべき根拠は見当たらず、間接適用の基礎を欠く》(26頁)
以下が、被告らの「国際人権法の間接適用」の主張のロジック(骨組み)です。ひとつひとつの論点は、バカバカしいほど単純で、疑いようのない明白な基本原理であり、それらを丹念に丁寧に積み上げていっただけの論証形式にすぎません。
①.序列論(一般論)
  法律は上位規範である条約(国際人権法を含む)に適合するよう解釈される必要がある。
②.序列論(具体論)
災害救助法及び関連法令は社会権規約11条1項の「適切な住居」に適合するよう解釈される必要がある。
③.条約解釈の方法論(一般論)
条約の文言の意味を明らかにするために、その解釈基準として以下の国際法の実質的法源を用いることを認めた(ウィーン条約31~32条)。
(a)、国連の委員会、国際会議の決議・宣言・報告書・準備作業
(b)、国際機構の決議
(c)、未発効の条約、日本が批准していない条約
(d)、国際裁判の判例、学説
④.条約解釈の方法論(具体論)
社会権規約11条1項の「適切な住居」の意味を明らかにするために、その解釈基準として以下の国際文書を用いることができる。
(a)、社会権規約委員会作成の一般的意見4及び7
(b)、国連人権委員会作成の「国内避難民に関する指導原則」
(c)、社会権規約委員会作成の日本政府報告書(第2回及び第3回)に対する「総括所見」
⑤.②と④の組み合わせた結果
災害救助法及び関連法令(具体的には本特別措置法8条)は、④の国際文書を用いてその内容を明らかにした社会権規約11条1項の「適切な住居」に適合するよう解釈される必要がある。
⑥.「法律による行政の原理」(一般論)
行政庁の措置は法律に従って行われなければならない。
⑦.「法律による行政の原理」(具体論)
原告の本件政策決定は⑤の内容を有する本特別措置法8条に従って行われなければならない。
⑧.結論 
ⓐ.以上の結果、本件政策決定は⑤の内容を有する本特別措置法8条に違反するものであり、違法を免れない。
ⓑ.その結果、違法な本政策決定に基づいて一時使用許可を更新しなかった東京都の不作為もまた過誤があり、違法となる。
ⓒ.その結果、東京都と被告らとの本件建物の使用関係も適法に終了したことにならない。
ⓓ.その結果、上記使用関係の終了に基づいて行った原告の被告らに対する本件建物の明渡し請求は理由がない。

(3)-2、次が「国際人権法の直接適用」の主張です。
 被告らは2022年3月の準備書面で、国際人権法専攻の青山学院大学の申教授の意見書を提出し、これに基づき、国際人権法の直接適用を否定した最高裁塩見判決がいかなる間違いを犯しているか、それがいかに時代遅れで独りよがりの見解であるかを詳細に論証した。ところが、これに対する裁判所の応答は被告らのこの主張には一言も言及も反論もせず、ただ単に、最高裁塩見判決をそのまま掲げて、それでおしまい(判決文26頁)。それは、福島地裁がなぜ争点整理をしなかったのか、その訳が明瞭に判明した瞬間でした。

(4)、第2が、この裁判のもう1つの中心論点である、無償提供を打切った2015年6月の内堀知事の決定の裁量権の逸脱濫用です。
 被告らは2022年3月の準備書面で、17頁にわたり、とりわけ行政法の実務・学説の定説になっている「行政庁の判断過程の各局面における看過し難い過誤」に従い、詳細に検証して主張したのに対し、これに対する裁判所の応答はたった4行の次の記述です。
《災害救助法に基づく応急仮設住宅の供与の期間を定める本件政策判断は、その性質上、行政庁の広範な裁量に委ねられていると解するのが相当であり、前記(1)で説示した諸事情を勘案すると、原告知事に裁量の逸脱。警用があるとはいえない。》(31頁)
 ここでもまた、なぜ福島地裁があれほどまでに争点整理をしようとしなかったのか、その訳が明瞭に判明した瞬間でした。

(5)、民事裁判の判決の崩壊
 民事裁判は、当事者の私的自治(意思)を尊重する立場から、当事者が求めた請求に対し、当事者が明らかにした主張の争点整理と集中証拠調べの結果である証拠に基づいて裁判所が応答するという仕組みを取っています。その結果、裁判所は最終ゴールの判決において、当事者が明らかにした主張を整理した争点について応答する義務があります。
 本裁判の判決の特徴は、①国際人権法と②裁量権の逸脱濫用という二大論点について、第1に、争点整理を何もしないまま、なおかつ第2に、理由付けをまったく示さないまま、結論だけをポンと差し出したという、恐るべきスタイルで貫かれている点です。これは「判決とは結論を導く理由を示して論証することにある」という判決が適正であることを担保する生命線となる極めて重要な方法である論証を真っ向から否定したものです。だから、これは判決の名を借りた「エセ判決」「判決もどき」と言わざるを得ないのです。半世紀前、日本の司法は、たとえどんなに反動的な判決であっても、例えば「全農林警職法事件」最高裁判決でも、曲がりなりにも彼らの反動的な結論を正当化するだけの理由(公務員の「全体の奉仕者」論」を正面から掲げて判決を書きました。その限りでは、論証するという判決の生命線を維持したのです。しかし、今回の判決には、そうした反動の気概のきの字すらない。単に、無視、スルーでおしまい。
その意味で、今回の判決を書いた裁判官の頭は、本来の判決を書く資格、能力という点で内部崩壊している。これは「法による裁判」の崩壊現象、国難です。それを再建するのは、私たちひとりひとりの市民が、この「法による裁判」の崩壊現象という人権侵害の事態を知り、事態の是正に向け、一緒に踏み出す努力をすることしかありません。国難に立ち向かえるのは未来に希望を持ち続ける私たち一人一人の力しかありません。共に頑張りましょう。
                             (文責 柳原敏夫)


2023年2月21日火曜日

【第98話】2023.2.1子ども脱被ばく裁判の子ども人権裁判の仙台高裁判決言渡し直前のスピーチ(2023.2.21)

2023年2月1日、子ども脱被ばく裁判のうち子ども人権裁判の仙台高裁判決の言渡しがあった。以下は当日の判決前集会で弁護団の柳原のスピーチ。 

 

このような社会的事件、とりわけ国策に関する事件の裁判は実は三審制なのではなく、四審制だということ。人間が下した判決に対し、最後に、天が、歴史が裁きを下す。 だから、私たちは人間の判決がどんなに暗黒であろうとも、その暗黒を裁く時が来ることを確信し、そこに向かって進むだけである。

 

【第171話】最高裁にツバを吐かず、花を盛った避難者追出し裁判12.18最高裁要請行動&追加提出した上告の補充書と上告人らのメッセージ、ブックレット「わたしたちは見ている」(24.12.20)

1、これまでの経緯 2011年に福島県の強制避難区域外から東京東雲の国家公務員宿舎に避難した自主避難者ーーその人たちは国際法上「国内避難民」と呼ばれるーーに対して、2020年3月、福島県は彼らに提供した宿舎から出て行けと明渡しを求める裁判を起こした。通称、避難者追出し訴訟。 それ...