以下は、今月1日、福島地裁で言渡された子ども脱被ばく裁判一審判決に対する控訴について、私が担当の原告の方々に送った文です。
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子ども脱被ばく裁判は、去る3月1日に判決の言い渡しがあり、原告の全面敗訴でした。
私たちの裁判をずっと応援しているアメリカを代表する知識人チョムスキーさんはこう言いました――社会が道徳的に健全であるかどうかをはかる基準として、「社会が最も弱い立場の人たちをどう取り扱うか」以上の基準はありません。許し難い事故の犠牲となっている子どもたち以上に傷つきやすい存在、大切な存在はありません。この裁判は、日本にとって、そして世界中の私たち全員にとっても試練(裁き)なのです(->その原文)。
なぜチョムスキーがこの裁判のことを「全世界の人々にとっての試練」とそんなに風に言ったのか、それはこの裁判が次の意味で、放射能災害の責任を問う世界で最初の裁判だからです。
福島原発事故という日本史上最悪の、未曾有の過酷事故を起こしておきながら、事故後に「事故を小さく見せること」しか眼中になく、子どもたちに無用な被ばくをさせた日本政府と福島県の責任を真正面から問うた裁判。言い換えると、311後に出現した、
・子どもの命・人権を守るはずの者が「日本最大の児童虐待」「日本史上最悪のいじめ」の当事者になり、
・加害者が救済者のつらをして、命の「復興」は言わず、経済「復興」に狂騒し、
・被害者は「助けてくれ」という声すらあげられず、経済「復興」の妨害者として迫害され、
「異常が正常とされ、正常が風評被害、異端とされる世界」その世界のあべこべを根本から正そうとした世界で最初の裁判だからです。
この裁判で、原告は、子どもたちの命、健康が放射能汚染によってどれほど脅かされているか、原告の力の及ぶ限り主張と証明をしてきました。しかし、3月1日の判決は、放射能災害の責任を問う世界で最初の裁判の原告のこの訴えと向き合うことすらせず、完璧にスルーし、被告国側の言い分だけを全面的に依拠して、これ以上考えれないほどのみじめな理由づけで、原告の全面敗訴の結論を導きました。これは一言で言って、理不尽の極み、これではとうてい真っ当な判決とは言えません。
判決言渡しの当日、裁判所はあらかじめ15頁の判決要旨を用意したにもかかわらず、裁判長は読み上げることすらせず、開廷して主文だけ読み上げ、1分足らずで「閉廷!」と宣言してハヤテのように去っていきました。傍聴した原告の方々は、裁判長の声が小さく、モゴモゴと早口で、何を喋っているのか殆ど聞き取れなかったそうです。思うに、裁判長は原告や傍聴に詰め掛けた市民に向かって、「私はこう考えて、こういう裁きをしたんです」と自ら書いた判決文を自信をもって堂々と言渡す勇気が持てなかったのです。
この意味で、この裁判で最初に裁かれたのは、理不尽の極みとしか言いようのない判決を書いた3人の裁判官でした。
同時にこの裁判は、チョムスキーが上に述べたように、裁判官ばかりではなく、日本と世界の人々全員にとっての試練(裁き)です。私たちもまた、理不尽の極みとしか言いようのない無残な判決に対して、どう向き合うのか――この理不尽な判決を黙ってそのまま受け入れるのか、それとも絶対受け入れるわけには行かないと拒否するのか、それが問われているからです。
その最初の試練が控訴(地裁判決に対する異議申立)です。確かに、自分ひとりくらいが拒否したところで理不尽な判決が何も変わるわけではあるまいと思うのはその通りでしょう。しかし、思うに、試練(裁き)とはすぐ結果が出るものではなく、もっと深いもの、もっと大きいもの、もっと長い時間の流れの中にあるものです。ひとりひとりに向けられた試練(裁き)は必ず天が見ています。そして、必ず子どもが見ています。今すぐ変化が起きなくても、いつかこの試練(裁き)の積み重ねの中で、目に見える変化が訪れる時が来ます。
私ごとで恐縮ですが、75年前の終戦直前、満州で現地召集された私の親父は、幸い戦死しなかったものの、終戦と同時に今度はソ連兵につかまりシベリア抑留の危機に直面しました。そこで、昼間は草原に身を隠し、夜間に移動して満州平野を逃げ回りました。このとき親父はこう思ったそうです「自分は、日本軍の将校たち戦争推進者たちが逃げのびるための「盾(たて)」として召集され、ソ連兵との戦闘の最前線に立たされた。自分はただの兵士ではないのだ、いけにえにされたのだ!」と。しかし、この理不尽な現実を彼は受け入れませんでした。満州平野のど真ん中で、絶望する理由は山ほどあり、すがる希望は1つもなかった。にもかかわらず、彼は権力者の言いなりになる道を拒否し、行動を起こしました。親父の人生を振り返った時、この時彼は人生の岐路に立たされていました。単に生き延びることだけではなく、いかに生きるかというその後の彼の人生の姿勢がこの時決まったからです。文字通り、彼自身が試練(裁き)に直面していたのです。
この試練(裁き)に直面した親父がなにをどう悩み、どう決断したのか、最後まで教えてくれませんでしたが、敢えて親父のこの時の心情を察すると、「こんな風に犬死してたまるか。絶対、犬死しないぞ!」という叫びに突き動かされていた、それは「おれだって人間だ」という人間の尊厳の叫びだったのではないか、この叫びが、1ヶ月に及ぶ逃避行で犬死せずに中国撫順市に辿り着いた彼を支えたものではなかったか、と。
‥‥親父はこの時の経験を戦後、子どもの私に殆ど語りませんでした。しかし、彼は自分のノートにその体験を記録していました。311後、前例のない原発事故を経験し、前例のない日本政府の犯罪(対策)を目の当たりにし、私自身が、絶望する理由は山ほどあり、すがる希望は1つもない現実の中にほおり投げられた時、突如、75年前の同じような絶望的な状況の中で、権力者の言いなりになる道を拒否し、行動を起こした親父の姿が昨日のことのように鮮明に目の前に現れました。そして、あの時もし彼が理不尽な現実を受け入れ諦めていたら、私の命は存在しなかったろう、彼が受け入れを拒否し起こした行動のおかげで、今の私の命はある、そして私の子ども、孫の命もあり、つながっていることを痛感したのです。天は私たちの試練(裁き)を見ていると確信したのです。
コロナ禍のもと、日々の生活をやりくりしていくだけでも大変だと思いますが、同時に5年、10年、50年、百年先のことも見据えて、控訴手続きについて、ご検討いただくようお願い申し上げます。
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