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2020年1月28日火曜日

【第37話】原告本人尋問の感想:魯迅、竹内好、鶴見俊輔の精神のリレーを受け継ぐ掙扎(そうさつ)の人長谷川克己さん

 今月(1月)23日、予定通り、福島地裁の子ども脱被ばく裁判で、長谷川克己さんの原告本人尋問をおこないました。
                       (長谷川克己さん)

以下は市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会の皆さんに述べたその感想です。

(感想の追記)
私は学生時代に道を誤って、司法試験の受験勉強に足を踏み入れ、毎年、不合格をくり返した挙句、20代のほぼ全部を牢獄にいるような気分で送る羽目になりました。その非人間的な長いトンネルを抜け出たとき、人間的なものを求めて、パブロ・カザロスが演奏したチェロの曲を初めて(もちろん別人の演奏で)生で聴き、岩波の講演会で作家の大江健三郎の話を生で聞いた。
しかし、今なお、私の脳裏に焼きついているのは、この岩波の講演会で大江と共に講演した鶴見俊輔だった。
この時、鶴見俊輔は、 中国文学者の竹内好のことを取り上げ、こう言った。

竹内の発想は普通の人と全然ちがう。普通だったら、
誰が間違わずに正しく生きたか?
だけを問う(それは明治以来の日本の学校教育の揺るぎない産物だから)。

が、しかし、竹内は、
このようなものから果して歴史を生きる活力が湧いてくるだろうか?
と問い直す。
むしろ、錯綜した現実に直面し、そこで、単純明快な原理から間違わず考えるのではなく、そこでむしろ身もだえしながら考える、考え続けることこそが大切なのではないか、と反論する。
この「身もだえの中で考えること」を「掙扎(そうさつ)」と竹内は呼んだ。「掙扎(そうさつ)」とは別名「あらがい」であり、言い換えれば抵抗ということだ。


当時、この「身もだえの中で考え続ける」という指摘がとても新鮮で、その後、ことあるたびに、この言葉が無意識にやって来て、おい、掙扎(そうさつ)しているか?と呼びかけてきた。
今回、長谷川さんの体験をつぶさに聞かせてもらった時、彼こそ「理不尽な中で、それに屈することなく、掙扎(そうさつ)する人」だと分かった。
だから、彼のような人が、理不尽な現実に対して退きもせず、追従もせず、掙扎(そうさつ)を生きる構えとしてきた魯迅、竹内好、鶴見俊輔の精神を受け継ぐ人だと分かった。

  ***************

以前、予告しました通り、昨日、福島地裁で子ども脱被ばく裁判の原告の本人尋問をやりました。
普段は原告番号で原告を呼んでいるのですが、法廷内で原告の名前を出しましたので、ここでも出します。郡山から静岡県富士宮市に家族避難した長谷川克己さんです。
長谷川さんの動画
【福島のいま】力強く生きたい~自主避難から1年

長谷川さんに初めてお会いしたのは、2012年夏に、文科省前でふくしま集団疎開裁判のアクションをやっていると、そこに来られて熱心に聴いていて、そのうち、岡田さんあたりが、良かったら喋りませんか、と勧めたら自らスピーチされました。
最初、彼を見た瞬間、「あっ、カミュだ」、その風貌がフランスの小説家カミュに似ていたからです。

そしたら、風貌だけでなく、二人を形容詞する言葉も似ていることに気がつきました。カミュは「不条理」、長谷川さんは「理不尽」。
以来、長谷川さんはひそかに「私のカミュ」になりました。

チェルトコフさんの本「チェルノブイリの犯罪」の中で、このカミュの言葉
犯罪という猛烈な執念に対抗する術として、証言することへの執念のほか、この世に何があるだろうか
に接した時、何という真実だろ、カミュはこういう言葉を吐く人間なんだ、と鮮烈な印象を受けました。

今回、「証言することへの執念」を私の前で実行してみせたのが、「私のカミュ」長谷川さんでした。

これまで、原発事故関連の裁判で、原告本人尋問のイメージは(それは偏見だと言われるかもしれませんが)、あらたまって新たな主張をするのではなく、既に原告の陳述書の中で述べられてきた事実の中から、再度強調したいと思う点を証言する、というイメージでした。

しかし、そのイメージがぐらつくようなショックを与えられた原告の本人尋問に出会いました。
それが昨年11月13日に、「今でも子どもを安全な場所に避難させたい」と証言したお母さんの姿に接した時でした(その報告と動画は->こちら)。

それは、このお母さんにとって原発事故直後の経験を証言することは、単に、過去のつらい出来事を訴えるというにとどまらない、
それは、今を生きる上で決定的に影響を及ぼす何かについて、必死になって語ろうとしていることに気がつかされたからです。
このお母さんにとって、311直後の経験は9年前の出来事ではなく、今まさに、今を生きる現在進行形の出来事なのだ。

これは一体どうしたことだろう?
なぜ、このようなことになるのだろうか。

それについて突き詰めてみたいという気持ちもあって、(本当は2月、3月の鈴木、山下尋問という天王山を控えているにも関わらず)このお母さんの証言のあと、長谷川さんの尋問の担当をやらせて欲しいと弁護団の中で手を挙げ、了承されました。

そしたら、連絡をした長谷川さんから、今回の証言を自分と家族のこれからの人生の新たなスタートにする積りで取り組みます、と返事がありました。
この間、2回ほどお会いして、カメラを回したまま計8時間ほど、気が向くまま、話が向くまま、思うとおりに語ってもらい、それを文字起しして、証言のシナリオを書き、一緒に手直しをしました。
それが完成したのが一昨日の夜中、福島に向かう電車の中で、完成稿を読み合わせして、本番を迎えました。
添付したのは、そのうち、長谷川さんから許可を得て、皆さんに紹介したものです(なので、転載禁の扱いでお願いします)。
添付した理由は、事前に、ストップウオッチで測定しながら質問-回答を自分で声を出して読み、ちょっと時間オーバーかもだが、これなら何とかやれると踏んだのに、いざ本番では裁判長に「時間を越えてますよ」と注意され、泣く泣く割愛せざるを得ない重要な質問と回答があったからです。

つらい過去を振り返る作業だった打合せを重ねる都度、不思議に元気になっていく長谷川さんを見ていて、
彼にとっても、今を生きるとは、自分にとってかけがいのない過去を反復すること、生涯、忘れようにも忘れられない体験を反復することなんだと気がつきました。

そして、彼が元気を取り戻していくと、よりリアルに事故直後の出来事が思い出され、なおかつ、彼の語る内容がますます精彩をはなっていくのを目の当たりにして、過去をリアルに再現するためには、今を生きる力に満ちていなければできないことにも気がつきました。

翻って、なぜ長谷川さんが、事故直後の過酷な過去を思い出すことによって、今を生きる力を授かったのかを考えさせられました。そして、それはこの時、絶体絶命の事態に直面して彼が死に物狂いで考え、悩み、決断し、行動したその時の生き方が、今なお、現在の自分のエリを正す鏡になっているからではないかと思いました。

だから、彼は、311直後の体験が9年後の今を生きる力の源泉であることを、今回の証言の準備の中で確信したのです。

その体験のひとつが、以前紹介した、3月12日の原発1号機の爆発の時でした。この爆発の映像をくり返し流すTVに、介護施設で勤務中だった長谷川さんが周りの職員に「とうとう、原発が爆発したぞ」と言ったら、相手はこう反応した。
今それどころじゃないですよ。大変なんですから」
「あっちでトイレ、こっちでメシって、大変なんですから。原発が爆発したなんて、かまってられないすよ

長谷川さんはこの言葉を聞き、ハッと思った--この人は「大小の区別がつかない」。あっ、ダメだ、これと足並みをそろえていたら、やられるぞ、危ないぞ、と。
9年後の今から振り返っても、このときの反応が過剰だったと思うことはほぼない。むしろ、あのとき、あそこで「危ない」と思わないのはおかしいと思う。それは知識だとか何とかではなくて、動物的勘の問題だ、と。
あとから知った言葉で予防原則、この当時、自分の中で予防原則が働いたんだと思う。それは、とにかく危ないものには近寄るな。危ないか危なくないか迷った時には、危ない方に寄せて物を考える。
ただし、それは別に特別なことでなくて、普段、仕事でも、普段生きていてもそうしている。予防原則を使っている。
それなのに、なんで、こういう大事故の時にだけ、みんな危くない方に寄っていこうとするのか!?と思った。
その違和感が強烈にあって、当時これが集団心理としてみんなの中で、おっかない形で働いているとすぐ分かったので、それに惑わされないようにしようということで、すごく敏感になった。

これに対し、私が彼に投げた質問は、
原発事故のような未曾有の事態に直面した時、恐怖の余り気が動転し、危険はないんだと自ら言い聞かせ、平常心を取り戻そうとした人もいるんじゃないか、それもまた「動物的勘」の1つではないでしょうか。
だとしたら、同じ「動物的勘」でも行動がそこから正反対の方向に分かれてしまう、この差はどこから来ると思います?

でした。

これに対し、彼の答えは--子どもがいたからです。もし子どもがいなかったら、ちがっていたと思います。

ここで私が教えられたことは、
未曾有の事態に直面した時でも予防原則を貫けるかどうかは動物的勘が働くかどうかによる、しかも、それがまちがった勘ではなく、「正しい」動物的勘が働くかどうかは、未来しかない「子どもに対する愛」があるかどうかによる。

そして、予防原則というのはチェルノブイリ法のエッセンスです。だから、ここで長谷川さんが証言したことはすべてチェルノブイリ法に当てはまります。

チェルノブイリ法日本版に至るため必要なのは知識ではなく、動物的勘、そして愛。
今を生きるとは、生涯忘れ得ぬ体験を反復すること、それがチェルノブイリ法日本版に至る道。

また、カミュの「不条理」に似て、長谷川さんの陳述書意見陳述の原稿に一番登場する言葉は「理不尽」。
このまま理不尽に屈するわけにはいかない」
「私にとっては理不尽の連続」
「自分の手が届かない時間に対しての責任というものを、私自身が放棄することは絶対にできない」「やはり、『この理不尽の中で屈して、お父さんは引き下がってしまった』ということを子どもたちに見せるわけにはいかないという思いで、今後も頑張ってきたい


そこから私が思ったことは、
理不尽に屈せず、あらがうこと、そこから導かれるのがチェルノブイリ法日本版。

以上、今なお、原告本人尋問で初めて経験した感動の余燼覚めやらぬ中におります。

以下、長谷川さんの証言で示した証拠の一覧です。
陳述書
http://1am.sakura.ne.jp/Nuclear3/160925HasegawaStatement.doc

意見陳述の原稿
http://1am.sakura.ne.jp/Nuclear3/150623HasegawaOpinion.docx

山下俊一インタビュー記事・チェルノブイリ法日本版の会結成集会の長谷川さんの挨拶その他

山下俊一・鈴木眞一のセカンドオピニン禁止通知
http://1am.sakura.ne.jp/Nuclear3/kouC76YmadhitaSuzukiLetter.jpg

文科省20ミリシーベルト通知
http://1am.sakura.ne.jp/Nuclear3/kouB2Monkasyo20mSv.pdf



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