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2020年1月28日火曜日

【第36話】感想:福島県民ばかりか全国民が絶滅危惧種。チェルノブイリ法日本版にとって知識は足りてる。足りないのは人間的直感(動物的勘)

以下は、1月23日に福島地裁でおこなわれた子ども脱被ばく裁判の原告長谷川克己さんの本人尋問を前にして、市民が育てる「チェルノブイリ法日本版」の会の皆さんに述べた感想です。
                        (長谷川克己さん)

     *************

本年もよろしくお願いいたします。

昨年末から帰省した長男家族のチビどもに振り回される年末年始で、気がついたら米国によるイランの司令官殺害、その報復、その結果、ウクライナ旅客機の墜落、全員死亡という戦争、人災のニュースでした。

正月ボケの頭で「米国、ウクライナ旅客機の墜落はイランによるものという見方」という記事を読み、「えっ、今頃、2014年のウクライナの旅客機墜落の話をしているの?」と思ったほどです。

しかし、この事故は5年前のことではなくて、本当についさきほど墜落した事故だと知り、その3日後に「イラン一転 撃墜認める」という記事を読み、そこに、

反撃に備える厳戒態勢の中で、▽防空システムが巡航ミサイルと誤認し、軍事拠点まで十九キロに迫ると警告▽通信の不具合で操作員が上官と連絡できなかった▽十秒以内で決断しなければならず、独断で発射した。
とあるのを読み、「なに、これ?!、こんな戦争のさなかに、テヘランの空港で民間旅客機を飛ばしていたのか?」と信じられない思いでした。

そしたら、米軍の反撃が想定される中で飛行禁止区域が設定されなかった点について、イランのミサイル責任者が会見で「複数回封鎖を要請したが認められなかった」と述べた、という記事。

なんで予防原則を採用しなかったのか、と、チェルノブイリ法のエッセンスがまたしてもぜんぜん活かされなかった今回の人災の悲劇に腹立たしい思いを抑えられませんでした。

閑話休題。

福島地裁で審理中の子ども脱被ばく裁判、つい先日、次回の原告本人尋問のため、原告の長谷川克己さんと打合せをしました。

そのときの鮮烈な印象は、彼が普段の日常生活の中で思い出すことをしないし、極力、思い出さないようにしていると思われる9年近く前の原発事故直後の出来事を、まるで昨日のことのように鮮明に覚えていて、語ってくれたことでした。

その中の一節--311以後からの1週間の間、いつまた原発が爆発し、今度は大爆発を起こすかもしれない、その時には自分の身体は吹き飛んで、消えてなくなるんじゃないか、だから、朝、家から仕事に出かけるとき、これでもう家族と会えなくなるかもしれないという思いで職場(介護施設)に向かった、職場で人々と別れるときも、死ぬか生きるかという気持ちだったから、もう二度と会えないかもしれないが、命があったら必ずまたどこかで会おうねという気持ちで別れた。

(このとき、福島第一原発は故吉田所長に「2号機の深刻な不具合で、東日本壊滅を覚悟した」と言わしめるほどの大惨事直前まで行ったのでしたが)しかし、同時に彼が抱いた恐怖感は職場では必ずしも共有されず、共有できる人たちはむしろ少数派だった。
このときのことで彼が鮮明に覚えていることは、3月12日の1号機爆発の直後、爆発映像をくり返し流すテレビを見ながら、彼が主任の40歳男性職員に、「とうとう、原発が爆発したぞ」と言ったら、相手がこう言ったことでした。
今それどころじゃばいですよ。大変なんですから
確かに、余震が続き、3階建ての施設の2~3階にいた入居者を全員1階に移し、トイレだの食事だの、さながら野戦病院の様相を帯びていた当時だったので、その職員は、
あっちでトイレ、こっちでメシって、大変なんですから。原発が爆発したなんて、かまってられないすよ
と言ったのです。
しかし、長谷川さんはこの発言を聞き、ハッと思ったそうです--この人は「大小の区別がつかない」。あっ、ダメだ、これと足並みをそろえていたら、やられるぞ、危ないぞ、と。

ただし、長谷川さんは職場の現場責任者で、職員、入居者を置いて、自分と家族だけ逃げる訳には行かなかったので、「大小の区別をつけよう」と思っても実行できないわが身のジレンマに「なんだ、こりゃあ」と身を裂かれるような思いだった。

でも、「それはあなただけの過剰反応じゃないの?」と私から意地悪く尋ねた時、彼曰く、
9年後の今から振り返っても、このときの反応が過剰だったと思うことはほぼない。むしろ、あのとき、あそこで「危ない」と思わないのはおかしいと思う。それは知識だとか何とかではなくて(彼はこの当時、安定ヨウ素剤のことも知らず、ヨードチンキと区別もできなかったという程度の人です)、人間的直感(動物的勘」の問題です

動物的勘


これについて彼は言う。
あとから知った言葉だけれど、この当時、自分の中で予防原則が働いたんだと思う。それは、とにかく危ないものには近寄るな。危ないか危なくないか迷った時には、危ない方に寄せて物を考える。
それは別に特別なことでも何でもなくて、普段、仕事でも、普段生きていてもそうじゃん。予防原則を使っている。
それなのに、なんで、こういう大事故の時にだけ、みんな危くない方に寄っていこうとするの!?と思った。
その違和感が強烈にあって、当時これが集団心理としてみんなの中で、おっかない形で働いているとすぐ分かったので、それに惑わされないようにしようということで、すごく敏感になった。

‥‥この話を聞かせてもらい、
311直後、福島県の人々は文字通り、絶滅危惧種として生きてきたことを改めて教えられました。
そして、その中にあって、この長谷川さんは、知識ではなく、動物的勘によって311原発事故の危機の中を予防原則で文字通り生きてきた人だと、だから、彼はチェルノブイリ法日本版の化身、生きたチェルノブイリ法日本版だと思いました。

先ごろのイラン危機でも、危険の中にいるにもかかわらず、予防原則が働かず、まんぜんと日常生活の延長線上で、戦争地区で民間航空機を発着させ、貴い生命を犠牲にした事故と同じだと感じました。
それは、知識の問題ではなくて、「危ないものには近寄らない」という動物的勘が働くか働かないかのちがい。
そして、それが働く人にとってチェルノブイリ法日本版は知識なしで、自明の原理原則。
それが働かない、「みんなで渡れば怖くない」というアンダーコントロールにある人はいくら勉強して知識を身につけても決してチェルノブイリ法日本版には辿り着かない、辿り着けない。

そして、長谷川さんがなぜ、これほど動物的直感に突き動かされて、数々の中傷、非難を浴びながらも無謀とも言える避難の行動をやりぬけたのか、その理由を尋ねたとき、彼はこう答えました--子どもがいたからです。もし子どもがいなかったら、ちがっていたと思います。
愛、妻と未来しかない我が子に対する愛、とりわけ、大人とちがい、原発事故に何の責任もない子どもに対する愛が彼の心の奥底から鋭い動物的直感を呼び覚ましたと知りました。

311当時、「みんなで渡れば怖くない」という集団心理にアンダーコントロールされ、貴い動物的勘が働かすことをしなかった多くの福島県民は絶滅危惧種にされた。
のみならず、そのあと「ただちに影響はない」にアンダーコントロールされ、貴い動物的勘を働かすことをしなかった私たち日本国民もまた絶滅危惧種にされている。

そこから抜け出す道は、知識ではなく、予防原則を身をもって行動することだという教えを、今回の打合せの中で、長谷川さんから授かりました。

この彼の証言を来週23日、福島地裁の法廷で行ないます。

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