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2023年8月12日土曜日

【115話】自由研究(4):311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている(2023.8.11)

              (「ウネリウネラ」より)
     子ども脱被ばく裁判、2021年3月1日の福島地裁一審判決の言渡し直後

これは子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿したもの。

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井戸さんへ

柳原です。

昨日、避難者の追い出し裁判の検討をする中で「法の欠缺」問題の重要性を再発見することがあり、それで、6年前のこちらの裁判の弁護団会議のことが思い出されたので、それについてコメントさせて下さい。

今、デスクトップPCが電源ユニット不具合のため使えず、それで記憶に頼って書いてるのですが、確か2017年の連休前に弁護団会議をやった時、井戸さんが、被告基礎自治体の義務についてという副題の準備書面(32)の草案を書いて、これを説明してくれました。
一通り聞き終わった弁護団は、その書面の衝撃にしばらく声を上げることが出来ずにいて、
おもむろに、私から、「これ、記者会見すべきなんじゃない?」ともっと威張ったらいいんじゃないのという感じで言ったら、謙虚な井戸さんから、笑いながら「いや、いや」とやんわり拒否されました。それが「法の欠缺」を初めて取り上げて、「7千倍の学校環境衛生基準問題」を主張したときのことです。
そのとき、私が井戸さんに、「どうやって、こんな凄いことを思いついたの?」と人の家に土足に踏み込むようなえげつない質問をしたら、「いやいや、『放射能汚染/防止法』を提唱している札幌の山本弁護士の本を読んで、ヒントをもらったんだ」とあっさり、種明かしまでしてくれました。
尤も、この時の準備書面(32)()は「7千倍」までは主張しておらず、最終準備書面の冒頭で、350倍という主張をしたんですね(1mSvに対して)。
準備書面(32)
    最終準備書面

しかし、記者会見こそしなかったものの、一審では準備書面(32)はもとより、その後も最終準備書面12頁以下で「7千倍の学校環境衛生基準問題」の重要性を思い切り強調して主張したのに対し、一審判決()は、この問題に正面から何一つ答えることなく、コソコソというより、堂々と無視して、裁量論の土俵の中で、20mSv基準を裁量の範囲内だとして適法のお墨付きを与えました。

)一審判決の全文->こちら  判決要旨->こちら

その判決の卑劣さに対する無念さを、2021年3月1日の判決言渡し直後、井戸さんは次のように吐露しました。

ここでは、原子力法制の価値判断と日本国憲法下の環境法制の価値判断が正面からぶつかります。環境法においては(学校環境衛生基準も同様)は、放射性物質のような閾値(しきいち)のない毒物の環境基準は、生涯その毒物に晒された場合における健康被害が10万人に1人となるように定められています。それが環境法の価値観なのです。これに対し、原子力法制下で一般公衆の被ばく限度とされている「年1ミリシーベルト」は、生涯(70年間)晒されるとICRPによっても10万人中350人ががん死するレベルです。年20ミリシーベルトであれば、なんと10万人中7000人ががん死します。この決定的な価値観の対立の中で、この判決が原子力法制の価値判断を優先させて採用する理由は、全く示されていません。私たちが最終準備書面において力を入れて書いた論点であるにも関わらずです。
http://datsuhibaku.blogspot.com/2021/03/blog-post.html

それで、今、振り返るに、この時の一審判決のあくどさ、その悪行の論理構成について、もっと徹底的に突詰めるべきだったと。なぜなら、あのときの遠藤裁判長は、裁判官室という楽屋裏で、この「7千倍の学校環境衛生基準問題」をどうやって始末するか、それで大汗をかきながら、一世一代の猿芝居を演じることにしたからです。
だから、我々としては、このとき、準備書面(32)で初めて指摘した「法の欠缺」状態の発生と、この欠缺の補充作業の必要性と、そして、いかにして補充作業を行うかという補充作業の方法論について、徹底的に解明すべきだった。なぜなら、一審判決は「法の欠缺」問題に脚を踏み入れるのをまるで地雷を踏むかのように徹底して恐れまくり、一歩も近付こうとしなかったからです。なぜなら、ひとたび、裁判所を「法の欠缺」問題に引きづり込んだら、判決はあんな一文、
行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられている
なんてアンチョコなロジックでもって、この「7千倍の学校環境衛生基準問題」を一件落着なぞできなかったはずだからです。

もっとも、欠缺の補充において、いかにして補充作業を行うかという問題は一義的に解決できない問題です。しかし、少なくとも、そこで、「序列論」に従って、当該法律の上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定を踏まえて補充すべきであるという方法論が展開できますから、
そうすれば、所詮、法律レベルでしかない原子力法制の価値判断が、その上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定に反することは出来ず、その1例として、平等原則を持ち出し、子どもの命、健康を守るという最も重要な人権保障ために、有害物質をめぐる環境衛生基準と放射性物質をめぐる環境衛生基準との間に差別を許容する合理的な理由が認められるか?認められないだろうという議論が可能になります。

今思うに、遠藤裁判長が判決でいきなり持ち出した裁量問題という土俵にこちらもそのまま乗ってしまうのではなく、彼が論じるのが嫌で嫌で逃げ回った学校環境衛生基準をめぐる「法の欠缺」問題こそ、我々からその問題の重要性を正しく掬い上げて、準備書面(32)で初めて明らかにした「欠缺の補充」による正しい解決の必要性を、あれで終りにするのではなく、これが認められるまで、今からでも何度でも、強調し続けるべきではないかと思ったのです。

まとめ。
「7千倍の学校環境衛生基準問題」が、準備書面(32)で初めて明らかにした、「法の欠缺」の認識→「欠缺の補充」の実践という風に正しく解決された時、それは原発事故の救済に関する全ての法律問題の正しい解決の出発点になる。なぜなら、避難者追出し問題をはじめとした原発事故の救済に関する全ての法律問題は、どれも、原発事故を想定していなかった日本の法体系の「法の欠缺」状態の中に置かれているところ、与党政府がこの問題を、チェルノブイリ法日本版の制定のように「立法的に正しく解決」しようとしない現在、我々に残されているのは「欠缺の正しい補充」によるしかないし、ひとまずそれで十分なのですが、その際、今述べた「7千倍の学校環境衛生基準問題」の解決がその輝かしいモデルになるからです。
表題の『311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている』というのはそういう意味です。
それくらい、この問題は決定的に重要なんだと、昨日、再発見した次第です。

【114話】自由研究(3):311後の法秩序のモデルはナチスの独裁国家体制=全権委任法、但し、それは「法の欠缺」を最大限悪用した(2023.8.11)。

           (ウィキペディアより)
1933年3月23日、議場で全権委任法への賛成を要求するアドルフ・ヒトラー

自由研究(1)のラストに以下に次のように書いた。これがその別便。

以上、つい長くなったので、311後の日本の独裁的な法体制がナチスの独裁国家体制に匹敵すると考えた理由については別便で書きます。
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先月下旬、NHKで放送された、
映像の世紀バタフライエフェクト 「ヒトラーVSチャップリン 終わりなき闘い」
 を観て、チャップリンという「理念の光」を当てることで、権力犯罪者のヒトラーの面目がかつてないほどにリアルに迫ってきた経験をしました。それで、改めて、ヒトラーの独裁権力掌握へのプロセスについて思いを致す中で、311後の日本の独裁国家の法秩序はヒトラーから学んでいるのではないかという仮説を想到するに至りました。それが以下。

前年1932年7月の総選挙で第一党となったナチ党は、しかし過半数に及ばない、3分の1強の議席数にとどまったが、紆余曲折の末、1933年1月、ヒトラー内閣が成立。この時、保守派は「われわれはヒトラーを雇ったのだ」とヒトラーを確実に封じ込めると踏んで、この『ボヘミアの伍長』と妥協した。しかし、『ボヘミアの伍長』は保守派の数枚も上手を行った。
同年2月に国会議事堂が放火されるという事件が勃発したとき、過激派の単独犯行とみられたのを、ナチ党はこれを共産党による組織的暴動とみなし、国会と地方の3000人以上の共産党員・ドイツ社会民主党員を逮捕・拘束した。
その翌月3月、ヒトラーは、保守派閣僚によるヒトラー内閣の囲い込み状態を突破するため総選挙をおこない、財界からの協力を取り付けて得た圧倒的な資金力と国家権力を駆使した大規模な選挙運動を展開し、結果は196から288議席となったものの、それでも過半数に届かない44%弱だったが、連立相手である国家人民党と合わせて54%の過半数を確保した。そこで、この選挙結果を足がかりに、一気に独裁国家体制の法秩序の形成に打って出たのが、全権委任法の成立。
その顛末は以下に書かれていますが、
https://onl.tw/ifNsZ9r

全権委任法は全部でたった5条の法律で、それは理念法などではなく、明確に、
憲法に違反することすらできる無制限の立法権をヒトラー率いるドイツ政府に授ける
と書かれたものでした。
この結果、ヒトラー政府は国会に代わって立法を行い、なおかつこの政府の立法権は憲法に優越しうること(憲法に反すること)が可能となりました。ここから破滅的な第二次世界大戦に向うのは時間の問題でした。
このとき、ヒトラーは、議会制民主主義を使って、議会制民主主義を否定する独裁国家の法秩序を作ることに成功したのです。

そして、実はこれと同じ結果が311後の日本でも実現したのではないか。これが私の仮説です。
そのきっかけが、311後に判明した、原発事故の救済に関する全面的な「法の穴」状態の発生です。
半世紀前の日本であったなら、この当時、公害災害の救済に関する全面的な「法の穴」状態に直面していた私たちは、歴史的な公害国会を通じて、矢継ぎ早に新たな立法或いは抜本的な法改正という「立法的解決」によって全面的な「法の穴」状態を解消したのですが、
311後はそんな健全な真っ当な取組みは何一つ、全くやらないで来た。
その結果発生した、原発事故の救済に関する全面的な「法の穴」状態は、子ども脱被ばく裁判の福島地裁判決がいみじくも下したように、
行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられているというべきである
と政府に全権委任する道を取ることが宣言されたのです。その結果、原発事故によって、どれだけ無数の人たちが無念の命を落とし、健康を害し、生活を崩壊させられたとしても、それらの人権侵害はすべて無視され、このやり方でもって蹴散らされることになったのです。
このやり方は憲法が保障する人権の蹂躙であり、憲法の否定です。
こうした憲法に反した人権蹂躙が、行政裁量の名の下で次々と行われているーーこれが311後の日本の法秩序の現実です。

他方、自ら積極的に、このような法秩序を白昼、堂々と宣言してみせたのがナチスの全権委任法だとしたら、福島原発事故を契機に判明した全面的な「法の穴」状態に目をつけて、こっそりこれを最大限悪用して、誰も知らない間に、ナチスの全権委任法と同様の行政の独裁行為を正当化してみせたのが311後の日本の法秩序ではないか。
裏からコソコソ、独裁国家体制を仕立て上げるところが、第二次世界大戦時の日本政府と同様、日本的でいかにも姑息、陰険、陰湿な権力犯罪者のやり方かもしれませんが、やり方は裏からコソコソであれどうであれ、その結果、犠牲を被り、涙を流すのはいつも決まって私たち市民です。

以上、自由研究(1)の補足です。

【113話】自由研究(2):311後の独裁国家体制にとって一番ありがたいのは人々が「法の穴」を見つけないこと(2023.8.11)

                (ウィキペディアより)
概念法学から出発しながら、これを徹底否定して自由法論に転向し、「法の穴(欠缺)」を認めたドイツの法学者イェーリング(1818~1892)

今の自由研究(1)の続き。

自由研究(1)でこう書きました。
311まで日本の法体系は原発事故を想定していなかったら、原発事故の救済に関して法は全面的な「法の穴」状態にあった。
しかし、それは一見、「行政庁の処置について、単に、法令の具体的な定めがない」かのようにも見えた。
そこに目をつけて、「法の穴」について殆ど知らない市民の無知に付け込み(さらに、「法の穴」を無意識のうちに避けてしまう法律家の性向に付けこみ)、
文科省20mSv通知にしてもSPEEDI情報隠蔽にしても、それらはみんな
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」
だから、そこで、行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられていると大見得を切った。
そこからはやすやすと、みんな行政庁の適切な裁量判断の枠内のことであって、違法の問題は生じない、という結論が引き出され、
以上から、311後の行政の人権侵害行為の責任はことごとく否定され、責任を負うべき者は誰もいなくなった。
これなら、これから何度、原発事故を起しても、くり返し使える「打ち出の小槌」。行政は怖くもなんともない。
だから、政府は、原発事故の救済に関して、今後も決して救済法を制定しない。それは福島原発事故から何も学んでいないのではなく、むしろその正反対で、彼らは上のような「独裁法体制の樹立にとって、最も大事なことは『行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかった』こと」を学び尽くして、法令の具体的な定めなどクソ食らえだという教訓なのだ。
今後、原発事故が発生し、福島と同様の悲劇を起きることを誰よりも予測しているのが日本政府で、彼らはそのための無責任体制の整備に、日々全力を注いでいる。
       ↑
この無責任体制の整備にとって、最大の弱点が「法の穴」が発見されてしまうことです。
政府は、原発事故の救済に関する法は、単に「具体的な定めがない」かのようにとどめておきたい。
それを、わざわざ、現実に発生する原発事故に対して法律がその解決を準備していないという「法の穴」として認識してもらっては困る。
なぜなら、ひとたび「法の穴」が認識されてしまったら、その次に来るのは、その穴の穴埋め(補充)だから、その穴埋めをした結果は、先程紹介した、311後に福島県内の学校の安全基準を20倍引き上げた「7千倍の学校環境衛生基準問題」のように、政府の措置の人権侵害ぶりが明々白々になるからです。
これだけは絶対避けたい、それが政府の本音。
だとしたら、我々のやることは次のことーー私たち自身が「法の穴」を見つけること。そして、その穴に対し、正しい立法的解決を要求すること(それを具体化したのがチェルノブイリ法日本版です)、もしくは「法の穴の正しい穴埋め」を求めることです。
そしたら、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」から、行政庁の裁量にお任せ下さい、
なんていう欺瞞的なレトリックの出る幕はなくなる。

その上で次の問題は、どうしたら私たち自身が「法の穴」を見つけられるか、です。
実は、これは言うは易き、行い難しの面があります。
なぜなら、法もまた、放射能ではありませんが、私たちには見えず、触れられず、匂いも痛みもしない、従って、ボーとしているとそこに「法の穴」があるのか、つかみ損なってしまう、なかなか厄介な存在だからです。
       ↑
これに対し、市民が「法の穴」を知らないのはそもそも「法」を知らないからで、だから、法の専門家の法律家に聞けば一発で解決するんじゃないかという意見が出そうです。が、実はそう簡単なことではありません。なぜなら「法の穴」の発見は単に法の知識の問題ではないからです。
また、人権感覚があったり人格円満な法律家でも、こと、「法の穴」になると途端に消極的、反抗的な態度を取ることがあるからです。
その理由は、末尾に書きましたが、
ともかく、ここで言いたいのは、私たち市民が「法の穴」を発見する力は、結局のところ「理念」の力だということです。いかに理念の光を当てて、現実の事実と法体系に眺めるか、で「法の穴」を見出せるかどうかが決まるのではないか。理念の光はまた「ユートピア」の力です。だから、理念の力が弱く、いつも現状追随の姿勢しか取れない人には、いくら法を眺めても、そこに「法の穴」を見出すのは困難です。理念の力を持ち、そこから現状を変革せずにはおれない姿勢を持った市民でないと、「法の穴」を見出すのは困難な面があります。
この問題は改めて書きます。

とにかく、私たち市民がひとりでも多く、「法の穴」を発見(認識)するかで、上に述べた欺瞞的なレトリックが破綻します。独裁国家体制を維持させるのか崩壊に導くのか、その運命のカギは、私たちが「法の穴」を発見(認識)するかどうかにかかっている。

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(以下、法を知っている法律家がなぜ「法の穴」を認めないのかについて)

2、「法の欠缺」に対する2つの立場・対立

(1)、19世紀のドイツ古典法学(いわゆる概念法学)の人たちは「法の欠缺」を認めなかった。なぜなら、彼らの法解釈学はユスティニアーヌスの「ローマ法大全」を完全無欠の文献とする考え方に基いており、「法の論理的充足性[1] 」(あらゆる可能な事案に対する正しい解決が法の中に含まれている)という完全無欠の思想・信仰に立っていたから、彼らにとって「法の欠缺」など存在しなかった。

 これに対し、事実を価値判断をまじえずありのままに認識するという近代の科学的方法の対象を法にも拡大する「法における認識と価値判断を峻別」するという立場からは、もともとあらゆる問題を想定して法律を制定することが不可能である以上、現実に発生する紛争事実に対してこれに対応する法律の規定が存在しない場合が出てくるのは不可避のことであり、そこで、このような事態を率直に承認し、「法の欠缺」状態にあると認識することは法を価値判断をまじえずありのままに認識しようとする立場からの必然的な帰結であった。

(2)、しかし、概念法学が克服された20世紀においても、人々の間に、なお「法の欠缺」の承認に対して批判的、消極的な姿勢が続いた。それは「法における認識と価値判断の峻別」に対する態度の違いから生まれた。もし、「法における認識と価値判断の峻別」の必要性を認めない立場に立てば、現実に発生する紛争事実に対して法律の規定が存在しない場合であっても、それをありのままに認識するまでもなく、直ちにその欠缺に対し価値判断を下して補充さえ実践すれば足りるのだと考える、つまりわざわざ「法の欠缺」を云々するまでもなく、法の解釈技術を使ってとっとと補充をやってしまおうとする傾向になる。しかし、この態度は、現に「法の欠缺」状態が存在することをうすうす認識しているにもかかわらず、これに対する正確な認識をしないまま、あたかも法が存在するかのようにみなして[2] <#_ftn2>法の解釈技術を使って法を適用するというものであり、従腹背的で技巧的なこのやり方は法に対する「認識なき実践」であり、たとえその動機は紛争の適正な解決だとしても、「認識なき実践」という盲目的な態度では「形式論理操作の重視」に陥る危険があり、そのようなやり方で、果たして法は「現実の社会生活」への奉仕のために活用されるべきであるという「法の精神」に十分応えことができるのか、極めて疑わしい。

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[1] 碧海純一「法哲学概論全訂第2版」167頁。

[2] なぜなら、法が存在するようにみなさないと、当該法の解釈を行うこともできないからである。

【112話】自由研究(1):311後の法秩序は行政がどんな人権侵害をおかしても誰も責任追及されない、ナチスの独裁国家体制に匹敵する。その秘密は「法の欠缺」にある。(2023.8.11)

311以後の日本社会の闇はいかにして実現されたのか。
その訳がずっと分からず、謎だったのが、昨日、避難者の追出し裁判の検討をする中で、その謎が1つ解けたような気がしたので、それについてMLに投稿したもの。
とはいえ、これは誰もに開かれた自由研究、仮説とその検証。

全部で4つです。
これは自由研究(1):311後の法秩序は行政がどんな人権侵害をおかしても誰も責任追及されない、ナチスの独裁国家体制に匹敵する。その秘密は「法の欠缺」にある。
続いて、
自由研究(2):311後の独裁国家体制にとって一番ありがたいのは人々が「法の穴」を見つけないこと
自由研究(3):311後の法秩序のモデルはナチスの独裁国家体制=全権委任法、但し、それは「法の欠缺」を最大限悪用した
自由研究(4):311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている

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            2011年6月24日、ふくしま集団疎開裁判を提訴
              (
2011年6月24日の北海道新聞) 

311直後の2011年6月24日、ふくしま集団疎開裁判を提訴した直後、弁護団の井戸謙一さんがメディアの取材を対し、
311後に、政府がここまでひどいことをやるとは思ってもみなかった
と言った。法律家の保守本流の彼にそこまで言わせるほど、政府が違法(それは権力犯罪者という意味)への道を突き進んだのはなぜか、そしてそのためになにをどう準備し、どう仕組んだのか、その手練手管について、今日までつらつら考えて来ました。
以下は後者、権力犯罪者の犯罪実現手段についての仮説です。

311後の数々の悪行、文科省の20mSv通知、山下発言、SPEEDI情報隠蔽、本来であれば、その関係者は全員首をそろえてハーグの国際刑事裁判所の被告人席に座り、人道上に対する罪に問われてしかるべきなのに、現実には、見事に、誰ひとり、違法の責任を問われることもないまま、抜け抜けと生きている、他方で、命を落とし、健康を害し、生活を崩壊させられた無数の無名の人たちがいるというのに。

この膨大な人権侵害に対する政府の徹底した無責任体制を実現したのが311後の法秩序です。
では、この完璧な無責任体制を実現した311後の法秩序の秘密とは何か。
そのキーワードになるのが「法の穴(法律用語では欠缺〔けんけつ〕())状態の発生ではないか。

)法の穴(法律用語で「法の欠缺」)とは、現実に発生した人間関係や紛争に対して、法律がその解決を想定していないため解決基準を提供できないことをいいます。

「法の穴」の発生は別に特別なことではなく、日常茶飯事です。例えば内縁関係は日常のありふれた人間関係ですが、しかし民法は、過去も現在も、家族法の中で内縁関係を想定していないとして、内縁関係に対して未だに何の規定も置いていません。だから、内縁関係はずうっと、民法の中で「法の穴」のままです。
私が、311後に「法の穴」を意識したのはこれとは少し別です。たまたま避難者追出し裁判に関わるようになり、そこで、福島県が災害救助法を使って避難者を仮設住宅から追出そうとしているのを知り、そもそも災害救助法って、地震台風大雨津波といった従来型の災害の救助のことで、原発事故が発生した場合の救助なんて想定していないんじゃないのか?と思った時です。
もっとも、当初、法の穴がそんなにひどい悪さをするとは思ってもみなかった。たまたま原発事故という過去に経験のない事故が発生したため、それに対する備えがなかった日本の法体系で「法の穴」が発生するのは当然だろう、ぐらいにしか考えていなかった。しかし、それは甘かった。そう気づかされたのは、子ども脱被ばく裁判の2021年3月1日の福島地裁の一審判決の言渡しがあったときです。

この一審で、原告らは5年間の間、血がにじむような努力をして、内部被ばく、低線量被ばくなど放射能の危険性を裏付ける事実・データを収集・主張して、放射能の危険性を証明しました。ところが、それが裁かれる一審判決では、これらの珠玉の事実・データがことごとく無視され、無残に蹴散らされる原告完全敗訴が下されたのです。その蹴散らす装置が行政の裁量論でした。一審判決は、至る所で、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられているというべきである」と言ってのけたのです(30頁。72頁。76頁。97頁。113頁。120頁。123頁。133頁。156頁)。
だから、SPEEDI情報を隠蔽しようが、文科省が福島県内の学校だけ線量を20倍に引き上げる通知を出そうが、それらはみんな行政庁の適切な裁量判断の枠内のことであって、違法の問題は生じない、と。

しかし、ここで一審判決が「行政の裁量論」で逃げ切るためには、越えなければならない1つのハードルがありました。それが、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがない」こと。
そのハードル越えを準備したのが、上に書いた「法の穴」。311まで日本の法体系は原発事故を想定していないから、原発事故の救済に関して法が全面的な「法の穴」状態にあるのは当然で、ただし、それは一見すると、単に初めから「法令の具体的な定めがない」かのようにも見える。そこで、一審判決は、ここに目をつけて、文科省20mSv通知にしてもSPPEDI情報隠蔽にしても、それらはみんな(初めから)
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがなかったんだ」
だから、そこで出番は行政の裁量論だと大見得を切ったのです。そして、そこから行政がやった措置の違法性を全面的に不問に付すまでは一直線に突進、いとも簡単に実現できると‥‥
‥‥とはいかず、悪事とてそうたやすいものではなく、ここには一審判決の一世一代の猿芝居、大うそつきが必要とされた。
原発事故の救済に関して法が全面的な「法の穴」状態にあったなら、そこでまずなすべきなのは「法の穴の穴埋め(法律用語で補充)」だからです。
しかし、頭のいい一審判決の裁判官たちは、ここ(「法の穴」→「法の穴の穴埋め」)を意図的にすっ飛ばし、スルーして、「法の穴」も口にせず、そして「法の穴の穴埋め」もしないまま、
「法令の具体的な定めがなかったんだから、そこは行政庁の裁量判断の出番でしょ」
とばかりに大見得を切った。その上、一審判決の裁判官たちがこの猿芝居を重々分かった上で演じたことは、原告弁護団の井戸謙一さんが発見した「7千倍の学校環境衛生基準問題」について、原告は次の通り、くり返し強調していたからです(原告準備書面(32)最終準備書面12頁以下)
2012年の環境基本法の改正により放射性物質が規制の対象となった結果、国は放射性物質について「環境基準」と「規制基準」を定める義務を負ったにもかかわらず、それをサボタージュしているため、現時点で、放射性物質の「環境基準」と「規制基準」は「法の穴」の状態にある。
そう指摘した上で、「法の穴」に対する本来の処置である、「法の穴」の穴埋めを実行することを試み、
他の毒物の「環境基準」と「規制基準」と同等の基準(それは、その毒物に生涯晒された場合、10万人に1人に健康被害が発生というもの)を放射性物質に当てはめれば、補充した「環境基準」と「規制基準」は追加線量で年2.9μSvとなる。つまり311後に行政が採用した年20mSvは、この補充した基準の実に7千倍である、と。

ところで、このロジックは別に新奇なものではなく、法律家として保守本流を行くやり方でした(田中成明「現代法理論」246~248頁)。
だから、一審判決は、上記ロジックを正面から否定することが出来ず、そこで、裁判官たちがやったことは、何食わぬ顔をして、原告の上記ロジックを無視して、法の穴など最初からどこにもなかったかのようにとぼけて「法令の具体的な定めがない」んだから、しょうがないね、それじゃあ、はい、行政の裁量の出番だ、と大見得を切ったのです。

原告弁護団の私も、直感的に、一審判決の胡散臭さを感じていたものの、その当時、この判決の騙しのテクニックを見抜くまではできなかった。

今回、東京で行われている追出し裁判の準備の中で、行政裁量論を全面展開する必要があって、それを再考する中で、
行政裁量の土俵の上に乗って、その中で「裁量の逸脱濫用」を論じるというのは既に、負けているんじゃないか、
一審判決が突如、持ち出して来た行政裁量論という土俵の上に乗ること自体の問題点を再考しないとダメなんじゃないかと思い、
そこから、311後の人権侵害を象徴する重要論点「7千倍の学校環境衛生基準問題」に焦点を当てたとき、なぜ、この原告主張が311後の人権侵害を象徴することができたのか、その理由を再考している中で、
そうだ、この原告主張では、
「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行したから、そこで、311後の年20mSvが穴埋めをした基準と比較して7千倍になっているという、いかに残忍酷薄の人権侵害であるかが白日の下にさらされたんだ
ということに気がつきました。この原告主張で、もし「法の穴」の発生を指摘せず、「法の穴の穴埋め」も実行しなかったら、311後の年20mSvがいかにむごいものであるかも単純明快には証明できず、一審判決と変わり映えのしない主張にとどまっていたはずです。

くり返しますと、なぜ「7千倍の学校環境衛生基準問題」が311後の行政の措置の人権侵害振りを燦然と鮮やかに指摘し得たかというと、それは、「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行して「本来の法の姿」を示し得たからです。
その結果、憲法の基本原理「法治主義」、その行政への適用である「法律による行政の原理」に行政は従う義務を負っており、311後も、行政は、この「法の穴の穴埋め」を実行して得られた「本来の法」に従う義務があり、それを愚直に実行したら、311後の行政の措置はことごとく違法という判断が下されたはずです。
しかし、現実には、そのような判断とは間逆のことが起こった。それが、福島原発事故の発生で、原発事故の救済に関する法は不在だと判明したのだから、ここは「法令の具体的な定めがない」とみなして、行政が従うべき法律が不在なんだから「法律による行政の原理」は停止され、行政への全権委任もやむを得ないだろうということで、311後のあらゆる人権侵害が堂々と正当化されるという事態です。

ここから引き出される教訓は、我々は「7千倍の学校環境衛生基準問題」にとどまらず、311後のあらゆる人権侵害問題で「法の穴」の発生を指摘し、その上で「法の穴の穴埋め」を実行して「本来の法の姿」を示してみせることに、徹底してこだわるべきだ、と。
幸い、今、日本政府の人権侵害は世界の注目を浴びていて、国際人権法が、311後の日本の法の穴を穴埋めする最良の規範として、私たちの目の間に存在するのです。まさに、国際人権法が「ピンチをチャンス」に変えるキーワードなのです。

それを試みたのが福島地裁・仙台高裁と東京地裁の2つの追出し裁判です。

今その観点から、追出し裁判の書面を書いています。
とはいえ、以上の仮説は、今までどこにも書いてない、だれも正面から主張していないものです。
しかし、私は、この「法の穴」問題が311後の日本の独裁的な法体制を作り上げる上で、キーワードになっているのではないかと思い、これを皆さんに問題提起したいと思った次第です。
その問題提起をさらに理解してもらうために、追出し裁判のために、大法螺を吹いていると批判されそうな私の草稿を添付します。

【第171話】最高裁にツバを吐かず、花を盛った避難者追出し裁判12.18最高裁要請行動&追加提出した上告の補充書と上告人らのメッセージ、ブックレット「わたしたちは見ている」(24.12.20)

1、これまでの経緯 2011年に福島県の強制避難区域外から東京東雲の国家公務員宿舎に避難した自主避難者ーーその人たちは国際法上「国内避難民」と呼ばれるーーに対して、2020年3月、福島県は彼らに提供した宿舎から出て行けと明渡しを求める裁判を起こした。通称、避難者追出し訴訟。 それ...