子ども脱被ばく裁判、2021年3月1日の福島地裁一審判決の言渡し直後
これは子ども脱被ばく裁判の弁護団MLに投稿したもの。
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井戸さんへ
柳原です。
昨日、避難者の追い出し裁判の検討をする中で「法の欠缺」問題の重要性を再発見することがあり、それで、6年前のこちらの裁判の弁護団会議のことが思い出されたので、それについてコメントさせて下さい。
今、デスクトップPCが電源ユニット不具合のため使えず、それで記憶に頼って書いてるのですが、確か2017年の連休前に弁護団会議をやった時、井戸さんが、被告基礎自治体の義務についてという副題の準備書面(32)の草案を書いて、これを説明してくれました。
一通り聞き終わった弁護団は、その書面の衝撃にしばらく声を上げることが出来ずにいて、
おもむろに、私から、「これ、記者会見すべきなんじゃない?」ともっと威張ったらいいんじゃないのという感じで言ったら、謙虚な井戸さんから、笑いながら「いや、いや」とやんわり拒否されました。それが「法の欠缺」を初めて取り上げて、「7千倍の学校環境衛生基準問題」を主張したときのことです。
そのとき、私が井戸さんに、「どうやって、こんな凄いことを思いついたの?」と人の家に土足に踏み込むようなえげつない質問をしたら、「いやいや、『放射能汚染/防止法』を提唱している札幌の山本弁護士の本を読んで、ヒントをもらったんだ」とあっさり、種明かしまでしてくれました。
尤も、この時の準備書面(32)(※)は「7千倍」までは主張しておらず、最終準備書面の冒頭で、350倍という主張をしたんですね(1mSvに対して)。
(※)
準備書面(32)
最終準備書面
しかし、記者会見こそしなかったものの、一審では準備書面(32)はもとより、その後も最終準備書面12頁以下で「7千倍の学校環境衛生基準問題」の重要性を思い切り強調して主張したのに対し、一審判決(※)は、この問題に正面から何一つ答えることなく、コソコソというより、堂々と無視して、裁量論の土俵の中で、20mSv基準を裁量の範囲内だとして適法のお墨付きを与えました。
(※)一審判決の全文->こちら 判決要旨->こちら
その判決の卑劣さに対する無念さを、2021年3月1日の判決言渡し直後、井戸さんは次のように吐露しました。
ここでは、原子力法制の価値判断と日本国憲法下の環境法制の価値判断が正面からぶつかります。環境法においては(学校環境衛生基準も同様)は、放射性物質のような閾値(しきいち)のない毒物の環境基準は、生涯その毒物に晒された場合における健康被害が10万人に1人となるように定められています。それが環境法の価値観なのです。これに対し、原子力法制下で一般公衆の被ばく限度とされている「年1ミリシーベルト」は、生涯(70年間)晒されるとICRPによっても10万人中350人ががん死するレベルです。年20ミリシーベルトであれば、なんと10万人中7000人ががん死します。この決定的な価値観の対立の中で、この判決が原子力法制の価値判断を優先させて採用する理由は、全く示されていません。私たちが最終準備書面において力を入れて書いた論点であるにも関わらずです。http://datsuhibaku.blogspot.com/2021/03/blog-post.html
それで、今、振り返るに、この時の一審判決のあくどさ、その悪行の論理構成について、もっと徹底的に突詰めるべきだったと。なぜなら、あのときの遠藤裁判長は、裁判官室という楽屋裏で、この「7千倍の学校環境衛生基準問題」をどうやって始末するか、それで大汗をかきながら、一世一代の猿芝居を演じることにしたからです。
だから、我々としては、このとき、準備書面(32)で初めて指摘した「法の欠缺」状態の発生と、この欠缺の補充作業の必要性と、そして、いかにして補充作業を行うかという補充作業の方法論について、徹底的に解明すべきだった。なぜなら、一審判決は「法の欠缺」問題に脚を踏み入れるのをまるで地雷を踏むかのように徹底して恐れまくり、一歩も近付こうとしなかったからです。なぜなら、ひとたび、裁判所を「法の欠缺」問題に引きづり込んだら、判決はあんな一文、
「行政庁の処置について、法令の具体的な定めがないが、そこでは行政庁の適切な裁量または専門的かつ合理的な裁量に委ねられている」
なんてアンチョコなロジックでもって、この「7千倍の学校環境衛生基準問題」を一件落着なぞできなかったはずだからです。
もっとも、欠缺の補充において、いかにして補充作業を行うかという問題は一義的に解決できない問題です。しかし、少なくとも、そこで、「序列論」に従って、当該法律の上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定を踏まえて補充すべきであるという方法論が展開できますから、
そうすれば、所詮、法律レベルでしかない原子力法制の価値判断が、その上位規範である「憲法」や「国際人権法」の指導原理や規定に反することは出来ず、その1例として、平等原則を持ち出し、子どもの命、健康を守るという最も重要な人権保障ために、有害物質をめぐる環境衛生基準と放射性物質をめぐる環境衛生基準との間に差別を許容する合理的な理由が認められるか?認められないだろうという議論が可能になります。
今思うに、遠藤裁判長が判決でいきなり持ち出した裁量問題という土俵にこちらもそのまま乗ってしまうのではなく、彼が論じるのが嫌で嫌で逃げ回った学校環境衛生基準をめぐる「法の欠缺」問題こそ、我々からその問題の重要性を正しく掬い上げて、準備書面(32)で初めて明らかにした「欠缺の補充」による正しい解決の必要性を、あれで終りにするのではなく、これが認められるまで、今からでも何度でも、強調し続けるべきではないかと思ったのです。
まとめ。
「7千倍の学校環境衛生基準問題」が、準備書面(32)で初めて明らかにした、「法の欠缺」の認識→「欠缺の補充」の実践という風に正しく解決された時、それは原発事故の救済に関する全ての法律問題の正しい解決の出発点になる。なぜなら、避難者追出し問題をはじめとした原発事故の救済に関する全ての法律問題は、どれも、原発事故を想定していなかった日本の法体系の「法の欠缺」状態の中に置かれているところ、与党政府がこの問題を、チェルノブイリ法日本版の制定のように「立法的に正しく解決」しようとしない現在、我々に残されているのは「欠缺の正しい補充」によるしかないし、ひとまずそれで十分なのですが、その際、今述べた「7千倍の学校環境衛生基準問題」の解決がその輝かしいモデルになるからです。
表題の『311後の日本社会の人権侵害のすべては「7千倍の学校環境衛生基準問題」の中に詰め込まれている』というのはそういう意味です。
それくらい、この問題は決定的に重要なんだと、昨日、再発見した次第です。