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2022年6月14日火曜日

【第86話】5.18仙台高裁第3回子ども脱被ばく裁判の弁論の提出書面:明治以来の法学教育のエッセンス「拒絶法学」の最高峰「行政裁量論」への挑戦

  5月18日に仙台高裁で、子ども脱被ばく裁判の第3回口頭弁論が行われました。

当日(正式に提出扱いとなった)準備書面の主要なものと、その要旨陳述書面をアップします。

控訴人準備書面5(行政裁量論)

同書面の要旨

控訴人準備書面7(環境基準)

このうち、準備書面5は、実は、本年2月の前回の期日前に提出済みでしたが、その書面の冒頭に、
「本書面の記述は、控訴人らが考える行政裁量論の正しい適用の理想からみれば、今なお完成途上の不完全なものである。」
この程度が私たちの主張の全貌だなんて勘違いしない頂きたい、と偉そうに書いたのを裁判長に取り上げられて、
「未完成なようなので、完成したものを提出して下さい」
と完成を促されて、それで今回、再提出となったいわくつきのものです。

おかげで、この3ヶ月間、バージョンアップをする機会を与えられ、練り上げたのが今回提出の準備書面5です。

実は正直なところ、この書面を理解するのはかなり骨がおれます。
この書面のテーマが、「裁量」というものが認められる範囲内の行政庁の行為なら、行政庁が行った行為がどんなに不当だと言われようがそのために「違法」となることはなく、その結果、裁判所で責任追及されることもない、という「行政庁のお守り」みたいな「行政裁量論」に関するものだからです。

「行政裁量論」はおそらく、日本の裁判で問題となる法律問題のうちでも難問中の難問と言われるものです。

明治以来の日本の法学教育のエッセンスを「拒絶法学」(市民の要求を蹴っ飛ばすための法律の屁理屈)だと喝破したのは、戦前に自由法学を提唱した高名の民法学者末弘厳太郎ですが(以下の戒能道孝の講演参照)、
そのなかでも「行政裁量論」はこの「拒絶法学」の最高峰です。なぜなら、市民がいくら、その行政庁の行為は「違法」だと主張しても、いや、それは裁量の範囲内の行為だからとさえ言えば、それで市民の要求を蹴っ飛ばすことができるからです。

2018.12.22「チェルノブイリ法日本版学習会」のプレゼン資料112~114頁



しかし、市民の要求を蹴っ飛ばすための法律の屁理屈の最高峰が行政裁量論だとすれば、日本で市民の自己統治の社会を打ち立てるためには、どんなに困難でも、この屁理屈を蹴っ飛ばす「真っ当な理屈」を打ち立てることは避けて通れない課題です。
その無謀な試みが今回の準備書面5です。

2月に、裁判長が「ちゃんと完成したものを読みたい!」と言ってくれたんで、了解!と快諾したものの、「言うは易し、行い難し」だと内心、ヒーヒー言いながら、前人未到の議論を暗中模索してきました。
けれど、今回の行政裁量論の主張が成功しているかどうかを判定する人は、専門家ではなく、むしろ「市民の要求を蹴っ飛ばすための法律の屁理屈」でこれまでずっと苦しめられてきた私たち市民ひとりひとりです。

その積りで、裁判官だけではなく、傍聴する皆さんに理解してもらいたくて、裁判当日で読み上げる準備書面5の要旨を作成しました(そのPDFは->こちら)。

その要旨の当日の完成版もアップします(そのPDFは->こちら)。

私の今回の書面を作成した思いを、最後の結語のところにズバリ書きましたので参考までに、以下に転載します。

これが市民の自己統治の社会を打ち立てる上で、参考になれば幸いです。

          ***************

 第10、結語
 最後に2つのことを指摘しておきたい。
第1は、本書面に新たな事実の主張はない。全て原審で主張済みの事実ばかりである。それならなぜこれほど紙面を費やしたのか。ひとつにはそれは、原審で、控訴人らが血がにじむような努力をして、内部被ばく、低線量被ばくなど放射能の危険性を裏付ける事実・データを収集・主張して、放射能の危険性を証明しても、判決のゴール手前の所でこれら珠玉の事実・データがいとも軽々と無視され、無残に蹴散らされてしまうのを原判決で目撃したからである。その蹴散らす装置が行政裁量論である。控訴人らは福島原発事故の放射能の暴走を認めるわけにはいかないと同時に、原判決の行政裁量論の暴走も認めるわけにはいかない。そこで、何とか控訴人らが肯定できる「もう1つの行政裁量論」を提示し、その新たな判断枠組みの中に、これまで控訴人らが主張してきた重要な諸事実をもう一度当てはめて検討し直してみた時、原判決が示した世界とどれくらい違って見えるものか、実証したかったからである。

第2に、福島原発事故後に、行政裁量論が暴走したのは偶然ではなく、起きるべくして起きた理由がある。それは、福島原発事故で、未曾有のカタストロフィである福島原発事故に対応できるだけの「救済の法体系」が不在であることが判明したからである。あたり一面、ノールールの世界が出現した時、そこで、この真空地帯を埋めるのは行政庁の適切な裁量だと考えたのは原判決に限らない。だが、これは同時に行政権力の独走=暴走への道である。今日、行政裁量論に求められていることは個々の行政裁量の暴走に対する批判にとどまらず、行政裁量が暴走したくても暴走できないような構造的な判断枠組み作りである。この判断枠組みが適正に機能して行政裁量の暴走をストップできた時、行政裁量論の欺瞞を回避して正義に接近することが可能となる。そのとき初めて、我々の裁判は、内部被ばく、低線量被ばくなど放射能の危険性を裏付ける事実・データを正当に事実認定し、なおかつ正当に評価を与えることが可能となり、光学的欺瞞を回避して放射能の真実に接近できると信ずるものである。

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