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2024年11月18日月曜日

【第166話】10.30チェルノブイリ法日本版のさいたまミニ学習会の報告(24.11.18)

 9月29日のチェルノブイリ法日本版のさいたま学習会で、時間切れのため、日本版の条例案についての話が出来なかった。そこで、それについての補講を、10月30日、少数のメンバーを相手に行なった(ミニ学習会)。

以下がその動画とプレゼン資料。

 1、前半(前座)



2、後半(条例案解説)


3、プレゼン資料PDFまたは(下の画像をクリック)


以下は、参加者の皆さんに送ったコメント2つ。

1、報告
昨日は長時間に渡り、お付き合い頂き、ありがとうございました。
この夏に「脳化社会」論に直面して以来、私の頭の中は全てのことを再吟味せずにはいられなくなったのですが、その中でも、日本版の条例案の再検討は最もハードルが高く、手も足も出ないままでした。

今回、その条例案の壁に挑戦する貴重な機会を授けて頂き、感謝のコトバもありません。
若い頃に、「人は5分と思考することに耐えられない。それ以上は単に習慣、惰性、ダラダラとぼんやり考えているだけで何も考えていないにひとしい」という言葉に震撼させられ、5分以上考えることを目標にして来ましたが、今回のミニ学習会のおかげで、1日半、考える時間を持つことができ、その中での新しい気づきと出会ったことは私にとって最高の宝でした。

プレゼン資料の最後に書かせてもらいましたが、
学習するとは、単に物知りになるのではなく、自分が変わること、それは自分の認識が変わることだけでなく、自分の行動が変わること。
ただ、それは一気に変わる必要はなく、一歩変わること。
昨日の学習会を経験して、私自身もその一歩前に踏み出すことが出来ました。
これからも、皆さんと、一歩前に出る市民運動を共有できたらと願っています。
取り急ぎお礼まで。 

・・・・・・

最後にお詫びを。
昨日の第一部のあとの休憩中に、Xさんから、市民の意識の変化が社会を変えることについて、日本版の中で話して欲しいとリクエストされ、快諾したにもかかわらず、結局、話できませんでした(プレゼン資料に書いてなかったため)。

そもそも、過去に前例のない福島原発事故そのものが私たち市民の意識を否応なしに変化させました(例えば、一瞬にして東日本が壊滅の危機という意識は過去に誰も持ったことはなかった、)。それゆえ、前例のない原発事故の救済もまた、前例のない取り組みです。私たち市民が従前の意識の中にいたままで、これと取り組めるはずがありません。
日本版のエッセンスは、過去の希望の扉をすべて叩いて、そこから未曾有の惨劇と悲劇である原発事故の救済の道筋を暗中模索する、ことです。
私にとって、その希望の扉の1つが、国難に対する市民型公共事業の取り組みです。その過去の希望の扉が、70年以上前、スペイン内戦で疲弊したスペインの寒村で、28歳の神父アリスメンディアリエタたちが始めた、「みんなで働き(協同労働)、みんなで運営する(協同経営)」モンドラゴンの協同組合による経済再建の取組みです。そして、霞ヶ浦の再生をアサザと市民のゆるやかなネットワークを使って市民型公共事業で成し遂げたアサザプロジェクトでした。
とりあえず、以下がその報告ですが、改めて、この希望の扉を、今、私たち自身の市民の意識変革のテーマとして位置づけて、紹介したいと思います。
モンドラゴンの協同組合もうひとつの復興は可能だ--モンドラゴンの可能性の中心-- 

アサザプロジェクトの再定義:進化する疎開裁判:市民運動家から社会起業家へ(2013.6.21)

2、予防原則について

今、1点気づいたことがあり、それを補足させて頂きます。
昨日の話の中で、予防原則が話題になりました。予防原則がどれほど重要なものか、その重要性について、以前から私は、ロシアンルーレットになぞらえて、次のように指摘してきました(例えば2019年6月の静岡市での学習会のプレゼン資料こちら)。

> 「子どもたちを被ばくのロシアンルーレットにさらさない」、それがチェルノブイリ法日本版
> 福島原発事故で私達は途方に暮れました。放射能は体温を0.0024度しか上げないエネルギーで人を即死させるのに、目に見えず、臭わず、痛くもなく、味もせず、従来の災害に対して行ったように、五感で防御するすべがないからです。人間的スケールでは測れない、ミクロの世界での放射能の人体への作用=電離作用という損傷行為がどんな疾病をもたらすか、現在の科学・医学の水準では分からないからです。つまり危険というカードが出せない。にもかかわらず、危険が検出されない以上「安全が確認された」という従来の発想で対応し、その結果、人々の命、健康は脅かされました。「危険が検出されないだけでは足りない。安全が積極的に証明されない限り、人々の命を守る」、これが私たちの立場です。つまり人々の命を被ばくというロシアンルーレットから守る。それが予防原則で、これを明文化したのがチェルノブイリ法です。


しかし、昨日の話の中で、新たな気づきがありました。
それは、子どもたちは知らない間に、あたかも自然現象のようにロシアンルーレットの中に置かれたのではなく、ロシアンルーレットを子どもたちをはじめとする人々を置いたのは、ほかでもない、原発を設置した日本政府、電力会社、原子力ムラの科学技術者たちだということです。

つまり、彼らは、自分たちが作り出した原発から発生する事故のために、多くの人々が被ばくによる健康被害を受ける可能性があるのに、その健康被害の範囲を科学的、医学的に証明する科学技術を準備していなかった(正確には持ち合わせていなかった)。それはひとたび暴れだしたら、何するか解らない獰猛な生き物をペットとして人々に与えるにひとしいことです。
彼らは、ひとたび事故ったら、そこから発生する健康被害の範囲を科学的に証明できないことを分かっていながら、その状態のまま、原発を設置したのです。
    ↑
ここで、次の規範が問われることになります。私は当然だと思うのですが、みなさんはどう思いますか。

過去に経験のない高度の先端科学技術を開発・駆使して作り出した人工装置を社会に持ち込み実用化する場合には、その装置の事故による被害についても、過去に経験のない被害が発生する可能性は高く、その事故と被害との因果関係を現時点の科学技術では証明できない可能性が高い。その場合、その事故と被害との因果関係が証明できない、いわゆるグレーであるという理由で被害者が泣き寝入りを強いられるべきではなく、そもそもそのような過去に経験のない、因果関係がグレーの被害を発生させる原因を作った人工装置の設置者がグレーについて責任を負うべきである。

この「事故で発生する健康被害の範囲がグレー(科学的に証明できない)の場合のリスク(責任)は原発を設置した者たち(国、電力会社)が負うべきある」。それが「グレーは被害者を守る」という予防原則です。

言い換えれば、原発事故による健康被害の問題に対して、先端科学技術を開発・駆使して原発を設置した者たち(国、電力会社)は中立(ニュートラル)の立場にいるのではない。本来であれば、こんな化け物みたいな未知の危険を持つ原発を設置した彼らは、単に原発事故防止の責任を負うだけでなく、原発事故による健康被害の範囲についても、先端科学技術を開発・駆使してそれを明らかにする責任がある。その責任が果たせないというのであれば、彼らはそんな無謀な原発の設置は許されないと言うべきです。
にもかかわらず、原発事故による健康被害の範囲を明らかに出来ないような無謀な原発設置を許可するのであれば、この原発事故による健康被害の範囲について、国、電力会社は、その範囲がグレーな被害者に対し、被害者を守る予防原則を受け入れることは当然のことです。
言い換えれば、国、電力会社は原発を設置する以上、予防原則を具体化したチェルノブイリ法日本版を受け入れるほかないのです。

2024年11月15日金曜日

【第165話】「脳化社会」の最悪の人権侵害者は「脳化社会」そのものの中にあり、その最大の賛同者にして被害者は「脳化社会」に安住する私たち市民である(24.11.15)

                               子ども脱被ばく裁判 福島地裁判決(2020年3月1日)

子ども脱被ばく裁判と避難者追い出し裁判が明らかにした最大のもののひとつが、人権の始まりであり人権の核心は、私の生き方、私の人生はほかならぬ私自身が選択し、決めるという「自己決定権」にあるということだ。

そこから、私たちが住む「脳化社会」がいかに人権侵害をはらんだ「人権侵害社会」であるかが浮き彫りにされた。なぜなら、福島原発事故に遭遇したとき、少なからぬ市民は、この前代未聞のカタストロフィから身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、前代未聞のカタストロフィから身を守るために選択すべき行動を決定するためには、自前で手に入る情報だけでは到底不十分・不可能であり、そのためには、これに必要な情報を独占している政府と福島県からの情報提供が不可欠だった。にもかかわらず、それを求める市民にその情報は届けられなかった(開示・提供されなかった)からである。
しかも、その悪質極まりない情報隠蔽は(政府や福島県にとって、これほどまでに深刻な原発事故は初体験だったにもかかわらず)何食わぬ顔をして、ぬけぬけと実行されたのである。
なおかつその悪徳行為の最大の被害者である市民の間からも、2014年のセウォル号沈没事故直後、遺族が朴槿恵大統領の青瓦台に向かって抗議行進したように、福島原発事故発生直後、菅直人首相の首相官邸に向かっての抗議行動はついに起きなかったのである。

セウォル号沈没事故で犠牲になった高校生らの遺族が、朴槿恵大統領との面会を求めて青瓦台に向かって抗議活動。2014年5月9日 ロイター/News1

このとき、なぜ市民の間から抗議行動は起きなかったのか。私たち市民が生涯でいっぺん経験するかしないかの「自己決定権」の行使が問われた、一世一代の瞬間だったにもかかわらず。

それはひとえに私たちが「脳化社会」に安住していたからではないのか。
なぜなら、私たちの住む「脳化社会」は、私たちに「安全・安心」な快適な環境を保障する代わりに、その代償として私たちに「脳化社会」が出す指示、命令に唯々諾々と従うことが暗黙の掟になっているからだ。その見えない「掟」が私たち市民にとってどれだけ強力なものか、それはカフカが「掟の前で」で描いた通りだ。

福島原発事故が起きるまで、原子力ムラは「安全神話」の中で眠っていたと批判されるが、眠っていたのはなにも原子力ムラだけではない。「脳化社会」に安住する限り、私たち市民はみんな眠っていたのだ。 だから、福島原発事故で無知の涙を流して覚醒した一部の人たちを除いて、「脳化社会」に安住していた市民は、原発事故後も引き続き、「脳化社会」を疑うことをせず、「脳化社会」が出す指示、命令に、内心はものすごく不信、不快だったにもかかわらず、表向きは唯々諾々と従ったのだ。その結果、他方で、彼らは原発事故から身を守りたいと切実に願ったにもかかわらず、その実現のために必要な抗議行動に出ることができなかった。これは一世一代の痛恨事だ。

 市民は「脳化社会」に安住する意識にとどまる限り、願いを実現するために必要な行動に移せなかった。それは生涯悔いても悔い切れない痛恨事である。

この痛恨の経験が教えることは、私たちを覆っている「脳化社会」こそ私たち市民の自己決定権を不断に奪い去る、最悪の人権侵害システムだという訓えである。この痛恨をくり返さないためには、一度は本気で、「脳化社会」の掟と対決する必要がある。

私たち市民団体が今月8日に提訴した、ゆうちょ銀行の口座開設不当拒否裁判は、「脳化社会」の掟と対決するささやかなアクション、一歩前に出る行動である(その詳細こちら)。

 

【第164話】「脳化社会」最先端を行く中国で、一歩前に出ることをやめない人、閻連科は言った「今の中国ではどんなことも起こり得る」(24.11.14)。

関連ニュース
11月16日江蘇省無錫の学校で、刃物を持った男が襲撃、8人死亡17人けが(>詳細)。
10月28日北京の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年3人を含む5人けが(>詳細)。
10月8日広州の路上で、刃物を持った男が襲撃、未成年2人を含む3人けが(>詳細)。 
9月30日、上海のスーパーマーケットで、刃物を持った男が襲撃、3人死亡15人けが(>詳細)。
9月18日、広東省深圳市の深圳の路上で、刃物を持った男が襲撃、日本人児童1人死亡(>詳細)。
6月24日、江蘇省蘇州の下校中の日本人学校のスクールバスで、刃物を持った男が襲撃、日本人親子がけが中国人女性1人死亡(>詳細)。
 
NHKニュース(24.11.13)

               
昨日のニュース「中国広東省で乗用車1台暴走、35人死亡、43人けが」。いったいどうやったら1台の乗用車でこれほどたくさんの人が死傷するのか。
閻連科

中国の作家閻連科は2012年にこう書いた。
今の中国ではどんなことも起こり得る

彼は、その翌年出版の小説「炸裂志」で、人口数千人の寒村が開放経済政策で瞬く間に一千万人を超える大都市に変貌した村を舞台に、経済至上主義のもとで、それまで普通だった人々が商品に化し、カネを熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、カネと権力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの富への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を描いた。
昨日のニュースの自動車殺傷事件は、この小説の舞台のすぐ隣りの町、同じように開放経済政策で瞬く間に大都市に変貌した珠海で起きた。


その12年前の2001年、彼は、小説「硬きこと水のごとし」で、1966年から10年間続いた中国の文化大革命で献身的な若き革命家が銃殺刑に処せられる目前で語る回想録ーーそれは、政治至上主義のもとで、それまで普通だった人々が政治的人間に変身し、権力を熱狂的に追求する怪物に変貌するさまを、権力と暴力が一緒になれば不可能はないさまを描いた。むき出しの権力への欲望に牽引されて、どんなことも起こり得る中国を次のような語り口で描いた。

軽々と目的を達成し、王鎮長を打倒しただけではなく、彼を監獄に送り、彼を現行反革命分子にし、二十年の刑にしたのだ。これは意外なほど簡単で、俺と紅梅は革命の魔力と刺激を心から感じることができ、‥‥そして、どうしてこの時期に、メクラも半身不随も、どんくさい豚も犬のクソ野郎も革命をやりたがり、みんな革命を起こすことができ、みんな革命家になりたいと思い、革命家になることができたのかという根本原因がどこにあるか分かったのだ。

文化大革命も開放経済政策も、それは政治と経済の分野のちがいはあるものの、どちらも人間の欲望をエサにして、社会をとことん作り変えようとする「脳化社会」の実験場だった。その狂走の末に、いま、中国社会はカネと権力が一緒になれば不可能はないと考える、誰一人まともな者はいない「脳化社会」の成れの果てを迎えている。

 いわば暴走する「脳化社会」列車に乗った中国の運転手たちは、今や茫然自失としている。その中にあって、今迎えている「脳化社会」の成れの果てをさらにもう一歩前に出ることをためらわず、やめない人がいる。それが閻連科である。

彼はまるで、かつて際限のない殺戮に陥った宗教戦争の成れの果てに、宗教的寛容という世界最初の人権が出現した人類の奇跡の瞬間を、再び、「脳化社会」の成れの果ての中に見つけ出そうと、気魄をみなぎらせ、掘り進む探求者のようだ。

その中国が開放経済政策でモデルにしたのが日本。その日本に追いつけ、追い越した中国が今迎えた「脳化社会」の成れの果て。そのゴミ屋敷の中で起きた昨日の中国ニュース、それは明日の日本の姿である。つまり日本も、これからどんなことも起こり得る国になる。
しかし、私たち市民が明日のモデルにするのは中国のゴミ屋敷だけではない。それが、「脳化社会」の成れの果てと向き合い、そこから一歩前に出ることをためらわず、やめない人、閻連科の行動である。

私がチェルノブイリ法日本版と取り組むのは「脳化社会」の成れの果てを迎えた日本のゴミ屋敷から一歩前に出るためであるが、閻連科はそのための最良のモデル、そして百年前の魯迅に続いて遭遇した朋輩である(つつしんで老年に告ぐ「老年よ、大志を抱け」)。

 

【第168話】最高裁は子どもたちに謝罪すべきだ(子ども脱被ばく裁判の2024年11月29日最高裁決定に対する抗議文)

2024年12月14日、新宿アルタ前アクションで、子ども脱被ばく裁判の2024年11月29日の最高裁決定(本文は以下。全文> こちら )に対する抗議文を読み上げた。 以下は、その動画と抗議文全文(PDF> こちら )。 ◆ 1回目 ◆ 2回目 2024年12月14...