司法試験に毎年落ち万年受験生の肩書を手に入れた私の悩みは「法律ってなんだ?」。だが生憎、私の悩みに答えてくれる書物はなく巷の教えはどれも「くだらないことで悩むんじゃない!」。
20代の終わり、とうとう同類に出会った。それが「日本の法学の先駆的業績」と評される川島武宜。彼の主著「科学としての法律学」は、法律とは素人に分からない「秘伝奥義的技術」を駆使して、素人をちょろまかすためのものだと喝破。そこから、川島は「秘伝奥義的技術」の法律に代わるものとして「科学としての法律学」の確立を主張した。
川島のこの教えを実行したのが子ども脱被ばく裁判の原告。一審で原告は、被ばくの健康影響について可能な限りの客観的データと科学的考察に基づいて、放射能の危険性を立証しようとした。
半世紀前、公害反対運動に尽力した法学者の戒能通孝は講演でこう言った「明治以来の大学の法学教育のエッセンスは何か?それは、将来、役人や裁判官になる法学生達に『拒絶法学を叩き込むこと』にある。拒絶法学とは何か?それは、市民の要求を蹴っ飛ばす(拒絶する)ための屁理屈のことである。これを教え、身に付けさせて、市民の要求をことごとく退けて、諦めさせる、それが大学の法学教育の目的であった」と。その拒絶法学の金字塔が「行政裁量論」。行政が何をしようが、市民に「違法だ!」と文句を言わせないための殺し文句だから。そしてこの横暴の極みが子ども脱被ばく裁判の一審判決。原告が血のにじむような努力をして、内部被ばく・低線量被ばくなど放射能の危険性を裏付ける事実・データを収集・主張して放射能の危険性を証明しても、判決のゴール手前でこれら珠玉の事実・データはいとも軽々と無視され無残に蹴散らされた。その蹴散らす装置が「行政裁量論」。だから、これは「秘伝奥義的技術」の最高峰を極めた理不尽の極み判決である。
しかし、私たちは福島原発事故の放射能の暴走を認めるわけにはいかないのと同様、一審判決の行政裁量論の暴走も認めるわけにはいかない。そこで、市民の要求を拒絶する「秘伝奥義的技術」の行政裁量論に代わるものとして、「科学としての法律学」として「もう1つの行政裁量論」を提示し、行政裁量論が暴走したくてもできないような、市民の願いを受け止める枠組み作りを目指している。これこそ真の復興である。
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