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2021年9月4日土曜日

【第76話】筑波大「学問の自由侵害」裁判9月8日第1回弁論を前に 「なぜ今、学問の自由の侵害なのか」(21.9.4)

来週9月8日(水)午前10時から、東京地裁6階631号法廷で、平山朝治VS筑波大学の「学問の自由」侵害裁判の第1回弁論が開かれる(第1回弁論の詳細は->こちら裁判の概要->こちら)。

     時事通信の記事『削除は違憲筑波大を提訴 アイドル暴行事件論文で教授 東京地裁」より

事件の概要
原告は、論説NGT48問題・第四者による検討結果報告」の著者。本論説2020年1月より筑波大学のリポジトリで一般公開され話題となっていたところ、年4月、株式会社Vernalossom(旧社名AKS。以下、AKSという)より「論説は当社の名誉毀損にあたり、リポジトリからの削除を求める、さもなければ提訴する」という抗議文が原告と筑波大学に寄せられた。それに対し、筑波大学は自分の大学に所属する原告の学問の自由の擁護に努めるのではなく、「提訴を避けたい」という我が身の保身しか考えず、原告に内密にAKSと連絡を取り、原告に無断で、すぐさま筑波大学のリポジトリから本論説を削除。

この削除を知った原告の度重なる抗議にもかかわらず、さらには、AKSの抗議文を調査するため大学が設置した調査委員会の報告書が「論説の内容が名誉棄損であるとはいえない」と結論を出したにもかかわらず、筑波大学はAKSとの密約を履行するため、迅速に削除した後1年以上にわたり現在に至るまで、本論説をリポジトリに再公開しなかった。

今回の事件は、本来、所属する研究者の学問の自由を擁護する立場にある大学がこともあろうに、所属する研究者の学問の自由の侵害を自ら進んで手を貸して実行・継続するという、大学としてあるまじき前代未聞の醜聞、大学の自殺行為。この裁判はこうした異常事態をただし、もって、学問の自由の回復をめざそうとする取り組み。


この裁判開始にあたって、改めて、なぜ今、この国で学問の自由の侵害が問題になるのか、それについて、本年6月18日 の提訴直後に書いたコメントを再掲する。

その答え一言で言うと、この国の研究者、専門家は今、
歌を忘れたカナリア」になることを止め現代の隠れキリシタン」になることを止め、「歌を取り戻すカナリア」に戻る必要があるということ、この裁判の原告「歌を取り戻すカナリア」になろうとした一人である。

そして、私の頭にあるのは、戦前の、90年前日本。当時始まったばかりの民主主義が崩壊し、急速に軍国主義、戦争へと転落していった転換点が京大と東大で起きた学問の自由の侵害事件(1933年の滝川事件、1935年の天皇機関説事件)だったこと。この2つの事件をきっかけに、研究者、専門家は一斉に「歌を忘れたカナリア隠れキリシタン」に転じてしまった。この出来事は、決して過去の過ぎ去った出来事ではなく、いつでも反復する可能性を持った今の問題であことを教えてくれたのは、晩年の丸山真男である(『丸山眞男回顧談』ほか)。

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【ブログ再開の言葉】なぜ今、学問の自由の侵害なのか(21.6.23) 

民主主義が幕を閉じ、独裁国家が完成するというのはお隣の香港やミャンマーの話だけではなくて、この私たちの国で進行中の話だ。
ただし、この国の光景は香港やミャンマーのように市民に対する公然の強権的な弾圧や抑圧ではなく、このたび開示された森友学園の財務省決済文書改ざん問題の「赤木フィアル」が示すように、もっと陰険で、陰でコソコソ、そしてジワジワと抑圧が進められる。
その結果、私たち市民の知らない間に、民主主義の基盤・中核部分が破壊されていき、民主主義から独裁体制にじわりじわりと移行する。
その民主主義の基盤・中核の1つが、今日の文明社会の科学・技術・文化を担う知識人、研究者、技術者たちの市民的自由とりわけ彼らの発言の自由、表現の自由。それが学問の自由と言われるものだ。
彼ら知識人、研究者、技術者たちが帰属する組織は「言うことを聞かなければココから排除する」と恐怖心をもって彼らを制圧し、メシを食うためには発言の自由、表現の自由は押し殺さなければならないことを悟らせる。
その結果、彼ら知識人、研究者、技術者たちは自分たちに発言の自由、表現の自由があったことを忘れる「歌を忘れたカナリア」になるか、忘れずにそれらの自由は心の奥にしまい込んだ「隠れキリシタン」のいずれかになってしまう。
これが権力者にとって理想的な、強権的な弾圧や抑圧が見えない、臭わない、痛みもない独裁体制である。
いま、この国で進行しているのは、放射能災害のような、見えない、臭わない、痛みもない「理想的な独裁体制」だ。

この息が詰まるような「理想的な独裁体制」にノーという声をあげたひとりが4年前、東京大学による学問の自由の侵害を告発した柳田辰雄東大教授(当時)(提訴時の彼のメッセージは->こちら。そして、今月、筑波大学による学問の自由の侵害を告発した平山朝治筑波大教授(提訴時の彼のメッセージは->こちら)。
彼らは、知識人の市民的自由の大切さを、単に象牙の塔の教壇の上から語るのではなく、現実の場で勝ち取るために象牙の塔の外に出て、提訴という行動に出た。
それは市民にとっては迂遠な、無関係な雲の上の出来事に写るかもしれない。
しかし、それは「歌を忘れたカナリア」になることも「現代の隠れキリシタン」になることも拒否した、「歌を取り戻すカナリア」の出現である。
かつて、炭鉱事故を察知するために坑内に「カナリア」が置かれた。「カナリア」はいち早く炭鉱事故を察知し、その危険を訴えたから。
学問の自由の侵害を告発した彼らもまた民主主義の事故(独裁体制)を察知するために社会に出現した「カナリア」である(
)。
彼らが目指すのは、彼ら自身の人権の回復にとどまらず、私たち市民にとってかけがいのない、人が人として尊重される民主主義の基盤・中核を取り戻すことそのものである。 
                                                                (文責 原告代理人柳原敏夫)

)それは日本の戦前の歴史が証明している。戦前、京大と東大で起きた学問の自由の侵害事件(1933年の滝川事件、1935年の天皇機関説事件)を境に、日本社会は民主主義が幕を閉じ、独裁国家が完成する分岐点となった。
この2つの事件の歴史的意義を自らの体験も交えて強調するのは政治思想史家の丸山真男である(
『丸山眞男回顧談』ほか)。

2021年9月3日金曜日

【第75話】チェルノブイリ法日本版条例のモデル案(柳原案バージョン2)の解説(1)(前文)

 今年2月6日、チェルノブイリ法日本版条例のモデル案(柳原)の改訂版(バージョン2) を公開しましたが(その記事は->こちら、以下その解説、まず前文についてです。

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前文
                             【前 文】

伊勢市民は、全世界の市民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに健やかに生存する権利を有することを確認し、なにびとといえども、原子力発電所事故に代表される放射能災害から命と健康と生活が保障される権利をあることをここに宣言し、この条例を制定する。

他方、原子力発電所等の設置を認可した国は、放射能災害に対して無条件で加害責任を免れず、住民が放射能災害により受けた被害を補償する責任のみならず住民の「移住の権利」の実現を履行する責任を有すると確信する。その結果、この条例の実施により伊勢市が出費する経費は本来国が負担すべきものであり、この点を明らかにするため、国は、すみやかに地方財政法10条17号、同法28号に準ずる法改正を行なう責務を有すると確信する。

加えて、放射能災害に対して無条件の加害責任を負う国は、事故が発生した原子力発電所等の収束に従事する作業員に対しても、放射能災害により被害を被った住民と同様、当該作業員が放射能災害により受けた被害を補償する責任のみならず当該作業員の命・健康を保全する責任を有すると確信する。

もっとも、今日の原子力発電所事故の巨大な破壊力を考えれば、この条例の制定だけで放射能災害から伊勢市民の命と健康と生活を保障することが不可能であることを認めざるを得ない。したがって、私たちは、三重県の自治体、さらには日本の全自治体に対して、各自治体の住民の名において、この条例と同様の条例を制定すること、さらにはこれらの条例の集大成として、日本国民の名において同様の日本国法律を制定することを呼びかける。

さらに、原子力発電所事故が国境なき過酷事故であることを考えれば、わが国の法律の制定だけで放射能災害から日本国民の命と健康と生活を完全に保障することが困難であることも認めざるを得ない。したがって、私たちは、この条例制定を日本のみならず、全世界の自治体、各国に対して、原子力発電所を有する世界の住民の命と健康と生活が保障する自治体の条例、法律の制定を呼びかける。

この呼びかけが放射能災害から全世界の市民の命と健康と生活を保障する条約を成立させるための基盤となることを確信する。
伊勢市民は市の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


参考1(憲法 前文)

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

 
参考東京都公害防止条例 前文)
     (準備中。とりあえず画像で


前文の解説

チェルノブイリ法日本版条例(柳原案)の前文について

1、パクリ

憲法や人権宣言に通じている人なら、この前文がパクリだと気がついたと思います。確かにそれは日本国憲法前文とマンチェスター非核平和都市宣言の呼びかけ文[1]のパクリでした。ここで重要なことは、なぜパクリをしてまで、この前文を置くべきだと考えたかです。普通の法律や条例なら、わざわざ前文など置かないからです。実は、なぜ前文が必要と考えたのか、草案作成当時(2017年)、「置くべきではないか」と直感的に思っただけで、その理由を明確に自覚していませんでした。4年も経った今年になって初めてそれがハッキリしました。

2、新しい革袋

前文を置いたのは、チェルノブイリ法日本版が原子力災害(放射能災害と同じ意味で使います)における日本のそれまでの法律の延長線上の法ではなくて、それとは基本的な性格を一変した「新しい酒は新しい革袋に盛れ」の「新しい革袋」であったので、その点を明確に示しておくことが必要だと考えたからです。ではどの点で、それまでの法律の基本的な性格が一変したのか。これまで日本の法律は、災害の救済において市民に「生命・健康・身体を害されない」という人権を保障してきませんでした。災害が発生すると政府や自治体は市民の災害救助のために必要な指示・命令を出し、市民はこれらの指示・命令に従う義務を負う、受動的な存在に過ぎませんでした。災害救助法には「権利」という言葉は一度も登場しません。災害の1つである原子力災害(原発事故など)でもこの性格は変わりません。福島原発事故発生により、政府の判断で事故周辺市町村の市民に「避難指示」という命令を出し、周辺市民はこの命令に従う義務を負う存在にすぎませんでした。そこには次の考え方はこれっぽっちもありませんでした――市民には放射能から生命、健康、身体が害されないために「避難する権利」が保障されており、政府はこの人権を保障する義務を負っている、と。つまり、311まで放射能災害における法律の基本的性格は、原子力災害の救済において市民は無権利であり、政府の指示命令に服従するだけの受身の存在にすぎない、と。しかし、よく考えたらこれはおかしいのではないか。そもそも個人の生命を最大限尊重し、保障されることは、日本国憲法が最高の価値を置く個人の尊厳からの当然の帰結であるばかりか、我々市民がこの国の主権者であること(国民主権)からも導かれる帰結です。だとしたら、この「命こそ宝」という人権の原理は原子力災害の場面においても、否、この場面においてこそ貫徹されるべきです。すなわち市民には放射能から生命、健康、身体が害されないために「避難する権利」が保障されており、政府はこの人権を保障する義務を負っている、と。これを明文化したのがチェルノブイリ法日本版です。そして、この態度は原子力災害におけるこれまでの(子ども被災者支援法も含む)法律の性格を一変する――原子力災害の救済における市民と国との関係をひっくり返す――画期的なものです。だから、このコペルニクス的転回のことを法律の冒頭で、前文として明らかにしておく必要があったのです。

3、日本国憲法の前文

これと同様の発想で、前文が置かれたのが日本国憲法です。日本国の憲法は、それまでの天皇主権と富国強兵に基づく明治憲法を抜本的に否定し、「人類普遍の原理」として市民が主権者であること、戦争を放棄し、戦争以外の方法で紛争を解決することを決意したもので、これは日本の歴史上前例のない画期的な出来事でした。そこで、この画期性、コペルニクス的転回を遂げたことの意義を憲法の冒頭で、前文として明らかにしておく必要があったのです。まさに「新しい酒は新しい革袋に盛れ」を実行したことを明確にするために前文を置いたのです。

この意味で、日本国憲法の前文はアメリカ独立宣言やフランス人権宣言に匹敵する、日本人権宣言なのです。

4、東京都公害防止条例の前文

同じく、これと同様の思想で、前文が置かれたのが翌年の「公害国会」を導いた1969年制定の東京都公害防止条例です。これはそれまでの「市民の生命、健康は経済の発展を阻害しない限りにおいて守られる」という調和条項を否定し、市民の生命、健康が害されないことは憲法が保障する最高の価値を有する人権であることを認め、この人権保障に対応して、東京都はこの人権を保障する最大限の義務を負うことを認めたもので、それまでの公害対策の法体系の性格を一変するものでした。そこで、この画期的なコペルニクス的転回について、条例の冒頭で、前文として明らかにしておく必要があったのです。公害対策において「新しい酒は新しい革袋に盛れ」を実行したことを明確にするために前文を置いたのです。この意味で、本条例の前文は公害という「社会的災害」に対する日本最初の人権宣言です。

ブリタニカ国際大百科事典は、次のように、この条例が日本の民主主義(直接民主主義住民参加)の偉大な成果・賜物であったことを指摘する。

1969年東京都が激化する公害に対処するために制定した条例。具体的施策を盛込むと同時に,住民の健康と快適な生活環境を保全することで,憲法 25条にある健康で文化的な最低限度の生活をおくる権利と,同 13条の幸福追求権を具体的基本権としたもの。これが契機となって全国的に環境保全,反公害の機運が高まり,70年のいわゆる公害特別国会において,公害対策基本法の改正をはじめ公害関係法令の大幅整備を行う機運が促された。また,この条例自体が,当時急速に底辺を広めていた住民運動の力に負うところが大きかったことから,初めての行政への住民参加の制度をつくり,その後の住民参加の原型の1つとなった。


5、チェルノブイリ法日本版条例の前文

以上の意味で、この前文の意義を正しく理解するためには、前文が否定しようとしたものが何であるかを注視する必要があります。311まで日本の災害救助の法体系は市民に人権を認めてこなかった。しかし、市民の生命、健康、身体に未曾有の惨禍をもたらす原子力災害が発生した時、そのような法体系では市民の生命、健康、身体を守ることができないことが明らかになった。そこで、市民の生命、健康、身体を守るためにはそれまでの国と市民の関係(国は指示命令し、市民は受動的にそれに服従する義務を負う)を否定し、これと正反対の関係(市民は生命に対する人権を保有し、国はこの人権を保障する義務を負う)を導入するしかなかった。そう決意した点がチェルノブイリ法日本版であり、この点が従来の法体系にはない画期的なところであり、その画期性を明らかにしたのが前文というわけです。この意味で、本条例の前文は放射能災害に対する日本で最初の人権宣言なのです。



[1] 「今日の核兵器の巨大な破壊力を考えれば、われわれの決議がそれ自体では意味を持たないことを、われわれは認めざるを得ない。したがって、われわれは、北西イングランドの近接自治体、さらには英国の全自治体に対して、その住民の名において、われわれと同様の宣言を行うことを呼びかける。(それらが)ヨーロッパに非核地帯を設置し、拡大して行くための基盤になり得ることを確信する」

【第171話】最高裁にツバを吐かず、花を盛った避難者追出し裁判12.18最高裁要請行動&追加提出した上告の補充書と上告人らのメッセージ、ブックレット「わたしたちは見ている」(24.12.20)

1、これまでの経緯 2011年に福島県の強制避難区域外から東京東雲の国家公務員宿舎に避難した自主避難者ーーその人たちは国際法上「国内避難民」と呼ばれるーーに対して、2020年3月、福島県は彼らに提供した宿舎から出て行けと明渡しを求める裁判を起こした。通称、避難者追出し訴訟。 それ...