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2020年9月11日金曜日

【第49話】非日常が日常を貫く様をリアルに描いた映画「ペパーミント・キャンディー」、それはまるで最後の審判を下す福島原発事故とチェルノブイリ法日本版だ(2020.9.11)

第1部: 光州事件と「ペパーミント・キャンディー」

2000年に公開された韓国映画「ペパーミント・キャンディー」。主人公はどこにでもいるような一人の若者。そのような真面目で前途有望な青年が、なぜ破滅に至らなければならなかったのか、韓国の独裁制と民主化の時代を挟んで、彼の20年間の個人史を、時間の歯車を逆にして、その謎を解明しようとした映画史に残る世界の一大傑作(英語字幕版->こちら)。

・ オープニング 音楽に乗って、列車が逆周りに走り続ける。


・ 1999年 春 ピクニック:地区の労働者のサークル主催の、鉄橋の下の河原のピクニックに20年ぶりに参加した主人公。しかし、絶叫し、川に飛び込むなど奇異な行動に出たあと、鉄橋の線路に侵入し、「戻りたい!帰りたい!」と叫び、列車と激突






・その3日前 カメラ:車中でピストルをくわえ自殺を試み、かつて警察の同僚で共同経営者だった人を待ち伏せ発砲。別れた妻が住むマンションを訪ねるが、中に入れてもらえない。ビニールハウスで暮らす彼に「初恋の人が会いたがっている」と見知らぬ男が連絡。病院に行くが、危篤で意識不明の彼女にペパーミント・キャンディーを置くと、泣き伏す主人公。


・1994年 夏 人生は美しい:主人公は店を経営、金回り、羽振りのいい生活だ。しかし、妻の浮気現場を突き止め、妻と相手をボコボコにする一方、自分も従業員と浮気。偶然、警察官だった7年前、拷問を加えた青年に再会。7年前を思い出し、彼に「人生は美しい、だろ?」と語りかける。



・1987年 春 告白:警察官として、全斗煥に抗議する学生運動の若い活動家を逮捕、殴打や水責めの拷問の末、供述を引き出す。泣きじゃくる活動家に主人公は「おまえの日記に『人生は美しい』と書いてあった。本当にそう思うか」と尋ねる。
張り込み先の非番に、バーで店員に聞かれ、「初恋の人を探しに来た」「会えなくても、その場所を見てみたかった」と答えたら、彼女が「私を初恋の人だと思って話したいことを話して」と語りかけられ、主人公は彼女に抱かれながら、初恋の名を呼んで泣く。







・1984年 秋 祈り:新米刑事として働き始めた主人公。初めて拷問に参加させられ、混乱に陥りながら激しく暴力をふるう。そこへ、初恋の人が現われ、食堂で彼に「あなたは変わったがあなたの手は変わらない。善良な手だと思う」と言う。彼は酒を運んできた女店員の下半身をその手で撫でてみせる。彼女は、お金を貯めて買ったカメラを彼に渡そうとするが、彼は「こんなものはもういらない」と突き返す。その夜、彼は宴会中の同僚の輪に乱入し、軍隊式の号令をかけながら乱闘騒ぎをする。






・1980年5月(光州事件) 面会:初恋の人が兵役中の主人公の部隊を訪ねするが、戒厳令下のため面会できない。そこに彼に出動命令が下るが、身支度に手間取り、上官に蹴りつけられ、彼女が送ってくれ、食べずに貯めていたペパーミント・キャンディーがあたりに飛び散る。
その夜、銃声の飛び交う光州市街地の線路上で、負傷して一人になった彼の前に一人の少女が現れ、「自分は学生で家に帰りたいが道に軍隊がいて帰れない、家は線路を越えてすぐの所だから通してほしい」と懇願する。彼は「他の兵士に見つかる前に早く通れ」と急かすが、人声が近づいてくる中、焦って撃った弾が少女を射殺してしまう。茫然として少女を抱き上げ、号泣する主人公。








・1979年 秋
 ピクニック:20年後の、地区の労働者のサークル主催の鉄橋の下の河原のピクニックと同じメンバーのピクニック。主人公は人生の祝福を最も受けるあの青春時代の若者たちの一人として参加し、初恋の人に出会う。彼は彼女に「いつかカメラを担いで、名もない花を撮り歩きたい」と夢を語る。彼女は職場の工場で作っているペパーミント・キャンディーを彼に渡す。
若者たちは輪になって「どうすればいいんだ 君に去られたら」と歌う。彼はその輪を離れ、一人鉄橋の下に佇んだ、涙がこぼれるのを止められずに。





この映画を観終わった人が胸を痛いほど締め付けられ、思わず「これはオレの映画だ」という感慨に襲われた、としたらそれは、主人公の何気ない日常のひと齣、ひと駒が、主人公がずっと前に経験した非日常的な出来事(光州事件に従軍し、誤射で少女を射殺)にその後も深く影響され、それどころか決定されてしまい、最後には、この非日常的な出来事が主人公の日常生活を食いちぎり、食い殺してとうとう彼を破滅に追い込んでいったという、日常生活の底深く沈み、今の自分の生活には関係ないと思われていた、非日常的な出来事が日常生活をがんじがらめに支配していたという悲劇を描いたものだからではないだろうか。

この映画は、市民がどんな日常生活を送れるかどうかは、日々の生活の努力、姿勢はもちろんであるけれど、しかしそれだけでは決まらない。それを決める最大のものは、普段の生活の場には現われない、非日常的な出来事、事件、事故の中にあることを、非日常的な出来事が私たちの日常を決定するのだということを物語っているのではないか。

この意味で、日常生活を決める審判(裁き)は、普段は見ないし、意識もしないし、考えることもしない「非日常的な出来事」の中にある。
そして、この映画は、この真理を冒頭のトンネルのシーンで象徴的に描いている--それは画面いっぱいを覆いつくしている黒い空間が私たちの日々の生活だとしたら、それを決定する「非日常の出来事」は、真ん中の、目を凝らさないと見えないほど遠く、小さな光の穴としてある。
この遠く、小さな光の穴みたい「 非日常の出来事」をなかったかのように甘くみて、なめてかかり、自分の思った通りに日々の生活を生きていけると考えた人たちは、結局のところ、それが幻想であり、幻想の中を生きてきた挙句の果てに、「非日常の出来事」に支配され、自滅、破滅のゴールしか残されていなかった。このことを映画は物語っている。



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第2部  福島原発事故とチェルノブイリ法日本版

311の福島原発事故を経験したあと、感じたことは「たとえ自分があと百年、二百年生き永らえたとしても、決して経験することのない出来事を経験したのだ」ということだった。どんなに大げさで、仰々しいと思われても、それが偽りのない、リアルな実感だった。

そして、この間、そのことが何を意味するか、ほかの言葉ではとても表現できないとずっと感じてきた。
しかし、ようやく、ひとつの翻訳が見つかったような気がした。それは--(厳密には、超)非日常的な出来事、(ウルトラ)非日常的な経験をしたのだ、と。
もっとも、それは、私だけでなく、多くの人たちも無意識にそう実感している。そして、そこから次のような考えに導かれていく。
福島原発事故は非日常的な出来事、非日常的な経験。だから、毎日の暮らしの中で、それを考えなくてもやっていける、こなしていける。その結果、日常的な暮らしの中で、、原発事故のような非日常的な出来事、非日常的な経験は次第、風化し、忘れ去られて行く、それは必然な営みではないか、と。

しかし、それはちがう。
もし福島原発事故が非日常的な出来事、非日常的な経験であり、それが日常的な暮らしにとって縁のないもの、関係ないものだとしたら、それは「次第に風化していくもの」ではなく、311の直後から(遅くとも、ひとまず原発の大爆発の危険性が去った時点で)、「はじめから風化していたもの」だから。
2011年5月、矢ヶ崎克馬さんの講演を聞きに初めて郡山市の地を踏んだ時、そこに広がる光景に息を飲んだ。大地震の爪あとを示す屋根にかかったブルーシートが目に入ることはあっても、福島原発事故を思い出させる痕跡は何一つ見つからなかったからだ。この時点で、目の前の光景は、あたかも福島原発事故は初めからなかったかのように「はじめから風化していた」のだ。

だから、私たちはこう問い直す必要がある。
人々は無意識のうちこう思う--福島原発事故は、非日常的な出来事、非日常的な経験。だから、毎日の暮らしの中で、それを考えなくてもやっていける、こなしていける、と。
しかし、本当にそうだろうか。
それは私たちの願いとしてならよく分かる。だが、願いと真実は別だ。「夢の中で生きる」のならともかく、原発事故が起きてしまった現実世界で生きる以上、真実は本当に「毎日の暮らしの中で考えなくてもやっていける」のだろうかと問う必要がある。
また、百歩譲って仮に「毎日の暮らしの中で考えなくてもやっていける」としても、
「非日常的な出来事である福島原発事故は、本当に、私たちの毎日の暮らしにとって縁のないもの、関係ないものなのだろうか」と問う必要がある。


第3部  「ペパーミント・キャンディー」と福島原発事故そしてチェルノブイリ法日本版

この問いを発した時、ひとつのヒントをもたらしてくれたのが映画「ペパーミント・キャンディー」だった。
この映画に登場する主人公は、私たちと同じ普通の生活を送っている市民だ。ただし、たまたま、非日常的な出来事(光州事件の悲劇)を体験したため、日常生活に戻った時、日常生活の中でそれにフタをしてそ知らぬ顔をして生活してきた。私たちもまた、たまたま非日常的な出来事である福島原発事故と遭遇したが、事故から9年経過し、日常生活の中で福島原発事故の経験にフタをしてそ知らぬ顔をして生活している。この点もよく似ている。
だとしたら、私たちもまた、この主人公のように、いつの間にか、私たちの日常生活そのものが過去に体験した非日常的な出来事の本質にすっかり染め上げられてしまい、何かのキッカケで、身の破滅に至るような結末を迎えることにならないとも限らない。

すると何処かから、お前の言う「私たちの日常生活そのものが過去に体験した非日常的な出来事の本質にすっかり染め上げられてしまい」とは何のことだ、冗談も休み休み言え、唐人の寝言でしかないのではないか、と反駁が出るだろう。

しかし、ちょっと振り返ればすぐ気がつくことがある。311原発事故の後日本政府がやった政策はつまるところ次の3つだけ「情報を隠すこと」「事故を小さく見せること」「様々な基準値を上げること」の三大政策。
経過観察問題で明らかにされた通り、小児甲状腺がんの正確な発症数すら知らされていないのだから、いわんや、事故後、汚染地でどれくらい健康被害が進行しているのか、その正確な情報は全く知らされていない。情報隠蔽政策は今なお着々と実行されている。
また、低線量と言われる被ばくにおいて最も深刻な被ばくは内部被ばくであり、この内部被ばくの危険性を象徴する問題が、水に溶けないため体内に蓄積しやすく長期間内部被ばくをもたらすセシウムなどの放射性微粒子の問題である。しかし、国もマスコミもこぞってこの問題を「黙殺」、この危険性の解明に向けて積極的な研究も予防対策も何一つ行っていない。
また、福島原発事故における国・福島県の失態を取り繕うため、311後は、住民の被ばくを最小限に抑えるために開発されたSPEEDI使用中止を決定安定ヨウ素剤の配布・服用も積極的な施策は行わないと欺瞞的な無為無策政策に変更された。
その反面として積極的に行ってることは、裏づけもないまま「アンダーコントロール」と大見得を切って、オリンピックを日本に誘致し、お祭り騒ぎで「原発事故は終わった」ことを決定づけようとすること、他方で、311前の安全基準値は実は低すぎたと猛省して、宮崎早野論文などを動員して正しい基準値の引き上げに励んでいることである。
この三大政策の持続、発展311後の原発事故に関する「新秩序」である
「新秩序」?それは何か。
政治の鉄則の1つは、人々を不都合な真実から目を背けさせること、異常事態や不正義の事態を異常とも不正義とも思わせないように仕向けることである。そのための常套手段が「新秩序」といった用語の乱用である。
次々と侵略戦争を仕掛けたナチスの電撃的勝利にり1940年に西ヨーロッパ全域ナチスの支配落ちた時、彼らはこれを「世界新秩序」の到来と呼び、世界中にこの秩序を受け入れることを求めた。80年、人類の科学技術に対するコロナウイルス電撃的勝利によ生物災害の世界的支配がもたらされた時、日本政府はこれを「新日常の到来を呼び、人々に、人類の科学技術の歪みや無力さに目を向けるのではなく、つべこべ言わずに、この秩序を受け入れることを求めた
両者の間には驚くべき共通点が見出せる。
これと同様のことが福島原発事故でも起きた。それが、原発事故後の日本政府三大政策の持続311後の原発事故に関する「新秩序」である。そして、この「新秩序」は、私たちの毎日の日常生活すっぽり覆い尽くす確固たる基盤となったのである。ひとたび、日本のどこかで2度目の原発事故が発生したあかつきには、この「新秩序」は、放射能の情報は隠蔽され、避難するにもSPEEDIは使えない、安定ヨウ素剤は服用できない、高止まりの安全基準値のもと、まずどこの地域でも集団避難は実施されず、各自が避難自粛を強いられるといった具合に、私たちの生活と身体を根こそぎわしづかみにして、問答無用にがんじがらめに支配するからである。

しかし、たとえ日本のどこかで2度目の原発事故が発生ない場合でも、事の本質は変わらない。
私たちの日常生活たとえどんなに平穏に進んでいこうとも、そのすぐ下の生活基盤は今述べたような原発事故に関する不都合な真実、不正義の措置に、あたり一面に悪臭が充満するように満ち満ちているからである。このような異常な状態のもとで、人々の精神、心は健全さを保てるはずがない。「ペパーミント・キャンディー」の主人公のように、光州事件という非日常的な出来事で体験した不正義、不条理な悲劇が、そのあとも執拗に彼の何気ない日常生活の中に密かに入り込み、知らない間に彼の日常生活をじわじわと食いちぎり、食い殺して行き、とうとう彼を破滅に追い込んでいくことが必然のように思えてくる。

このような原発事故がもたらした不条理、不正義、欺瞞、偽善、悪、犯罪により、人々は一見原発事故とは無関係な、ごく普通の日常生活の中で、精神や心の健全さが蝕まれていくのではないか。

80年前、ナチスの支配を正当化する「世界新秩序」に対し、ノーと言って行動を起した人たちがいたように、 原発事故後の日本政府三大政策を正当化する「新秩序」に対しても、ノーと言う人がいる。それは、311後にもたらされた原発事故に関する「新秩序」から、身体のみならず精神や心の健全さまで蝕まれていくのを抗(あらが)わずにおれない人たちである。それは当たり前の生き方をしたいと願っている普通の人たちである。そして、彼らの抵抗の集中的な表現が、原発事故の被ばくから命、健康、暮らしを守ること」である。それを人権宣言として表明したのがチェルノブイリ法日本版である。
チェルノブイリ法日本版は、非日常の出来事である原発事故に真正面から抗(あらが)う人権宣言である。だから、チェルノブイリ法日本版もまた非日常の出来事である。それだけでなく、原発事故に対する不条理、不正義の極みにある日本政府の三大政策に真正面から抗(あらが)う人権宣言である。この意味でも、チェルノブイリ法日本版は非日常の出来事である。
しかし、このチェルノブイリ法日本版の「非日常性」は、今日、先端科学技術の真っ只中に置かれている私たちの日常生活に深く影響を及ぼし、強い支配力を持つ「非日常の出来事」が不条理、不正義、欺瞞、偽善、悪、犯罪で吹き荒れるのを正常化し、健全化するためにはなくてはならない天使のような存在なのである。

なぜ、チェルノブイリ法日本版を求めるのか--それは「人生は美しい」と言いたいから。
そのような答えを発見させてくれたのが 映画「ペパーミント・キャンディー」。

この映画は、福島原発事故という「非日常の出来事」を経験した私たちに、なぜ「非日常の出来事」であるチェルノブイリ法日本版がなくてはならないものなのか、その意味を全身で体験させてくれる最高の道しるべである。

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