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2024年4月9日火曜日

【第140話】311後の日本社会と心中するのはバカバカしい(?)--地獄の季節(原発事故)に人権を!--(24.4.3)

2024年 3月31日(日)のイベント「福島原発事故、能登地震からの教訓 最悪の事態に備えて私達に出来ること」より
●第1部 柳原敏夫の話「12.18子ども脱被ばく裁判判決と1.15避難者追出し裁判判決による311後の日本社会のレントゲン診断」その1


プレゼン資料

「12.18子ども脱被ばく裁判判決と1.15避難者追出し裁判判決による311後の日本社会のレントゲン診断」その2


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2つの仙台高裁判決が明るみにした311後の日本社会のレントゲン診断

1、311後の日本社会と心中するのはバカバカしい


もし、今の日本で普通に生きれると思っている人がいたら、その人はおそらく311後の日本社会を「異常」だと思っていない。しかし、311後の日本社会は戦後経験したことのない「異常」さの中にある。その異常ぶりは数々あるが、その双璧は311直後の文科省20mSv通知と山下俊一発言である。なぜならこの2つはその後に異常事態として是正されたのではなく、むしろ311後の日本社会を形成する母体となったから。そして、この異常さの増殖の果てに私たちに待ち受けているのは日本社会の崩壊である。

それと心中するのはバカバカしい。

だからといって、これを食い止めることができるのか。できる。ではどうやって?

その可能性は311後の日本社会の「異常性」の中にあるし、その中にしかない。311後の日本社会の「異常性」と向き合い、その異常性の極限状態の果てに初めて誕生するもの、それが原発事故から命を守る人権であり、この人権が311後の日本社会の崩壊を食い止める力、おそらく唯一の力となる。

このことを最も鮮やかに映し出したのが(昨年12月18日の子ども脱被ばく裁判と今年1月15日の避難者追出し裁判の)2つの仙台高裁判決である。以下、紙面の許す限りで紹介する。


2、311後の日本社会の異常さを象徴する2つの裁判

(1)、子ども脱被ばく裁判
 子ども脱被ばく裁判は、311直後の原発救済について行政の対応が人権侵害であった事を追及した。その人権侵害は次の文科省20mSv通知と山下俊一発言に象徴されている。

(ア)、20mSv通知とは法律が許容しない放射能安全基準の引き上げであり、「法律による行政の原則」のあからさまな逸脱、一言で言えば法的クーデタである。同時に、福島県の子どもだけ放射能安全基準を20倍に引き上げる差別であり、合理的理由が認められない差別として憲法の平等原則違反である。のみならず、さらにこの違憲の基準が福島県のみならず日本全国に拡大、学校安全基準ばかりか原発事故の救済政策の様々な基準に変更・拡大していく異常事態の全面化、日常化だった。その結果、半世紀前、公害日本から命を守るために導入された公害の安全基準との間で完全な破綻、つまり7千倍という説明のつかない異常な格差が生じた。それまで公害の基準は「10万人中1人の健康被害」だったのが、放射性物質は「10万人中7000人ががん死」が基準とされたから。311後の日本社会は一気に7千倍危険な社会に変貌した。

(イ)、山下俊一氏は福島入り直後の記者会見で「この数値(毎時20μSv)で安定ヨウ素剤を今すぐ服用する必要はありません」と断言した。しかし、311前、チェルノブイリ事故直後にポーランドでは安定ヨウ素剤をすぐ配布したため、子どもの甲状腺がんの発生はゼロだった。この事実を指摘したのは山下俊一氏その人である。また、山下氏は直後の二本松市講演で、「何度もお話しますように、100mSv以下では明らかに発ガンリスクは起こりません」と安全性を断言した。しかし、311前、講演で、チェルノブイリ事故について「放射線降下物の影響により‥‥セシウム137などによる慢性持続性低線量被ばくの問題が危惧される」、医療被ばくについて「主として20歳未満の人たちで、過剰な放射線を被ばくすると、10~100mSvの間で発がんが起こりうるというリスクを否定できません」と、危惧とリスクを指摘したのは山下俊一氏その人である。子ども脱被ばく裁判は、311後の山下発言と311前の山下発言を「比較した時、その正反対とも言うべき矛盾した内容に、果して同一人物の発言なのかといぶかざるを得ない」と、子どもでも分かる明快な矛盾の「異常」さを指摘した。

(2)、自主避難者追出し裁判
 2020年3月、福島県が自主避難者を相手に、彼らに提供された応急仮設住宅からの立退きを求めて提訴した追出し裁判、これが現在最高裁に係属中にもかかわらず、本年3月、福島県は避難者に何の予告もなく、いきなり仮の強制執行に着手した。これが日頃、県民に寄り添い、県民の復興を最大限支援するという福島県のうたい文句とは正反対の強権的措置であること、のみならず、被告の避難者は日本政府も認める「国内避難民」であり、国内避難民として居住権が保障されており、行政の振舞いは国際人権法に照らしても最も慎重であるべきこと、そもそも、この提訴自体、一昨年秋、国連人権理事会から派遣されたダマリー特別報告者が「賛成できない。避難者への人権侵害になりかねない」と異例の警告をしたものであること、これらに対し、なぜ今、強制執行なのか、福島県は国内外に全く説明できない。国際世論に完全に背を向ける、この強権的、独善的態度は今日、「異常」と評するほかない。


3、2つの仙台高裁判決の意義
 もともと紛争は関係者すべての正体を情け容赦なく暴き出すリトマス試験紙である。裁判官も例外ではない。その結果、311後の日本社会がいかに異常であるかを可能な限り論証しようとしたこれら2つの裁判に関与した仙台高等裁判所も先頃の判決によって己の正体を白日の元にさらした。すなわち裁判所もまた311後の日本社会に完全に隷属する存在であることを余すところなく示し、みずから裁かれたのである。その判決内容をごく簡潔に紹介すると、
①.放射能の危険性(内部被ばく、疫学データ等)という事実問題には正面から向き合わず、とぼける、スルーする。
②.国や福島県の違法性という法律問題では、もっぱら行政の自由裁量の範囲内であるとして国や福島県の政策にお墨付きを与える。他方で、被災者・避難者からの国際人権法の主張は無視するか福島県の主張をそのまま是認するだけ。要するに、被災者・避難者が提起した論点とは向き合おうとせず、徹底的に逃げる(判決で判断しない。審理では証人全員却下。一発結審)。これは被災者・避難者が提起した論点とは何が何でも向き合おうとしない、311後の日本社会と軌を一つにする判決であり、暗黒裁判の名をほしいままにする天晴れ判決というほかない。


4、無権利と人権のあいだ

 以上の通り、311後の日本社会とは、一言で言って「無権利」状態。だとすれば、私たちに残されていることはただひとつ、この「無権利」状態を「権利」状態に作り変えること、すなわち人権を回復すること、これに尽きる。問題はいかにして人権を回復するか。そもそも人権は憲法に書かれているから存在しているのではない。もしそうなら、六法全書を焼いてしまったら人権もなくなってしまう。六法全書を焼き捨てても人権がなお残っているとしたら、それはどのようにして存在しているのか。そのためには、そもそも「人権はいかにして誕生するものなのか」、これを理解しておく必要がある。

それは空から降ってくるものでも、地の底から沸いてくるものでもなく、
また、議会が制定したからでも、国外の国際世論から導入されるものでもない。
それは、かつてガンジーの非暴力運動が「権力者の暴力対市民の暴力運動」の現実に対し、その否定と揚棄として生まれたように、人権もまた私たちの目の前の無権利(暗黒)状態の現実に対し、その否定と揚棄として生まれて来るもの、この現実との葛藤と止揚の中からしか生まれて来ない。

 それは、無生物しか存在しなかった地球に生物が誕生した瞬間と、あるいは情報がクローズドされた世界に情報がオープンにされるインターネットが誕生した瞬間と比すべきものである。事実はどんな思想・哲学より奇(跡)なりの通り、人権の誕生もまた世界史の奇跡の1つである。
くり返すと、人権は憲法に書かれたから存在するような単純なものではない。憲法に書かれていても、人権の誕生を反復しない限り、人権はいつでも死文化、空文化する。

世界で最初に人権が誕生したのは宗教の自由(宗教的寛容)とされる。それは信仰を異にする者同士の熾烈な宗教戦争の殺し合いという異常な極限状態の果てに初めて見出された。これが人権誕生の原点である。だとしたら、311後の日本ほど人権誕生に相応しい場所はない。なぜなら、311後の日本社会の特質は前述の「異常性」にあり、この「異常性」と向き合い、その異常性を極限まで突き詰める中で、ちょうど宗教戦争の成れの果てに「宗教的寛容」が見出されたように、異常性の成れの果てに人権を見出すことが可能になるからである それが原発事故から命を守る人権であり、この人権だけが311後の日本社会の崩壊を食い止める力、おそらく唯一の力である。この確信を授けてくれたのが2つの仙台高裁判決なのであり、その意味でこの暗黒判決は永久不滅の価値がある。


 

2024年3月30日土曜日

【第139話】オッペンハイマーの訓え:政科分離こそ政教分離と同様、現代の最大の試練(24.3.29)

かつて「神の権威」が政治統治に利用され、神のお告げに基づいて政治決定がなされた(神政政治)。

今日、それと同じ統治原理が科学の名のもとに行われている。「科学の権威」が政治統治に利用され、神の代わりに科学のお告げに基づいて政治決定がなされている。

しかし、かつて神政政治が政治の堕落を招いたように、科学の権威による統治も政治の堕落を招く。それは狂牛病に端を発した2005年の米国牛輸入再開に至る一連のドタバタ騒ぎの経過を思い出せば一目瞭然である。ジャンク科学、似非科学が「科学の権威」の名のもとに政策決定の大義名分とされた。その結果、市民の胸中に、たとえ真相は藪の中だとしても、政治とリスク評価と称する科学に対する抜き難い不信感が一層形成された。

しかし、こんなドタバタ劇を反復するのは愚劣である。いつか途方もない人災の中に多くの人々を陥れるからである。それが3.11原発事故が私たちの頭に叩き込んだ最大の教訓である。

そのために、かつて神政政治の弊害の苦い反省の中から政教分離=「政治と宗教の分離」の原理が確立したように、これと同様の原理、政科分離=「政治と科学の分離」の確立が科学でも必要である。

しかも政科分離を絵に描いた餅ではなく、生きた原理として機能させるためにはこの原理を具体化する必要がある。それが「科学技術を我々市民の手に取り戻す」具体的な仕組みである。しかもそれは飽くなき利潤追求のために細分化・分断化・専門化された従来の科学技術ではなく、統合化、総合化され、循環・安全性を確保した科学技術である。「ローマは一日にしてならず」だが、3.11のあと、政科分離の壮大な取組みの最初の一歩がまもなくスタートする。それが「市民と科学者の内部被曝問題研究会」だった。

その試みはその後、頓挫した。ちょうど、オッペンハイマーの後半生が受け入れられなかったように。しかし、その試み、挑戦の姿は普遍だ。それは私たちを常に、永遠に鼓舞し、そこから新たな挑戦を産み出す源泉となる。 

さらに、政教分離の教訓から政科分離の必要性に気づいたならば、その学びはもっと拡大されるべきだ。それが政権分離つまり、人権問題もまた政治から分離されるべきである。この気づきは、政教分離の見方、もっと言えば世の中の見方を根本的に変える力を秘めている。

(2011.12.15 第1稿)

 

2024年3月28日木曜日

【第138話の続き6】【NOでは足りない、つつましいYESの提案】避難者を戸外に追い出す強制執行のストップに必要な最高裁への特別抗告に賛同のお願い(24.3.28)

 福島県の強制執行について、その後の動きと最高裁への新たなオンライン署名のお願い。

今回の福島県の強制執行の執行停止を求める申立は【第138話の続き5】の通り、仙台高裁で却下されました。この異常事態を受け、まもなく最高裁へ特別抗告します。
この特別抗告を支援する緊急のオンライン署名をスタートしました。
世論に最も敏感な最高裁に民の声を伝えるために、是非とも賛同・拡散をどうぞよろしくお願いいたします。

【緊急】最高裁は、「福島県の避難者に対する強制執行」の一時停止を求める避難者のささやかな願いに、「人権の最後の砦」として真摯に耳を傾けて下さい。
https://chng.it/fgkXr8d6D2

2024年3月27日水曜日

【第138話の続き5】3.25仙台高裁却下決定に対する弁護団声明(24.3.26)

 被告避難者の弁護団は、私たちの執行停止の申立に対し、本日、仙台高裁が強制執行の停止は認めない(予定通り、来月8日の執行を認める)という決定を昨日に出したことを知りました。

以下、これに対する弁護団声明です。  

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 3.25仙台高裁却下決定に対する弁護団声明

1、 信じられないような決定である。

金銭の請求ならともかく、建物の明渡しの執行停止では、今すぐ強制執行させないと取り返しのつかない事態になることは通常考えられない。

本件でも福島県に今すぐ建物の明渡を必要とする切迫した事情もない。

もし建物の居住権という私たちの主張の根拠が弱いというのなら、その分、担保金の金額をあげればよい。

どこをとっても本件の執行停止を却下する理由にはならず、裁判所の悪意を感じずにはおれない。

この決定は被告避難者の「公平な裁判を受ける権利」と「国内避難民に認められた居住権」の侵害であり、強く抗議する。

私たちは、こんな理不尽に屈することは絶対しない。(文責 柳原敏夫)


2、 当該住民は、本件追出し訴訟の憲法違反性等について

最高裁に於いて徹底的に闘い抜くことを固く決意している。しかし、この権力的追出しによって、この闘いが非常な困難に直面することは避けられない。

 むしろこの非常識な決定は、そのような困難性をも見越して、そのことによって控訴審に於ける自身の憲法32条違反の違憲違法の訴訟指揮(1回結審による当該住民の主張立証の機会の封殺)を不当に隠蔽し、あくまでも、住民福祉の責務に違背した憲法違反の福島県を擁護しようとしてなされたものであることが明らかである。

 しかし我々は、このような攻撃に決して挫けることはない。万難を排して、この闘いに心を寄せて下さっている全国の皆様と固く連帯して、最高裁闘争を闘い抜く決意である。引き続いての御支援を、心より御願いします。(文責 大口昭彦)

【第138話の続き4】夜明け前(24.3.26)


今日、被告避難者の執行停止申立(上の表紙。本文こちら)が却下されたのを知った。
本日、福島県が申し立てた避難者を退去させる強制執行、その執行の停止を求める避難者からの申立に対し、仙台高裁から「申立を却下する」決定を出したと連絡があった。
申立書の本文にも書いたとおり、たかだか退去を強制執行するのを最高裁の判断が出るまで待って欲しいという、つつましい一時的な停止すら許さないのか、この国の裁判所は。
人権の砦とされる裁判所が、これほど残忍酷薄で、何というバカなことをしたものか。

しかし、黙って手をこまねいている訳にはいかない。この理不尽な事態をただせるのは、これを読む、まだ読まないひとりひとりの市民しかない。だから、まだの人は、不服従&抵抗の証として、オンライン署名を!>https://www.change.org/Jutaku-240311
すでにすませた人は、最高裁に私たちの声を届ける、新たなオンライン署名を!(今、準備中)

2024年3月25日月曜日

【第138話の続き3】今回の福島県の強制執行にお墨付きを与えた福島地裁判決に対する人々の声(24.3.25)

 裁判途中にもかかわらず、避難者の追い出しの強制執行に着手した福島県が錦の御旗にしているのが福島地裁の一審判決。福島地裁が仮の強制執行を認める判決を下したから、自分たちは単にそれを粛々と実行したに過ぎない、と(民の声新聞が福島県に取材した記事参照)。

では、その福島地裁判決というのはどういう内容か。これを全面的に論じたのが判決言渡し直後の弁護団声明(>こちら)と控訴理由書(>こちら)。
なかでも、
退去に対する福島地裁判決の考えが最も鮮明に表明されているのが次のくだり。

《被告らの主張が、本件各建物から退去することにより、 被告らの生存権等が侵害されるとの趣旨を含むものであるとしても、それらは生活保護その他の社会保障制度によっても補完しうるものであり、 本件各建物への居住の継続が認められないことをもって被告らの生存権が侵害されたとはいえない。29頁3~7行目。>判決の全文PDF

すなわち、判決が退去を命じても避難者の生存権の侵害にはならない、なぜなら退去のときには生活保護その他の社会保障制度が避難者の最後のセーフティネットとして機能するから、と。

判決の「生活保護=セーフティネット」論が日本の生活保護の現実から遊離し、ひとり裁判官の頭の中でのみ存在しうる観念上の想定の中で考えて判断したものであって、独断的判断の典型であり、不合理極まりない欺瞞的なものであることは【第137話の続き2】の投稿で明らかにした通りです。

 今、この投稿を読んだ方から、今回の福島県の強制執行にお墨付きを与えた福島地裁判決に対する率直な感想が寄せられたので紹介します。あなたも感想がありましたら、お寄せ下さい(>oidashistop-clafan@song-deborah.com まで)。

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 (敬称略)

 福島地裁判決への批判文章、拝読しました。
 まったく、世間を知らないままの酷薄な判決ですね。
 それも、加害者の原子力マフィアの一員として、被害者にさらなる苦難を強いるものです。
 許しがたいものと思います。

                           (2024/3/25  小出 裕章)

 

  

【第138話の続き2】福島県はなぜ裁判途中なのに避難者を追い出す強制執行に出れたのか(24.3.24)

 以下は、今回の福島県の強制執行を正当化する理由について検討し、その正当化の理由とされる福島地裁判決の「生活保護=セーフティネット」論の欺瞞を明らかにしたものです。

1、最初の問い
今回、福島県は、避難者追出し裁判が最高裁に係属中であるにもかかわらず、
強制執行を申し立てて避難者を追い出す行為に出た。なぜそのような強引な振舞いができたのか。

この点、民の声新聞が福島県に電話取材をして「なぜそこまでするのか」と尋ねている(>記事)。応対した福島県生活拠点課橋本耕一主幹曰く
われわれとしては裁判所に認められた範囲内で手続きをさせていただいている」まで、と。つまり、裁判所が判決で仮の強制執行をしてもいいと認めてくれたから、福島県はそれに従ったまでだ、と。

しかし、元はと言えば、福島県自身が進んで、訴状で、この仮の強制執行を認めるように求めたのがそもそもの出発点。ここからして福島県の振舞いは残忍酷薄極まりない。

それに応じて、福島県の残忍酷薄な請求をそのまま認めた福島地裁の判決も劣らず残忍酷薄。この点を民の声新聞が取材した元裁判官の井戸謙一弁護士はこう言う
金銭支払いを命じる判決では、判決が確定するまでに財産を隠されるなどの事態を避けるために仮執行宣言をつけることが多い。しかし、住宅の明け渡しの場合は通常、仮執行宣言をつけない。強制執行などしてしまったら取り返しがつかないから。仮執行宣言をつけた裁判官の避難者に対する悪意が感じられる 

さらに、一発結審を強行して避難者の控訴を棄却し、福島地裁判決をよしとした仙台高裁も同様に残忍酷薄。司法が行政の行き過ぎをチェックするのではなくて、行政と司法ががっちりタッグを組んで、この残忍な強制執行が実現した。私たちはこういう独裁国家のもとに生きている。

2、2つ目の問い
では、
福島地裁は、この仮の強制執行を認めることをどのように考えていたのか。この点、福島地裁判決は退去を命じても生存権の侵害にならないとこう書いた。

被告らの主張が、本件各建物から退去することにより、 被告らの生存権等が侵害されるとの趣旨を含むものであるとしても、それらは生活保護その他の社会保障制度によっても補完しうるものであり、 本件各建物への居住の継続が認められないことをもって被告らの生存権が侵害されたとはいえない。29頁3~7行目。>判決の全文PDF

 すなわち、生活保護その他の社会保障制度は明渡しを余儀なくされた避難者の最後のセーフティネットであるから、追い出されても生存権の侵害の問題などおきないと。

では、避難者にとって生活保護がはたして現実に「彼等の生存権を維持する最後のセーフティネット」足りうるものか。まず、この点について、福島地裁はどのように吟味検討をしたのか。答えは何一つ全くしていない。なぜなら、そもそも原告の福島県がこんな主張をしたことがなかったからである。その結果、福島地裁は審理の中で、この点について主張も立証も何一つ全く検討しなかった。判決で、いきなり不意打ちのように「生活保護があるから明渡しになっても心配ない」と認定を下したのである。審理なき判決を下す勇気は、あっ晴れ!

 次に、もしこの点について誠実に審理をしたらどのような結果になったか。この点、二審において避難者の主張は次の通りである(控訴理由書26~28頁)。

ア、日本の生活保護制度は、資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する人に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障し、その自立を助長する制度であり、「国民の権利」である。

イ、一方、日本の生活保護の捕捉率は、2018年の厚生労働省発表資料によれば所得が生活保護基準を下回っている世帯のうち22.9%しか生活保護を利用しておらず、先進諸国と比較して極めて低く、生活保護を受給する資格があったとしても約8割の人が受給できていない状況にある。
その理由として、第1に、生活保護の利用についての「死んでも福祉の世話にはなりたくない」「生活保護は恥」などの「スティグマ」(負の烙印、偏見)が強く、制度に対する強い忌避感を示す人が多いことが挙げられる。第2に、開始時の資産要件が厳格であること(現行最低生活費1か月分以下でなければ申請できない)、自動車保有や保険契約の保有要件が厳格であること、原則として扶養照会がなされるため親族に自己の困窮状況が知られることなどから経済的にも心理的にも利用のハードルが高いことが挙げられる。第3に、生活保護の申請窓口である多くの福祉事務所では恒常的に「水際作戦[1]」が展開されていることも挙げられる。

ウ、加えて、福島原発事故に特有の事情として次のことがあげられる。県外避難者の多くは避難生活を続けることで、「いつまでも放射能を気にしている神経質な人」などと周囲や親族などから揶揄されるなど家族との軋轢を生んだ。生活保護を申請すれば福島の親族に連絡されるかもしれないという恐怖と新たな軋轢。生活保護水準ではないが新たな住まいに必要な敷金、礼金などの入居費用の貯蓄余裕がない。生活保護を受けるためには子どもの保険解約や車両売却を求められるなど、これらの事情により避難者が生活保護利用を躊躇するのは当然である。

エ、さらに、唯一の給付制度である「住居確保給付金」にしても、避難者にとってこれは普遍的な住宅手当(家賃補助)となっていない。離職・廃業から2年以内または休業等により収入が減少し、住居を失うおそれがある人に限定されていることから多くの避難者にとって適用外であるからである。しかも、住居確保給付金は、一定金額以下の家賃が最大でも9ヶ月間給付されるだけであり、転居のための初期費用(敷金・仲介手数料等)は給付の対象外である。

オ、従って、原判決のように、原発事故被害者である避難者に居住継続が認められず立退きなったとしても生活保護制度があるからこれを活用すれば問題ないという態度は、以上の日本の生活保護の実態に全く無知の唐人の寝言の類であり、とうてい是認できない。

原判決は《その他の社会保障制度によっても補完しうるもの》と判示するが、ではいったい他にどのような社会保障制度があるのか具体的に説明する責任があるのにそれを果たしていないのは無責任極まりない。

カ、同様に、原判決は《本件各建物を明け渡すことにより、被告らは、福島県に帰還する以外にも、社会通念上選択可能な複数の方策が存在するといえるから、福島県への帰還を強制しようとする目的によるものとは認められない。》(24頁10~12行目。下線は控訴人代理人)と判示するが、ではいったいいかなる「社会通念上選択可能な複数の方策」が現実に存在するのかその中味を具体的に説明する責任があるのに、ここでもそれを何も果たしていないのは無責任極まりない。


[1] 生活保護利用を抑制するために生活保護の申請をさせないことをいう。

 3、退去の強制執行が生んだ日本の悲劇ーー千葉県銚子市・県営住宅追い出し母子心中事件ーー

以下、控訴理由書28~29頁より。
実際にも公営住宅から明け渡しを求められながら、生活保護を利用できなかったために痛ましい事件が発生している。

 それは、母子二人世帯が家賃滞納を理由に千葉県営住宅から明け渡しを求められた際に、「家を失ったら生きていけない」と考えた母親が娘を殺して自分も死のうと考えて、明け渡しの強制執行の当日に娘を殺してしまったが自分は死にきれなかったという、2014年9月24日に発生した事件である。

 この母親も生活保護の窓口に行ったが、福祉事務所では生活保護制度について十分な聞き取りもされず、申請意思の確認も申請についての援助や助言も受けられなかった。母親との面接記録では、「扶養義務者の状況」や「収入状況」、「勤労収入」など、生活保護の受給に必要な要件についての記入がなく、福祉事務所は具体的な聞き取りをしていないことが判明している。

 十分な聞き取りをしていなかったにもかかわらず、面接記録には「申請意思は無し」などと記載されていた。生活に困っているからこそ相談に来たにもかかわらず、福祉事務所はその意図をまったく汲み取らず、制度の説明をしただけで母親との面談を終了してしまったのである。

 生活保護の相談においては「相談者の状況を把握したうえで、他法他施策の活用等についての助言を適切に行うとともに生活保護制度の仕組みについて十分な説明を行い、保護申請の意思を確認すること」とされている(厚生労働省社会・援護局長通知第9・1)。しかし、実際の現場では保護審申請意思の確認や申請についての援助や助言をされていないことがほとんどである。

 裁判でも、保護実施機関には「生活保護制度を利用できるかについて相談する者に対し、その状況を把握した上で、利用できる制度の仕組について十分な説明をし、適切な助言を行う助言・教示義務、必要に応じて保護申請の意思の確認の措置を取る申請意思確認義務、申請を援助指導する申請援助義務(助言、確認、援助義務)が存する」とし、生活保護申請を援助する義務があるのにこれを怠ったこと(不作為)について、国家賠償請求法上の違法を認めている(福岡地裁小倉支部平成23年3月29日判決)

 制度としては生活保護があるとしても、生活保護の制度は一般には理解しがたいものであり(インターネット上には生活保護制度についての虚偽の情報があふれていることは周知の事実である)、実際には福祉事務所からの適切な援助や助言がなければ生活保護を申請すること自体が困難なのが実態であり、千葉県県営住宅での悲劇のような事件も生じているのである。

 生活保護があるから、明け渡しても構わないという福島地裁判決の発想はあまりにも現実を無視したものと言わざるを得ない。

4、結論

 以上の通り、福島地裁判決は、日本の生活保護の現実から遊離し、ひとり裁判官の頭の中でのみ存在しうる観念上の想定の中で考えて判断を下したものにほかならず、かつて薬局距離制限違憲判決(最大昭和50年4月30日)が《単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたい》と批判した独断的判断の典型である。日本の生活保護の現実を知る者にとって、この福島地裁判決は到底容認できない暴論であり、これだけでもこの判決は破棄されて然るべきものです。

判決に対する以上のような深刻重大な批判があることを重々承知の上で、福島県は、この暴論判決を錦の御旗にして、今回の強制執行に及んだものです。それは、毒を喰らわば皿までと言わんばかりのふてぶてしい振舞いです。福島県の責任は途方もなく重い。

【第140話】311後の日本社会と心中するのはバカバカしい(?)--地獄の季節(原発事故)に人権を!--(24.4.3)

2024年 3月31日(日)のイベント「 福島原発事故、能登地震からの教訓 最悪の事態に備えて私達に出来ること 」より ●第1部 柳原敏夫の話「12.18子ども脱被ばく裁判判決と1.15避難者追出し裁判判決による311後の日本社会のレントゲン診断」その1 プレゼン資料 「1...